解放

帆尊歩

第1話 清彦 1


「佐伯さん、佐伯さん、どうしたんですか、また考え事ですか」

また佐伯さんは廊下の隅にうずくまっていた。初めて佐伯さんが廊下の隅にうずくまっていたのを見たとき、佐伯さんの具合が悪くなったのかと思った。

ところがあわてて走り寄った私に、何事ですかという視線をかえしてきた。

結果、佐伯さんは具合が悪いのではなく、廊下の隅にうずくまって、考え事をしていただけだった。驚かされた私は、心配した分だけ、怒りを覚えたが、それをおさえてやんわり注意をした。でもその後も佐伯さんの廊下の隅うずくまりはかわらず、おかげで気にはならなくなったが、ほっておくわけにもいかず、どうしたものかと清彦に相談したけれど、佐伯さんは、お父様の紹介で入院した人なので、特に問題がなければ好きにさせろと言われた。

院長の清彦にそう言われれば、新米医師の私は従うしかない。


佐伯さんは廊下の隅にうずくまっていないときは窓の外をぼんやり眺めている。

何を思い、何を見ているのか。きっと窓の外の風景や青い空ではなく、その向こうの何かを見ているのだろう。

「それでは後で回診に行きますから、それまでには病室に戻っていてくださいね」

と言ってもこの人は全然反応しない。初めのうちは聞こえなかったのかと思ったけれど、結局この人はそういうことが全部聞こえていて、それに対して答えるのがめんどくさいだけだとやっと最近わかるようになってきた。


医局というにはあまりにささやかな部屋に戻ると、清彦がモニターのレントゲン画像に目を近づけるようにして見入っている。

彼が私の婚約者にして、この病院の医院長の友田清彦、すっきしたあごの線に銀縁メガネが似合っている。そこそこ格好の良い青年医師という感じ、おまけに小さいながらも三十床の病院の院長だ

「幸」

清彦はモニターを見つめたまま私に話しかけてくる。

婚約者とはいえ、この病院の中では院長と新米医師だが、ほかに誰もいないと、私たちは名前で呼び合っている。

「なに」

「また佐伯さんと話をしていただろう」

「ええ、だってまた廊下に座り込んでいるんだもの」

「ほっとけばいいんだよ」とこっちを向いたかと思うとイライラしながら言う。

「でもお父様の紹介だし」

「まったく親父もしょうがないよな」と清彦はあきれたように言う。でもお父様の前に出ると何も言えなくなるんだ。

有力な政治家であるところの彼の父親は有権者の前では、とてもいいおじさんという感じだけれども実際は結構怖い人で、裏で何をしているかわからない。

でなければ小さいとはいいながらも、息子に病院を持たせることなんか出来るわけがない。そんな事情で清彦はお父様に頭が上がらない。そして私にとっても別の意味で頭が上がらない。

「でもあの人、そんなに悪い人じゃないわ、清彦さんは毛嫌いしているけれど、ちゃんと話してみると。結構普通の人よ。教養も高いし」

「そんなこと言っているんじゃない」

やっと清彦はモニターから私の方へ顔を向けた。イライラ感が伝わってくる。

「じゃあ、どんなこと」と私は迂闊にも口答えをしてしまった。

「だから」と清彦のイライラが増大してゆくのが分かったが、清彦が私のことを愛していることは事実なので、私は、つい言ってはならないことを言ってしまった。

「わかった。焼いているんだ。私が他の男の人と仲良くしていたから」

「そんなんじゃない」その言葉はそんなに大きくはなかったんだけれど、イライラ感を超えてヒステックになっていた。ここで私は一連のことを後悔した。こういう時は謝っておいた方がいい。

「ごめんなさい」いつのまにか私は清彦の扱いに慣れてきていた。

「いいよ、そんなこと」

急に清彦の声が猫なで声になる。そして私の方によってくると私を後ろから抱きしめる。

清彦は私の肩にあごを乗せた。私の頬と清彦の頬が触れる。頬から伝わる暖かさは決して嫌なものではなかった。そのまま唇を奪われて胸を触ってくる。それも決して嫌ではなかったけれどここは病院だ。

「いやだ、やめて清彦さん」

「なぜ」

「だってここは病院の中だし」

「僕の病院だ」

「でも。いや」と言って私は清彦を突き放した。それで清彦が切れたのが分かった。私はこの人を完全に怒らせてしまったようだ。こうなったら手がつけられない。清彦は秒単位で怒ったり、優しくなったりする。

「誰のおかげでここにいられると思っているんだ。誰のおかげで医者になれたと思っているんだ」

清彦は私の胸ぐらをつかむと低く、かすれたで言った。やはり本気で怒ったようだった。

「言ってみいろ」しかたなく私はおびえたような目で清彦を見つめる。

「あなたと、お父様のおかげです」

「そうだ、いいか忘れるな」清彦は吐き捨てるように言うと、乱暴にドアーをしめて部屋を出て行ってしまった。

恩着せがましいというレベルではない、なにかがあるたびに、この言葉を言わされる。

それが恩を忘れさせないためなのか、

どちらが上なのか常にはっきりさせておきたいのか、

私を力ずくで抑えつけたいのか、

わたしが逃げないようにしておきたいのか、

よくはわからない。そしてそれは一つの儀式になり。認めたくはないけれど、気にならなくなってもいた。事実私が医者になれたのは清彦とその父親。私もお父様と呼んでいる人のおかげだ。


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