青と白

三位ザハカ

第1話


冴え冴えとした空気が夜のとばりを満たしていた。

冬季ほどの痛々しさはないが、生き物の動きを鈍らせるには十分な温度。

黒々とはるか下まで続く山が静かにさざめいている。

高い木に覆われたその下に、獣の影だけではない、なにか得体の知れぬものが潜んでいるのだ。それは時に地面を這いずるような、そしてまれに人に至極似た声であざ笑っているかのような音を立てている。

山裾から連々と頂上まで続くかと思われた木々がぷつんと途切れて、巨大な岩が姿を見せる。平らな広い岩場の先にはゴツゴツとした大岩が急な傾斜を作っており、さらにそこを越えたところに広場がある。その先を行けば、地面から盛り上がるように岩屋が幾つか積み上げられ、さらにその向こうには苔に覆われた巨大な洞窟が黒い口を広げている。

そして洞窟の手前にあるとりわけ大きな―――といっても頂上は洞窟の高さの半分ほどだが―――窟屋のてっぺんに、まるっきり気配を殺して立つ者があった。

大型の草食動物よりもさらにゆっくりとした呼吸。夜気に紛れる白い息は霞みそうなほどごくわずかで、山を見下ろしている感情の見えない目と相まって、その肌の下に流れる血はさぞ冷たかろうと思わせるようだった。


薄皮を隔てて隙を伺うように肌の表面を滑る夜気は魔物の舌だ。

やがてその影はゆっくりと腕を立てる。それは静かに闇を吸い込んで、そして息を詰めた。

キリキリと引き絞った弓の先には、月の光を吸って薄く光る石がはめられている。狙いを定め、右手から矢尻が離れた。


ド、とそれは六十歩先の岩場と木の境界、生い茂る森の足先に突き刺さる。その一瞬、そこが月の光を一身に浴びたような清い光を放った。

呼応するかのように、そこを爆心地にしてカッ!とさらに大きく気圧が弾けた。一帯の透明な風がぐらりと揺らぐ。

張りつめていた空気がその鉄仮面を崩す。静寂を破って、矢の突き刺さった周辺から吹き出すように甲高い音が弾ける。無数の虫が一気にざわめくような『声』。しかし岩場に落とされた影は虫とはかけ離れていた。巨大な海月くらげの脚か、長虫の集合体のような輪郭が突如光に晒されて暴れる。しかしそれはまばたきを幾つかするほどのほんのつかの間の出来事であった。

ひと時の後に、確かにどすん、とどこかに落ち込むような音がしてそれは突然姿を消したのだ。



すう、と静かに、しかし今度は確かに息を吐いて岩のてっぺんに立った人影が弓手を下げる。目の裏にちかちかと銀の虫光が舞っている。今しがた射かけたものの飛沫と思われた。

やがて周囲に温度が戻ってくる―――まだ夏の終わりであることをふと思い出したかのように。凍てつくような空気感は身を潜め、山奥の涼しくも爽やかな息吹へと変わる。


その違いをわずかに露出した手の甲に感じて、その弓士は強張った肩の力を少しだけ抜いた。

目を凝らして見ても、境目は平常を取り戻したようだった。同じくそれを見て取った見張りの一人が窟屋の上まで身軽にのぼってくる。彼女は洞窟の入り口の側で事の成り行きを見守っていたのだった。


夜湧よわきですね」


眠りについている窟屋の仲間を慮ってか、彼女は平素凛と通る声を潜めて声を掛けてくる。弓士と同じく武器を持った狩人のたたずまい。


「あのかたちの夜湧きはむしろ当てないようにするのが難しい」


影は低い声でそう応えた。もう長い事発声していなかったように声が掠れかけている。きりりと眦の切れ上がった見張りの女が側で頷く。そして振り返って洞窟の中を見る。ふたりの眼下に広がる岩場の道の時々には、松明が設けられて近くで見張りをする仲間の顔をぼんやりと照らしていた。二人は再び山へと顔の向きを戻す。

陣地への闖入が未然に防がれた事を確信してから、見張りの女は弓士との会話を続けた。 


「最近、へんに多いですね。人の出入りが多いのが気にくわないんでしょうか」

「それはあるかもしれないな」

「我々は下の者達とは何の関わりもないというのに―――」

「明確な区切りはない、かれらにとっては。むしろ違いなど分からない者がほとんどだ……真の意図など推しはかることなどできないが」


女を遮るようにして言葉を重ねて、影はその重たそうな瞼を顰め、静かに呟いた。


「さてどうしたものか」


泰然と佇む金に重なっていた雲が動き出す。

強くなった月の逆光が、山を見下ろす夜の狩人達の顔を覆い隠した。












―――――

人の手付かずの山間の木々が、晴れ晴れと空高くその青に届くようにほうぼうに手足を伸ばしている。ひとつとして異ならない木の葉はなく、無造作に生い茂っているように見えるその向きにさえ意味がある。光を透かして見える葉脈がしゃらしゃらと風に揺れていた。


冴え渡った空の青と雲の白の間をイヌワシが一羽、悠々と飛んでいる。秋の始めの、すっと通るような清々しい空気。


その山のふもとから平地を進んだ所に、集落がある。周りには木製の柵と堀が巡らされている。それはかつては主に対人用として設けらていたものだが、ここ十数年のあいだ他国やムラ同士での争いごとが起こっていない。そのため今では山から降りてくる獣達の足をくじいたり罠にかけたりする用途としてしか使われていない。


集落の外、新しく柵の打ち込まれた限られた新たな開拓地に人影がふたつ。そこでは平地を生かして、大陸から伝わった稲作が行われているのだった。

昼下がりの太陽が数歩離れた二人の影を大地に落とす。両人とも形は若干違うものの、似たような農耕をするムラ特有のあっさりとした貫頭衣を纏っている。

一人は女で、腰を屈めて穂の様子を調べている。もう一人は男で、手持ち無沙汰にその後姿を眺めている。


「聞いたか?あのウワサ」


垂れた稲穂を手のひらに乗せて丁寧に視査する、働き盛りの女の後姿を目で追いながら男はそう切り出した。

その角ばった顎から口周りにかけて無精ひげがチラチラと伸びている。若いとは言え成人した男子であれば髭を長く伸ばすのがこの地域の常だったが、伝統やしきたりというものはてんで恰好が悪いと決めかかっている男はあえて逆行を選んでいた。

こっそりと手に入れた鉄製の切れ味の良い刃物で、数日おきに髭を切るのはいささか面倒だ。だが、ムラ長の父親が渋い顔をするのが男にとってはむしろ小気味良いとさえ思えた。

とうに過ぎた反抗期は閉じるのを忘れたかのように、そのまま男の性格に落ち着いてしまったのである。昼からこっそりと倉庫の酒を少々盗み呑んでいたところを見とがめられ、野にかりだされて今に至る。

そう量は多くなかったが、目はいつもよりもとろんとして据わっていた。女が返事をするのを待ってその姿をじとりと眺める。


「あんたが共同作業怠けてばかりって噂?」


やがてむくりと顔を上げて女が言った。その睨んだ目の下にほくろがある事に、男は今さらながら気が付いた。祭祀さいしやムラの政治を手伝うわけでもないならば、せめて少しはムラで最も大事な作業のひとつ、稲作を学べと言われて押し付けられた作業だった。しかし当然普段携わっていないため、やる気のなさもあいまってとんと何をすればいいのか分からない。

そんな男と違って女の方は手慣れた様子で穂の確認を行う。収穫期が近いのだ。今年は少し時期が早まりそうだと、直前にムラの方で仲間内で話したばかりだった。

山に近付きすぎないほどに少しずつ耕作地を広げているのだ。元々小さな集落である。それぞれの土地に割く人員も多くはない。


「ほとんど一人で作業してるようなもんだね」


そう女は不満をこぼしつつも、手を動かしている。男は、女の皮肉を気にせずに続ける。


「ちげえよ、東から中央の役人が来てるって話だ」

「へえ、温泉にでも浸かりに来たの」


女は特に興味がなさそうに投げやりに言った。そのはっきりとした性格はムラでもよく知られている。仕事が早いため、耕作作業では主に人員と刈り取りの管理を担っているのだ。稲作は基本的に共同作業である。こうしてたった二人で――女に言わせればほとんど一人で――ムラの外の耕作地の確認を行っているのはそういう背景があった。


「いいや? 速津はやつの国は田舎だからな。……ここだけの話、都でも悪名高い速津のツチグモの討伐に来たって話だぜ」

「『ツチグモ』?そんなの聞いたことがない。それに都のお偉いさんにこの国の事情がなんの関係がある。どうせ何か得をしたいから来るに決まってるでしょ」

「聞いた事ないって、本当かぁ?昔から言われてたじゃねえか、山には定められた日以外立ち入るな、さもなくば―――」


女がはっとしたように振り返る。一つに結った髪が背中にぱさりとかかった。膝の上まで稲穂が全て覆われている。田に降りているために男よりも目線が低い。その後ろには、人けのない森がある。手前の木は伐採された株が残るばかりだ。

女は田のふちに膝を曲げて座る男を見上げるように睨みながら忠告した。


「山神さまの事をそんな風に言うんじゃない」

「何でさ。生まれてこのかた見た事ないだろ?俺もない。なんなら親父達もないぜ。もう名前も覚えてねえや」

鼠窟屋ねずみのいわやの青白様よ。狩りに行った人の中にはその姿を見たって人がいる。あんたなんか狩りに参加した事もないくせに」

「あるよ」


とっさにそう言ったものの、山へは秋の収穫祭に昔一度行ったきりだった。 

普段ムラでは山で乱獲をしてはならないとされていた。そうせずとも時々ムラの周囲の罠では山から降りてきた猪や鹿がかかる。わざわざ狩りに行かずとも海も近く、何より穀物の生産は今のところ十分だ。そういった事情もあいまって、山を不要に穢してはいけないとムラではよく聞かされていた。

何より山の中には、大昔から住んでいる山神がいて、うかつに入れば喰い殺されるぞ―――というのがムラに伝わる伝承だった。

姿を見た者の話によればそれは足が十本もある巨大な獣で、人語を解し山行く者に問答を投げかけるとか、あるいは問答もなしに気まぐれに旅人を取って食うのだと言われている。時折人の姿を取って現れるだとかいう説もあるが、実際その正体は定かではない。


「どっちでもいいんだ、ツチグモでもカミサマでもな。いるかどうかも分かんねえカミサマなんて退屈だろ。それより今の都の王は、すげえらしいぞ。山神なんて目じゃねえ。なんでも―――神殺しの神、だってな」

「ちょっと!」


目を吊り上げんばかりにして、女が田から上がってくる。


「あんたいい加減にちょっと黙りな、これ以上喋れば山神さまの目に留まるよ!」

「へぇ?それでどうなるってんだよ」

今度は男が見上げるようにして挑発した。


「あんたも知ってるでしょう、時々そうやって山に消えて行く人だっているんだ」


それは事実だった。数年に一度ムラでは山へ行ったきり戻ってこない人間がいた。近隣のムラでも同様の事があったと伝え聞いた事がある。

しかしその後全く様相を変えて違う場所で見たという話を聞いたことがある。男には、どうせムラで居づらくなったために上手く誤魔化して出て行ったのだろうとしか思えなかった。


「そうこわがるなよ。都人だろうと、山神だろうと誰が来ようと俺が守ってやるよ」


そう調子よく言って男が懐の小袋から取り出したのは、髭を切る際に使う小刀だった。

あまりにも女が引き下がらないので、ちょっとした思い付きだった。

その効果はてきめんで、女は信じられないというように目を瞠った。髭切りに石刃よりも切れ味の良い刃物が欲しかっただけだと言うつもりだったが、その必要もないか、と思い直す。代わりに肩を竦めて自慢げに続けた。


「余った鉄刃から作ったんだよ。少し足りなくても誰も気づかねえ」

「それは禁止されてるでしょ!」


言いながらも女が若干後ずさったのを男は見逃さなかった。蛇のように目を細めて、言う。


「お前、そうして怖がってる時の方が女らしくていいぜ……」

「あんたに好いてもらうために女に生まれたんじゃないよ、それに」


一呼吸置いて彼女は言葉を発した。


「あんたがこわいわけじゃない」


男にはその態度が気にくわなかった。有利な立場にいるのは自分のはずなのに、そう感じられない事への不満。同時に、なぜかざわつくような興奮を覚えている。

そういえば。と思い当たる。

ひと時の情欲を発散させるために、様々な相手が集まる近所の催事―――歌垣に参加したのはもう二週間も前の話だ。しかしわざわざ近くにこうして妙齢の相手がいるというのに、宴で相手を探すと言うのも馬鹿らしくなっていたのも確かだった。ムラ長の息子なのだからもっともてたっていいのに、というのが男の意見だった。


「そうつれない事をいうなよ。ええ、いいだろう?」


脅しではない、と男は心の中で自分に言い聞かせた。口説いているだけだ。

明らかに警戒した様子の女がさらにじわりとあとずさりして、さっと足元の水が汲まれた首の細い容器を手に取る。ボタタッと音を立てて残っていた水がこぼれ、地面を叩いた。

武器のように構えられたそれを見て男は一瞬ひるむ。その隙を見て、さっと女が身を翻した。ムラの方向に駆けていくつもりだ。そうはさせまいと男はその腕をしっかと掴んで引き戻す。ちょっと意外なほどに軽い身体が近付く。

やはりはったりだった。そうだ、自分がその気になれば女は敵わないのだ。優越感のままもがこうとする女を腕の中におさめようとした。

すると、ジャッ!と土が擦れる音を立てて、女が男の足を思いっきり踏んずけた。足の甲と指の露出した場所に激痛が走る。 


「この…」


言いながらもぐらりと男の体勢が崩れた。二人そろって足がもつれ、男は女の胸倉を掴んだまま、二人一緒に田に倒れ込む。パン!と音を立てて土器の破裂音が鳴った。女を下にして倒れ込んだのと、稲が緩衝の役割を果たしたのでさほど痛みはなかった。 


「てめぇ……」


一気に上がった呼吸を荒くつきながら、ようやく大人しくなった彼女を見下ろし罵倒しようとする。しかしその言葉を終える前に、男は目を見開いた。


「う、ぅわっっ!!!」


上ずった声を上げたのは男の方だった。女が地面に背をつけ、上体を少し起こした状態で呆然と自らの腹部を見ている。

そこにあってはならない異物が、麻の服を貫いて、薄い腹に突き立っていた。周囲にじわりと鮮烈な赤が滲み、広がっていく。

男は何も考えずに飛び出したその刃物の握りに手を掛けた。その意図を悟って、青褪めた女が静止をかけようと声を上げた。


「待っ……」







―――――――


それからの事を男はあまり記憶していない。


ちくしょう、ちくしょう、ちくしょう……


頭の中は誰へとも知れない雑言が溢れている。こんなはずではなかった。


「殺すつもりはなかったんだ。俺のせいじゃない、勝手にあの女が暴れたんだ……」


自分に言い聞かせるように呟きながら男は山道を駆けあがっている。背中越しに村人の罵り声がまだ聴こえてくる。肩越しに振り返って、男は生い茂る草木の向こうに数人の姿を確認した。

まだ。まだ足を止めるわけにはいかない。

ガサガサと草を踏み慣らし、斜面を走る。草木が男の侵入を拒むように衣布やさらけ出した皮膚の表面を打った。右手に握った小刀の存在を今さらのように確認する。嫌な汗でべたついたそれを、間違っても落とさないようにと走りながら左手に持ち替えて、右手を腹の前の衣で拭った。

手触りの悪い土が手につく。


どうする、どうする。ぐるぐると脳がそればかりを問うてくる。

女が偶然倒れこんだ所に刺さっただけだった。そうだ。それならば、村人のほとぼりの冷めるまで身を隠して、戻ってそう説明すればいい。こんな扱いを受けるいわれはない。大丈夫だ、村頭の唯一の男子。受け入れられないわけがない。そもそもこうして後を追われた事さえ父の知らぬところで行われているのだ。

同じような文言が何度も頭を駆け巡っては同じ結論に落ち着く。

追いやられて山の中に逃げ込んだ、おぼろげな数時間前の事が今さらのように男の脳裏に蘇った。










稲が重たそうにその首を項垂れている。

返り血が、その黄金の穂を赤く染める。


ばしゃばしゃという水の音だけが周囲に響く。 男が田に水を撒き、血を地面に降ろして薄めているのだ。ひしゃげた穂たちを束にして向きを変える。どうしたってどこかいびつだったが、それを気にしている暇はなかった。

どうやってその場を切り抜けるか、それだけが疑問として白い頭に問われていた。


ドン、ドン、と内側から叩きつけるような心臓の鼓動。気が付けば鍬を柔らかな地面に叩きつけていた。今までにないほど熱心に男は土を耕す。最近少し雨が降った事が幸いしてか、木に覆われて暗地になった土は柔らかかった。

もはや厄介な物体としか思えないそれを抱えて、一気に穴に投げ入れる。先ほど触れた時とは違って随分と重く感じるその身体。視界から早く消してしまえとばかりに再び土をその上にかぶせていく。

ほとんど土を戻したあたりではっとして、着ていた貫頭衣を脱いで同じく地面に捨ておくと上に土をかぶせる。一区切りついたところで、持ってきていた水で血と土で汚れた肌の表面を洗い落す。

近くの倉庫に今日着ていたのと同じ麻の衣があったのは幸運だった。下って行って汚れた衣を脱いで着替えれば、身がまっさらに清くなった気がした。


男は振り返って、静まった山を見上げた。

山に少し入った場所。細身の樹木や未だに白っぽい緑色の果穂を垂らしたクマシデが周囲を囲んでいる。地面は少し盛り上がっているが大丈夫だろう。

やはり山に入るなというのは迷信だったな、と思いながら男は山から目を逸らす。

朝から外に出ていたから、まだ昼でしかない。全身をできる範囲でくまなく確認して、ふうと息をつくと駆け出した。しかしあまり遅く行っても怪しまれる。男はぐっと背を伸ばして、集落の方角へ駆け出した。


「聞いてくれ、誰か」



それからは、繰り返しだった。女が突然瞳の色を変えて、山に呼ばれていると言い出したこと。引き留めても聞かずに、ふらふらと入ってはいけない山中へと足を踏み入れてあっという間に姿が見えなくなったこと。冗談かと思って真剣に留めなかったが待てども待てども帰らず、こうして報せに来たこと。

何度も言うたびに本当の事のように思えてくる。自然と口調もそれらしく、顔つきも途方にくれたものへと変わる。何より数人の村人が、山に呼ばれたと言った瞬間にさっと顔色を変えて「山神さまに呼ばれたか」と口々に言い出した時から男自身にもそれが迫真を帯びて聴こえだしたのだ。

実際にあった事を織り交ぜた嘘は最も見破られにくい、ということを男はその時知ったのだった。


やがてムラの人々は数人から十数になるほどに集まってくる。その中で、ついにきたか、と訳知り顔の誰かが呟いた。「ここ数年は聞いていなかったからなあ」「まさかあの娘が……」と顔を見合わせて、困惑とどこか諦念を浮かべて言い合う者さえいる。


「探しに行くか」

「山に呼ばれた者を?」


もはや男そっちのけで話し合い始める数人の村人の姿を見ながら、男は思った以上に算段が上手くいった事に浮き立ちそうになる。当然そうするわけにも行かないので、神妙な黙っていた。むしろ村人に任せておけば勝手に事情を組み立ててくれそうな印象さえあった。

