第20話 桜前線②
あっという間に梅雨が終わり、季節は夏真っ盛りだった。セミが鳴き始め、プールの授業も始まった。アスファルトの上に昇る陽炎に、夏の訪れを感じる。
「夏休みの課題でレポートを提出してもらう。題材は将来の夢だ。原稿用紙五枚、夏休み明けにちゃんと提出できるようにしっかり書いてこいよー」
蒸し暑い教室の中、教師が夏休みの課題について説明していた。
将来の夢の作文。小学生かよ。心の中で悪態をつきながら教師の話を聞いてるふりをする。
将来の夢なんてない私に原稿用紙五枚も夢のことを書かせるなんて、なんて地獄なんだ。日本の政治について、とかの方がよっぽど書きやすい気がする。
気の早い教師はもう大学のことを話し出したし、皆そんなに将来のことを考えて生きているんだろうか。
「はぁ」
席替えで桜と離れてしまったがために、話す相手もいない。私のため息は窓の外に飛んでいった。
「この課題を出さないやつは、部活に行かずに書き終わるまで教室に残って書いてもらうからなー」
「最悪だ……」
一瞬、書かずにバックレてしまえばいいか、と思ったらこれだ。
「はぁ……」
さらに大きなため息が窓の外に飛んでいった。
網戸に止まったセミが鳴き出した。窓際に座っていた女子数人が悲鳴を上げる。ジリジリと大音声の鳴き声が教室に響いている。女子たちの悲鳴でさえかき消されてしまうほどだった。
しかし、私にとっては遠くで鳴いているそれと変わりない。
レポートのことをどうするかをずっと考えていた。
◇
「はぁ……」
「ゆいちゃん、どうしたの?」
きくの湯でいつものように手伝いをしていると、リオンちゃんにため息を聞かれてしまった。ちょうど私がタオルを洗濯機に入れに行くところで、ずっと裏方だったリオンちゃんとバッタリ出くわしてしまったのだ。
「課題で将来の夢についてレポートを書けって言われてさ」
「ああー、夏休みの。出てたね。そんなの」
「どうすればいいかなと思ってさ」
レポートのことを考えただけでも憂鬱だった。いくら考えても夢は浮かんでこない。
「あー。ゆいちゃん夢は?」
「ない」
「そっか。そりゃ確かに難しいね」
無いものをどうやって書けっていうのだ。哲学かなんかか。
「リオンちゃんはなんでアイドルになろうと思ったの?」
私は少しでもヒントを得ようと、リオンちゃんに尋ねてみる。
「え、私?」
「うん」
「うーん、そうだなぁ。昔から歌とダンスが好きだったから、かな?」
「それだけ?」
「あとは、テレビで見たアイドルに憧れたから」
「なるほど……」
憧れ、かぁ。憧れと言うと、私の憧れはリオンちゃんだ。しかし、将来の夢はリオンちゃんになることです、なんて書いて提出できるわけない。他の二人も然り。
「いつから目指そうって思ったの?」
「小五くらいかなぁ」
そんな早くから目指していたのか……。小五のときの私なんて、頑張れば空を飛べるって信じてたぞ。将来の夢は、空を飛ぶことです、とも書けないし。一番しっくりくる夢ではあるけど。と言うか人類全員の夢だろう。
「うーん……」
「力になれないみたいでごめんね」
「いや、ありがとね」
そう言って私は銭湯に戻った。
今度は香澄ちゃんに聞いてみよう。
「香澄ちゃん」
「ん、何?」
デッキブラシで浴場を掃除していた香澄ちゃんに声をかける。
「香澄ちゃんは何で陸上やろうって思ったの?」
「突然だね。どうしたの」
香澄ちゃんはデッキブラシを動かす手を止めて、こちらに振り向いた。
「夏休みのレポートで将来の夢を書くやつがあったじゃん?」
「あー」
香澄ちゃんはポンと手を叩き、あったねぇと言う。
「それで私の陸上のこと聞いたわけだ。何で始めたんだろ。私はなんとなくだよ」
「なんとなく……」
「うん」
なんとなくで始めて全国大会に行けてしまうのだから、香澄ちゃんの才能は末恐ろしい。
「いつから陸上始めたの?」
「中一から」
中一で始めて、中三で全国大会に行ってるから、二年ちょっとで全国大会に行ってるってことか。私もなんとなくで何か始めたら、案外日本一になったりして。いや、ないか。
「ありがとね」
「はいよー」
今度は桜だ。
「ねぇ桜」
「ん? どうしたの?」
「夢って何?」
「え?」
