年表には、千年の追加がある。2022年ではない。
私たちの歴史の時間軸は、さらに1000年追加されたものではないかと疑います。
この千年という「暗黒時代」は、私たちの歴史を「拡大解釈」するために作り出されたようです。
この問題を提起してくれたのは、アナトリー・フォメンコ氏だ。この問題に詳しい人にとって、この問題は紛れもない事実である。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%8A%E3%83%88%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%83%95%E3%82%A9%E3%83%A1%E3%83%B3%E3%82%B3
https://en.wikipedia.org/wiki/New_chronology_(Fomenko)
なぜ「暗黒時代」が追加されたのかについては、まだコンセンサスが得られていない。
フォメンコ氏によると、人類の歴史は現在の西暦800年までさかのぼり、西暦800年から1000年の間の出来事に関する情報はほとんど存在せず、最もよく知られている歴史上の出来事は西暦1000年から1500年に起こったとのことです。
古代ヨーロッパの工芸品、地図、写真、硬貨、家屋に、A(anno)J 464、I 510、I 662、J609などの日付が書かれています。
そして、ラテン語でAnnoは1年を意味します。
数字の前にある「I」「J」について、公式の科学では、その文字の意味を説明していません。
フォメンコは、これらの文字がその千年を表していることを示唆しました。
j, J: イエス
i, I:イエス
当然ながら、西暦1576年はⅠ576とは一致しない。
1576年 イエスから1576年
Ⅰ576 - イエスから576年
Ⅰ576 + 1000 = 1576
Ⅰ576 ≠ 1576
「I」が数字ではないとするならば、以下文書の中にある年数を参照したとき、「I」が続く年数や、I5I3といった数字を見ることができるため、一見は上記の説明の通りにはないように見える。
https://www.google.com/books/edition/The_Philosophical_Transactions_from_the/BHu61CJ1xwwC?hl=en&gbpv=1&dq=%22%22&pg=PA94&printsec=frontcover
https://www.google.com/books/edition/Collections_Concerning_The_Scottish_Hist/WXtgAAAAcAAJ?hl=en&gbpv=1&dq=%22%22&pg=PA253&printsec=frontcover
https://www.google.com/books/edition/T_Goodwini_Moses_et_Aaron_seu_civiles_et/sht6Q1JQbTMC?hl=en&gbpv=1&dq=%22%22&pg=PA7&printsec=frontcover
しかしながら、jとJもIと同じはずだが、上を見る限りは、そうでもないようである。
以下の1652年に描かれた地図をみたときには、「J」という年数を確認できる。
https://www.davidrumsey.com/luna/servlet/detail/RUMSEY~8~1~301179~90072271:Nova-Totius-Terrarum-Orbis-geograph?sort=Pub_List_No_InitialSort%2CPub_Date%2CPub_List_No%2CSeries_No&qvq=q:Nova%20totius%20terrarum;sort:Pub_List_No_InitialSort%2CPub_Date%2CPub_List_No%2CSeries_No;lc:RUMSEY~8~1&mi=3&trs=27
地図上の左上の小窓に書かれた説明に、コロンブスがアメリカを「発見」したのはJ592年と書かれているのが分かります。
「J」が1を表すのであれば、1592年となう。
公式の年表では1492年であり、「J」と「I」が同じであるなら、発見された年は、J492となるのではないだろうか?つまり、「J」と「I」が示すものが違う可能性がある。
そして、同じくその小窓の説明の中に いくつかの数字を見受けることが出来、また、地図の緯度を表す数字にも注目したい。
year I587やI70と書かれた数字を見ることができる。
緯度を表すとおもわれるI70の前後を見る限り、「I」は「1」であるというように捉えることができます。
しかしながら、year I587の「I」が1である場合、1587年であるが、この地図には、J592という年も書かれており、このことから、「I」と「J」が別物である可能性があることを示唆しているのがわかります。
説明の中の下から4行目には、J6Ⅰ5と読めるものがあり、「J」が1であるなら、1615となるが、6と5の間の「I」が1であるなら、J6Ⅰ5と書くのも奇妙である。
