第6話 蓮少年の華麗なる?休日

 「今日はどちらまで」

 「ちょっと欲しい本があるから、××書店に行ってくるよ。夕方には戻ります」

 「承知いたしました。蓮様、どうかお気をつけて」


 軽めの昼食を済ませ、出かけてくるという次期当主の顔は心なしか明るく見えた。

 小学校高学年の頃からだろうか。硬い表情が増え、自分の気持ちをあまり話さなくなった。

 ぶっきらぼうになったわけではない。笑顔がなくなったわけでもない。

 礼儀正しく、思い遣りのある少年であることに変わりはない。

 ただ、周囲の期待に応えうる聡明さと応えたいといういじらしさが、日に日に彼を追い詰めていたとしたら――


「いつもありがとう、貴虎さん。行ってきます」


 スニーカーの紐を結び終えた蓮がくるりと振り返り、微笑んだ。

 やはり彼がもつ品格の高さは変わらない。挨拶をするときは必ず人の顔を見るところ、そして、幼少期から感謝の気持ちを忘れることなく率直に言葉と態度で表す彼のことをとても愛おしく思う。


 数日前、いつもより蓮の帰りが遅いと懸念していたら、喫茶店でとくべつに焼いてもらったというクッキーを持ち帰ってきた。


「あんまり美味しかったから、いつもお世話になってる貴虎さんにも食べてもらいたくて」とはにかんだ蓮の清らかさにくらくらした。この子が将来、志之元を継ぐのだ。地位や名誉だけではない。しがらみごうも含め、「なにもかもすべて」継がなければならないのだ。

 能力的には申し分なくとも、彼の心温かさや清廉さが損なわれてしまうのではないかと想像すると、感傷的にならざるを得ない。


 貴虎の本職は現当主の秘書である。他人を信用しないことで有名な志之元の現当主――つまり、蓮の父親がその有能さに惚れ込み唯一登用した傑物だ。物腰が柔らかく鷹揚な雰囲気を携えているため、大抵の者は貴虎という人物を見誤る。が、彼こそ志之元を裏で支える冷徹なブレーンその人であった。


 人当たりがいいくせに、任務遂行のためなら手段を厭わない無慈悲さを発揮し、ひとたび交渉のテーブルに着けば、巧みな人心掌握術でもって相手方に不利な条件すらのませてしまうことから、最も油断ならない人物として界隈の有力者から警戒され、同時に一目置かれている。


 感じの良さも、気遣いにあふれる振る舞いも、すべて志之元から与えられた職務を果たすための演出でしかなく、誰かを――ましてや身内でもない赤の他人を――気遣うような優しさなどは備えていないと貴虎は自身をそのように理解していた。


(わたしはいつしか、あなたが心から笑顔でいられる日が続くことを、願うようになっていたのです)


 貴虎は変わった。与えられた職務を完璧に遂行する姿勢は以前のままだ。誰も貴虎の変化には気づいていないし、気取らせてもいない。

 誰かの身を心から案じる今の自分を昔の貴虎が見たら、なんというだろうか。


「行ってらっしゃいませ、蓮坊っちゃん」

 昔の呼び名を小さくつぶやいて、まだ幼さが残る背中を見送った。


*****


 悩みに悩んで選び抜いた数冊を手に、蓮は早足でレジへ向かった。

 さすがは専門書フロアを有している××書店。豊富な取り揃えに目移りしてしまい、まるで宝探しをしているような感覚に陥って気づけば一時間近く本を物色していた。


(来てよかった……! やっぱり直接自分で内容を確認して選ぶのが一番だな)


 来週の日曜日、つまりちょうど一週間後に記念すべき第一回目の「社会学カフェ」が開催される。しかし、本来は今日、開催されるはずだった――



「最初の『社会学カフェ』はいつにする?」

 クッキーをひとしきり味わったカンナギが、スマホのカレンダーアプリを起動する。

「うーん……日曜日だと助かるかな。カンナギはどう?」


 平日から土曜まで、蓮のスケジュールは家庭教師や塾、外国語レッスンなど数々の習い事でほとんど埋まっているため、時間を気にせず腰を据えて話をするなら何の予定もない日曜が好都合だった。家族でどこかに出かけるなんていうイベントが起こる心配も、ない。


