第3話 恋に落ちた日
最初に約束したバレーのコーチの話は全くないまま、僕たちはデートを重ねた。
僕が、山上美和という女性に対して恋愛感情をはっきり自覚したのは、イチョウ並木が都心の街を黄色く染め始めた三回目のデートの時だった。
僕は二週間後に群馬県で行われる参加者が三千人ほどのマラソン大会に初挑戦することになっていた。
後先考えずに東京マラソンにエントリーしたのだが、かなりの倍率の抽選に、来年二月開催の大会の落選通知が届いていた。当選するつもりで練習を開始していた僕は、日帰り可能で抽選なし、申し込みの先着順で出場できるこの大会にエントリーしたというわけだ。
美和さんにそのことを話すと、彼女も走ることが好きで、偶然にも春先に同じ十キロレースに出場していたことも分かり、二人で完走祈願の参拝に行こうということになった。
夕暮れ時の東郷神社の神殿に二人並んで手を合わせた。東京・原宿にあるこの社の御祭神は、日露戦争でバルチック艦隊を打ち破って日本を勝利に導いた東郷平八郎元帥、「勝利」「強運」そしてなぜか「縁結び」にご利益があるという、まさに今の僕たちにぴったりの神社だ。
お参りの後で、美和さんは、連合艦隊のカラフルなZ旗がデザインされたこの神社の「勝守」を渡してくれた。
秋の日は釣瓶落とし、茜色だった空が早々に紺色に染まった。原宿駅近くのマンションの地下にある老舗の中華料理店で夕食を取った後、僕は、前もって考えていた通りに、すぐ近くの代々木公園に彼女を誘った。
僕はここからほど近い都立高校の出身だ。高校時代の僕らにとってこの公園は聖地だった。かくいう自分も、高二の秋に、緊張でがちがちになりながら女子バレー部の彼女と初めて唇を重ねた、甘酸っぱい思い出の公園だ。
父が物置からギターを引っ張り出してきてよく歌っている歌がある。誰の歌かは知らないけど、シンプルな歌なのですぐに覚えてしまった。父もきっと母には言えない誰かとの思い出があるのだろう。その歌のメロディーが頭の中に流れてきた。
恋したら 星の降る夜に 肩よせながら 歩くの
たちどまり はずかしそうに 二人はたがいを みつめる
これからどうするの 私は目をつぶるのね
恋したら 知らないことは あなたに 教えてほしいの
僕たちは手をつないで公園のゲートをくぐった。晩秋の公園はそぞろ歩く人もまばらだ。噴水前のベンチに並んで腰を下ろすと、それが初めから決められていた事のように、僕たちは長いキスを交わした。
付き合い始めて一か月と少し、予定通りの展開となったデートに調子に乗った僕は、美和さんに少しハードルの高いお願いをしてみることにした。
「今日美和さんがくれたお守りをウェアに縫い付けてマラソンを走る。だから、完走祈願に、お守りの中に女神さまの下の毛をいれてくれない?」
ダメ元のつもりだったが、美和さんは、少し考えた後、僕からお守りを受け取ると、黙ってベンチから立ち上がり、舗道を外れて林の奥の方へ歩いて行った。
「こっちを見ないでね」
彼女は、大きな木の陰で、周囲に人がいないのを確かめるとスカートをたくし上げて、右手を中に入れた。
恋にはたった今、恋に落ちたと感じる瞬間がある。僕にとってはそれがこの時だった。
思わず駆け寄って美和さんを後ろから抱きしめてしまった。
スカートの中に差し入れられていた彼女の掌の上に僕の掌を重ねた。下着はすでに腰骨の下まで下げられていて、美和さんの指と絡んだ僕の指が彼女の茂みに触れた。
僕は、彼女を抱えたまま背中を木に寄り掛からせ、茂みのもう少し下の部分まで触れようとした。最初は僕の手首を握って抵抗していた彼女の力がふっと抜けた。
彼女の一番敏感な部分はもう湿り気を帯びていた。僕は左手で彼女の腰を支え、右手の掌で彼女のその部分を包み込みこんだ。
その時、「あんっ」という声とともに彼女の膝の力が抜け、左手一本で彼女の体重を支えようとした僕はバランスを崩し、二人は絡まるように地面に転がってしまった。
どこがどうしてそうなったかのか、少年漫画のラブコメの主人公のように、僕は彼女に覆いかぶさる態勢になった。僕の顔のすぐ下に彼女の顔が、唇があり、さらに右手はスカートの中で好ポジションをキープしている。
息を弾ませた彼女と目が合った。美和さんはどうしたらよいか迷っている風だった。
もし彼女がここで目を閉じることを選択したら、自分はどうするのか。このまま行けるところまで暴走してしまおうか。
これからどうするの 私は目をつぶるのね
恋したら 知らないことは あなたに教えてほしいの
父が好きな歌の通り、美和さんが瞳をすっと閉じた。下肢の力が抜け、両の足が少しだけ開かれた。
でも、いくら人通りがない林の中とはいえ、ここは公園だ、公共の場だ。これ以上の行為に及ぶのはあまりにも大胆不敵、ようやく、かろうじて働いた僕の理性が、この辺が潮時と僕の本能を押しとどめた。
僕は、彼女から身体を起こすと、立ち上がって彼女に手を差し伸べた。
「美和、ごめん、転んじゃった。大丈夫?」
彼女は、ふっと息をつくと、素早く下着の位置を直し、僕の手を取って立ち上がった。
「大丈夫、じゃない」
「どこか痛いの?」
「違うわよ。豪くん、これじゃ電車に乗れないわ」
僕が彼女のことを美和と、彼女が僕のことを豪くんと呼び合うようになったのは、この時からだ。
僕の悪戯に身体が反応し、下着を濡らしてしまった美和のために、僕は女子中高生でにぎわう竹下通りのランジェリーショップまで女性ものの下着を買いった。
駅のトイレで着替えを終えて出てきた美和は、少し怒った顔で僕にお守りをくれた。
「入れておいたから、マラソン、きっと完走してよね」
レース当日、僕は、美和に貰った勝守りをゼッケンに縫い留めてスタートラインに立った。
これで完走できなかったら男が廃る。前半はペースを抑え、三十キロの関門を過ぎたところで、胸のお守りを握って自分に誓った。彼女のために一分、一秒でも早くゴールする! 僕は徐々にペースを上げた。
身体が動く。前を行くランナーを一人ずつロックオンしては抜いていく。ラスト一キロ、ようやくゴールの競技場が視界に入ってきた。さすがに身体はかなり重かったが、それでも僕は残されたすべての力を出し切るべくスパートをかけた。
女神さまのご利益で、僕は、三時間四十六分十七秒という、初マラソンとしては望外なタイムで完走を果たした。
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