つまり「J」と「I」は別物であります。
これらの数字とおぼしきJ、Iはいったい何をあら表しているのだろうか。
こちらのWIKIに存在する世界地図を見る場合。
左上の同じような小窓には、アメリカの発見は、I492と書かれているのがわかる。
「I」を「1」とするなら公式の年表通りであります。
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Nova_totius_Terrarum_Orbis_geographica_ac_hydrographica_tabula_(Hendrik_Hondius).jpg
下も同じ
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/3/31/Nova_totius_terrarum_orbis_geographica_ac_hydrographica_tabula_LOC_2002622159.jpg
そしてこちらも
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/5/5a/Nova-totius-terrarum-orbis-geographica-ac-hydrographica-tabula.jpg
1685年に出版されたこの本の8ページと16ページを見てもらいたい
https://books.google.com/books?id=TXpmAAAAcAAJ&printsec=frontcover&source=gbs_ge_summary_r&cad=0#v=onepage&q&f=false
面白いことに、
数字、年が書かれた文書をみることで、年代のおかしさを見ることが出来ますが、年代が書かれたものは文書だけでは在りません。
他に年数が書かれたものとしては、コインがあります。
下の1717年の大英帝国領インド、東インド会社のコインは、見慣れた「1」が存在する時点で、1717年には、明らかに「1」が知られていたことを示しています。
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:East_india_company_half_anna_coin_1717.jpg
ならば、他の1717年のドイツのコインはどうだろうか。
https://www.numiscorner.com/products/coin-german-states-hamm-3-pfennig-1717-vf20-25-copper-km-75
上の1717年のドイツコインには、I7I7と書かれており。「1」が「I」となっています。
敢えて「I」使用していることが分かります。
そして、下のロシアの1721年とするコインはどうだろうか?
https://www.m-dv.ru/catalog/id,4807/prohod.html
i72Iと書かれているようにみえます。最後の「I」を「1」とするなら、最初の1を「I」とせず「i」のような文字とすることに謎があります。
これは数字ではなく、最初に言ったように「I」や「i」が年号であるのなら、その表記に不思議はありません。
そして、スイスの1621年とされるコインはi62Iと書かれています。
https://www.numisbids.com/n.php?p=lot&sid=3270&lot=43
ロシアの1721年とするコインと同じような奇妙さがあります。
1783年のアメリカのコインは、「1」とする部分が「I」です。
https://www.coinworld.com/news/us-coins/2015/07/nova-constellatio-patterns-among-earliest-us-coins.html
少なくとも、18世紀後半までは、「I」が使用されていたようです。
以下サイトでもその他コインの年数を見てもらいたい。
https://www.numiscorner.com/collections/banknotes-germany-1-1871-german-states-1-1871-german-states/cat-1-germany
「Ⅰ」と「1」が混在しているのがわかります。
以下のコインではJ737など、J~という年数が存在しているのがわかります。そのほか、謎のλというような年数も確認できます。
https://oldcurrencyexchange.com/2015/03/25/coin-guide-the-irish-regal-coinage-1736-1760-of-george-ii/
仮に「I」が1であったとして、それが1000を示すのだとすれば、「J」と「I」を同じ年数を示す数字の中で使い分けることは奇妙なことであり、「J」と「I」が同じものではないということは間違いないように思います。
また、「i」は「I」の表記ブレであり、最初の「I」は「1」ではなく年号の一つだという事がこれらコインから見て取れます。