だが、そんな予定調和の空気はすぐにかき消された。


「関係ないだろ、そんなの!」


突然幼い子どもの声がムラの隅でとどろいた。見れば、早くに狩った稲を天日と風で乾燥させるための稲架はさと住み家の間で、男の胸の位置ぐらいの少年が裸足で地団太を踏みながら村人に叫んでいた。


「姉ちゃん探しに行くんだよ!山に呼ばれた、とか、知らねえよ!」


その少年は世も末であったとしてもそう喚くだろうという調子だった。

よくよく見ればぐっと引き絞った口の端がふるえて、今にも涙腺が決壊しそうなのをこらえている。何にせよ大人の事情は子どもには関係ない。

男はムラの入り口から歯を噛み締めながら気付かれないように少年をじとりと睨み見た。

女は未婚だった。家族といえば、血の繋がらない少年を引き取って暮らしていると聞いたことがある。十年前に流行り病でバタバタと村人が死んでいった時、女自身も両親を失くした境遇で、引き取り手のなかった幼子と一緒に育てられたのだという。それからは、男っけもなく姉弟のように暮らしていた。

確かに同情のできる話ではあるが、今の男としては少年の存在は邪魔でしかない。しかし村人は少年の勢いにせっつかれたように仕方ない、というようにぞろぞろと山と外の稲畑の方向に戻りだす。

クソガキめ、と心の中で毒づきながらも男は怪しまれないようにその先に立ってむしろ積極的に誘導した。


「いきなり立ち上がってさ、こう、木の間を通って、上の方に―――」


そう言いながら、女を埋めた方角を避けて山の中に入っていく。このまま奥まで行けば、いずれ諦めるしかない。どうしたって見つからないのだから。ドクドクと鼓動は相変わらず高鳴っているが、山奥に踏み込むことを躊躇い始めた村人の様子に男は確かな手ごたえを感じ始めていた。

そうして、大きく土を踏みしめた男の背後を、幼い声が追った。


「なあ!」


村人達と男が振り返る。

少年は姉に似ないそのしもぶくれの顔を泣きそうに、しかしそれを上回る怒りで歪めながら、田の中から叫んでいた。黄金の稲をかき分けた幼い腕。

穂を押し広げて、男達が何かを見つける。

地面に残った赤黒い染みが、男の不義を申し立てるかのようにその存在を主張していた。


「山に呼ばれたんなら、なんで―――」


年端のいかない子どもにでも、血痕の不吉さは分かる。それを拒絶したくて、少年はその矛先をあるべき場所へと向けた。


「姉ちゃん、本当はどこ行ったんだよ!!」


少年は男に向かって絶叫した。 その糾弾の先には真実しかなく、そして真実は血と泥に塗れている。


「あ、」


そして男が何か言おうとして出てきた言葉は、吃音にしかならなかった。

それからはもうずっと今の今まで、がむしゃらに逃げていた。数人の男達にどういうことだと近寄られて、彼等から逃げるように山奥に駆け入った。その様子を見た男達は激高して、口々に男を罵りながら後を追った。


彼らの誤算は、男の俊足だ。昔から足だけは速いと言われてた自慢の脚。村の少女達の中にはそれで男に懸想する者もいた―――それもいい年をして自堕落な性格が露呈するにつれていつしかそんな噂も少なくなってしまったが。


何度も木の根につまずきそうになりながら男は巨木の間を駆け抜け、そうしてしばらく経った。やがて、後ろを振り返れば追手の姿は消えていた。

―――撒いたのだろうか?慎重に男は目を凝らして茂みの中を用心深く見やる。しかし返ってきたのは山の静寂だった。チチ、と安息を告げるような小鳥の囀りさえ聞こえている。

肩の下まで伸びた髪が首に張り付いてうっとうしい。うなじの下に手を入れれば、さっと汗を冷やす爽やかな風が通った。ああ、これは切り抜けたのだ、と男はようやく一息ついた。



「―――おい」


ボン、と心臓が耳に一気に距離を詰めたように飛び跳ねて、男は声のした方をサッと振り返った。


「お、あぁっっ!!!??」


瞬時に目に飛び込んできたものが理解できず、男は野太い悲鳴を上げて後ろに飛び去った。右手からぽろりと握っていた小刀が落ちる。

山の常盤緑が縦にずるりと白く切り裂かれた―――それは生物の死を冠する乾いた白磁色。

男の背がどん、と後ろ手の木にぶつかって「うっ」と短く呻く。素早く飛び去りたかったのに、走り続けて力の抜けた足元はよろけるだけだった。空になった両手を背後に彷徨わせるようにして、その得体のしれぬものから遠ざかるようによろめくように後退する。

ようやく『それ』から直線距離で大股五歩ほど距離を取っておいて、男はその全体像を把握した。縦に長く見えたそれは巨大な獣の骨だ。

無味乾燥な、しかしそれにより威圧感の強い鹿の頭蓋骨。ずるりと伸びて何度も枝分かれした土器色の角が生前の悠然な姿を忍ばせるようだった。

それを仮面として被った人型が、まるで山の亡霊のようにぼんやりと男の前に立っているのだった。薄い萌黄もえぎ色の衣。ムラで見る貫頭衣とは違って、むしろ父親が催事に着ていくような上質の繊維に思われた。頭のてっぺんから膝下までをその外布で覆っていて、その下から突き出す脚部のおかげでようやく人型と認識できる。

ソレは濃い鶯茶の肌の見えない上履きを履いていた。男のものとは違う、険しい道を行くのに適した設計だ。マツリの際にムラを訪れた隣村の祭祀のようだと男は遠い記憶を探った。

相変わらずその人型は動くことなく、ぼーっと男に向き合っている。男はごくりと唾を飲み込んで脚に力を入れた。

周辺のムラとは交易以上にそう付き合うことはない。山が隔てているために、向山の人間の文化などはもってのほか知らない。古来から『海は繋ぎ、山は隔てる』と言われていた―――隔たれた山向かいの集落の文化がまるっきり違うことなどはざらである。そして男のような一般の村人はその風変りに思える文化を旅商人や噂を通して聞くのであった。

それ故古来より、山脈を一つ隔てた両側で文化、さらには言語や民族にいたるまで異なっていることは当然珍しいことではなかった。


白い影がようやく動き出す。その異質な姿で足を前に出して地面の上の何かを拾い上げた。その手元を見れば、男の取り落とした刃を持っているのだった。


「あ……」


無意識に声が漏れる。しまった、と冷や汗を額の髪の生え際に感じる。


「狩りって恰好じゃないな。迷ったか」


さらに正面向こうから声が聞こえて男は意識をそちらに向けた。

木の一部開けた岩の突き出た足場に佇むもう一人の影を視界に収めて、男はどこかほっとした―――少なくとも新たな人影はヒトとして確実に認識できる。普段、例えばムラで見る事があればむしろ異質として見えるのだろう。だが獣の頭蓋骨を被った人間と比べればよっぽどましだった。

岩の上に立つその人影は狩人に見えた。背に竹で編んだ大きな籠を背負っている。よく見ればシギと見られる獲物が籠の淵から覗いている。弓を手にしているが、矢の残基はないようだった。その事を確認して男は少し安心した。


それにしても、と男は目の前の仮面からも注意をそらさずに視線の先にある狩人を眺めた。眉上の額が涼しそうな枯茶色の短い髪。首の後ろから肩にかけてアカキツの毛皮か、赤みを帯びたふさふさとした毛皮を垂らしている。

全体的に茶色の、それこそ秋の山であれば背景に溶け込んでしまいそうな。 

その上顔には染料を塗っている。どこか異国風の出で立ちだが、少なくとも顔全体が見える分だいぶ人間味があった。

少し離れているため表情は察しづらいが、敵意を向けているわけではなさそうだ。しかし、いつ状況が変わるかは分からない。



山向こうへはかなりの距離があるので、よほどの事がなければ行き来はしない。特に年配の村人は、山を神聖視していて、この山の神は人間が無闇に足を踏み入れると怒るのだと最低限素地入山しようとはしなかった。

男の住むムラでは山にほとんど立ち入らない分、山に関する情報は少ない。だが、山に住む「人」はいないと聞いていた。

いるのは夜間跋扈する怪の類だとか、奇怪な形をした獣であるとかそういう話ばかりだ。しかしそれも結局はムラから脱走者を出さないための怪奇伝説の類だと男は舐めてかかっていた。別のムラではそう厳しくもないのだと聞いた事があったからだ。

しかし流石に夜間の夜を行くのは危険だと理解できるので、ふたりが何者であろうと出来るだけ早く山を越えたいというのが正直なところだった。


「この先は山を越えるだけだぞ。そのつもりでなければ引き返すがいい」


そう言われて、頭に浮かんだのはやはり山向こうから来た狩人だろうか、という事だった。

男に引き返せと言った狩人の年齢は不明だが、まだ青年のように見えた。混乱と焦燥と、様々な疑問が渦巻いて反応がにぶくなる。

手ぶらで山向こうに行こうとしている姿はどう見ても脱走者だ。男はようやく、はっとしてかれの言葉に返事をする。


「あ、ああ……そうだな……」


言いながら男は後ずさった。戻るふりをして二人がどこかに行ったら再び山越えをするつもりだった。だが、そんな男を二人は見透かすように一挙手一投足眺めている―――男がその場だけでなく、帰路ににつくまでずっと見ているような、そんな気さえする。

いやな汗がじわり湧きだす。

留まれば怪しまれる。しかし今引き返せば追手に見つかるだろう。


上の空でどうするか考えながらも、男もまたその二人から目を離せなかった。狩人は分かるが、この異質な格好をした人間は祈祷師か。何か分かりそうで辿り着けないようなもどかしさ。


ふと、その仮面を被った相手が、男に向かって右手を出してきた。

その手の突き出した手の平には男の取り落とした小刀があった。返すということだろうか。そうであれば―――相手はよほど危機感がない。そう男は冷え行く頭で思った。 


冷静になってみれば、その膨らんだ衣からぬっと出た白い腕。その腕の細さと繊細さに、男は確信した。おそらく相手は子どもか、女―――いや、女だ。


このまま押し問答を続けても、二人はこの先を通そうとしないようなそんな気がした。だが一体何様のつもりで。ああ、二人の警戒が強まって諍いになる前に先手を打つのがいいだろう。

それはまるで神の託宣のように男の頭に降ってきた。そして男は後先考えずに、右手で彼女から刃物をひったくると、左手で相手の細腕を掴み力強く引き寄せた。


どちらにしろ行くところまで行くだけだ。むしろ何も考えない方が勢いがいい。

これからの道はそうやって力づくで切り開いてやるとさえ開き直っていた。そうすると体の芯から猛然と力が湧いてくるような気がしたのだ。


「動くな!」


かぐわしい香が鼻を刺激するほどに密着して、その首元に小刀を寄せて男は狩人に向かって叫んだ。


「近付けばコイツを―――」


そしてその言葉は最後まで続きはしなかった。感電したような痺れが、触れた肌から一瞬全身に広がる。思わず手を離せば痺れはうそのように消えてなくなった。しかし男を次に捉えたのは新たな痛み。

―――え?

言葉にも出来ずに男がその場で静止する。顔面に火の粉が散ったような痛みがカッと広がる。


「ぐあああっ!?」


叫びながら両手で顔を押さえようとして、気が付いた。銀色の針状のものが顔面に突き刺さっているのだ。視界のすぐそこに見えるだけでも何本も。右目から血が噴き出したのか視界が真っ赤にぼやける。

痛さよりも衝撃に、男はひーっと喉の奥で悲鳴を上げた。

男が全身を襲った痺れに動きを止めたその時。狩人がぎらりと獣の瞳が危険な光を帯び、きらめいた。男がはっと息を止めた時には、青年の右手が左の腰部から斜め上へと閃光のごとき速さで振り抜かれていた。


仮面の女が、ふわりと春先を告げる蝶のように男から一歩離れた。

そして男は、正面からさらに迫る脅威に気付いた。

女が離れたのを契機に、今しがた刃物を投げつけた青年が固い岩場を滑り落ちるように、目にもとまらぬ速さで距離を詰めてくる。動転した男はせめてもの慰めのように右手を目の前に掲げた。


「まっ……」


しかし慰めは慰めにしかならなかった―――見事に伸びた脚で、青年は男の顎を天高く蹴り抜いていた。男が何が起きたのか理解できないまま、まるで蹴鞠のような気楽さで、その身体はふわりと軽く宙を舞った。したたかに顎を打ち抜かれ、衝撃的な痛みと朦朧とした意識の中、男は二人を眼下に収め頭の片隅でひとつ理解した。それは確証のない確信。生命の危機に瀕して、脳が一気に活性化する。そうでしか辿り着けない答えがあった。


こいつは……こいつらが……鼠の窟屋の。










「……お前に割く時間などないというのに、待つと思ったか?」


男が地面に落下して数秒後、すらりと姿勢を戻して、青年が言った。運悪く地面から突き出た大石に打ち付けられた男に近寄り、屈んでその閉じた瞼を開いて様子を見る。


「だめだ。打ち所が悪かったらしい」


鹿の骨をかぶった女が背後から何かを言うのに、青年は無反応になった男の半目を見ながらそう言った。


―――まだ生きている!

身体がぴくりとも動かないのに、意識だけがあった。男はそのことに絶望しながらも、どうしようもなく、青年の手によって自分の身体が空中に持ち上げられるのを感じていた。


「いや偶然だ、強く蹴ったわけでもないのに」

「――――――」

「……あ?そうなのか」


二人はそのまま会話を続けている。女の方は仮面のせいか、それとも距離のせいなのかよく声が聞こえない。青年が男を左右に両肩に担ぎあげて、歩き出す。二つ足の規則的な足運びが麻袋のように重い身体を揺らす。二つ折りにされた身体。視界には青年の衣服の一部と地面が映り、時に垂れた男自身の髪が邪魔をした。


「念のため仲間がいないか後ろを気にしといてくれ」


青年が仮面の女に向かって言ったようだった。

男は痛覚がどこか狂ってしまったように、自分の身体を感じることが出来ない。意識だけが明確にあり、ただ終わりに向かっているのだろうという事だけが予感としてあった。

だれか助けてくれ、と男の精神だけが痛いほどの叫びを上げているのに、どこも動かすことが出来ない。肉体というおりに閉じ込められてどこにも行けはしない。

なぜ自分ばかりがこんな目に。


やがて短い旅の終わりは唐突に訪れた。青年が足を止める。

そこは―――男には知る由もなかったが―――山をさらに登ったところにある、山から突き出した険しい崖の上であった。人肌が青褪めたような芥子色の地面を踏みしめて、青年はひょいと荷物を下ろすように男の身体を手放した。


ふ、と身体が浮いて、ようやく地面以外の景色が視界に映る。しかしそれは男がまともに目に収める最後の情景だった。そして同時に、奇妙に抒情的な眺めであった。


イヌワシが甲高い叫び声を上げて、常緑木を揺らして悠久の青空へと飛び立つ。

それを背景に、二人が崖から深い谷間へと落ちていく男をはるか高みから見下ろしている。


なすすべもなく急降下しながら―――ああ、これは自分の物語ではなかったのだと、男は唐突に脳の片隅で理解した。

ムラや父親への小さな反逆と、そして罪と、それらを切り抜けて強かに生きていくのだと、一瞬でも思ったそれは驕りだった。この物語の器に相応しいのは。しいのは……。


崖のふちの石に片膝を立てて自らが投げ落とした男の行方を見守る、狩人姿の青年。逆風がかれの一筋結われた茶色の尾髪をもてあましている。

その左隣に立った女の、膝下まである外衣が風を含んで膨らんだ。焦点の分からない鹿頭の立派な角が背景の蒼さによく映える。

かれらこそが恒久の山守。ひとの心を持たない生き神。鼠窟屋の青と白。









―――夕方近くの風が北へと吹いている。裾の広がった山も、その下にある村々も、そして大海へと続く湾の間もいちどきに駆け抜けるように。

その山のてっぺん近く、大木の途切れた部分に大岩がぼこぼこと生えるようにうまく境目を作っている。岩の隙間からは山草と浅緋色の花弁をひらひらさせた岩鏡が顔を出していた。

革をなめして作った頑丈な深靴が岩をひたすら進む。

やがて断崖絶壁と言ってもいい、高い岩場に突きあたるが、二つの影はすぐに右端に寄った。大岩の横、日よけ布のような蔦をかき分けた場所に、ようやく一人が通れそうな岩の道が現れる。道と行っても、絶壁よりかはましというぐらいには険しい。

慣れた足つきで、鹿の頭の女が先を行く。一足置いて籠を背負った青年が後に続いた。


険しい岩場を乗り越えれば比較的平らな足場が広がっている。広場の先には窟屋が幾つかあり、その先には黄泉の入り口を思わせるような巨大な窟屋が開けている。山から突き出しており、その全長は上から出ないと分からないほどに大きい。そうして辿り着いた先には、活気のある人の営みが広がっていた。

その場所を例えるならば、山という頭部を髪のように搔き上げた額だ。自然と言うにはあまりにも整頓されているが、山裾の村ともまるで違う。そこは確実に山の一部でありながら、洞窟に入れば平らな岩場の両脇に多くの窟屋が並んでいて、人の住む集落だという事が分かる。窟屋の入り口には夜になれば閉じる事の出来るであろう尾根の板とそれを束ねた棒が支えている。


それぞれの窟屋の大きさも形も少しずつ異なり、木製の屋根から色とりどりの布製品を垂らしたものや、手製と見られる骨細工を装飾して飾る屋も見られた。

左右の窟屋群の間は、数人が腕を広げて連れだって歩けるほどに広い。実際に髪を大きな帽子の中に入れ、脇に幅広のあみ籠を持って食料の運搬をしている女性達や、木の束を運びつつ、同年代の子どもと走り出す子どもなど、数人が行きかっている。穴の開けられた天井からは夕暮れに差し掛かる前の太陽の残光が差し込んでいる。

窟屋の中に入ってすぐに、籠を持った女性が二人に気が付いて声を掛けてくる。


「白さま、青さま」


彼女の着物は何枚かの重ね着で、一番上の衣の襟は紫で染めてある。緩く着た長い着物の腰の辺りを紐で留めてあり、その下からはやはり袴が覗いている。ふもとよりも幾分か寒くなる山中に適していて、それでも動きやすい装いだ。


女性の声掛けにうん、と獲物を入れた籠を背負った方が頷いた。鹿の仮面の方は、それゆえに些細な反応が分かりにくい。少し歩みを緩めた二人に、紫の襟の女性が付いてさらに磐穴の中へと入っていく。

彼女らの衣はそれぞれ共通点がなく、逆に言えばその集落における着衣文化の多彩さを思わせた。



「狩猟班と別れたと聞きましたが大丈夫でしたか?」

「ああ、二人の方がやりやすい時もある」


青背と呼ばれた若者がそう応えた。

二人がゆったりとした着物を着ているのに比べて、かれの召し物はどちらかと言えば体に合沿って作られている。真夜中の山の木陰のような黄緑を深く紺染めした上着はさすがに日陰の多い磐穴においては青色にも見えた。襟は短く胸元で交差され縫い留められており、袖はなく布は腕をその形のままに覆っている。黒っぽい袴も下裾が膨らまない様式だ。それは海向こうからの狩猟民族の着物を基に独自に発展したものだった。


青年は大股で歩きながら窟のさらに奥へと先を切って進む。外より暗い場所においてなお樺茶色に見える短い髪。後頭部の一部だけ伸ばして長紐で縛った細い髪だけが尻尾のように背に背中で揺れている。

