須らく時雨

エリー.ファー

須らく時雨

 時期は六月である。

 嘘をつかないように生きてきた私である。

 傘をさし、夜道を歩く。

 雨音ばかりである。

 私の足音が遠い。

 蛍光灯の光が離れ小島のようである。

 死にそうになる。

 意識が遠くなる。

 それは、幻である。

 私の心臓は高鳴っているは、全く問題ない。人生はこれからも続いていく予定である。自殺などもってのほか。

 妻が亡くなったが。

 まぁ。

 私が殺したわけだが。

 小雨の夜に首を絞めてしまった。気持ちが高ぶってしまったのだ。どのような状況だったかは説明しない。余りにも無粋である。

 涙が出そうな夜だと思った。記憶が消えてしまいそうになる。このままこの場所で朝を迎えたくなる。

 妻の死体は家の地下にある。

 誰かにばれることはないだろう。

 今は会社からの帰路である。まもなく、家が見えてくる。と、思っていたら家が見えてきた。不思議な気持ちである。心が全く温かくならない。昨日までは、家が見えると心を落ち着けることができたというのに。

 妻を殺してしまったのは二年も前である。

 だというのに、今日の朝、気になりだしたのだ。あの死体はどうなっているのかと。

 完璧な状態にしている。つまり、完全犯罪。誰も疑わないし、ただの行方不明事件として処理されている。

 このように情報を確かめている時点で、自分の不安に体を縛り付けられているということなのだろう。そこから逃れる術を持ち合わせていないのだから、その心の動きにピントを合わせるほかないのだが。

「大丈夫だ」

 独り言である。

 自分に言い聞かせる。

 ハンバーガーが食べたい。

 不意に思う。

 空腹なのではなく、ジャンクフードで心を埋めてしまいたくなったのである。つまり、隙間があるということだ。寂しさからくるものなのか、それとも理由が必要なのか。

 昔、母と一緒に観覧車に乗ったことがあった。

 遠くに見える街を見ながら、あの中に自分がいるのではないかと疑った。いるはずもない。しかし、いてもおかしくないのではないかと考えてしまう。それはそこに自分以外の人生、つまりは自分の想像の外の世界があるということに気付いたためであった。

 何も知らない。

 知らないということは、何が起きてもおかしくない。

 何が起きるのかは知りたいが、自分から動くほどではない。

 観覧車が一周する時には、今の自分が出来上がっていたのだと思う。

 あの場所で、社会性を置き去りにしながらも、どこか遠くに視点を置くという生き方を手に入れたのだ。

 自分のことを大切にしない方が、遠くに行ける。

 自分の知っている事柄は、世界のすべてである。

 自分が真ん中にいるということは、いずれリスクを背負い続けるだけの時間を過ごすことを容認したことになる。

 このような哲学が自分の中に生まれてしまったことは、利益であり損失でもあった。

 これから少しだけ自分の生き方を見つめなおす必要が出てくると思う。反省も少なからずしなければならないだろう。

 ただ、今ではない。今ではないのだ。

 まだ大丈夫だ。このままの状態を維持して、少ししてからそのことを考えよう。積み重ねてきた物事の結論を急ぐべきではない。

 今、夜道を歩いているのか。それとも、観覧車の中なのか。

 分からない。

 しかし、暗い。

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