だとするならば、これらコインの認識されている年数が正確ではない可能性があります。
これらのことから、公式の年表の年代は間違っていると言わざるを得ないのです。
そしておそらく、年号が重複して使用されていた期間が存在する可能性があります。
以下画像を参照します。
https://pastvu.com/_p/a/f/8/j/f8jkj5ga6gkuz1luw2.jpg
これは「1710年11月14日、サンクトペテルブルクのA・D・メンシコフ公の宮殿で行われた小人ヤキム・ヴォルコフの婚礼」というこの版画は1711年のものです。
何か変な記号や、「1 」を示すとおぼしき 「j 」に似た文字、「J」=「7 」と思しき文字も存在しています。
さらには、以下の印刷物には、J782年という数字。そして、一番下の四角い枠外、細かい文字の中に、1783という数字を確認することができます。
https://preview.redd.it/s99mttrq59x51.jpg?width=3015&format=pjpg&auto=webp&s=f7a9abdfcc0d4d6035f6212b994d12211b219758
「1」を印刷できるにもかかわらず、なぜわざわざ「J」を使用するか、本当に奇妙なものです。
上記の画像のことから、2つ以上の年表が共存していた時期があったことがわかります。
つまり、2つ以上の年代を使用し、共存していた時期が存在することになります。
その結果、年代が重なり合うことになったと思われます。
その重複する期間を経た結果、「I」を1000とする間違った年表が残りました。
しかしながら、年代になんらかの干渉があったとして、このようなことが一夜にして起こったことではないと思われます。
なぜこのようになたのであろうか?
アメリカ大陸発見したとされるニュースの在ったi500年頃の話、何らかの「事後的」な理由で、「i」「I」「j」「J」-イエスから」を「1」と思い込んでしまい、間違いに気づいた時には手遅れで訂正ができなかった可能性。
または、権威者たちは 「i,I,j,J 」の本当の意味を知っていたのに、時間軸に千年を追加して歴史を調整することを選んだということはではないか?
どのような状況であれば、大衆に気づかれることなく、そのどちらかが起こるのか?
このような状況を作り出したのは、ヨセフ・ジャスタス・スカリゲル(1540-1609)とフランス人イエズス会のディオニシウス・ペタヴィウス(1583-1652)であると言われている。
https://en.wikipedia.org/wiki/Joseph_Justus_Scaliger
スカリゲルの『De Emendatione temporum』https://wiki.uibk.ac.at/noscemus/De_emendatione_temporum(1583年)は、古代の年代に関する考え方に革命をもたらしました
スカリゲルは、古代史がギリシア・ローマにとどまらず、それまで軽視されてきたペルシャ、バビロニア、エジプト、そして別物として扱われてきたユダヤの歴史も含んでいることを明らかにしたのです。
スカリゲルは、失われた『エウセビオスの年代記』を復元することに成功した。
これは最も貴重な歴史的文書の一つであり、特に古代史を知る上で貴重なものです。
この文献は1606年に出版された『Thesaurus temporum』で、ギリシャ語やラテン語で現存するあらゆる年代記の遺物を収集し、復元、整理したものです。
1627年には『De doctrina temporum』その後『Tabulae chronologicae』(1628、1629、1633、1657)を出版しています。
これはスカリゲルの『De Emendatione temporum』(パリ、1583年)を凌ぐもので、ベネディクト派の著作の土台となるものであったようです。
1475年(=i475)以降になると、調整が行われるようになったとおもわれます。そして同時に、本や書庫の焚書により、証拠がほとんど残らないようになったのでしょう。
もし、i492やj492が1492年ではなく492年を意味するのであれば、1475年以降、本来の意味をあまり見いだすことはできないだろうとおもいます。
スカリゲルが登場した1583年の時は、すでに歴史は調整されたものであり、彼は単に新しい物語を改良しただけであろう。
i475年は、重要な出来事がありました。公式のストーリーでは、それが西ローマ帝国崩壊であります。その解体の公式の日付は西暦476年であると主張されています。
その後1000年という途轍もなく長い暗黒時代が訪れました。https://en.wikipedia.org/wiki/Dark_Ages_(historiography)
しかし、どういうわけか、東ローマ帝国は生き残り、千年以上続き、西暦1453年に崩壊しました。
おそらく暫くは、i, I, j, Jは、意図的に使われ、それは「イエスからの年」という意味であった。
まだまだ文書は多くの存在があったが、新しい教義が形成され始めた。