紫襟の女性がかれに追いついて、獲物籠を覗き込んで嘆息した。


「あらシギ。いいように肥えてますね。私もちょうど食糧庫に行くところでしたの、ご一緒します」


穴は巨大で天井は高く、どこまでも続いているかのようにさえ感じられる。ところどころに光を入れるための穴があるために、意外なほどに閉塞感もない。天然の光と松明で照らされた通路にはつねに人が行き交っている。やがて一行はしばらく進んだ穴の途中で止まった。


高泣たかなき


青背が誰かを呼ぶ。するとちょっとしてから、ぬっと背の低い男が中から顔を出した。


青背あおせさま、―――と、白妹しろいさま」


視界に映った順に男が名を呼んだ。

そこは風通しの良い広い窟屋だった。壁に向き合うようにして台が並べられ、岩をくりぬくように削って形を整えた棚には窯や土鍋が並んでいる。巨大な首の広い鍋の前には二人、木匙で中をかき混ぜながらああでもないこうでもないと話している。

反対側の壁にはところ狭しと大小の土器が並んでいる。そこは厨房であった。


「忙しいところに仕事を増やして悪いな、料理長」


言いながら青背が厨房に入って、入り口にどすんと籠を地面に置く。かれに付いてきた女性も入って、鍋の近くにいる二人に網籠に入った山菜を渡した。短い会話から彼女が「萩」と呼ばれていることが分かる。

青背が首と肩を回すと、関節がゴキゴキと音を立てた。流石にそれだけの量を長時間運ぶのはかれにとってもほねだったらしい。紫の襟の女性――萩は、かれが足早だったのはそういうことかと振り返って合点がいったように顎を上げた。

青背が地面に置いた籠の中身を見て料理長と呼ばれた男、高泣は思わずおおと声を上げた。山鶏、雉、鳩、兎、ツグミ。ひとつずつ取り出せば、獲物は数えで二十三にもなった。


「大収穫なんだ。弓が足りなかった」

「それこそ大針を使わなければならなかったのでは?」


かれらの首領が大針と呼ぶ武器を愛用しているが、狩りには使わないことは誰もが知るところだったので高泣にとってはほんの軽口のつもりだった。しかし青背は真顔で返した。


「うん、それは別のことに使った」

「……何か変わった事でもありましたか?」


質問は至極まっとうだった。青背はさして気にしたふうでもなく、いつだって眠そうな目で無感情に話し始めた。


「そういえば途中で変な男に遭遇してな」

「はあ」

「白妹が襲われたから蹴ったら殺してしまった」

「ええ!何者なんです」

「さあ、西のふもとのムラのようだったが。何かから逃げているようだった。山に捨て置くわけにもいかないんで谷に落とした」

「気を付けて下さい、最近下がきな臭い」


同胞がそう言うのに、青背は頷いた。


「ああ……『足』が戻ればわたしの所にやってくれ。ところで高泣よ、猪の燻製はまだ蓄えがあったかな」


この話は終わり、とばかりにかれは台所に隣接する右の食料の貯蔵窟へと向き直った。縦と横に四角くくり抜いた窓から見れば、そこには今まで狩ってきた獲物が次から次へと上から吊り下げられている。まだ木の香りがしそうな肢体を垂れている山鶏などは、青と白と別れて狩りをしていた狩猟班が持ち込んだものだと思われた。

かれらは先方起こった死をまるで天気を気にするかのように平坦に語る。この山において生物の死などはあまりにありふれている。そして部外者の死などはとりわけ―――それは例えば食料の貯蓄などに比べてあまりに些細な話題だった。


「まだ三日分はありますよ。今日の夜に出しますか?」

「うん、いや今後の狩りの予定のために訊いただけだ。それと祭りの後で副菜を白妹の所に一緒に運んでくれ。後でゆっくり食べるから……あ、しかし素枝もとえが許せばだがな」


そう言ってかれは振り返って、窟に入って初めて笑みを浮かべた。そこにはいつの間にか食糧庫の外で白妹と呼んだ仮面の人に影のように付き添う女がいた。青背の言葉は彼女に向けてだった。白妹に舶来物の狐白裘の長衣を着せて、女は返事をする。


「だめだなんて一度も言ってません」


女は垂らせば腰までありそうな黒髪をきつく頭の上でひとつ縛りにしている。細くきりりと吊った目尻。それよりも細い眉は陰地に生育するイトスゲのようだと青背はたびたび思っていた。


「夜更かしさせると怒るくせに」

「ほどほどにしてくれれば何も言うことはありませんよ」


そこで二人についてきていた萩という女性がはっとしたように青背に声をかける。


「ぼやぼやしていると本当に夜更かしすることになりますよ。さあ、もう祭りの準備も整っていますので行きましょう。青背さまの衣も準備してあるんですから。着付けはこの萩がしますからね」

「はい、はい」


言いながらかれは台所から締め出された。ではまた後で、と白妹に声を掛けてから萩と一緒に窟の先、道の分かれた右側へ向かう。


「青さま!」


その途中で子どもに声をかけられて足を止める。齢の頃は七、八つほどかと思われた。萩にすぐに行くよと言ってから、かれは腰を下ろした。


「今日剣を見せてくれるってほんと?」

「そうだ。祭りでね。気になるか?」

「いえ、うちも欲しいんです!」


そう元気に言う子どもに対してかれは思わず笑った。

剣というのは子どもの背丈ほどもある大剣のことだった。外海から船で運ばれて、うかつにも山を通って筑紫島の外に持って行こうとしていた人間たちのおかげで青背の手元にやって来た。

鈍く銀色に輝き、鞘を持たない鉄剣。荒紐を巻いた茎の尻には邪魔にならない程度の鉄製の環が付いており、その輪の中には蛇によく似た二体の生き物が精巧に彫ってある。舶来の文書を目にすることがある青背はそれが互いの尾を食む双龍だと知っていた。

鍛えられた山守一族の中でもうまく扱えるのが今のところ青背くらいしかいない。また小回りに弱いため、狩りでもほとんど持ち出すことはない。そのため、実際はまつりごとの時ぐらいしか見る機会がないのだった。

「お前、数えでいくつになった?」

「ええと……八です」

そうか、と言いながら青背は既に刀を中剣を持たせる時期も近い―――そう思い至ってふむ、とかれは改めてその毛先がほうぼうを向いた無造作な子どもの頭を眺める。

「そうだな、またそんな剣が運び込まれるような事があれば―――いや、もし下に行くような機会があれば……」

そう言って青背は言葉を続けるのを躊躇った。何百年も山と共に生きる事を至上で最善としてきた山守の一族にとって山から出て行くことは死ぬことと同義だからだ。

差し込む陽の光が足元を照らしている。若芽色に光る胞子がふわりと通過していく。


何事にも例外はある。たとえば女性が一族の圧倒的多数を占めるという特徴故、子を成す時はたいてい山の外へ一族の人間を送る。それ以外には機会があって行く下山する人間はごく一部だ。

食料班と呼ばれる一部の人間は山のみならず外でも食料を調達する機会がある。味付けに必要不可欠な塩は海由来のものが一番である。苦味や甘味を伴う樹液を料理に使う事もあるが、塩ほどのうまみはなく地味に不評だった。いつ死ぬかも分からない環境だからこそ、一族は食事の豊かさを暮らしの豊かさと同視するようになり、食料調達のために山の外へ行き来する方法が確立されているのだった。

それを除けば、基本的に鼠岩屋の山守として生まれた人間は、山で生き山で死ぬという事があるべき姿だとされている。一族代々山で生きているからこそ、今まで彼らを彼らたらしめてきた力と恵みが与えられているという自負があるのだ。


「あれほど大きいものを振り回すにはそれなりの鍛錬が必要だぞ」


そう言って青背は拳をぐ、と握って子の小さな手を自らの腕に導き、その筋肉の張りを感じさせる。布をまくれば古傷だらけだ。それは英雄の証拠である。

―――だがまだ幼子はそれを知る時ではない。湯浴みで一緒になるようなことがあればどちらにしろいずれ目にする事があるだろう。

そんな青背の思いを知ることなく幼子はわあ、と感嘆しては「ほかには何をすればいいか」と訊いてくる。


「たくさんの肉を食べることだ、鹿や猪……それから、肉小豆にくあずきもいいな」

肉小豆とは山になる豆の一種である。赤墨色の親指ほどの大きさのそれは窟屋の周辺にふしぎと多く、筋肉の増強と血液の循環、病気やけがの回復と多くの効能があった。すりつぶさずに汁物にするのが最もよい、と昔から伝わる調理法である。

子はそのうち唾液が出てきたのか、ごくりと喉を鳴らした。


「今にも腹の虫が泣きだしそうだな。祝祭が始まる。手伝っておいで」


背中をぽんぽんと叩けば子は風のように駆け出した。その後姿を眺めて、青背はなかなか脚力に見込みがあるなと評価した。

あまり遅くても萩がうるさくなる。そう思い出して、かれはさらに窟の奥へと進む。その途中で反対側へ向かって歩く同胞たちと擦れ違っては軽く言葉を交わす。途中で見かける左右の窟屋はほとんど空だ。早朝に狩りに出掛け、昼過ぎに帰り、夕方に食事を摂り暗くなれば早くに就寝する。それが基本的なかれらの習慣だった。祭りの日でもそれはほとんど変わらず、集会の時間が少し早くなるぐらいだ。だが季節の変わり目を祝う祭りではいつもよりも豪華な馳走が振る舞われ総出で飲み食いをする。そしてその準備のためにほとんどの人間が関わっているのだった。

青背は窟の右奥にある部屋の、入り口の尾根の支えの横を通って中に入った。奥行きのあるそこは装飾の凝った衣装から冬物の召物までを納める衣類庫だった。


海に面したこの地域では四季がはっきりとしている。外来の布製品が着ても時期でなければこの部屋にしまい込むのが決まりだった。青背が狩りの服を脱いでまっさらな内着に着替えて、萩の差し出した上着を羽織った。青い絹布の縁をクロテンの毛皮で縁取りした衣装は大腿のあたりまでの丈で、暗所においてぬめるような艶を帯びている。

大陸では王侯や貴族に好んで使われるその素材は、すらりと姿勢の美しい、野生みがかったその青年にあつらえたように似合った。


「大きくなられましたねぇ」


どこか懐かしむように萩が目を細める。ふと見れば、髪の生え際に白く光るものがあった。彼女は山守の一族で数少ない年かさの女性のひとりだった。


「赤子の頃からすると、それはな」


彼女が長年産婆をしていることを知っている青背がそう言って苦笑いをすると、発達した犬歯がちらりと姿を見せた。

その姿に、萩は一瞬かれの犬歯はそんなに鋭かったかしらと首を傾げかけた。

「待たせると悪いな、そろそろ行こう」

しかし青背はそう言って、脱いだ服を束ねて持つとさっと衣装窟から出て行った。



―――手の甲に触れる絹がさらさらと流れる清水のように気持ちがいい。これは慣れると良くないな、と思いつつ青背は岩の上を歩く。

ふと、クンと鼻をひくつかせる。独特の甘くねばつくような匂いを鼻が掠めとったからだ。


「芋酒が出来たのか?」

「味見に蓋を少し開けただけだったのですが、さすがですね」


調理場に頭だけ突っ込んで言うと、高泣はそう言ってからほほ笑みを返した。さっき入った時にはなかった香りが、彼の手元の窯から漂っていた。

男は山守一族の少ない男子の一人だった。柔和な気立てで、長い髪を後ろで留めている。しきたりというほどではないが、ほとんどの男子がそうであるように髭を生やさないつるりとした顎をしている。


「試しに作ったので、今夜皆に振る舞うほどの量はないですよ。味見がてら後で白妹さまの窟に持っていきましょう」

「ありがたい」

「いやあ、青背さまの嗅覚の鋭さと言ったら何も隠せませんねえ」


青背はまたひょいと通路に戻ると再び入り口を目指す。

「以前ほどではないがな」

真顔でかれは独り言のように呟いた。まるで誰の耳にも届かないようにしているような。

―――まだ、まだだと、かれは自分に言い聞かせるように思った。

まだ狼ほどには利くだろう。



磐屋群の入った大穴の前、開けた広場に山守の一族が勢ぞろいしている。様々な色合いの着衣。大きく言えば萩のようにゆったりとした服を着た者と、青背のように身体に合った服を着るものに二分されている。狩人の姿をしたかれらはどの顔も鷹のように研ぎ澄まされ、精悍で凛々しい。この一族の特徴の一つで、体格や顔つきに男女の違いがほとんど見られないのだ。

最前列から順番に身を屈め、互いに顔を見合わせてはいつもより抑えた声で会話を交わす。それがわずかであっても百人近ければ十分な声のさざ波になる。ざわつきが大きくなる前に、先頭に立った狩猟班の近衛の二人が高く指笛を鳴らす。群衆が一挙に静まり返る。

皆の視線のさらに先に、沈みゆく太陽に向かって青背が立っている。誰からも広く距離を取ったかれの右手には抜き身の剣が握られている。

さらにその先、広場の端に鹿の頭蓋骨で顔を覆った白妹が布の上に腰を下ろしていた。彼女の手には櫛の形をした弦楽器が握られ、そしてその側には素枝が控えている。

やがて雉の鳴き声とも、イソシギと鶯の喉を震わせる谷鳴きとも形容しがたいあえかな音がその指によって奏でられる。座高よりも丈高いその楽器は箜篌くごといった。白い指先が十数本の糸を弾いて、夢の狭間に聴くような音を繰り出す。

その音を背中に聴きながら、夕日に照らされて、青背は目を瞑った。その音が心の琴線に恐れ気もなく触れるような、そんな幻を瞼の裏に見た。なぜだか無性に泣きたくなるような気がして、かれは少しだけ眉根を寄せた。

やがて音が止んだ。同時に青背は目を開ける。眼窩は乾いていた。

右手に持った剣を真横に薙ぎ払う。空気が変わったのを肌で感じる。片手で鋭く真っ直ぐ正面を一突き、二突きし、三突き目にくるりと右に回って下から上に大きく弧を描くように振り上げる。


そのまま天に向かって真っ直ぐに剣を立たせ、上から下へ風を切って地面の寸前でぴたりと止める。いつか大猪を仕留めた時の事を思い出す。

次に、頭上で剣の丸まった尾を使い器用にくるくると回すと、かれはどんどんその勢いを速めてコマのように回す。そのまま右斜め、左斜めに風を切り、全身もまたひねると濃い青に染められた裾を舞わせた。そのままくるり、くるりと回って止まったかと思うと、勢いよく助走をつけ、岩の間に剣の切っ先を突き入れると、それを支柱によく猿のような、と称される動きで空中高くひらりと舞って、しっかと地面に着地する。紺青の上着が雄雉の尾のようにあでやかにひらめき、細く結われた襟足が風に踊った。

その一瞬だけがまるで永遠であるかのような、息を奪うような剣舞。

青背はすっと剣を地面に置いた。

剣技は終わりだ。しかし腰を浮かせれば休む暇もなく、弓と矢が後ろから放り投げられる。それを両手ではっしと掴む間に、振り返った目の先―――薄紅色の煙が空に舞った。

前方に白妹が立っている。左手を空に掲げていた。その隣には腰の位置の高さまでの火鉢が置いてある。煙はそこから流れ出ている。まるで桜のようだと、青背は過ぎた春を想った。

彼女が左手をくるくると掲げたまま小さく回してから、口元に手を寄せてふっと息を吹き替えれば空高くに明らかに円形をした煙が浮く。一体どうなっているのか、と毎度思うのだがその術は誰にも明かされることはない。青背は、今朝狩ったばかりの雉の尾羽をつけられた弓矢をぎゅっと引き絞りと、白妹の手のひらほどの大きさのその丸を空中ですぱっと気持ちよく射貫いた。弓は山へと飛んで姿を消す。薄紅が霧散する。

わっと背中で歓声があがる。気持ちは凪いでいる。弓の張りつめた糸のような緊張はほんの一瞬の事だ。短期の集中力とほどよい緊張がより一層精度を高める。


そのままかれは岩壁のへりの方へ進んで行って、もう一人の王の前に膝をついた。


「おみごと」


顔を上げれば、仮面の下のその顔が微笑んでいるのが分かった。

青背は笑み返して「これが出来なくなったら青の座を降りなければな」と言った。

そして立ち上がると、振り返って同胞たちに向けて言った。

「さあ、山と秋の恵みを祝して無礼講だ!」


まだ明るい夕陽が広場の饗宴を照らしている。岩場の上に置かれた器や大皿には梅、洲桃、柿などの果物だけの器もあれば、深皿には食欲を誘う肉の蒸し物や焼き料理も並んでいる。

多くの者が手にしている褐色の椀に入っているのは、栗と桃を発酵させて作った甘味のある祝い酒である。早速、飲み終えた数人が大窯からおかわりをしている。おのおのに会話をしながら、鼠窟屋と呼ばれる岩窟を前に山守一族は憩いの時間を迎えていた。

好きずきに彼らが馳走を頬張り、秋の始まりを祝う様子を見ながら、青背は立ったままここにいない仲間に想いを馳せていた。現在山守の規模は常時八十人ほどにのぼる。過去多いときは百人を越えていた時期もあったが、様々な事情により増減を繰り返してきた。


山から出ている人間が戻れば、八十五人―――いや、こればかりは予想が付かないな、とかれは数えようとするのをやめた。そこでようやく自身も近くの岩場に腰かける。

これがもう少し大きな祭りとなれば狩りの舞いには狩猟班全員が参加してのおおごとになる。今回は青背が代表する簡素なものだが、それだけ失敗すれば笑い事だ。

拾っておいた抜き身の剣にふと目を落とす。海の外から渡って来る巨大な鉄剣、鉄刀、そして他の地域で作られる銅戈はほとんどが実技用には作られていないと聞く。実際に振り回すにはあまりにも大きすぎるからだ。

しかし青背の手に入れた鉄剣はそこに意匠があったのか、持ち手の希望だったのか―――何にせよ実技に耐えうる事は実証済みだった。全ての鉄器がそうではないが、とりわけて切れ味が抜群で、頑丈なのだ。それにかれとしては多少重い方が扱いやすかった。

皮膚のかたい指先で剣の尾、いわゆる素環頭をなぞる。鈍い金色の双龍。輸入された後に切り落とされる事の多いその部分をかれは特に気に入っていた。

少し離れたところで狩猟班の近衛の二人が話しているのが聞こえる。


「無礼講ってなんだ、秋津あきつ?」

「誰が誰とも気にせずに楽に楽しめということだよ、早春さはる

「なんだ、いつも通りってことか」

「そうだけど、お前は今晩夜衛だから酒はほどほどに控えておいで」

「えっ」


そんなあ、と早春と呼ばれた方が冗談でなく泣き声を上げた。そのなだらかな額の下で細い眉がへにゃりと折れた。前髪を長く伸ばし、頭の後ろで結ってから三つ編みにして垂らしているのが特徴の少年だ。

左右の髪はうっすらと短く刈ってある。両頬には狸の髭のように紋様を入れてあるが、まだ目のくりくりとした幼さの残る顔立ち。一族では髭を伸ばす習慣がないため、幼さは隠しようもなかった。狩猟班の中でも最年少かつ、相対的に数の少ない男子という事で少し甘えたな性格である。

その隣にいるのは、彼より二歳ほど年上の秋津という娘だった。青背が特に評価している近衛の一人である。早春と違は対称的に無造作に肩まで垂らした髪で、毛先をすっきりと梳いてある。手先が器用で、髪を切る時はだいたい皆が彼女に頼みに行く。尻尾のように後ろ髪の一部を長く伸ばしている青背もその例外ではない。若いながら責任感が強く、夜衛でも多くかち合う。