「僕も大丈夫。じゃあ早速だけど明後日の日曜にしようか」

「うん、お願いするよ。楽しみだな」


 蓮は手帳に書き込もうとした手を止め、何か思い付いたような表情になる。


「どうした? 何かあったか?」

「ごめん。やっぱり来週の日曜にしてもらっていいかな……?」

「謝らなくていい。僕は全然構わないよ」


 そう言って笑顔とともに了承し、延期を希望する理由を追及してこないカンナギに、蓮はかえって自身の思いを告げたくなった。


 「あのさ、せっかくだからその……僕もちゃんと準備したいというか」


 カンナギに社会学を教えてほしいとはお願いしたが、ただ受け身でいるのは蓮のモットーに反する。「自ら学ぶ姿勢なき者に成長はない」と、幼少期より父から叩き込まれてきた。


 蓮は志之元家の教育方針にしたがい、家庭教師や進学塾が与える課題にはいつも主体的に、積極的に取り組み、自ら学ぶ姿勢をすっかり身につけていた――つもりだった。


(僕は今、僕自身の意志で社会学を学ぼうとしているんだ)


 自らに芽生えた探究心に気づいて、連の心が沸き立つ。これまでは「与えられた」課題、言い換えれば「やるべきこと」だから積極的に取り組んでいたのであって、そこに蓮の自発意志は不在だった。 


「準備?」

「自分でも社会学のことを調べておきたくて……本を探しに行きたいんだ」


 蓮の部屋にはさまざまなジャンルの百科事典、辞典、辞書が並んでいる。それらは幼少期に祖父母や両親から買い与えられた数々であったが、残念ながら社会学に関連するものはなかった。


「社会学関連の書籍をたくさん扱っている書店に行って、僕にも読めそうな本とか、もし辞典とかあればそれも……あ、ネットで注文すれば早いかもしれないんだけど」


 蓮は自らの選択や行動原理を説明することに苦手意識があった。相手は父ではなくカンナギなのに、審査されているような緊張感が言葉を詰まらせ、蓮はごくっと喉を鳴らした。


 「ああ! そういうことか! うん、いいねいいね。僕のオススメで良ければいくつかメモしようか? どんなのがいい?」


 無意識に固く握られていた蓮の両手の拳がふっと解けた。カンナギはすでにルーズリーフを取り出し始め「ん? LINEの方が親切だったか?」とひとりごちている。


「ネットもさ、レビューがあれば参考になる部分も大きいけど、かと言って評価の高いものが自分にも合うとは限らないもんな。同じテーマでも、書き方や切り口で全然印象が変わるし。また何買ったか教えてくれよ。僕も気になるしな」

「うん、ありがとう! 探しに行ってみる」



 ××書店は六階建てビルの内、一階から五階が書籍取り扱いフロア、そして買った本をすぐに読めるというサービスを提供すべく、最上階にカフェをオープンしている。

 コーヒーの大手飲料メーカーが初めて出店したカフェというだけあって相当な気合いの入りようで、本格的なコーヒーやラテはもちろん、有名パティシエが監修するスイーツを月替わりで楽しめるという話題のスポットだった。それゆえ、カフェ目当ての客も多く、とくに休日は必ずと言っていいほど混んでいるのだが、幸い蓮は並ばすして入店できた。


 二人用のソファ席に案内された蓮は、差し出されるメニュー表を丁重に断り、その場でブレンドコーヒーを注文した。 

 紙袋から早速本を取り出す。辞典を含めた数冊はそこそこ重量があり、書店員が気を利かせて紙袋を二重にしてくれている。カンナギが「親切な本屋さんだぞ」と言っていたとおりだった。


 辞典はカンナギにオススメしてもらったものがまさに自分の理想と一致していたため、すぐに決まった。

 掲載項目が充実していることはもちろん、社会学カフェに持参することを考えていたので無理なく持ち運びできるサイズ感が嬉しい。「必携の一冊」と謳う帯にさえ頼もしさを感じ、帰宅後のTO DOリストに索引へのインデックスシール貼りを加える。これから長く世話になるのだから、少しでも使い勝手を良くしておきたい。


 そして、吟味の末選ばれた残りの数冊は、社会学の全体像を把握できるイラスト付きの解説書、初学者用の基本テキスト(もっとも、大学の学部生向けではあるが)、あとは日常における身近なテーマを扱った新書が一冊。

 気になる本はまだまだあったが、最初からあまり手を広げすぎるのは得策ではない。何事も基本を疎かにしないことが蓮の知性を下支えしている。


「お待たせいたしました、ブレンドコーヒーになります」


 注文してから三分も経っていなかった。蓮は慌てて広げた本を隅にやり、トレイを手に佇む店員に「ありがとうございます」と軽く頭を下げた。

 ポップな色使いのマグカップにたっぷりとコーヒーが注がれている。ひとくち、口に含む。美味しい。もう一口飲んでみる。やっぱり美味しい。……なのに、ルディックのコーヒーを思い出してしまう。