この時代から、西暦79年、西暦472年(西暦1482年のすり替え)、西暦1631年のベスビオ火山の噴火のようなものが出てくる。この噴火は本来一度だけのものである。しかし、叙述編纂者たちによっていくつもの噴火に変わってしまっている。
このような歴史の重複が幾度として起きることになる。
修正された1700年頃以降、新しい物語が盛んに大衆に押し付けられるようになった。
1700年このあたりから、「I」の使用頻度が減り、新しい西暦が形成されることになったのだ。
この1700年には「年数」において非常に重要な出来事があった年だ。
このようなことを知るうえで、過去の文献をみることが重要であるが、残念ながら、我々が目にする最も古い印刷物は1500年代後半のものである。しかも、それらは非常に読みにくい。、
1475年以前のストーリーに非対応の印刷物とその一部は、焚書されたか、または、意味を間違って解釈し、また、存在しない原本を手作業で書き起こし、ストーリーに対応した印刷物にしたのだろう。
この印刷物の怪しさは、印刷技術の発明の部分からすでに怪しい。
1436年から1450年にかけて、ヨハネス・グーテンベルクは、ハンドモールドと呼ばれる道具を使って台紙から文字を印刷するための機械と技術を開発した。
1454年から55年にかけて出版されたグーテンベルク聖書のフォントは非常にふくざつである。
これは、大量生産された金属活字を使って印刷された最古の本と言われている。
グーテンベルクの発明は、ヨーロッパにおける活字印刷の発展に大きく貢献しました。
ハンドモールドは、完全な本の印刷に必要な量のレターパッチを安価に作る最初の手段であり、活字印刷を事業として成立させるものだった。
https://en.wikipedia.org/wiki/Hand_mould
以下、1450年頃、彼が印刷したグーテンベルク聖書である。
https://en.wikipedia.org/wiki/Gutenberg_Bible#/media/File:Gutenberg_Bible,_Lenox_Copy,_New_York_Public_Library,_2009._Pic_01.jpg
以下の1681年に使われていた書体と比較する。 https://www.google.com/books/edition/A_Full_and_Clear_Answer_to_a_Book_Writte/_tZCAQAAMAAJ?hl=en&gbpv=1&dq=%22book%22&printsec=frontcover
この2つの書体において、およそ230年の差があります。
まるで、技術の退化をしているかのようである。230年前の印刷物のほうがより洗練された事字体を採用しているのがわかるだろう。
何故このようなことになったのかは、年数の引き延ばしによる時代の前後の交錯からだと考えればおかしくはない。
1492年、7208年、1700年、これらの年は、かなり重要であります。
1492年、コロンブスがアメリカ大陸を発見した年とされています。
1700年 当時ロシアの7208年にピョートル大帝と名乗る人物が暦を変更し、その瞬間から1700年となったことはよく知られている。ロシア人は1699年を経験したことがない。ロシアでは、それまで、ビザンツ暦を採用しており、7208年である、彼らが12月31日にその年を終えた時には、7207年だったからである。
コロンブスが「新世界」を発見したのが1492年である。
この1492年と1700年が同じであると考えている。
1700年のロシアでは「星の神殿での世界の創造」から7208年を迎えていたことになる。
当然、「新世界」と「創造された世界」がある。
前述したように、ロシアでは「星の神殿での世界の創造」から年を数えていた。それが何を意味するのか、誰も本当のところは知らない。
思うに、この「星の神殿 」は、我々のプラネタリウム「天蓋」を意味しているのではないだろうか。
「フラマリオンの木版画」
https://en.wikipedia.org/wiki/Flammarion_engraving
7208年「星の神殿での世界の創造から」=イエスから1700年
ここで、マルティン・ベハイムが作成した1492年の世界地図(地球儀)があります。
https://www.davidrumsey.com/luna/servlet/detail/RUMSEY~8~1~291873~90063411:Composite--Mercator-Projection--Mar?sort=Pub_List_No_InitialSort%2CPub_Date%2CPub_List_No%2CSeries_No#
https://media.davidrumsey.com/rumsey/Size4/RUMSEY~8~1/168/12237020.jpg
「コロンブスのアメリカ大陸発見」直前に書かれたものとしてとても有名な地球儀であり、この地図に、北アメリカ大陸も南アメリカ大陸が存在していないことは良く知られている。実のところ、北に追加の土地が描かれているのは知っているだろうか?