いまだに泣き言を言う早春を尻目に酒を飲みながら、今夜はよく眠れそうだと彼女は飄々と言い放った。先日夜湧きに遭遇した時も彼女と一緒だった事を青背は思い出す。夜の見張りは順番だ。

二人の様子を見ながら、まるで姉弟のように仲が良いな―――と青背はふと考えて、実際問題きょうだいであることにと思い至った。少なくとも同腹である。

女性が多く生まれる家系であることと、血の濃さは不吉を招くという古くからの教えで、子を為す際には種は外部からもたらされる。しかし家系図を広げれば結局はどこかで繋がっている。しかしその血の濃さによって役割が決まる伝統もまた長く続いてきた。

思考の雲を漂っていたかれの前に影が差す。

「考え事ですか」

料理番の高泣だった。焼けたばかりの山鶏の載った器を高泣に勧められて、その香ばしい匂いにじわりと唾液が口内に滲み出す。先に添え付けの青菜を口に運ぶ。ぱりぱりと音を立てて噛めば微妙な苦みを感じる。山鶏は切れ端をもらってぺろりと口内に入れる。甘じょっぱいのは先日仕入れたと言っていた香味か。胡麻の香りがよくきいている。

「うまい」

素直にそう言うと、彼は「あまり量がないので特別です」と笑って続けた。

「身体も脳も動かされていてはまかないきれませんよ」

「ああ」

何かと気が回る料理番にも暗に休養を促されている気がして、青背は瞬きした。ふと、高泣のそのつるりとした色の薄い顔を見て、彼が血の薄い側の人間である事を思い出す。狩猟班の秋津・早春、そして他の顔ぶれも母親は狩猟班の出身のはずである。青背が子どもだった頃には既に彼は青年であった。その頃はまだ、血筋と一族内での役割を結びつける風潮が根強く残っていたはずだ。

それが青背が首領になって以降は様々な事が変わった。むしろ変化は避けられなかった。そのことをどう思うのか、彼に訊こうとして、結局どうもまだ要領を得ない気がしてやめた。

「……この蒸し鶏、白妹のところにもあるのかな」

代わりにそう言う。高泣が特別だと言ったからだ。彼女にはいつだって最上のものを真っ先に受け取って欲しい。いやそうであるべきだ。その身は山神と同一視していいのだから。

「これがお二人の皿です」

「先に持って行ってやってくれ」

そう言うと高泣はすぐに頷いて、白妹と素枝の座る方へ皿を運んで行った。見ていれば、すぐにその場を離れる。ほかの食材の準備でもするのだろう。人の事を言うまでもなく休むことを知らないやつだな、と思いながら青背は彼の去っていく方角にある窟屋に視線をすべらした。

窟屋は朝日の方角を向いているため、夕日はほぼ反対側だ。空を見上げれば雲がさざなみを作っている。紅赤と群青の交わり。雲の狭間が暗色に傾いている。

首を曲げて左を見れば、視線の先では素枝が毒見を終えたようだった。

ふと二人が青背の視線に気が付いて、早く来いと視線で訴えてくる。かれはようやく岩場から腰を上げると二人のいる広場の端へ歩いていく。彼らの手元の杯がそろそろ冷めてしまいそうな事に気付いたからだ。素枝から差し出された器を受け取って、かれはすん、と匂いを嗅ぐ。

頷いてから青背は白妹と杯を交わして、飲み始める。栗のまろやかさと果物のあまみが舌の上に広がる。飲み干せば、胸の底からぼわりと炎に照らされる感じがする。かれははやくも杯を隣に置いた。これはうかつに飲みすぎてしまいそうな出来だ。

代わりに、広い山を背景に仮面を上げて杯を空ける白妹を眺める。視線をさらに左にやれば、東に向かって青くなだらかな山の稜線が続いている。その彼方には海が広がっているのだ。

山と空と海のかち合うこの場所で全ての恵みを享受する。何百年も前から続いてきた風景。この山に生きこの土地に骨を埋めると決めた、最初の山守もきっとこの景色を目に納めたのだろうと考えて、かれは目を細めた。山守の一族が数年周期以上のはるか先の未来を語る事は少ない。祖先から引き継いできた生き方と、いまこの時を精一杯生きる事が何よりも重要視されるからである。それでも青背はどこかで、この生き方が変わらず続いていくのだと思った。

一つとして同じ瞬間はない。ここに生きる山守達さえも、常に変わり続けている。しかしそれはこの空と同じことなのだ。色を変え、流れを変えて、それでも必ず訪れる黎明のように。

やがて風にのって、山の下の方からカラカラと音が届いた。見れば、一羽の巨大な鳥が低く飛んでいる。山腹から突き出した大楠の頂上に腰をおろす。青背の視線を感じたようにぐるりと首を回してかれの方を見上げた。

その空洞の目に凝視されて一瞬ぎくりとする。

人の頭蓋骨を被った怪鳥。それは山で自分たちが骨被あらかむと呼ぶ生き物だった。生き物の死骸に群がる鳥で、特に人間の肉を好むと言われる。それが言い伝えで知られる全てで、それが誰の骨なのか、そしてどうしてそのような事をするのか―――鳥は語った事がなく、そしてまた死人も語る口を持たない。

ふとかれは昼の出来事を思い出した。男の死体を見つけてやってきたか。

怪鳥は相変わらずじっと青背の方を見ている。

その空洞を見つめる内に、何とも云われ得ぬ感情がじわじわとかれの胸に広がる。遅効性の毒に似たわずかな不安。

「青背」

声を掛けられて、そちらを向くと、被骨とは逆に獣の頭蓋骨を被った人の姿が目に入る。仮面の下は薄い絹があり、その肌さえも見えにくくしている。

「被骨―――」

そう言って東を指そうとしたが、そこにはもはや怪鳥の姿はなかった。

代わりに西から耳当たりの良い音色が鼓膜を揺らした。

振り返ってみると、ほろ酔いの同志たちが笛を持ち出して奏で始めているのだった。

手にしているのは獣骨で作られた塤、いわゆる骨哨だ。土笛の一種で、普段は狩りの時に獲物をおびき寄せたり様子を伺うために用いられるが、祭りでは単に楽器としても使われる。両手で持てる卵型のそれは見た目どおりなめらかな音を出す。

ほどなくしてタカ、タカと竹片を両手に持って打ち鳴らす者が加わる。ポンポンと特徴的な音がするのは鼓まで持ち出したのだろう。それは空洞の木に獣皮を張った太鼓である。

様々な音が競うように音がまじりあい時に協和して、赤丹から鳶紫へと変わりゆく空に昇っていく。

多くの楽器は海の外から持ち込まれたもので、当初獣の皮をそんなに無為に使うのかと驚きを持って迎えられた楽器は今では重要な暮らしの一部になっている。今では壊れたものを組み立て新しく改良するほどにまでなった。

まだ明るい内にほんの数時間だけこうして短時間酒をまわし飲みし、音楽や雑談を楽しみながら山の恵みを享受する。そしてそこに音楽があれば踊りたくなるのが人間の性だ。

誰かが即興で歌いだせば尚更だ。


白妹の方を見ると、既に甘酒の何杯目かに手を出そうとしているところだった。

すっと手を出して器との間を遮っておいて、二人は顔を見合わせた。


「踊らないか」

「しらふで?」

「わたしだってほとんどしらふだ」


少し批判がましく言う白妹の手を取って、青背は立ち上がった。

ため息をついて白妹もまたその隣に立つ。それだけで何度も繰り返されたやりとりであることが伺われる。

白妹の品格が、と常日頃言っている素枝が渋い顔をしている。彼女自身は踊りが苦手なため参加しようとはしないのだと青背は知っている。

青い絹布の上着と白鼠色の衣が舞って、足は軽やかに岩を踏んだ。多くの山守が袴をまくって山で鍛えられ発達した脚部を露出させている。肩がぶつかっては声を立てて笑う。厳しいが豊かな山の暮らしでのひと時の憩いの時間だった。

やがて夜が訪れて、かれらはそれぞれの松明に赤く照らされた顔を見合わせるとそれぞれの窟屋へと戻っていった。

東の空に深い藍色が広がっている。かれらが去った後は木陰が囁く禍時まがときを深めるばかり。










―――晩。


窟屋はすっかり静かになっていた。日が暮れれば夜の番以外の多くの山守が早くに就寝する。それぞれの窟屋には二人から四人の山守が暮らしているが、山の外のように一家というわけではない。山守は誰しもどこかで血が繋がっているため、全員が互いを家族として扱うのだ。そしてその血がどれほど濃いかというのは、以前よりももはや些細な事だった。


「青背」

白妹は静まった窟屋から、外へ出て行こうとする彼女の青の背中に声をかけた。

かれはたじろぎもせずにゆっくりと振り返る。窟屋の入り口の掛け布をめくったその腕の下から、白い月の光が差し込んでいる。夜目がきくかれらにとっては互いの表情を確認するにはじゅうぶんすぎるほどだった。

白妹はじっとその純黒の瞳でかれを見つめながら言った。


「―――夜湧きの見張りに行くなら、私が起きている」

「その必要はないと言っただろう。白妹、寝てくれ」


彼女の視線と交差しないようにさりげなく斜めに視線を落としながら青背は言った。夜湧き―――夜蛇、岩這とも呼ばれるそれは青と白の一族が山の窟屋に住むようになった時から存在している。正体不明のそれは山の迷い子とされて、山守の陣地に入るようであれば速やかに排除するのが決まりとなっていた。

そして一度阻めばしばらくは出ては来ない。分かっていて、窟屋を後にしようとしていた。

「もうどのぐらい眠らないつもり?」

「頃合いを見て自分の寝屋で休むよ」


その返しに、白妹はふっとため息をついた。まるで約束が果たされる事はないと知っているかのように。

「おやすみ」

そう言って、夕方に触れた手はうそだったかのように青背は外に出て行く。白は掛け布で遮られた後も、その後姿を追っていた。やがて夜の静寂のみが訪れる。孟秋の独り寝。


―――一体となって聴こえるのは様々な色を孕んだ声。その凄まじさは、まるで既に黄泉の国へと片脚を踏み込んだかと思わんばかりだ。怒号・悲鳴・罵声………川の水を跳ね上げ、砂利を踏み慣らし、駆けていく兵の足音。奇襲への衝撃と反発。逆賊の雄たけびが河川敷にとどろく。兵の振り上げた刃が陽の光を反射してきらついた。

ああ、あれはまだ夜の明けたばかりの時分だった。男は彼が指揮を担ったひと月前の奇襲を回顧する。

兵法である八陣の一つを使って、川のほとりに居を置いた敵を攻め立てる。蜂矢というその名の如く、最初の兵が先頭に立って一点突破した後は左右から猛攻の手を緩めることのない激しい陣形だ。

土塀から反撃の矢が飛ぶが既に遅かった。鍛えられた都の軍兵は数と勢いでかれらを圧倒した。

穴門あなとというその土地の北に住む群長を先に味方につけたのは良かった。元々川の側に住む一族とは摩擦の多い間柄であったらしい。敵の敵は味方である。そもそも兵の圧倒的な勢力をちらつかせればたいていの首領は闘う気をなくす。後はこちらの顔色を窺いつつ、その土地で今後統治の枷になりそうな輩を統制もしくは征伐するのに協力するようになる。何度も繰り返して見た光景だ。

そして見苦しく抵抗を続ける勢力は滅ぶ運命にある。最後は川の色が血に染まった。それほどまでに激しい戦い、いやむしろ一方的な蹂躙。

人ではないと割り切れば、殺傷はよほど容易い。かれらこそが愚かさゆえに人になれない土蜘蛛。そう都で呼ぶようになったのは何年も前の事である。

対して、人の心は血で錆びさせてはならない。常に使命という炎と研磨していなくてはならないのだ。


月祖根つきそねどの」


部屋に届いた声に現実へと引き戻される。男はその怜悧な顔を窓の外から部屋の入口にと向けた。


「速津殿」


ぱっと、額を髪留めで覆って長い髪をてっぺんで丸く結った女が視界に入る。青年ほどにすんなりとしているが、壮年の女だ。目の下から横頬にかけての窪みの影が濃く、厳しい印象を与える。隙のない身のこなし。権力者ほど往々にしてふくよかになるものだ。

ふくらかであること自体それはそれで悪い事ではない。富の徴しだ―――と考えて彼は自分の上司に当たる男の突き出た腹を思い出した。いや時には傲慢の証しにもなる、と自分自身に訂正する。


「大安彦どのは来られないのですね」


まさにその男の事を考えていたのだ、と言うわけにもいかず彼は女に対峙する。板をわずかに軋ませて女は十人ほどが入りそうな小部屋の奥へと短めの裾を滑らして進み、毛皮の座布団の上に鎮座した。その向かい側にと勧められて、月祖根も足を運ぶ。 

室内は簡素で調度品などは豊かさを思わせる。地方の王と言ってもやはりどこか垢抜けない事の方が多いが、地形的に外海からの影響を受けやすいのだろう。都でも中々目にかかることのない


「大将たるものこのような些事には足を運ばないものです。今は長旅の休養の方が重要だと」

「ああ、そうですか」


感情を纏わない声で女はそう言って、入り口の隣に控えている自分の付き人に合図する。

付き人が一緒に持ってきていた、液体の入った片口と器を月祖根と主の間に置き内容物を注ぐ。

続けて彼女は部屋の隅に行って香を焚き始めた。どこか懐かしく感じられる匂いが部屋を満たしていく。それが好ましいと感じてしまう事が心持ち気にくわず、月祖根は顎を引いてこめかみに力を入れた。


細く削られた木を縦に並べた連子窓からはあたたかな日差しが差し込んで、女の山葵色の着物の裾を照らす。遠くにはくだんの山が見えていた。

都では代々男子が家督を継ぐ事が多く、一国の頭首が女というのも珍しい事もあり、月祖根は遠慮なしに女と彼女の館を観察する。


この大八島国と呼ばれる東西に長く伸びた国土を旅するにあたり、様々な風習を目にしてきた。特に南に下がったこの地方では、祭祀や鬼道を未だに扱う事の出来る者がいると聞いた。中でも自然と交わりの深い暮らしを続ける土蜘蛛は、そういった事情から一族の筆頭に女性を据える事が多いと聞く。そんなところも含めて前時代的だな、と彼は心の中で嘲った。


「昨晩はもてなしを楽しまれたようで何よりです」


速津にそう言われて、彼は昨日の乱痴気騒ぎを思い出した。昨晩とは言わないだろう。少数精鋭の兵と共に速津の国へと辿り着いてからというもの、初日以外は毎晩のように大将の大安彦が踊れや騒げやの宴会を開かせている。

近辺のムラの様子などを見るに、月祖根や大安彦がやって来た中央の都のように制度が発達しているわけではない。しかし夕げからも分かるように資源が豊かで、特に海の幸鯵や鯖などの青魚の見事さには目を見張るものがある。いずれは都への時季の捧げ物としても考慮していいぐらいだった。 

地理的にも隣あった伊予之島への行き来がしやすい。外交への入り口となる事だろう。筑紫の北を制圧した折には、海の外へ向けても筑紫島第二の都軍活動拠点としての活用が期待できた。

そう、全ては今も北筑紫で兵を率いている大皇のため。


『この速津の国も近く我らが支配する!』


酒が入るなり、そう猛々しく言った男の声音が蘇る。二人の泊まっている速津の別館での事だ。隠密というほどではないが、率いている兵が多くないために出来るだけ内密に事を進めるという話はどうなったのかと頭を抱えたくなった。

だがこの直属の上司に期待するだけ無駄なのだ―――これまでの旅の行程で嫌というほど分かっている。月祖根はそう割り切ろうとして、杯の酒をぐいっと飲み干した。むしろ彼にとって、この世は愚昧な人間で溢れている。


目の前で大安彦の希望どおり女たちが踊り始める。舞いは乱雑で、そしてどこか蠱惑的で好きではなかった。月祖根は透明の赤を透かした器に目を伏せた。

―――大安彦の言う通り、大皇率いる中央政府はこの大八島国の南に位置する筑紫島を次の統治下に置こうとしている。

現地の人間にとって、統治機構が変わるという事は生活を左右する重要な問題だ。しかしいざそれが起きれば案外事は円滑に進む。普通、新しく統治権を握るものがより優れた利益構造、武力、そして反乱分子を排除する策を持っているからだ。

だがそれを最低限の労力で手に入れるためにはある程度の駆け引きが必要だ。

案の定、宴会に居合わせた使用人達は困惑したように顔を見合わせた。

『おい、酒をもっと持て!』

『は、はいっ』

大安彦はまるで既に土地の支配者であるかのように横柄に振る舞っている。全く寝首をかかれてもおかしくないのだ、と月祖根は思った。

いやむしろ良い事かもしれない。そうすれば、大皇の率いる大軍がこの国を攻め立てる理由になる。

―――捨てても良いからこそ送られたのだ。

自分を送り出す母の顔を思い出す。彼女はそれを知っていたはずだ。月祖根によく似た面長の、つねに青褪めているような頬。諦めともまた違う、ついにその時が来たかと言うような覚悟の顔。自分の顔を映した水鏡のようなおもてを前に月祖根は頭を下げた。

都を統べる大皇とその気高き一族は理を重んじる。大皇が天下の覇者であるべき所以もまた、かれらに相応しくあるべきなのだ。何人たりともその高貴の血を穢すことは許されず、そしてその名には一点の曇りもあるべきではない。

最も優れた神である大皇の一族が、魑魅魍魎と理を持たない荒ぶる神がはびこるこの大八島を統一するのはそうすべきだという絶対の天の理だからである。


月祖根は自らの命がその大義の礎になるならば、と固く心に決めて長く住んだ都を離れた。どちらにせよ、自分の血筋ではこれ以上の昇級も見込めそうにない。

そういった意味では大安彦と月祖根は対極の存在であった。血統ばかり良い駄馬と、出自にけちのついた優秀な駒。後者としては、むしろ大皇のために命を捨てられるだけ光栄だと言われる。実際、群の参謀にまでつけたのは十分以上の扱いとも言えた。

『しかし速津の土蜘蛛とはいったい、なにものだ?都でもその名を聞くぞ。それこそ、鬼のように強い異形だとな』

『土蜘蛛?』

突然大安彦に尋ねられて酒を注ぐ女がきょとんとした。無理もない。土蜘蛛とは都での呼び名である。何度かの問答のあと、やがて合点がいったように『ああ、山神さま』と言う。

『わたくしどももよく知りませんの、昔からこの国を見守っている神さまということ以外は』

『都への貢物を奪う化け物が神だと?さらにけしからんな。大人しく我等に従わぬようであれば、その神とやらに我等の力を見せつけるしかあるまい!』

『まあ 山神さまを倒すとおっしゃるのです?』

『どちらが優れた神かは戦えば分かる!』

内心歯噛みしながら大安彦と女との会話を月祖根は聞いていた。参謀としての立場上何か言うべきなのだが、参謀として対等に扱われた事は、決してない。

それにしてもあまりにも口が軽すぎる。この無能さだからこそ、統制すべき最重要拠点に送られることは決してない。この速津国は内海に面しており比較的小さいという特徴があった。大皇は北の筑紫、外海に面した国で多くの兵を率いた交渉している。

各地に散らばった血族の功績が最終的にすべて王の威光となるのだ。

大安彦を大将として、次席という大役を任されたとは聞こえがいいが、事実上厄介ごとを押し付けられただけに過ぎない。育ち過ぎた子どもの守ならばまだいいものの、失態を見越してその尻拭いをしろと言外に命じられているようなものあである。

