第45話 大浴場での一幕

「……ふむ。広いの。……人間の風呂というのはこうも贅沢なものなのか」


 バハムートは王城の大浴場で入浴していた。今大浴場にいるのはバハムート一人だ。バハムートは勘違いをしているが、あくまでもこの大浴場は異常なのである。王城の生活と庶民の生活では大きな格差があった。


 当然のように庶民の風呂はこんなに大きくはない。こんな大きな風呂は大衆浴場のようなものだ。風呂場の素材も大理石で出来ており、相当に金がかかっている事が想像できた。


 国民の血税が出所だと思うと罪悪感を抱くだろうが、バハムートはそもそも貨幣という存在を知らなかった為、税金という存在も当然ように知らない。


 だから罪悪感など抱きようもなかった。ある意味幸せな事である。


 無知とは時に幸せな事であった。


「ふふふーん♪」


 バハムートは陽気な鼻歌を歌い、入浴している。風呂を上がる。


 風呂場には鏡があった。


 鏡に映った自分の体は妖艶であった。少なくとも自分ではそう思っている。小柄に映るかもしれない体は出るところは出ているし、引っ込んでいるところは引っ込んでいる。決して平坦ではない。


 バハムートは石鹸を泡立て、自身の体を丹念に洗い始めた。主に胸のあたりを洗い始める。持ち上げたりして、自分で弄んでいた。


「ふふふっ……この魅惑的な体(バディ)ならばいかに朴念仁を装っている主人(マスター)と言えども、雄としての本能が隆起し、辛抱たまらなくなってしまう事であろう」


 バハムートは笑みを漏らす。そうするならばどうするか? 取る選択肢などそう多くはない。①覗いてくる ②……いや、もはや堂々と浴場に素知らぬ顔で入ってくるかもしれない ③ ま、まさか一緒に入浴するだけでは我慢できずに……バハムートの体を……。


「ぐふふっ! だ、だめだぞっ! 主人(マスター)い、いくら我の体が魅惑的だからと言って、そう熱烈に求めてきては。だ、だが、我はそなたの使い魔だ。求められれば拒む事など出来まい。仕方なかろう。そなたの滾った劣情の全てを我の体で受け入れようではないか……」


 バハムートは一人で盛り上がっていた。彼女の脳内選択肢の中にはソルが大浴場に足を踏み入れないという選択肢はなかったのだ。


 ――ガラガラガラ。


 戸が開かれる音がした。


 大浴場に一人の人物が姿を現す。


「ぐっふっふ! やはり来たか! 主人(マスター)! 我の魅惑的な肉体(バディ)に性的欲求を我慢しきれずに! やはりそなたも一皮剥けばただの雄という事だ!」


 しかし、現れた人物はバハムートにとっては予想外の。そして一般的に考えれば至極まともな人物であった。


 金髪をした絶世の美少女。バハムートに負けず劣らずの見事な裸体を晒している。


 フレースヴェルグの王女——クレアである。


「あら……バハムートさん、入っていたの?」


「……ちっ、小娘か」


 バハムートは露骨に舌打ちをした。社会常識のない彼女に『王族は敬うべき存在』という概念は存在していない。


「な、なんで舌打ちするの?」


「期待外の人物が現れたからに決まっているだろう。我は主人(マスター)が入ってくると思ったのに」


「……そう。それは悪かったわね。一緒に入っていいかしら?」


「まあよい。宿を借りている恩はある。仕方があるまい」


 宿を提供している恩人に対する態度とは思えなかったが、バハムートなりに恩を感じてはいるようだ。


「……それは良かった。あなたには個人的に聞きたい事があったの」


「聞きたい事? なんだ? 申してみよ」


「あなたとソルって本当はどういう関係なの? ソルに何があったの? ソルは記憶喪失の女の子を拾ったとか言ってたけど、あれって嘘なんでしょ?」


「なんで嘘だと思う?」


「そんなの幼馴染だから、直観的にわかるのよ。ソルは嘘が下手だもの。目が泳ぐの。剣の修行をしていたっていうのはある程度本当かもしれないけど、あなたとの関係はかなり怪しいわ」