地図の上部に別の大陸が描かれている。二枚目の地図では右下の円形の地図である。
もし、アメリカ大陸が上記の地図の北に本当に描かれていて、1492年かi492年に何らかの方法で現在の位置に移動されたとしたらどうか?
したがって、アトランティス/ハイパーボレアは、新しい位置に、沈められた/移動させられたのである。
このような大きなことが一夜にして起こったというわけではないでしょう。何年も何十年もかかったかもしれません。このような規模の出来事は、いくつかの大きな地表の大災害、激変、災難を伴っていたかもしれません。
この1655年のスカリゲルの歴史整理の以降の本からいくつか抜粋してチェックしてみてください。時間軸はすでに調整されています。
1655年に印刷された本で、ヴェスヴィオ火山を取り上げたのは472年の1回だけだ。なぜか、1631年のものが掲載されなかった。
https://books.google.co.jp/books?id=tAA8AQAAMAAJ&pg=PA257&redir_esc=y#v=onepage&q&f=false
(257ページ 下から7行目)
1700年のロシア歴と、アメリカ大陸発見は、年が近く、コロンブスが発見した「新世界」と「星の神殿での世界の創造」が同じ出来事であったことを示唆しているのではないだろうか?
そうすると、1492年=1700年=7208年ということになります。
上記の日付を別の方法で表示すると、次のようになります。
i492年=1700年=7208年。
i492年はイエスから数えたもので、1700年は改変後ということで、1700年には、すでに1000年余分に相当する年数が組み込まれていると考えられます。
492年頃(または、ずっと前から)から1700年の間は余計な1000年が追加され、歴史の引き延ばしと調整が行われているという事です。
1700 - 1492 = 208
700 - 492 = 208
7208年は、実際には「星の神殿における世界の創造」から208年の経過があったのではなかろうか。
また、7208年の解釈は間違っており、「7」の数字は「1」の数字と同じように「文字」と「混同」されたものだった。
あるいは、文字と図形が混同された(あるいは意図的に誤表示された)のである。
コロンブスによる「アメリカ大陸発見」と「星の神殿での世界創成」は同じ出来事だったと推測します。
アメリカを発見することができなかったのは、475-492年以前にはアメリカが存在しなかったためです。
7208年は、星の神殿の世界創世記からであることは、公式です。そして、この年号が恐らく正しくは「7」ではなく「J」であり、この世界の創造からとされています。この「J」の暦こそが、ビザンツ暦だと想像します。
ビザンツ暦は、東方正教会が691年頃から1728年まで使用していた暦で、エキュメニカル総主教の暦とされています。
988年から1453年まではビザンチン帝国の、988年から1700年まではキエフ・ルスおよびロシアの公式暦でもありました。
セルビアなどビザンチン共同体の他の地域でも使用されている。
注)ビザンチンは歴史学上の用語であるため、本来の名称は東ローマ帝国が名乗り続けた「ローマ」という形容詞を使用する。この「ローマ」がキーになるかと思います。
そのビザンツ暦を廃止し、ロシアは、1700年としました。
1700年以降のコインには、キリル数字を使って年代を記したものがたくさんあります。
となれば、1700年より前のロシアでは、ビザンツ暦のその年代のコインを使用していたはずで、その年代のコインが存在しているはずです。しかし、
1700年以前のロシアのコインで、同じように年代を記したものはなぜか存在しておらず。
当然のように、70000、6000年代のコインも見つかりません。
これは本当に異様です。
1700年以前のロシアの年代物のコインを見つけることができません。
https://www.m-dv.ru/catalog/king,7/year,1699/coins.html