『俺はいずれこの国の支配者となる、天神族の血を継いでいるからな!』

大安彦の言葉を思い出して、月祖根は無意識に握った手に力が入る。丸みを帯びた爪の先が手のひらに鈍い痛みを残す。

その血があればこそ。

いやその血がありながら―――。


「そうですね、施設はともかく資源は非常に豊かと見える」


月祖根は速津にそう返した。何はともあれ、まだ偵察という段階である。戦をいきなり始めるわけではない。自分に託された幾つかの使命を頭で反芻することで彼はすぐに平静を取り戻すことができた。

そして代わりに、速津の国の市場で聞いた興味深い話を切り出す。

「先日、山裾の村で殺人があったと聞きました。……あなたの国ではどう裁かれるのですかな」

速津の館は山から一里ほど離れた海沿いの近くにある。内海に面しており、湾岸を辿って南西まで行った九里ほどの地域が彼女の支配する領域である。

「娘がムラ長の息子に殺されたという件です」

女がしらばっくれる前に釘を刺すように月祖根は畳みかけた。

速津の眉根がほんの少しだけ力んだのを彼は見逃さなかった―――人の機微に敏く、目ざとく突くのが月祖根という男である。偵察とはいえ、最終的には全ての地域を掌握するために来ているのだ。平和的に見える会話であってもその実、腹の探り合いであることには違いなかった。


「村人がその後、後を追ったらしいのですが山へ逃げ込んだと」

「それでどうなったんです、諦めたと?」

「そう聞いています」

「里に再び降りてくる危険を考えれば逃がしたのは悪手ですな」

「その危険性は低いでしょう」

落ち着いて速津が答える。

「どうしてそう言えるのです?」

「深追いをしなかったのは、彼らなりの理由があっての事だと思えます。どちらにしろ、獣に襲われるか―――そう、その可能性の方が高い」

彼女が何か別の例を出しかけて誤魔化した事に月祖根は気付いた。

「深追いをしなかったのは、土蜘蛛を恐れてのことではないしょうね」

そうに違いない、と半ば確信の色を乗せていう。裁定の基準をもたないのは原始的な統治機構によくあることだ。

都では徴兵制度が導入され、天上からもたらされたという新たな法が確立されつつあった。その法と兵役制度を以てして、この混乱が極まった大八島に泰平をもたらす。

そのためには各地の状況を確認して、各地に兵を配置していくというのが朝廷軍のやり方だった。平和と引き換えに、進んだ都の統治機構を受け入れるのだ。それは同時に兵役を含む朝廷からの軍事的介入を許すという事に他ならない。

しかし速津は意外にも「その逆です」と応えた。

「深追いしなかったのは……むしろ、山による裁きを期待しての事です」

「裁き?」


怪訝な顔をして月祖根は繰り返した。問い返したものの速津の返事はぱっとしない。

どうも糸口が掴めない、その感覚には慣れている。月祖根は従来忍耐強い気性を持っていた。しかしこの速津の土蜘蛛の件に対しては、大皇側からも微妙な歯切れの悪さを感じていた。討伐すべき対象かどうかを見極めるだけならばまだいつもと同じなはずだ。

抵抗するようであれば討伐せよ。武力行使せずに支配下に置けるならば、そうしろ。

どちらにせよ行き着く先は同じである。一挙に滅ぼさないのは、相手のためではなく後々の抵抗を減らすため、そしてこちらの兵の労力を減らすためである。

速津がもろ手を上げてとまで言わずとも大安彦と月祖根の視察を受け入れているのはそれが分かっているからだろう。公には言わずとも静かな降伏である。それでも情報を出し渋るのは、これが交渉だからだ。犬のように頭を垂れて許されても、その後の待遇が良くなると決まったわけではない。食料として飼われているそれのように最終的に食い潰される可能性もじゅうぶんにある。まるで―――。

「あなたも山神とやらを信じているのですね」

月祖根は浮かび上がった考えを振り払って、幾分断定口調で言った。

「まさか」

ふたたび速津が顎を引いて否定した。

「あれらはわたくしにとっても厄介な存在です」

例えそうでなかったとしても、そう言うのが正しい選択だろう。下手すれば土蜘蛛もろとも滅ぼされかねない。女の表情を窺うが、確かに嘘をついているようには見えない。

「ただその正体を知らぬ、というのが正直なところです。この国の山にもうずっと昔から住んでいるとは聞きます。妖術を使い、人を化かし、そして山に入った者を時に裁くと」

「化け物がどうやって人を見極め裁くのです?」

一瞬速津は躊躇ったように見えたが、彼女は半呼吸置いて続ける。

「真実そうなのかも、道理も分かりません。かれらは『半ばを殺し半ばを生かす神』ですから」

半殺半生の神、とは都でも荒ぶる神と呼ばれる存在だった。各地の川や山に棲んでは、道行く者を時に殺し時に生かすという。そしてその正体は靄がかったように定かではない。

「その姿を見た者はいるのですか?」

月祖根はいい加減手がかりを掴みあぐねて頭を少し左に傾けながら再び訊ねた。

「見たと言う者はいます。ただどの言い分もはっきりと形を得ないのです。時には異形であったり、人の声を真似ていたと言う者もいます」

胡坐をかいた足を直して、さらに月祖根は畳みかける。

「この国の土蜘蛛はその話が都にも届いているというのに、どうも雲をつかむように姿が見えない―――まるで伝説か怪奇だ。本当に存在しているのかさえ怪しい」

「都ではどんな話を聞かれるのです?」

「顔が六面あるとか……足が八本あるとか。巨体で、群れをなして山奥の窟屋に住み山を行く人を食らう事があるとも聞きます」

一瞬だけ、速津の頬がわずかに緩んだような気がして、月祖根は眉を上げた。数日前に会ってから一度も笑う事のなかった女だ。しかし、それは気のせいともしれなかった。相変わらず厳めしい顔で、彼女は薄い唇を開く。

「もしかすると、旅人の方が正しいかもしれませぬ。何せ、わたくし達は山に立ち入ることがほとんどないのですから」

月祖根は心の中で大きな落胆のため息をついた。結局動くのは自分ばかりになりそうだったからだ。しかし背に腹は代えられない。山を下れば日向の土地がある。そこまで行けば筑紫国全体の統制は目前である。

「山を切り開けば都軍の行き来が段違いに楽になる」というのは勿論公の理由で納得のできるものだ。過去、大皇は統括の一環で荒ぶる神達をいくつも斬り捨ててきた。それにしても、大皇の使者の態度が月祖根の心に何か引っかかった。何か腫れ物に触るような、それでいて拘っているような。

「あなた自身は、入山を試みた事は?」

「生まれて一度も」

「そうですか」

食えない女だな、と月祖根は思った。だからこそ自分が相手をした方がいいだろう、とも。遅かれ早かれ、この速津の小国は大皇の支配下に入る。それを最短で行くか通り道していくかは、朝廷の采配次第だった。

「実際に私が視察します。そちらにもすこしは地の利に長けた者がいるはずだ。案内役を出してもらいますよ」

二人の座った間に、同じ付き人が酒の追加を持ってくる。しかし、月祖根も速津も一口も口をつけていないのだった。

伊美いみ

付き人が顔を上げた。眉のはっきりとした、幼顔の女である。

「この侍女は山の近くに暮らしていたことがあるので、地理には多少明るいでしょう。伊美、山の案内を頼む」

「はい」

頷いてから、付き人は月祖根をおそれを知らないように見つめた。真っ直ぐに切り揃えたその長い黒髪と同じ色をした瞳に捉えられて、月祖根は居心地が悪くなった。この地方の女は苦手だ、今さらながらに思う。

「話を聞く限り、ずいぶん荒れた土蜘蛛に思える。いつ襲ってきても対処できるように男兵も出してもらいますよ。少なくとももう一人は男で、案内が出来る人間がほしい」

彼女を無視するようにして、月祖根は速津に言った。

「山のふもとでは時季によって入山するところが多いようです。地に長けた者もいるでしょうが、なにぶん山守を信仰する者が多いので―――」

「土蜘蛛、でしょう」

月祖根は素早く速津を訂正した。土蜘蛛は都、ひいては朝廷側がかれらを呼ぶ時に使う蔑称である。その土地で神や守と呼ばれているその根底から覆す必要がある―――それが一貫した朝廷の意向だった。


「……ツチグモを、山の神として扱う者が多い。協力的ではないでしょうが、探してみましょう」


「速津国の首長の命令でも非協力的だと?」


速津はゆっくりと瞬きして、小頬に睫毛の影を落とした。彼女が何か言う前に月祖根にはそれが肯定の意だと知った。


「治政と信心はべつものですので」


月祖根はきゅっと目を細めた。「そうですか」と言いながら、頭ではある情景が浮かび上がる。やはり大皇は正しい。大皇こそがこの混沌を終わらせることができる。

「あなたにとっても、土蜘蛛は厄介者というわけですね」

それに対して改めて肯定は必要なかった。月祖根は立ち上がって、再び窓から遠くに見える山を眺める。準備が整い次第、入山を始める。藪をつついて出てくるものは一体何なのか。ふと、振り返って女に尋ねる。

「その土蜘蛛、ここではなんと呼ばれているのだったか。一応聞いていたのですがね」

午の太陽が木製の連子窓の隙間を通って、女の膝を差した。その膝に置いた骨ばった手指。人差し指に瑪瑙の指輪が嵌まっている。女は、切れ長の目を月祖根ごしにの窓に向けて、答えた。

「鼠窟屋の山守……と呼んでいます」














――――――


ひび割れた樹皮は足のとっかかりが多くて安定している。ゆったりと広がって大きくなり樹冠は身を隠すのにも適している。互生した常緑の葉がかすかに甘い芳香をもってして鼻の先をくすぐった。

もう何百年もこの山に自生する楠の枝の上で、青背は帰りに余裕があれば木の幹を削って樟脳しょうのうにしようと考えていた。窟屋で作っている薬の一つで、血行促進作用や鎮痛作用があるのだ。

そう、それはそうと。

かれはひとり、木の上で白妹の預言の正確さに舌を巻いていた。

『大物がいる』

今朝、宣託の崖の上で白妹は南の方角を指さしてそう言った。

『青背は剣を持って行った方がいいだろう』と、そう彼女は続けたのだ。山神の媒介者である白妹は常に狩りに同行するわけではない。時には狩りの吉兆を占い、どこどこに行くべきであるなどと託宣を下すことも多い。

そしてそれは青背の率いる狩猟班が忠実に従えばそれこそ、常に正しい。しかし山は混沌に満ちている。予定調和は簡単に覆ることも多い。

常時およそ八人程度で狩りをしている狩猟班だったが、今朝もどんな大物に遭遇するのやら、と勇んで出掛けたのだった。


(確かに、珍しさという点では大物かもしれない)

今、かれらは息を潜めて予期せぬ来訪者の動向を見守っていた。

「随分と岩の多い山だな」

「言い伝えによれば、大昔に山神さまを奉る者がいなかったので山揺れを何度も起こしたそうです。この地方に温泉が多いのはそのせいです」

「ふん、癇癪というわけか。……しかし静かなものだ。都では土蜘蛛のはびこる山と聞いていたがな。もう少し行ったら目印を付けて明日からはお前達だけで来れるようにしておこう」

山の中腹、十数人ほどの集団が草をかき分け登ってきていた。その姿を確認した狩猟班は、身軽な数人は木の上に、残りは岩とそして木の影に気配を殺して隠れた。

その中の少なくとも一人の男が、近隣のムラの者ではないことはその口調の端々、訛り、風貌にありありと現れている。

青背は、すぐに男が都の人間であると目星をつけた。それからおそれを知らぬ来訪者の内訳を確認する。男の連れてきたであろう、速津国の外出身の兵が十人。地元の兵が二人。案内役であろう速津の民が二人。その顔には見覚えがあった。


男達が歩みをゆるめた途端、青背が甲高く指笛を吹いた。それを契機に、周囲の仲間たちがそれぞれ、風のごうごうとすさぶような声、怪鳥のような叫びなどを一斉に合唱する。

ほうぼうから聞こえてきた異音に一気に一行の緊張が高まる。


「何だ!!」


言いながら先頭の男が見えない敵に向かって叫ぶ。地元の兵が後ずさる。先導をつとめていた男が一人、ひいっと声を上げて頭を庇う。青背が木の上から地を這うような声で問うた。


「『―――この山に何用だ?』」


山神さま、と案内役の男がうわごとのように言えば、先頭の男が苛ついたように視線を送って、敵の姿を見分けようと左右を素早く見渡す。しかし、それだけで青背達の擬態が見破れるわけもなかった。

「妖が、引きずりだしてやる」

言いながら男が弓を引き、茂みを狙う。

これだから神をおそれぬ奴は。

青背は呆れを隠そうともせずに木の上から弓を構えた。男の脳天に向かって狙いを定めると、矢尻を離す。

ばしゅ、と音を立てて矢が突き刺さったのは、男の足元の地面だった。青背が目を見開く。都人の数歩後にいた女が、彼を押しのけて矢を避けさせたのだ。

「賊だ、討て!!」


先頭の男が後退しながら周囲の雑兵に叫ぶ。だが瞬時に、カカッと音を立てて弓矢が足元の地面に刺さる。彼等が気付いた時には既に、左右、そして前後から囲まれていた。威嚇するように周囲の風が吹いて、木々を揺らす。張りつめた緊張が漲る中、青背は喉を唸らせながら強弱をつけた声を木の上から降らせた。


「『東国の山に住む荒ぶる神は、道行く者の五人に三人をわけなく殺すという』」

風が声の居所をごまかしている。弓を構えたまま、青背は確かに言葉やわらかに、しかし有無を言わせぬ様子で言葉を続けた。

「『お前たちが命より大切なものはないと思うのなら、我らは彼らよりも遥かにやさしいだろう』」


白に淡い黄褐色が混ざった、鳥の子色の着衣が先頭の男の上着から見えている。山に入るには少々目立つ色だ、と青背は思った。

男は顎を上手に上げ、厳しい口調で問うた。


「貴様ら、何が目的だ?」

「『おまえ達の旅の目的を問おう』」


青背は鷹揚に問い返した。


「―――貴様らの欲するような物は何も持ち合わせてはいない。ちょうど引き返すところだ」

「『都人よ、なぜここまでやってきた?』」


たじろがずに青背は繰り返す。納得する答えが得られるまで、もしくは真実を吐き出すまで―――大人しく帰しはしないだろうことは明らかだった。

男は、ある程度は腕に覚えがあった。


(射れ)


男が背後の兵達だけに聞こえるように、吐息に紛れて命令する。


兵達がはっとしたように弓を構え直すより先に青背が動いていた。木の枝を踏んで勢いよく落ちるように姿を現す。その手には懐にしのばせていた中型の刀が握られている。

男達がその顔を認知するより地面に伏せるように低く構えた姿勢から、飛び道具のように一瞬で直線状に距離を詰めてくる。先頭の男が同じく携帯した刀の側面で攻撃を身体の真ん中で受け止める。

「うっ」

青背の試すような突きの勢いに押されて、よろめく。片脚を咄嗟に後ろにやることで身体を支える。斜め後ろにいた都軍の兵士が槍を肩で構え、突き出してくる。素早く身を逸らして青背がそれを避ける。次の瞬間、ドッと音がして弓が槍兵の肩を貫く。身を潜めていた山守側の援護だった。

男を庇うために他の兵らが前に出ようと身を乗り出すが、四方から威嚇の矢が飛んできてはそれを拒む。それでもと踏み出した男達の太股に矢が突き刺さった。青背は先陣を切った男と刃を合わさていたが、それを見ると剣を一瞬で引き、不意を突かれた男の腕の関節を目にも止まらぬ速さで突くと、素早く脚で男の刀を蹴り抜いた。

不意を突かれた男が無防備になる。後ずさりしようとする男を逃さずに、青背はその衣の胸倉を掴むと、振りかぶり、反対の方角に投げた。


「ぐっっ!!!!」


片腕で全身を投げられて、衝撃に彼は受け身も捕れずに岩に打ち付けられて地面に転がった。

すかさず青背は獣じみた動きで飛び掛かると、転がった男を地面から引きはがすように髪を掴み、その喉に刃をひたりとつける。


「痛みを伴わないと生を感じられない人間はいる……」

その耳孔に直接声を吹き入れるようにかれは話した。

「おまえはどうだ?」


見開いた目に驚愕。耳に血が上っている。しかし、それをおさえて男は平静を取り戻す。


「―――貴様、何者だ?」

「それが問える立場か?」


青背は男の問いに即答した。先ほどから問答らしい問答をしていない。腕の一本や二本でも失わなければ分からないのだろうか、と真剣にかれは検討し始める。それとも仲間を先にやるべきか。


「よそ者が先に名乗るのが、道理だと思うがな」


揶揄の輝きは明らかに危険な色を孕んでいた。生かすか殺すか、確かにそれはかれ次第で決まる。


「月祖根殿……!」


思わずといったように成り行きを見守っていた案内役の女が声を引きつらせた。青背はそちらを見もせずに、男にだけ語りかける。よほど重要人物らしく、彼の連れてきた兵達は手だしも出来ずに固唾を吞んでいる。


「月祖根―――わたしはおまえ達がここにいる理由が知りたいだけだ」

「化け物に、いう事などない」


男、月祖根はそう吐き捨てた。


――――頭は良さそうだが賢くはない。

それが青背の男への感想だった。それは、見切りをつけるためだ。

その時の状況を考えて柔軟に変化することができない生き物は生きるのに相応しくない。それを身をもって教わる時が来たな、心の中で言ってかれは中剣を持つ腕に力を込めた。


その瞬間、首の後ろの毛がぞわっと逆立つ。警戒を最大限に高めろと本能、そして習性が全身に警鐘を打ち鳴らした。

自分の手の内にある男でもない。動けずにいる雑兵からでもない。もっと外部の脅威。

男を捕まえたまま、さっと顔を上げて、青背は肺いっぱいに息を吸い込んだ。


月祖根の鼓膜をつんざきそうな声量の、鋭い鳥を思わせる鳴き声が周辺に響き渡った。その瞬間に、すべての山守が目の前の獲物よりも自分の周囲に警戒を張り巡らせて臨戦体勢になる。


「駆け上がれ!!!」


続けて叫ぶと、青背はあっけなく月祖根を手放して、自分も近くの木の枝に腕を引っかけると猿のようにするすると走り上がる。

突然の逃亡に、残された月祖根達は何が起こったのかと、困惑の内にまごついた。だが、それも長くは続かなかった。


『―――――ゥルルッ!!』


獣の荒い吐息と唸り声。それが間近に聞こえた瞬間、目を瞠った月祖根の前に、突如巨大な物体が現れた。

薄い毛皮に覆われたそれは、月祖根が見たどんな生き物よりも大きかった―――そして事態を把握する前に、それは鼻息荒く、悲鳴を上げた兵の頭にがばりと噛みついていた。長く伸びた鼻とその下に覗くするどい牙。人の背を優に越す丈に、なによりも特筆すべきなのは胴体から伸びる八本の肢だ。

虎、と月祖根の頭の内に文字が掠める。いいや、どの話に聞く生き物とも違う。

狼のように鋭い顔つき、動けなくなった兵士を踏みつける筋肉質な脚―――八脚の獣。土蜘蛛。正真正銘の化け物。

獣は一頭ではなかった。巨大とまでは言わずとも、人の丈ほどもあるそれが二頭、三頭と集団に襲い掛かり、まさに入れ食い状態になる。きゃあきゃあと甲高い声が響き渡る。見ると、木の枝から人によく似た顔が幾つも覗いて、まるで囃し立てるように鳴いているのだ。猿であった。