「ふむ……」


 クレアは幼馴染という事もあり、かなりソルの事をわかっているようだ。どの程度までの事を語っていいか、バハムートは悩んだ。


「我とソルは特別な関係だ。特別な縁(えにし)で結ばれた関係」


 考えた末にバハムートは嘘ではないが、曖昧な表現をした。自身の素性に関してはまだ語るには早すぎると判断した。いずれは語らなければならない機会も来るかもしれないが。


「そうなの……それは前に聞いたわ。ソルは何をしていたの? この半年。なんだか前に会った時と様子が違っていたわ。何となく、雰囲気が違うもの。ただ山に籠って剣の修行をしていただけのように思えない。何かもっと、重大な事をしていたような、そんな気がするの」


 聡いな……とバハムートは思った。半ば確信に迫っている。いずれは真実を話す事も、もしかしたらそう遠い未来ではないバハムートはそう思った。


 ところで。その噂をしていたソルは今、どこで何をしているのやら。


「うむ……何をやっているのだ。あの主人(マスター)は……」


 バハムートは嘆いた。ソルとバハムートは使い魔として特別な契約をしている。故にバハムートはソルの居所を瞬時に把握する事ができた。


 バハムートはソルに意識を集中する。すると今どこにいるかが瞬時にわかってしまった。ソルはどうやら大浴場付近にはいなかった。外で剣を振るっていたのだ。無心で剣を振るっていた。今、女性達が入浴している事など頭の中にないようだった。ただひたすらに鍛錬を積み重ねている。



(な……何をやっているのだ、主人(マスター)は。何が『わかっている』だ。何もわかっていなかっただろうに)


 ソルにそんな事わかるわけがなかった。バハムートは社会常識が欠如しているが、ソルはソルで特定分野に異様な程察しが悪い節があった。恋情や色情なんかが特にそうだ。


(全く腑抜けめ……)


 通常『転移魔法(テレポーテーション)』は近くにいる相手しか転移させる事はできない。しかし、今のソルとバハムートは主人(マスター)と使い魔の関係である。特別な縁(えにし)により繋がっているのだ。


 故に普通はできない『転移魔法(テレポーテーション)』で相手を転移させて、呼び寄せる事もできたのである。


(何をやっている! 襲ってくるどろか! 覗きすらする度胸もないのか!)


 ――というよりも、恐らくは興味がないのであろう。そういう事に。


 腹が立ったバハムートは考えなしに『転移魔法(テレポーテーション)』でソルを呼びつける。


「『転移魔法(テレポーテーション)』」


「う、うわっ!」


 魔力により異空間が繋がり、ソルは一瞬で大浴場に転移された。


 ドポーン! と服のまま浴槽に落ちる。


「な、なんだっ! バハムート! うわっ!」


 バハムートのあられもない恰好にソルは赤面する。


「主人(マスター)よ。淑女(レディ)の入浴を覗きすらしないとは、雄としていかがなものなのか? 我の体(ボディ)にはそれほどの魅力もないのか?」


「な、何を言っているんだよ! ……って、クレア!」


 ソルは声を張り上げる。大浴場にはバハムートだけでなく、クレアもいたのだ。浴場なので当然のように、一糸まとわぬあられもない姿をしている。


「な、なんで、ソルが急に」


 転移魔法(テレポーテーション)の事など知らないクレアはただただ驚いていた。


「こ、こういう時どうすればいいんだろう……お、女の子なら、悲鳴のひとつくらい上げるべきなのかしら」


 思っていたよりもクレアは冷静だった。悲鳴はまずいだろ。王女の入浴を男が覗いたとなればいくら交友のある相手だとしても王城で問題になりかねない。


「ま、待て……落ち着くんだ。クレア。小さい頃いつも一緒に入ってただろ」


「入ってないわよ! そんな小さい頃だって!」


 クレアは叫ぶ。


「そ、そうだったな……」


「……それより、主人(マスター)よ。我の体はどうだ! 目を反らすではない! もっとよく見るがよい!」


「ど、どうって……」


「我の体は魅力的であろう? 思わずむしゃぶりつきたくなるほど。そなたが劣情を抱え、鬱憤を我慢できなくなったら遠慮なく我を求めてきてもよいのだぞ。クックック」


 とにかく、これ以上ここにいるのはまずかった。


「何なら、今すぐに我を求めてきてもよいのだぞ? それに応える心構えは既に我にあるのだからな……」


 バハムートは情熱的な視線を注いでくる。


「わ、悪い。俺は出てくよ」


 ソルは一目散に退散する。


「ふむ……意気地のない男……というよりはただの唐変木か」


「な、なんだったのよ、今のは一体」

 

 クレアは嘆いていた。


 こうして慌ただしい大浴場での出来事は過ぎ去っていったのである。







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