https://www.coinarchives.com/w/results.php?results=100&search=cyrillic
キリル文字の数値を表すためには、すべての数値の値を合計します。たとえば、ѰЗは700 + 7であり、707になります。数値が999(ЦЧѲ)より大きい場合は、千の記号(҂)を使用して数値をしめします。
Лは30であり、Bは2で、҂Л҂Вは30,000 + 2000として、32,000になります。
6000は、Sと҂の組み合わせで、҂Ѕとなります。
1700年以前は、6000年や、7000年といったもが存在するはずで、1700年以前に印刷されたものは、最初に҂З(7000)や҂S(6000)がつくことになります。しかし、1700年以前のロシアの本やコインで、҂Sで始まる番号のついたものを見つけることができません。
1600年代や1500年代などが存在しないのは、使われていなかったからこそとしても、6000年代や5000年代が無いのは異様です。
つまりは、知られているビザンツ歴は、誤って伝えられており、誤った形のビザンツ暦は、使用さていなかったことになります。
475 = i475 = 1475?
まず、西ローマの崩壊の475年は非常に重要な年であはありますが、同時におおよその年でもあります。このイエスからの475年(イエスが何であれ、誰であれ)は、ある範囲に収まるはずです。どの程度の誤差があるのか分かりません、50、または75、または100である可能性があります。
いわゆる古代ローマが著しく間違っています。しかし、西暦475年頃、何かが起こりました。それは公式には、ローマ帝国の西側部分が徐々に崩壊し、西暦476年に崩壊したとストーリーでは主張されています。
そしてその後は、千年に及ぶ暗黒時代がヨーロッパに降り注ぎました。
西ローマ帝国は、475年に崩壊したのに対し、どういうわけか、その暗黒時代の中で東側は生き残り、さらに千年後の西暦1453年に崩壊しました。
これも、異様な歴史であり、実際には、475ADと1453ADが約22年間の開きであり、同じ歴史的な終わりを意味しているのではないかと疑うのは容易です。
ここで海外のフォーラムで共有されていた1690年の本、この本は、聖書、特に黙示録の分析をしています。その本を紹介します。
https://books.google.co.jp/books?id=OOI3Pqjf11IC&pg=PA207&redir_esc=y#v=onepage&q&f=false
このCh,XI(11章)の209ページからの文章です。(Deepl訳)
―――――1690年の本―――――――――――――――――――――――――
このように、「時と季節の主が、その時代の始まり、あるいは治世の始まりとして良いと考えた」正確な年を西暦437年とするのは、以下の考察から、より確かなものとなるであろう。
(1)それは、教会の純潔が終わった正確な境目であり、それは、第三の封印のもとに現れた天秤、その二つの天秤で量られた、教会の純潔の最後の半分の時間を完成する年であるからです(黙示録6章5節に示されているとおり)。
(2)それは、13章7節の、時間と時間、半時間の計算の元となる、まさに後方であるからです。その結果、異邦人の42ヶ月は、エホバの証人の1260日と平行し、荒れ地の女は、ちょうど半時間の入口で、西暦1517年に始まる宗教改革は、輝かしい証明であることが観察されている。
(3) なぜなら、それは2つの顕著な半時間の間の中間点であり、10に1つの時間に構成されるからである。
王が獣の力を受けている。この点については、8章を参照してください。
異邦人の月と証人の1260日の始まりを437に固定すると、証人の日、異邦人の月、そして獣の月の間には、最も厳格な数学的比例に従った素晴らしい一致があることがわかります;彼らは、黙示録の10、11、12、17章から明らかなように、獣は、啓示17から明らかなように、西暦475年の終わりか、西暦476年の初め、西ローマ皇帝が倒れたときまで、第8の王になるまで力を受けず、獣は475年の終わりか476年の初めまで存在していませんでした。