目の前で繰り広げられる狂騒に呆然としていて、月祖根は口元を血で濡らした一匹が顔を上げてこちらを向いた時にようやくはっとした。 

よろめくように二、三歩後ずさる。すぐに木に後ろ手にぶつかっては、はっと視線を揺らす。傾けた左頬に、ばさっと何かが覆いかぶさる感覚があって、視界が阻まれる。

月祖根の脳内に八脚の化け物の姿が浮かび上がる。無我夢中で呻きながら彼は上体をかがませ、無我夢中で振り払うように動きながら足元を自由な手で探る。その手に触れた尖った石を掴むと、勢いよく視界を防ぐ生き物に向けて振り下ろした。

瞬時にぎゃっと声が上がり、締め付けが緩む。そのまま彼は勢いよく何度も何度も石を打ち下ろす。突如ぼとりと視界が開けたかと思うと、月祖根は地面に落ちたそれが猿だったことに気が付いた。

はあはあと肩で息をしながら彼は得体の知れない生き物から逃げるために逆の方向へと走り出した。悲鳴が後ろで上がっている。まだ息がある者がいるらしい。

しかしそれも時間の問題である。このままでは全滅する。何も分からないままに―――そんな事が。現実を受け入れがたく彼は息を切らせて足元の悪い山道を上がる。猿に飛び掛かられた時に引っかかれた傷がこめかみを伝うが、それも気にならない。

やがて視界が開けて岩場が現れる。見晴らしの良い岩場の先を見上げて、月祖根は絶望した。その岩場に立った人影のその最前線にいるのが、先ほど月祖根達を襲った相手だったからだ。

すっとかれが息を吸い込んで、月祖根の方に向かって叫んだ。

「死にたくなければ洞穴に隠れろ!」

予想外の言葉に彼は怯んだ。だが、右手から影が飛び出して岩場を予想外の速さで駆け上がっていく。いつの間に逃げ延びていたのか、速津の付き人だった。

彼女が無言で岩の洞穴に素早く駆け込んだのを見たのか、生き残りの兵がもう一人、命からがら足をもつれさせ飛び込む。月祖根は後ろを振り返って、木の合間を縫ってこちらに来ようとしている獣の姿を見た。

再び彼が前を見た。それは一瞬の事だった。景色がゆっくりと流れていた―――先頭に立った人影と確かに目が合ったのだ。かれは月祖根にまるで興味がなさそうにゆっくりと瞬きをしては、視線を逸らした。その風格。自然界の強者であるからこその、酷薄さ。それを確信した瞬間に月祖根は走っていた。その横を通り抜け、一目散にかれらの背後の岩穴へと隠れる。

岩の入口の前に山守が陣取る。月祖根は、岩陰から彼らの後姿に目を瞠った。




―――青背は岩の上に右足を乗せて、やや眉をしかめて獣達が来訪者を食い荒らしていく様を見ていた。秋晴れのからりとした空気を切って、赤色をした体液がななめに放射線を描く。 そこはおどろおどろしい食卓と化していた。逃げ切れなかった兵達が食い散らかされる、だがそれは自然の食物連鎖である。それ自体は問題ではなかった。

木の影からぬっと巨体が姿を現す。額に十字の古傷が特徴の、その生き物。赤子の目を思わせる丸々とした目は、しかし残忍な殺生を躊躇わない。例え同じ山に生きる青背達であってもそれは変わらない。かれらの目に映るのは獲物か、敵かだけである。そして、青背達はそのどちらにもなり得た。

獣が、土色の尖った口を開けて青背を見上げて話し出す。

『青の山守、現鼠あらねの王よ。お前達の後ろに隠したそれは我々への供え物か?』

旧鼠ふるねのみなみなよ、我々はあなた方に仕えているわけではない。もうその傷を忘れたのですか?」

口から鮮血を滴らせながら問う獣に対して、青背は冷静に言い放った。岩場から見下ろす構図は、数年前にかれらに対峙した時の事を思い起こさせる。

秋の山の風にのって、鉄の匂いが鼻腔にいやがおうにもまとわりつく。残りの三頭の仲間とが山毛欅の木の下、岩に足を引っかけて様子をうかがっていた。 

物怖じせずに、青背は宣言する。

「この山に入ってきた者は等しく我々の獲物でもあります」

『食うのか?』

「さあ、煮るか焼くかは我等の勝手です。それに、もう腹が十分に膨れるほど狩ったでしょう」

青背はちらと木の合間に見える散乱した遺骸を見て、そう少し呆れたように言った。庇っているなどと思われたくはないが、説明をする必要もない。かれらはどのような人間の事情を顧みはしない。

人と自然の隔たりは大きくなるばかりだ。だがそもそも和解など、人間同士でも稀である。このように獲物がかち合えば、新旧関係なく争うのが定めだ。


青背達が旧鼠と呼んでいるかれらがこの山を支配していたのは、青と白の一族が山に住みつき始めた時分―――つまりもう何百年も前の事だった。それを人よりもはるかに長い年月を生きる旧鼠はまるで昨日のことのように語る。旧鼠という名前にのっとって、青背たちの事を現鼠と呼んではいるが、実際のところいつだって再び窟屋に戻る機会を窺っているのだった。

とんだ獲物だ、と改めて青背は思った。面倒だが、誰も恨むことは出来ない。競争を生き延びることが出来なければこの山の山守としては相応しくないというだけの事だ。


猿が木の影から興奮したキイキイ声を上げる。人間によほど似たこの生き物はむしろ旧鼠よりも知能が劣り、青背達とも意思を疎通させることができない。旧鼠達に付き従ってはそのおこぼれをもらっている内に人の肉の味を覚えたようだった。今も青背達に向かってらんらんと目を光らせている。

喉を威嚇するように唸らせながら青背は泰然した姿勢をゆっくりと低めていく。


「猨まで連れて、にぎやかなことです。今にも飛びついてきたそうだ」

『山守であるおぬしらもまた人間だ、興奮してしまうのも無理はなかろう』

旧鼠の頭の嫌味が鼻について、青背は皮肉を返す。

「我々と下の人間の区別もつかないのか。あなた方の眷属でしょう」

『勝手に付き従っているだけだ』

け、と笑いたくなる。猿が興奮しているのは旧鼠の闘志が伝播しているからでもあった。本気でやる気かと問おうと思い、やめる。思考は無駄だ。それよりも息を読め。浮き出る血管。逆立つ毛の先。風の方角。

両者はじりじりと睨み合った。ふっと風の向きが変わった時、時機を待ち受けたように旧鼠が叫んだ。

「!!!」

ほぼ同時に岩の上から青背が下に飛び降りた。狙いは巨大な旧鼠の頭。木から飛び出して襲い掛かってくる猿には目もくれずに岩場をひらりと飛ぶように走る。途中で飛び掛かってくる猿を中型の剣で切り伏せる。悲鳴を上げて人によく似た身体がもんどりうって落ちる。

顔を赤くした猿達が歯をむき出して地を駆け、青背に向けて跳躍した。

「フッ!」

身を屈めて伸びた腕を避けながら下方から鋭く剣を薙ぎ払う。ぎゃっと悲鳴が上がって胴体を一閃された猿が地面に転がる。

次々と飛び掛かろうとする猿が空中で落ちた。見れば、矢が突き刺さっている。背後から同胞が支援の矢を射かけているのだった。旧鼠は木の境目まで後退している。代わりに木の影から突進してくる猿は見えているだけでも三十頭はいそうだ。

さっと青背の左右に狩猟班の次席のイタビ、秋津が踊り出た。二人とも弓の名手でありながら、近接戦闘でも青背の次ほどには優れている。顔色も変えずに飛び掛かる猿の群れに矢を射かけていく。

地面を蹴って、身を屈め青背は駆ける。

旧鼠の手前まで来たところで、遂に攻撃を仕掛けてきた。右から風を切って振られたその長い前脚を中剣で受ける。めり、と皮にめり込むような感触はあるのに、血は流れない。それ以上に切っ先が進まない。その四本指の掌は、重い胴体を運び地を貼って進むために見た目よりもずっと固いのだった。

旧鼠の弱点はその伸びた鼻面である。両手は中剣で塞がっている。青背は小回りをきかせてその場でコマのように左に数回転すると、遠心力を使って頭をもぎとる勢いで左から旧鼠の鼻づらを脚で蹴りとばした。当然人間相手ではないので、吹っ飛びはしないが、旧鼠はぐらりとその上体をゆらめかせた。

その頭に向かって中剣を振り上げた時に、ぎょろりとした目と目が合った。

しまった、時機を焦った―――。

ぱしっと音を立てて、中剣を掴んだ両手の甲ごとその器用な指先に空中で抑えつけられる。左の前脚である。

青背はさらに器用な足でもってその鼻先を蹴り上げた。体勢も定かではないが鼻白ませるくらいの効果はあった。そのまま空中で躍らせて、足底で目に向けて蹴りを繰り出そうとしたところで、目いっぱい手が振り払われる。


「うオッ………!」


思わず呻く。旧鼠の足は関節を伸ばせば中々に長い。思いっきり避けるように引き離されて体勢を崩す。そして怯んだ隙に右脚が伸びてきて青背の喉元を掴んだ。そのまま地面に引きずり倒される。喉にぐっと体重をかけられ気道が締まる。

両手も剣ごと地面に押さえつけられている。かっと目を見開いた青背の前で、旧鼠ががぱりと口を開けて顔を近付ける―――。

『ギュァッッ!!』

その鋭い歯牙が青背の顔面にかぶりつく前に、旧鼠を顔を大きく歪ませて叫び声を上げた。のけ反ったその頬に、矢が刺さっているのを見た瞬間、青背は腹筋を使って下半身をすばやく上げ、両足で自分の首を押さえている旧鼠の前脚の関節に絡ませる。そのまま折らん勢いで関節を締め上げると、首の締め付けが緩む。

再び矢が飛んでくるのを、旧鼠が手を振って避けている。

両手をどうにかしようと藻掻く青背の視点が変わる。掴んだ両手ごと持ち上げられた。盾にするつもりだ、と気が付いて、脚を振るが避けられる。空中に浮いたまま、両腕を伸縮させ、旧鼠の指の一本に噛みついた。特に尖った犬歯で、短い指を食いちぎる勢いで噛み締める。

旧鼠が苛ついたように、思いっきり青背ごと腕を上から岩場に叩きつける―――はっと一瞬骨が砕ける痛みを覚悟した青背だったが、背中は妙に鈍い弾力のある物体を叩いた。そこで自分が大きな猿の死体を下敷きにして衝撃を緩和したことに気付いた。

それは後ろで後ろで援護している秋津が咄嗟に投げたものだった。再び目の前の指に噛みついて、両足で関節を締めにかかる。旧鼠は唸り声を上げて、手を振り上げて青背の両手を離した。

勢いよく放られて、青背の身体は宙に浮いた。空中で横向きにぐるぐると回って、数秒の内に体を無理やりしならせてなんとか足から着地する。場所は苔むした岩とツタの境目で、足を滑らさないように踏みこたえてしなやかに着地した。捻り方を間違えればあばら骨が折れてしまう。

ぷっと、口から血の混じった肉片を地面に吐き出す。噛みちぎった旧鼠の指の一部だった。

「ア”ッッッ」

間を置かずにかれは鋭く咆哮する。岩場から援護の弓が飛び出る。残基もそう多くはないはずだった。早くにけりをつけなければ、とかれは弓の影に沿うように走った。 ギャッと悲鳴を上げて飛んできた猿を弓が貫通する。

目の端に、木陰から様子をうかがう牛ほどの大きさしかない未成熟の旧鼠の姿がうつる。かれらであれば問題もなく倒すことが出来るだろう。しかし、それでは意味がない。一族の中で最も強いもの同士が頭を突き合わせてこその戦いなのである。

再び眼前に現れた旧鼠の頭へ青背は向き合った。数百年に上ると言われるその身体は薄い灰色の毛に覆われている。背中の発達した筋肉は毛が薄くなっている。六脚で手には四本の指、顔は、ぐいっとすぼめたように鼻先が長く尖っている。

この個体は巨大になりすぎたがために、かつての俊敏さは失われている。かつて、すなわちかれらがこの山を支配していた時代の事だ。言い伝えによれば、東西南北に広く伸びる山間地帯に青と白の一族が棲みはじめた頃は、まだ彼らの天下であったという。それからしばらくして、何度も交戦を繰り返すうちに雌雄が付き、戦いに敗れたかれらは隣の山に移り住んだ。

そのため、こうして陣地を越えてやってくるのは稀である。

いっと、旧鼠が歯を見せて笑った。それは人間の笑みに近い。しかしかれらは威嚇か馬鹿にする意でしか笑わないのだと青背は知っていたため、さっと低い構えの姿勢を取る。

ギャオッと旧鼠が鳴いた。

「!」

その身体を伝って、旧鼠の背後に隠れていた猿が二匹左右から青背目掛けて飛び掛かる。一匹を斬り捨てたところで、もう一匹が右腕に絡みついて、手首に噛みつき、中剣を奪おうとして来る。

「チッ」と舌打ちをして、剣を内向きに持ち替え、青背はその猿の頭ごと拳のようにして岩場に叩きつけた。剣が深く獣の脳天を貫き絶命させる。その場でしゃがんだまま猿の口をがぱりと引きはがしてはっとする。ぶん、と旧鼠の前脚が飛んできて、さらに上体を屈めて避ける。

避けたと思ったが、旧鼠は右手の猿ごとその器用な指で引っかけるようにして剝ぎ取った。猿に深く突き刺さった剣も同時に持っていかれる。死体を後ろの山に放り投げておいて、旧鼠は青背に狙いを定めた。

左前脚が風を切って青背の胴体を狙う。かれは慌てなかった。ぎりぎりで躱してその掠めた瞬間い旧鼠の腕に腕を絡ませ、くるりと全身でしがみついてから素早く駆け上がり、圧倒言う間にひらりとその背中に飛び乗った。その剥き出しになった首に脚を絡ませようとするのを猿が邪魔をする。

脚で猿を蹴りとばしたが、続いて旧鼠の腕に邪魔をされる。背中から振り落とそうと、旧鼠が身体を震わせ、青背はたまらず後ろに思いっきり飛び跳ねて木の枝に乗り移った。

木の枝を伝って形勢を立て直しながら、猿の四方からの攻撃を受け流す。そこから、岩場の様子が見えた。もう一頭の旧鼠と組み合う山守。援護の矢が切れて、手持ちの刀で猿を追い払う山守―――その中に、輝く光を見つけた瞬間、青背は叫んでいた。

「早春! そいつをよこせ!!」

はっと電撃を受けたように一瞬動きを止めた少年の手から、さっとそれを奪ったものがいた。秋津である。高く弧を描いて放り投げられた剣が、太陽の光を反射してきらめいた。

ほぼ青背の頭上に来た時に、猿がしがみ付くように剣に手を伸ばすが、その重さに引きずられて木から落ちかける。重すぎてとても抱えきれないのだ。青背はその柄をすかさず握り、その勢いのまま飛び降りる。


『グアゥアアッッ』


頭上の様子を窺っていた旧鼠の肩にそのまま大剣を突き立てる。血が噴き出す。激しく立った足場が揺れ動く。打ち立てた杭のようにしがみ付いて、そして上体を持ち上げた旧鼠の前脚をそのまま、上から叩き斬った。


『ッガアアァァァア!!!!』


その一瞬後、旧鼠の上体が後ろに傾いで青背は背中から押しつぶされそうになる。間一髪でその下から抜け出して、かれは岩場へと駆け入った。

改めて距離を取ると、再び仲間を背中にして岩の上でざっと旧鼠に向き直る。そして低く屈めた獣の威嚇姿勢のままかれは吠えた。


「『退け!!!』」


それは人と獣の境目を行く咆哮だった。

これ以上は双方に甚大な被害が出ると見て、自分が有利な内に相手へ退却を促したのだ。戦わずに和解することはできる。しかし戦わずして強者の証明もまた出来ないのだった。

旧鼠の頭は唸りながら、青背を睨みつける。青背の隣に、ほかの山守が数人並び低い体勢から威嚇する。

『青の―――』

左の肩からボトボトと血を滴らせながら、旧鼠が呻きながら言葉を漏らした。その漆黒の目は青背を見据えている。

『その人の身で、どこまで行くつもりだ?』

かれは確かにそう言った。青背は答えることなく、大剣を片手で構え、切っ先で真っ直ぐに旧鼠の方向をさした。これ以上やるならば受けて立つ、という意思だった。

『おごるなよ新鼠の者……山に生きるのはお前たちだけではないこと……忘れるな………』

そう言いながら、旧鼠の頭は切り落とされた腕を拾い上げて口に咥え、後退し、山の奥へと消えて行った。まだ若い旧鼠、そして猿達がその後を追って消えていく。

しばらくして、完全にかれらの気配が消えてから青背はふっとため息をついた。

「青背さま!」

「全く、連中足が二本になって動けなくなるまでやりたいんだ」

先ほどの気迫は消えて、青背は疲れたように肩を回す。早春に持たせてい大剣の吊り布を受け取ると、くるくると手早く巻いて後ろで背負った。そのまま前に出ていた狩猟班の面々と共に再び岩場の上へと上がっていった。

岩の上には倒れた猿たちの死体がごろごろと転がっている。



―――外の戦いを隙間から遠目に見た兵はすっかり腰を抜かしている。岩陰には都から月祖根が連れてきたその兵と、もう一人、生き延びた速津の部下がいる。やがて外の見張りの一人が兵と女を連れて行こうとした。女は大人しく従ったが、兵は殺されると思ったのか激しく抵抗した。しばらくして痺れを切らした敵が、猫の子を掴むように兵の首根っこを引っ掴んで岩穴から引きずり出した。その時に一瞬見た被服の胸元に月祖根ははっとした。体格はしっかりしているが胸元が膨らんでいる。女の兵だ。やがて男の呻くような声が遠ざかり、聞こえなくなる。尋問か、それとも。

やがて再び見張りがやってきて、次は月祖根の来るように指示した。彼は一瞬躊躇って、それに従った。それは加害をおそれたからというよりも、先ほどの男のようなはずかしめを受けたくなかったからだった。

岩場に出て日光に目を細める。岩場の上には、見張りの女と月祖根だけがぽつんと立っている。右手に下る岩肌には幾つもの猿の死骸が落ちているが、先ほどまでいた集団は影も形もない。やがて左に小高い岩壁の続く足場をさらに進むと、三つの人影が見えた。

ひとりは最初に月祖根達に攻撃を仕掛けてきた人物で、岩の上に腰かけている。もう一人は速津の部下で、膝をついて地面に座り、両腕を後ろで戒められているようだった。最後は、女の後ろに立ち見下ろしている黒髪の女だ。

都から連れてきた兵はどうなったのかと、月祖根は目線をさっと流す。それに気が付いたのか、岩の上に腰かけた青年が「やかましいので隔離した」と言った。その掠れた声は生来のもののようだった。

がっと、膝の後ろを蹴られてその場に膝をつかされる。

月祖根は顔を上げて相手を改めて見た。都でも馴染みのない異人めいた風貌だった。

薄浅黒い頬に、夕焼けの雲間を挟んだような色彩の目。濃く短い眉毛は吊り気味なのに対して目尻はどこか眠そうに垂れている。髭を生やしていないために、しっかりとした顎の線が見て取れる。何よりも特徴的なのはその眉間から鼻筋、そして頬を通る三本の紋様が顔に描かれている事だった。