 

 別にコーヒー通でもなんでもない自分が、こうして優劣をつけてしまっていることに些か申し訳なさを感じていると、振動数の高い声の数々が耳に飛び込んできた。

 驚いて反射的に声の出処をうかがう。プチサイズのスイーツ盛り合わせプレートを囲んだ女性グループがスマホを構えている姿に「ああ、なるほど」と納得し、蓮は気を取り直した。


 そう。今からずっと気になっていた人物への接近を試みるのだ。

 その人物とは、ほかでもない蓮が最初に知った社会学者「アーヴィング・ゴフマン」。

 

 書店の本棚には、ゴフマン原著の翻訳版だけで数冊並んでいた。蓮はてっきり、ゴフマンに関する書籍はカンナギから聞いた「ドラマトゥルギー」の話だけだと思い込んでいたので、大変驚かされた。


 原著の購入も考え何冊かパラパラめくってみたが、翻訳されているとはいえ――この場合は〝翻訳されているからこそ〟と言うべきか――難解な言い回しや独特の語り口がひっかかり、今回は断念したのであった。


 蓮はノートを広げ、「アーヴィング・ゴフマン」と書きつける。

 どの歴史上の人物よりもとくべつに感じるから不思議だ。それもそのはず。知識や教養のひとつとしてではなく、蓮はゴフマンという「人間」そのものにも興味を抱き始めていた。

 

 彼はどんなことに関心をもち、何を考えたのか。基本書のゴフマンに関するページを開く。

 

 持ち前の集中力を発揮するまでもなく、蓮は自然と引き込まれていった。

 ――すごい、面白い、なんで、どうしてこんなこと思いついたんだ?!

 解説書や辞書を往復し、走り書きしつつ、自分なりに要点をまとめていく。

 蓮の想像をはるかに超えて、ゴフマンはいくつもの概念やキーワードを残しており、その多彩ぶりに翻弄されてしまう。が、新しい出会いの連続はむしろ蓮の胸を高鳴らせた。


 ふっと一呼吸ついて、顔を上げるとちょうど店内の掛け時計が目に入った。

「えっ?!」と蓮は少し動揺しながら自分のスマホも確認する。……しまった、時間オーバーである。

 すっかり冷め切ったコーヒーを一息に飲み干し、貴虎に丁寧な謝罪と帰宅時間が遅れる旨のメールを打つ。


 すぐに返事が返ってきた。「そろそろ連絡すべきか」とスマホを握りしめる心優しい兄のような存在――貴虎の姿が容易に想像されて、蓮は思わず口元を綻ばせた。急がなければ。

 

 そうだ、帰りの電車でカンナギに何を買ったかだけでも報告しようか。

 詳しいことは明日のお昼にまた話せばいい。

 蓮の心は依然として弾んでいる。



――――――――

おまけ:蓮のまとめノート(一部抜粋)


アーヴィング・ゴフマン(1922-1982)

・カナダ出身、アメリカで活躍

▪️日常生活における人びとの「社会的相互行為(≒関わりかた、コミュニケーション)」を分析

=ドラマツルギー (演劇的アプローチ)を提唱する

→ごくごく日常にありふれた「(偶然で一時的な)出会い」や「集まり」に関心があった…「相互行為秩序」の解明を目指す…つまり、人びとのどのような関わり方によって社会の秩序が成り立っているのかを見ようとした

→人は社会生活という「舞台」において、それぞれの「役割」を演じている(たとえば、「学生として」「先生として」「親として」)

⚪︎役割葛藤…いくつかの矛盾・対立する役割や期待などに晒されて処理し難いような状況(たとえば、家庭と仕事の板挟みに悩む女性など)

⚪︎印象操作…人は意識・無意識にかかわらず場面に応じてふさわしい自分を演出している

⚪︎儀礼的無関心…他人に対し過度の関心を示さない礼儀作法。たとえば、電車に乗り合わせた見知らぬ人をじろじろ見たりせず、相手に対する無関心を装う行為など。→日常生活における「人格崇拝」(byデュルケム)の実践例 ※人格崇拝、デュルケム、あとで調べる

▪️『アサイラム』…精神病院における収容者の分析。施設の閉鎖性などに注目

(奥さんが精神病との闘病生活の末、自死している。)

――――――――

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る