私の漠然とした質問に、牛乳ビンを運ぼうとしていた桜は固まってしまう。
「夢?」
「うん。夢」
「どうしたの急に」
「夏休みのレポート」
「ああ、あれか」
桜は私の意図を理解してくれたのか、うんうんと頷いた。
「私も分かんないなぁ。やりたいことが夢になるんじゃないの?」
「やりたいこと、か」
「じっくり探せばいいんじゃない?」
「そっか……」
将来の夢、夢を見つけること。パラドックスみたいな字面だ。
三人の意見を聞いてみても、結局何も答えは出なかった。
「ゆいちゃん。ゆいちゃんの好きなことって何?」
声がした方を向くと、番頭台に座った桜のお母さんが微笑んでいた。
「好きなこと、ですか?」
「ええ。好きなことに近いものを夢にすればいいと思うわ。なんだっていいのよ」
「好きなことを夢……」
私は桜のお母さんの言葉を復唱する。
「まぁ、若いうちなんて夢なんてなくたっていいのよ。一瞬の感情に任せられるのは若いうちだけだわ」
三者三様ならぬ、四者四様の意見に私はますます混乱してしまう。どうすればいいんだ。
夏休みの間ずっと悩んでも、私にはやりたいことは見つからなかった。
結局、レポートは適当にそれらしい事を書いて、文字数だけ埋めて提出した。
◇
気がついたら十月になっていた。二年に上がるときに文理選択があって、今月がその締切だった。私は文系を選んだ。それも、やりたいことがあって選んだわけではなく、ただ楽そうだったから選んだだけにすぎなかった。
リオンちゃんはこの間テレビに初出演して話題になっていたし、香澄ちゃんは関東大会で優勝して、二人とも学校で知らない人はいない。桜だってきくの湯の経営が順調だって喜んでいたし、湯けむり部で私だけが異質なのだ。夢のない私が。
夢を探すことが夢になってしまいそうで怖かった。
そんな不安を抱えながら最近は生きている。きくの湯のお風呂にゆっくり浸かることだけが唯一の癒しだった。
「はぁ……」
「またため息ついてる。最近多いんじゃない?」
きくの湯の大浴場で考え事をしながらお湯に浸かっていると、隣にいた桜が眉をひそめた。
「だってぇ……」
「また、夢がぁ、って言うんでしょ。ゆいは考えすぎなんだよ。皆そこまで深く考えてないって」
「でも三人は夢あるじゃん」
私は口までお湯に沈んでブクブクと泡を立てた。
「たまたまだよ。それにリオンちゃんとか香澄ちゃんみたいな規格外と比べちゃダメ!」
「ブクブク」
ここ最近はずっとこんな感じだ。私の三人への劣等感はどんどん大きくなっていった。
「そういえばさ」
「ん?」
桜がふと思い出したように話し出す。
「隣街にでっかいスパーランドができたらしいんだけど、皆で行かない?」
「スパーランド?」
「そうそう。温泉とかサウナとか岩盤浴とかあるらしいよ」
そう言いながら桜はザブリと立ち上がった。
「って、リオンちゃんが土日いないんじゃ無理か」
あーあ、皆で温泉いきたいなー。桜はぼやいて浴場から出て行った。今日は日曜日。香澄ちゃんは陸上の練習、リオンちゃんはファッション誌の撮影だそうだ。草津に行った以来、湯けむり部の本来の目的である温泉には入れていなかった。
朝イチでお風呂に入って、これからきくの湯のお手伝いだ。業務に慣れたのと、テレビ効果で一時的に増えたお客さんもだいぶ落ち着いて固定客が増えたことで、だいぶ仕事は楽になっていた。
「ゆいはお茶でいいよね」
「うん」
ダイニングで風呂上がりにお茶を貰った。風呂上がりは牛乳を飲みたいけど、毎回飲んでいるとすぐお金が尽きてしまう。
桜ちゃんはオレンジジュースを飲み干して、椅子の背もたれに掛けてあったエプロンを身に着けた。
夏休み明けからきくの湯の手伝いが、お手伝いからアルバイトにグレードアップした。いつでも温泉に行けるようにお金を貯めておくのだ。と言っても、リオンちゃんと香澄ちゃんが忙しくしている間はしばらく無理そうだけど。
「今日も一日頑張りましょー」
「おー」
桜の気の抜けた鼓舞に気の抜けた返事で返す。
コップを机の上に置いて、先に銭湯に向かった桜を追いかけた。
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