狼のような雰囲気を持つ得体のしれない生き物。まるで平らな地面を歩くように岩場を走り抜けた様には、体幹の強さがうかがい知れた。

一体何者なのか―――魔物と呼ぶにはあまりにも人間に近い形をしているが、人間とするにはあまりに並外れているように月祖根には思えた。

「どうして都人というのはこうも」

そう言って青背はぐいと彼の襟をその口調よりも乱暴な調子でひっつかむと、無理やりその場に立ち上がらせて、そのまま前襟のにおいを嗅いだ。

「やたらとお上品なにおいなんだ」

面食らう月祖根の前でそう独り言を言って、かれはぱっと手を離す。ほとんどかれの腕の力のみで持ち上げていたため、そのまま月祖根は再び地面へと崩れ落ちるように膝をついた。一瞬立った目線はほぼ同じだった。

「さて」

やがてかれが切り出す。

「おまえが噂の都の役人かな。速津のところで何をしている?温泉につかりにきたという訳ではないだろう」

月祖根は押し黙った。勿論得体の知れない敵に対しての反抗の意志もあったが、改めて自分が理解できる人語がかれから出てきた事に衝撃を受けていた。それほどまでに人離れしていた、先ほどの立ち回りは―――。

六脚の巨大な化け物を相手に対等に戦い、その上何やら意思疎通をしていたさまを月祖根は思い出した。

言葉が通じる分いくらかましだが、それでも戦いっぷりを見るに当たって、やはり人の形をした化け物としか思えない。こうした地方には荒振神と呼ばれる、土地神が棲みついていることがある。直接相対するのは月祖根にとっては初めての事だった。

かれは観察するような目つきで月祖根を眺めて、懐から尻が鉤状になった小刀を一本取り出した。その尻に小指を差し込んで、手でくるくると弄ぶ。

理由もなく取り出したとは思えない。それでも月祖根は目を逸らさず、相手を見据えたおそれは弱みを見せるのと同義だ。そして相手の強さを認める事に他ならない。それはいずれ信仰に繋がる。それを許容することは断じて許されなかった。

一瞬だけ、月祖根を見下ろすその瞳の奥で赤碧玉のような光が踊った。その時、ふっと鉤状の開いた穴が指を通り抜け、小刀が月祖根の目の前に零れ落ちる。

その機会を見逃さず、月祖根は素早く手を伸ばしていた。誰が触るよりも早く、その小刀に到達できると直感的に確信した―――。


「ぐっ!」

「いい反応だ」


褒めながらも、青背は月祖根の手を足で踏みつけて地面に縫い留めていた。もう片方の足で小刀を蹴りとばすと、仲間の女が拾い上げる。

次の瞬間にはかれは素早く後ろに回り込んで、月祖根の左腕を背中ごと膝で抑えつけた。右手は片手で押さえているにも関わらず、まるで民話に出てくる怪力の手力男神に押さえ付けられているかのようにびくりともしない。


「おまえの飼い主は……犬にこそこそと嗅ぎまわらせて、何を考えている?」


そんなこと私が知るか、と言いたくなって月祖根は唇を噛んだ。全て分かるものならば。そんな人間になれたならば―――。

代わりに彼は呪うように言葉を吐き出した。


「化け物が知ってどうする……」

「確かにそうだ」


それはとても冷静な声だった。その声からは月祖根に対する怒りも苛立ちも、憐憫さえも嗅ぎ取ることはできない。だが次の瞬間、ボギッという、ふとい枝を折るよりも少しだけ重い低音が岩場に響いた。


「~~~~~ッッツ………!!!」


声もなく月祖根は叫んでいた―――彼の上で、敵は無造作に右腕を掴んで、肘の関節から真上に折り曲げたのだった。逆の方向に折っただけだ、とでも言いたげな気軽さだったが、もたらされる痛みは計り知れない。

月祖根が脂汗を滲ませて折られた腕を握り爪を立てる。はくはくと口が何かを吐き出すように動いてから、それからぎゅっと歯が食いしばられた。














―――月祖根という男の腕を折った。痛みに声を上げないのは衝撃のためかとも思ったが、様子を見るに少しは痛みへの耐性があるようだ、と青背は分析する。

「死んだ方がましだと―――旧鼠に喰われていれば良かったと思うような痛みを知っているか?」

そう言いながら、ドク、ドク、と心臓がいつもよりも早く鳴り始めるのを青背は感じていた。考えていたよりも面倒くさい事態になっている。その確信があった。


一夜でなんと急変してしまうことか。昨夕見た、不吉を知らせる鳥が青背の頭を過った。

かれはまだ穏やかさを残した昨夜の事を思い起こす。





―――――

日が暮れてから夜の時間は早い。山守の面々も朝に備えて早々に床に着く。しかしその夜は頭首自身が岩の通路をひたひたと歩いていた。窟屋の奥の奥へと飲み込まれるようにかれは歩を進める。時折夜衛とかち合っては手を上げて無言の挨拶をする。

やがてかれは最奥近くの、ほかの窟屋から離れた一際大きな岩の前で止まって、その隅に立つ見張りにくいと顎を上げて合図する。見張りが岩の隙間から振音と呼ばれる小さな鐘を静かに鳴らした。青背が近寄れば、中から話し声が聞こえてくる。「わたしだ」と声を掛けると、入れと許しが出る。

頭首であっとしても彼女の許しがなければ寝屋に入ることはない。青と白という二大頭首の制度の中にも明確な区切りがある。ここではすなわち白の絶対権利。

青背が中に入ると、そこには二つの影があった。一つは素枝。もう一人は当然、この窟の主だ。

炬火が二人と、その側に置かれた仮面の影を伸ばしている。


「青背」


名前を呼んで、彼女が視線を寄越した。

数日ぶりに見たからなのか、くらりとするほど眼力に圧される気がした。それとも自分の寝不足がすぎるのだろうか、とかれは首を傾げたくなる。仮面を外した時の白妹の瞳の圧は時折こわいほどなのだが、いちばん近くでそれを浴びているはずの侍従はどうともないという風にしている。そもそも白妹に見つめられるという機会がない人間の方が多いのだ。


外用の衣を脱いで淡香色の内着を纏ったそのひとは、普段仮面の下で隠れて見えない豊かな黒髪を床にまで流している。片膝を立てている事から、ゆっくりと寛いでいる様が伺える。それは青背が窟屋の中に入って近寄っても変わらない。


彼女の真正面に立てば、長すぎる髪を真ん中で分けたその額がはっきりと見える。

白い二枚貝をすりつぶした粉を基にして作ったような胡粉ごふん色の白い額には、しっかりと横に二本、縦に一本の墨紋様が彫られている。それは青背の顔にもある紋様と似て非なるものだ。

その睫毛は濡れたように濃く、頬に影を落としている。整った眉に眉間から抜けて小気味よく収まった鼻。血色の良い唇。大きな瞳。決まりごと故、多くに見せないその顔は間違いなく秀でていると、青背は改めて思った。しかしそれを口にする事もなく、かれは会話を続ける。

「昼は悪かったな、あんな男に触れさせるなんて。きみも不用意に近寄るなんてらしくない。危なかったぞ」


言いながら青背は彼女の向かい側に座った。かれの来訪のためにそこには常に毛皮の座布団が敷いてある。


白妹とその斜め後ろに控える素枝の背後には戸棚や香炉といった調度品が並んでいる。この筑紫島は、大陸にほど近く、北方からも海流を利用した海運貿易によって様々な文化品が流入する。山の奥であってもその恩恵は顕著だった。

松明が当代の青の憂いを帯びて見える顔を照らしている。丁子色の焼けた肌の上にも明らかな、目の下をくっきりと縁どるもはや紋様のような隈。山守の一族の中でも体格は良い方だ。巨人と言うほどでないが、大陸から来る装束を着ても様になった。

そんなかれを見つめながら白妹が応える。


「あなたの手をわずらわせて悪かったけど、大した人間じゃなかったわ」

「そんなことを言って不愉快そうにしていただろう」

「仮面を被っていて表情が分かるの?」


パチリと音がしそうに瞳を瞬かせて白妹が問う。


「仮面を被っていた方が分かりやすい。きみは嘘が上手だから」

「あなたのためにならない嘘はつかない」


どうかな、と言って青背は肩を竦める。そうして、思い出したように後ろに隠し持っていた容器を取り出す。片口と呼ばれる、口縁の片方に注ぎ口がついた酒器だ。


「酔っている時は少なくとも素直なんだが」

「!芋酒がもう出来ているの?」

「うん、高泣にさっき取っておいてもらうように頼んでいたんだ」


にや、と歯を見せて笑うとかれはそれを床に置いた。白妹がふわりと眉を上げるのはもちろん、素枝の瞳もきらりと輝いたのを確認する。


「今年初の芋酒だ。特別に出来たばかりのものを分けてもらったんだ。特選という奴だな。すぐにつまみもくる。おっと、素枝の味見が先だったね」

「毒見です」


訂正しながら白妹の侍女である彼女は杯に手を伸ばす。長年白妹に好き従っている彼女は青背とも同じくらい付き合いが長いのだが、常に一歩距離を取った姿勢を崩さない。しかし丁寧に見える物腰の割りに青背に対してはずけずけと遠慮がないのは一族の誰もが知るところであった。

ごくりとその液体物を嚥下して、彼女は冷静に言う。


「大丈夫です」

「他には?」

「……美味しいですよ」


すかさず感想を訊いた青背にどこか悔しそうに答える。やがて外の見張りによって鳴らされた振音の音が窟屋に届いた。


「おっ早速来たかな」


料理番の誰かかと期待して振り返った青背の耳に届いたのはしかし、控えめな男の声だった。


「青背様、【足】です」

「ああ……足か」


そういえば彼もまた予定されていた来訪者だったかと思い出して、青背は思案するようにちらりと白妹の方を見た。

白の素顔を人目に晒すのは、伝統上あまり好ましくないとされていた。山の神を媒介する、山守の中でも異質であり最重要の位置を占める彼女の神性さを保持するためというのが理由だ。しかしそれも白妹次第で絶対ではない。姿勢を正して白妹が答えた。


「入ってもらって構わない」

「失礼します」


そう言って『足』は中に入って来た。

彼は白妹が仮面を脱いでいることにはっとした様子だったが、すぐに頭を下げた。彼女の素顔を見る事は滅多にないが、初めてではない。山守を助け、ひいては山に仕える彼らはその任に付いた時に青と白と両方に面会する。山守以外で唯一、山守と連絡手段を持ち、彼等のために近隣の村を渡り歩いて情報や素材、時には貿易品や嗜好品を持ち込むのが足の役目だ。

青背にも理解の及ばない、山が選ぶ山守の外から来る使いの者達。彼らは強い山岳信仰が脈々と続くムラから出る事が多かった。

男はここ一年ばかり仕えている。山守達の衣類とは一線を画す麻で出来た簡素な貫頭衣から太めの腕が覗いている。


「今日妙な男が山に迷い込んでいた。西のムラだと思うんだ。何かから逃げているようでな……何か知らないか?」

早速青背は本題に入った。足は心当たりがあるように頷いた。


「市場で山裾のムラの噂を聞きました。娘が殺された話です」


そう言って男は話し出した。

速津には地元の海の幸山の幸、貿易品の並ぶ最大の市場がある。そこでは諸外国から周辺のムラ、そして首都の情報や噂が飛び交っている。今朝は山裾のムラで殺人が起こったというのが話題に上ったという。男女の痴情のもつれから、ムラ長の息子が女を殺した。男は村を追放され、その後女の体は山のふもとで見つかったという。


「ほかの人間の話では、男が山へ逃げ込んだというのも聞きました。それも山神さまに裁かせるためではないかと……」


足はそう付け加えた。噂に尾ひれ背びれがつくのは元々だ。その中から最もありそうなものを慎重に選んで報告する足の能力は彼のその控えめで朴訥な性格あってのものだと、青背は評価していた。


「下にとっての厄介者を山に押し付けるのはいい加減やめてほしいな」


やれやれと言うように枯茶色の髪を振って、青背は片頬をついた。山はそれに必要ないものは排除する。そしてその自浄作用を助けるために山守は存在する。実際山へは奥まで入りすぎなければ問題ない。ある一定の線を越えなければ、そもそも認知することが難しいと白妹は言う。実際そうして山のふもとのみで狩りをするムラの人間もいるのだ。互いにうまく混じりすぎず生きてきたのに、その意味を違える者が増えてきたのは面倒だ、と青背は独り言つ。


「それから気になることがもう一つ。都からの役人が速津に来ているという噂です」


それを聞いた瞬間、青背がぴくりと眉根を上げた。白妹も表情こそ変えはしなかったが、空気に少しの緊迫が混じる。


「上筑紫に挙兵しているやつらか」

「それと同じなのかは、まだ。しかし先の春にかけて岩国の岬に住まう神を襲って滅ぼした話は有名です。筑紫島も手に入れるために動いているのは間違いないでしょう。速津まで役人を寄越したのは、そのための偵察かと」

「都軍の狙いは熊襲くまそだったわね」


白妹が言う。足は頷いた。熊襲は筑紫島の南部に住まう一族であり、その勇猛さ、激しい気性と秀でた戦闘能力で知られていた。山守達とは違いかれらは公に生きるものである。そして朝廷に対しても強固に反抗の姿勢を示しているために朝廷軍に敵視されているのだった。


「朝廷の頭首の名を何と言ったか」

「ええ、纏向日代宮の大足彦天皇と言うそうです」

「長い。どうしてあいつらはそうも長い名前を使いたがるのだ」


呆れたように青背が言う。実際舶来の長々しい文書に目を通すこともあるかれにとっては問題ないのだが、「権威を表すためかと……」と生真面目に足が返すと、まさにそれが気に入らないのだというように鼻を鳴らした。


「それで、もう少し何か聞いているか?その役人連中だ」

「数は多くないとのことです。むしろ護衛兵を含めて二十人ほどだと。もちろん速津の国の視察と銘打っていますが……内々の話だと、土蜘蛛の討伐も考えているのだとか」

「ツチグモ……」


舌触りの悪そうに青背は繰り返した。


「彼らは都軍に対抗しそうな神々や地元の部族をまとめて土蜘蛛と呼ぶようになりました」

「ずいぶんな傲慢」


白妹が冷たく言い放った。それをちらりと横目で見ながら、「荒振神からひどく降格したな」と皮肉を飛ばした。


「我々だけを敵視しているの? 今下を治めているのは早津のはず」

「それがまだ早津がどう関係しているか詳しくは……」


足は白妹の質問に気圧されたように言葉を濁らせた。彼女は悔しそうに柳眉を寄せる。白妹にとって、山の事は手に取るように分かるが、山の外で起こっていることに対しては無力に近い。山神の媒介者である以上当然なのだが、彼女自身にとっては挫折に近い感覚だった。そんな彼女の様子を気にしながら、青背が「ほかには?」と確かめるように聞けば、「主な話は以上です」と足は返した。


「遅くまでご苦労だったな。もう少し早かったらお前も狩りの祝いに参加出来たのに」

「いえ、拙生がゆっくり登ってきたせいですのでどうぞお気遣いなく」


青背が労いの言葉を掛けると、足は丁寧に頭を下げた。素枝とはまた違った生真面目

さである。ふと白妹の方を振り返って、青背は芋酒に目を留めた。


「ああ、おまえも少し吞んでいくか?なあ、白妹。ちょっとはいいだろう?」

「そ、」


白妹が何か言う前に足が声を上げた。

「そんな、とんでもありません」

三人の視線が再び集中したのに、声量を間違えたのだと気が付いて足は再び顔を下げた。やや長めの髪が岩肌に垂れている。

「どうしてそう今日は顔を―――」

下げるのか、と言いかけて、青背はいつもと違う事を思い出して「ああ」と合点がいったように言った。

「白妹が仮面を外しているから見慣れないのだろう」

ぎくりと青年の図体が揺れる。図星のようだった。

「……その、勝手に面映ゆくなってしまう自分が悪いのです」

少し顔を上げたその垢ぬけない顔は赤くなっている。思わず青背と素枝が顔を見合わせた。面白そうに青背が笑みを作るのと相反するように素枝は渋い顔をしている。

確かに足でこういう事を言うのは珍しい。明らかに白に対して畏敬というよりも憧憬に近い感情を抱いている。しかしそれ自体は素枝も同じことだ。それに対しては、彼女らがあまりに近すぎるからだ、と青背は考えていた。

そして足に対してもそう困ることはないだろう、と思い直す。何にせよその思いが成就する機会などないのだから。


「面食いという奴だな……」


と、青背は重そうな瞼をさらに食い込ませてわざと難しそうに言った。すると、足は本気にしたのか、慌てて顔を上げて反論する。


「いえっあの……仮面を被っていてもその心身の美しさがにじみ出るようです…本当に……」

青背は今度こそ目をパチリと開けて驚きを表した。

「ははあ」

そして合点がいったぞ、と言わんばかりの声を漏らす。これではもう惚れたと言っているようなものだった。足は今では青くなったり赤くなったりしながら、その場から逃げ出したそうにしていた。


「いやっ…口が過ぎましたお忘れください。それではこれで し、失礼します」

「まあ待てよ」


どもりながら言う足を引き留める。そこで岩屋の外から振音の音がして声がかかった

「高泣です。肴を持ちました」

「ああ、悪かったな」

「どうぞ」

白妹が言って、料理番が入ってくる。

「おまえも朴訥なやつだと思っていたが、まさかそういうことだったとはね。高泣、知ってたか―――」

「ええ?」

「青背様お願いしますから……」

近くに来た高泣に話を振る青背を足が泣きつくように止める。

「青背、」「頭首」と白妹と素枝が同時に制止の声を上げた。結局うやむやの空気のまま、足は逃げ帰るように高泣と岩屋から退散していった。

去った後に青背は特に気にした様子もなくニコニコとしながら「しかし話に聞く人の色恋ほど見ていて楽しいものはないな」と白妹と素枝に向き合って発言した。

「横恋慕でしょう」

すかさず素枝が口を入れる。

「そうだな、おまえの恋敵登場だ」

青背も間を置かずに返す。

「……言っている意味が分かりません」


苦虫を噛みつぶしたような顔をして素枝が会話を終わらした。白妹がため息をつく。しかし、目の前には高泣の持ち込んだ酒の肴と芋酒が待っている。難しい顔もそう長くは続かなかった。


―――その時に食した何枚にもおろされた鴨肉の塩漬けの、やや褪せ紅色をかれは思い浮かべた。

そしてそれを見るのと同じ目で、月祖根を見た。

土笛であれば、音が鳴らなければ鳴らすべく相応の努力をしなければならない。そしてそれが功を奏さなければ、器ごと割って捨てるのだ。

「我々のほうに被害が少なくて良かったな。おまえ達のために、だ」

そうでなければ男達を生かすほど青背の気が長く持たなかったはずだ。かれは痛みに呻いている男の折れていない方の腕を掴んで立たせら上、首を真正面から掴んで岩肌に押し付ける。都の人間はやはり上背ばかりがあってひょろひょろとしている印象だ。先ほど立たせた時に思ったように、段差なしではおそらく青背よりも背が高い。

男が暴れだす前に小刀を秋津から受け取り、ひゅっと風を切った。

薄皮を隔てて頭蓋骨に切っ先が当たる。切り裂いてはいない。当てているだけだ。しかし尖った切っ先は額をかち割って、血が両頬に向かって鼻筋から多岐を作る。

与えているのは痛みよりも、直接的な死への恐怖だ。生き物として根源的な恐れ。


黙って押し付けたままその細面を見ながら青背は、典型的な新都の人間の顔だな、と感慨もなく思った。食いしばられた歯だけが、珍しく上下嚙み合っている。

それ以外は、何を考えているか窺い知れない狐のような細目に、黄身を帯びた肌。鼻は長めだが、唇は薄くて全体的にのっぺりとした印象など、以前山に不用意に立ち入っては捕まっていた都からの旅人と同じ特徴だった。