獣の月が西暦437年に始まるなら,それらは(全体として1222年に達する)西暦1659年に終わるはずであり,38年早く,1260日が終わる。そして、もし獣の月が 476.年に始まるとすれば、それらは1697年に終了する。そして、異邦人の月の終わりから、すべての反キリスト教の時間の終わりまで、同じ天文学的比率で、背教の時を続けることになります。というのも、背信主義が獣の力を獲得する前に、教会は異教徒化しており、それゆえ異邦人(反キリスト教の王を持つ前の、背教する教会のメンバー)の月が、獣の月より前に始まったからである。
そのため、異邦人(反キリスト教の王を持つ前の背教教会のメンバー)の月々は、獣の月よりも前に始まりました。その上昇時に彼らは彼の月々に落ち、彼らと一緒に落ちている、唯一の反キリスト教の王の月々は、その時、公となった。
反キリスト教の王の月だけが、その時、公になったのです。そして、これらの時間は獣に与えられ、時間は常に最高の王子の治世から計算されるので、異邦人の月は獣のfuppletoryとしてのみ計算されることになります。
月とは、38年の間の一種の挿入によるものであり、これは摂理の賢明な処置によって、次のようになる。
――――――――――――――――――――――――――――――――――――
つまり、エホバの証人の1260日とは、437年もしくは、476年から始まり、1659年もしくは1697年を迎えることを示すというものです。
38日の誤差が存在するが、それは、ローマ帝国の崩壊の時、獣が力を得るまでの期間の差だということです。ローマ帝国の皇帝は、実際、8人であり、この8人は、黙示録の8人の王に対応しています。
1697年といえば、ロシア暦の改定に非常に近いことが分かります。
――――1690年の本―――――――――――――――――――――――――――
そして、ダニエルの75の涙(これは、第10章で示したように、彼によってすぐに追加されます。ダニエル書13章6.すべての時間の終わりとして、1260日に対して) を、我々年1772から取るならば、逆行する順序で逆行して、42ヶ月と1260日の終わりは、1697年に来るでしょう。
これは非常に重要な問題であるため、私は以下の観察によって、この問題を説明し、解決するよう努力する。
――――――――――――――――――――――――――――――――――――
1260日の獣の月こそが恐らく、偽りの月日であり、それこそが追加された1000年の正体ではないのかと疑っています。
その引き延ばしによって西ローマ帝国と東ローマ帝国の崩壊に1000年の差が生まれてしまったわけではないだろうか。
「i」は、イエスからを示すもので、「j」は、星の神殿の世界の創造。公式の年表は、i475年から、搔き回され、i700年位までの歴史が1700年まで引き伸ばされたという結論になります。
これを行う中核となっていったのが、1502年(i502年)のフリーメイソンによって設立されたイエズス会です。
1700年頃に世界に植民地化を行っていたのはイエズス会であり、1700年のロシア歴の改定や、1700年代から「i」が「1」に変わっていった時期に重なります。
西ローマ帝国の崩壊からも、1000年はずっとビザンツ暦である以上ローマであり、その間の出来事、記述があったとしても「ローマ」として締めくくるられてしまうことが可能です。
そうして、1700年までの偽りの獣の月が創作されたのだということが理解できるのです。
フォメンコ氏は、キリストの誕生は、西暦1152年であるとしています。
イエス暦の始まりから、152年間の空白があります。
おそらく、イエスとは、何らかの出来事のことであり、人ではないからでしょう。
その出来事の始まりが「I」の始まり、i492=1700であるとすれば、現在の年は、i814年ということになりそうです。
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