巷の化粧をのせれば印象が変わりそうだな、と思う。例えば白妹のように、そんなものがなくても強い印象を与える深い眼窩や、陰影のはっきりした顔の造りとはまるで違う。


かれはぐいとその襟首を掴んだ。折れた腕が痛んだのか、男が小さな呻き声を漏らした。堪えてはいるものの、その青褪めた顔に脂汗が滲んでいる。

青背は軽蔑を隠そうともせずに目を眇めて男を観察した。あまりにも脆い。自然を離れて生きる人の、なんと弱い事か。


「月祖根どのはなぜこの国にやって来た?おまえだけではない……噂は聞いているよ、北筑紫に朝廷の船が泊まっていると。おまえ達の語る妙な話もな―――自分たちのことを神と称する地の民がいると」

「………言う気はない」


月祖根は青背を睨みながら言い切った。青背は、気にせずにそのかぶりをぐらりと左に傾げた。


「実際どうだ?そのあらひと神とやらを見た事があるのか?おい。先ほどのいきものを見たか?あれがおまえらが荒振神と呼んでいたものだぞ。あれよりも、我々よりも、真の荒ぶる神よりもおまえらの頭は強いのか」

「大皇を侮辱するな!」


月祖根が声を荒げた。


「侮辱ではない、おまえが知っているかと聞いているだけだ」


青背は問答を続けた。月祖根は相変わらず、誹りをうけたかのように怒りを露わにする。


「大皇のことを知りもせずに―――」

「ならばおまえは知っているのか?見た事があるのか?」


青背は続けた。神をも殺す神と呼ばれる人間。強大な朝廷という組織を束ねるその人物。どこか滑稽に思えるほどのその逸話。その思惟が、目的が、何か謎めいて大きなものに思えてならなかった。そしてそれに従う月祖根のような人間もまた。


「理解に苦しむ。今、この瞬間に―――お前の命以上に大切なものなどないというのに。どうしてそう難しくする必要があるのだ?」

「全ては、大皇とその御代のためだ」


―――言いながら、月祖根はその台詞をなぞる自分に気が付いた。

『全ては、大皇とその御代のために』

母はそう言って、彼を送り出した。月祖根は何かを言おうとして、言葉にすることが出来なかった。肩から下げた長い領巾を母が振った。それを振り切るように前を向いて、月祖根は二度と振り返りはしなかった。脳裏に彼を見送る母の領巾の真白さだけが焼き付いていた。


「殺すならば殺せ」


いつまでたっても月祖根から言葉を引きずりだそうとする輩に向かって、彼はそう吐き捨てた。 自分が戻らなければ。いずれは、滅ぼされる相手だ。

そう、自分はここで終わるのがさだめであったのかもしれない。

相手の鳶色の瞳から一切の温度が失われる。その獣の瞳を月祖根はずいぶん長い事知っていた気がした。月祖根のこめかみをかれの手が覆う。後頭部を岩壁につけられて、首があらわになる。

間違いのない死の予感。ぐっと唾を飲む。この化け物に一矢報いてやりたいと、一瞬そう思った。しかし同時に生き物としての本能と、彼の悲しいほどに理性的な客観がそれは難しいだろう、との判断を下した。

どちらにしろ戻らなければ、大安彦の知るところになる。それはいずれ大皇に伝わり、この速津国は反乱分子と認められ兵が送り込まれるだろう。自分の知らないところで彼らは討伐される。自分の死はその礎となるのだ。

月祖根は歯を食いしばって覚悟を決めた。

その時憐れみなのか、それとも単純に疑問なのか―――月祖根の処刑人が呟いた。


「この瀬戸際で、そいつのために命を捨てようと言うならばおまえは本当に、馬鹿だ」


躊躇いはなかったはずだった。覚悟を決めたと思ったからこそかもしれない。馬鹿、という言葉が彼のこころに無防備なほどに突き立った。その瞬間、お前に何が分かるというのだという反発心と、幾つかの記憶が彼の脳裏に影絵のように通り抜ける。日に透かして見えた新緑の輝き。土のにおい。手に触れた皮虫のやわらかさ。変わって、都の雑多な空気。真新しい宮の木骨の模様。幼い自分の手を握ったその人の手の温度。月祖根を慈しみ育てた母の姿。

ああ、慈しみというよりもそれは執着に近かった。 


「―――それ以外に、道があったというのか」


思わず口をついて出た言葉に月祖根は一瞬置いて自分でも驚いた。目の前の蛮族に訊いても仕方のない事なのに。何かが堰を切って湧いたように出たのだ。不意を突かれたのは月祖根だけではなかった。


「……さあ?」


かれはそう言って、一瞬だけ、手の下から見た月祖根がはっとするほどに幼い顔をした。毒気が抜かれたと言ってもいい。しかしすぐにかれはその翳りを帯びた神妙な表情にかえって、沈黙した。

数秒待っても、刃が振り下ろされる気色がない。ふと、かれは月祖根を害する興味を失ったようにぱっとその手を離す。こめかみがずきずきと痛んで、月祖根は顔をしかめた。そのせいで折られた右腕の痛みがいっしゅん紛れたのは幸運かもしれない。


「もういい」

「は、」


その敵の頭目が何かしら仲間へと合図をする。見張りの女がやってきて、月祖根の二の腕を掴んで雑に下り坂になった岩の方へと歩き始めた。その後ろから、速津の部下の女が他の郎党に連れられて歩かされているようだった。

そのまま坂を下って下まで行くと、例の都軍の兵士が一人の見張りの足元に座り込んでいる。月祖根を見上げて、うわごとのように何かしら呟いた。見張りの、若い郎党がきっと月祖根を睨む。

「行け」

月祖根を連れてきた見張りの女がそう言った。髪を太い束にして後ろで編んだ体格の良い、おそらく壮年の女だった。

月祖根は、右腕を庇いながら後ろに後ずさりながらもその意図をはかりかねて女を見返した。なぜ月祖根達を解放したのか、そしてかれらは一体何者なのか―――しかし教えられずとも、月祖根はどこかで理解していた。この人並み外れた戦闘力を持った一族が山神。否、土蜘蛛だ。それは人のかたちをした何か。


「………お前達は……」

「見ろ、骨被あらかむも来ているぞ」


声が上から降ってくる。月祖根が見上げれば、小高い岩場の上に土蜘蛛の頭首の姿があった。慣れたように岩場のへりに立って、山の方を見下ろしている。その方角を月祖根達は見て、ひゅっと息を止めた。

空に向かって伸びあがるようなひときわ高い山毛欅の木のてっぺんに人の背の丈ほどもある巨大な鳥がとまっている。それだけならまだ理解できる。しかしその頭には鳥の顔の代わりに、人の頭蓋骨が据えられているのだ。

ぽかりと空いた左右の空洞の向こうから、眼下の人間達の様子をじっと見つめている。


「次のやつの頭になりたくなければ、尻尾を巻いて逃げ帰れ!我々が仕留めた方が早ければそうするぞ」


土蜘蛛はそう声を上げた。ヒイヒイと短く悲鳴を上げながら、都軍の兵士が駆け出した。岩場を不格好に落ちるように逃げていく。その後に速津の部下が続く。途中で、くるりとこちらを振り返って、「月祖根どの!」と叫んだ。

名を呼ばれてはっとする。そうだ、下山するのだ。逃げなければ。 よろめくように足を踏み出す。土蜘蛛が手を出す気配はない。それであってもいつ気を変えて攻撃してくるとも知れなかった。

だが、乾いた白褐色の岩場の上で月祖根ははたと立ち止まった。

自分が送られた目的を思い出したのだ。大皇はこのことを知っているのか。この人知を超えた土蜘蛛のことを。かれらが化け物であっても、いや化け物だからこそ―――何かしら情報を持ち帰らなければ。それこそが彼の存在意義だった。

彼はその無謀なまでの使命感に駆られて振り返った。小高い岩場の上、土蜘蛛の頭首が片足を岩の上に置いて獲物が逃げていくのを見下ろしている。その後ろに幾つかの人影が見えた。空は青く澄み渡っており、風が岩場の周りの一切を染める常緑を揺らしている。

「お前は」

言って、月祖根は何を言うべきか言いあぐねた。既に同じことを言って、答えは返ってこなかった。ここに来た時から、問答は平行線を辿っていた―――真実の問いだけが、真実の答えを得られる。

土蜘蛛の頭首の後ろから、弓を持った女がぬっと出てきて月祖根に向けて矢を射る構えを取る。岩場の下にいる二人が痺れを切らしたように月祖根に向かって歩き始めた。かれらにとって月祖根が生きて戻るかなどはおそらく問題ではない。これ以上の猶予は残されていないのだった。

それを悟った時に、月祖根の口は自然と問いかけていた。

「お前の、名はなんと言う?」

無感情な獣の瞳を持った土蜘蛛の頭は、その場で音もなく立ち上がった。砂色と枯色の岩の上に広がる、蒼い背景を背を真っ直ぐに立っている。かれの編まれた細い髪が風に翻った。その鼻筋を白い指先でなぞったような紋様。はるか上からうっすら目を開いて月祖根を見下ろしている。強者故に許される傲慢。


「青背」


その唇がまぐれのように名を落とした瞬間に、弓もまた放たれた。鎖骨の上、右肩を掠める。月祖根は身を翻す。そのまま全速力で走って、一度も振り返らずに、肺が破れそうなほどになるまで走り続けた。枝の間をかき分け、木の根につまづき、何の音かも分からない声を耳の端に引っかけながら一目散に逃げた。


ただ振り切れたように生存本能に突き動かされるような脳内を、今しがた聞いた声ばかりが反響していた。人と獣神の間を地で行く土蜘蛛。速津の山神。


青背。


青背……






旧鼠が残した遺骸を目指して屍肉漁り達が集まり始めていた。親指ほどの大きさの黒と白の模様が身体に巻き付いた模様の歯朶黒雀蜂がどこからともなく飛び交って岩場に散らかった猿たちの死骸を査定している。

後は屑拾いに任せる、と青背たちは早速退散を決めることにした。何にせよ旧鼠が派手に暴れたために、鳥も獣も警戒して寄ってこない。それ以前に、弓の残基もなく狩猟班の気分も体力も削がれてしまっていた。


常に二、三十人程度で構成される狩猟班で、今回狩りに参加していたのは九人だった。かれらはさらに足場の険しい山道を登りながらそれぞれ軽口を交わす。空籠を背負って手持無沙汰なのでほかにすることがなかった。

「また派手に浴びましたね」

秋津が青背の一部血を吸って暗く褪せた紺鼠色の上着を見ながら言う。

「おう、気に入りの服じゃあなくて助かったよ」

そう返した青背の背中に、早春が「あのクロテンのやつじゃなくて良かったですね!」と声を掛ける。そんな少年に、秋津は 「ばかね、青さまは狩りには絶対つけてこないよ。礼服よ、あれ」と呆れたように言う。クロテンの、とは青い絹布の縁を毛皮で縁取りした衣装の事だった。西の大陸では貴族が好んで使用する最高級の毛皮とされていて、青背も祀りの時でしか着ないようにしていた。

「分かってる、言ってみただけだよ」

「そんなに好きか、あのクロテンの毛皮」

口を尖らせて言い返す早春に、前を向いたまま青背が言った。

「! あ、はい!」

「今度木剣の仕合いでわたしから一撃取れたらやろう」

「本当ですか……!」

ぱっと早春の表情が明るくなり声が上ずる。

「甘やかさないでいいですよ、この子青さまのお下がりだったらなんでも嬉しいんですから」

「秋津ゥ!」

すかさず言った秋津の肩を早春が掴んで文句を垂らす。

ふ、と青背が笑いかけた。だが、巣穴に近付くと同時に微妙な空気の変化を感じ取り、眉を上げる。速足で岩壁の隠れ通路を通って岩場へ登りつく。やけに窟屋の方が賑やかだった。さっと顔色を変えて小走りで駆け寄ったが、どうも予想していた様子と違う。

広場には数十人が立って和気あいあいと談笑している。その中には白妹もいた。

輪を描くようにして集まったその中央に、赤子を抱いた女性がいる。


「……帰ってきていたのか」


虚をつかれたように、短い眉尻を下げて青背は独り言のように言った。団欒する彼らが、返ってきた青背たち狩猟班の面々を迎える。赤子を抱いた女性も振り返る。背の低い、髪をきっちりと二つに分けた三つ編みの女性だ。下のムラでよく着られる麻の貫頭衣を着ている。

猪手いのて

名を呼べば、彼女がぱちりと童顔に見える円い瞳を瞬かせて、笑んだ。えくぼがその薄卵色の頬に出来ている。

「青背さまこそ。……相変わらずご精鋭そうで」

彼女は血しぶきを浴びた青背の様子を眺めてそう言った。

「この子も狩りの幸運を授かれるように抱いて頂いても?」

はっとして、青背は彼女の腕に抱かれた赤子を見る。うっすらと淡い前髪が映えかけている。やわらかそうな頬に、好奇心のつよそうなくりくりした目を怖気もなく青背に向けている。

「女の子です」

そうか、とだけ青背は言って頷いた。猪手が山を離れていた唯一の理由である。女性の多い山守一族の血を絶やさぬように、外で子どもを授かる。そして山へ戻ってくる。少しずつ時機をずらして行うために、後数人が幾月かおいて戻る見通しだった。

「今血で汚れているから白妹に抱いてもらうといい」

だが、青背は赤子から目を逸らしてそう言った。

「あらでもその方がありがたいのに……」

猪手はそう言ったが、青背はそれより先にと広場に集まった数十人に向かって言った。

「先ほど都の人間と見られる十数名を山の中腹で見つけた。運がいいことに旧鼠のご来光とかちあってな。場所は赤桐覆う北百三の岩場の前だ」

「残念ながら今のところ、奴らの目的は視察以上の事が分からない……だが今後さらに警戒が必要になる。秋津、ほかの者にも周知を頼むぞ」

「はい」

秋津が凛と表情を引き締めて、広場に集まった集団を整理し始めた。

「白妹、後ですぐに子細を話す。怪我をした者を先に治療するぞ。 素枝!来てくれ」

青背は鹿の骨仮面を被ったもう一人の頭首にそう声を掛けて、窟屋の方へ歩いていく。髪を高い位置で結った若い女性、素枝が集団の中からさっと出て来てその後に小走りで来てくっついた。

さらにその後を怪我を負った狩猟班の面々が続く。

窟屋の中に入り、広い通路を通っていく。しばらくして食物庫の正面にある岩穴の垂れ幕を引いて中に入る。地面の岩蓋を取り除いて床の土部分を掘って作った蔵から青背は薬草や薬の入った小袋を取り出す。素枝がその横でばさりと麻布を拡げて、治療用の器具や薬を並べていく。

数人の狩猟班が腕や足を見せるが、いずれも猿に引っかかれたり噛みつかれた程度のかすり傷だ。それでも大事を取るのは、それがいつ悪化するかも分からないからだ。大昔山守はそれで何人か命を落とすことがあり、その傷から入り込む「悪食の霊虫」から身を守るために独特の薬学が発達していた。

傷口を水で洗い流して、薬草の根をすりつぶした液を塗布する。治療を終えた狩猟班からさっさと出て行く。最後に治療あたっていた青背と素枝だけが残される。かれは、さりげなく垂れ幕を一枚おろして外から自分達の姿を見えないようにした。

薄く外の光が差し込んでくる窟屋は十人が入れるほどの広さだが、きっちりと掘られた岩棚には様々な薬草や小瓶が貯蔵されて垂れ幕がかかっている。足元にもいくつかの蔵があって、用途によって分けられている。その全てを把握しているのは青背、素枝とほか数人の一握りだ。それは薬学が一族内での抗争に悪用された事があった過去のためである。

「質問だ」

「何ですか」

「今使ったもの以外に生傷の治療に代替できる方法は?」

「酒で消毒して生肉を押し当てておく」

「そうだな」

言いながらかれは右腕の袖を見て猿の噛んだ傷口を確認する。そこは、肉が盛り上がり、周辺は既に乾いて自己治癒が始まっていた。かれは袖を戻して、さらに問答をする。

「傷が痛んで仕方なければどうする」

「赤乱花由来の鎮痛剤を飲むことですね」

「そう、限度があるがな。それから夜痛みで眠らなければこの即効性の眠り薬もある。前に試したが、なかなか強烈な効き目だ」

かれはそう言って手元の小さな赤茶の容器を振って見せた。

「ほどほどにしないと、本当に死にますよ」

素枝はその時の事を思い出しながら言った。珍しく青背が一晩中寝ていたかと思えば、薬のせいで昏倒していた時の事だ。春先のことであった。ふふ、と青背はどこか疲れたように鼻で笑う。

「おまえ達はわたしが寝ても寝なくても心配する」

「極端なんですよ、首領は。……発作が起きていないだけましですが」

発作というのは、過去何度か―――といっても数年に一度という頻度で―――青背の緊張が一瞬だけ完全に解けた時に突然意識を失うことを指していた。まるで糸が切れたように地面に倒れ伏し、数時間から時には半日目が覚めない事があった。そして何度確認しても、気絶したように寝ているだけなのだ。それは常に白妹から離れた時に起きた。

「こんな状態だ。いつまでもつか分かりはしない。……もしわたしに何かあった時は、素枝、おまえに頼みたいのだ」

青背の言葉に、素枝が顔をしかめた。

「寝ろと言って寝れるようなものではないんでしょう。特に…あの方の近くでは……」

青背はそれには応えることなく瞳を伏せた。沈黙は肯定にほかならない。


「青背、傷は大丈夫なの」

その時、外から声が聞こえてふたりは顔を上げた。

「問題ない。白妹」

言いながら青背は赤茶色の小壺を懐にしまい込んだ。垂れ幕を押しのけて、仮面を上に上げて天井の低い岩穴に白妹が入ってきた。

「遅くなって悪い。素枝にまだ色々と学んで欲しい事があってな」

「そう」

白妹は気にした風でもなく頷く。治療以上の詳しい薬学を学ぶのは青に選ばれた人間達だけだ。白妹は薬学に携わらない方の人間だった。

「先ほど詳しく話す、とは言ったが、詳しく話せるほどの情報は残念ながらないんだ」

言いながら青背は腕を組んで、「今朝の宣託は都の人間と旧鼠とどちらのことだったのだ」と訊ねる。

「複雑で読み取りづらくて……何か来るとの予感はあった。昼頃に陣地にかれらが入り込んだあたりで山の気が乱れ始めたのを感じたの。異物の気と、親しみのある気よ。でも、その後に猪手が帰ってきたの。おそらく同じころに境を越えたのね」

「なるほど、まさか全員同時に来るとはね」

青背が肩を竦める。彼女のように山の気を鋭く感じる事は出来ないが、多方面に獲物や敵がいる時は注意が散漫になるものだ、と納得する。

「都の役人と言ったわね」

「ああ。きっと上級の奴だ。兵もいたがほとんどは旧鼠に食われた」

「その男を殺さなかったわけは?」

端的に聞かれて、青背は何を言うべきか少し考えた。全てを話すことはしない。その代わり正直に、できるだけ淡白に吐露する。

「今は慎重に動いた方が良いようだ」

「何か知っているのね」

白妹の問いかけに対して、青背はゆっくりと二度瞬いた。知っているが教えはしない、という言外の徴である。

「それでどうだ?旧鼠もよそ者も、今は何か感じるか?」

「この辺りには既にいない。どちらもしばらくは来ないとは思うけど、都人だけはどうしても分からない。近くに来れば分かるのだけど」

「今下に来ている兵の数的に言ってもしばらくは来なさそうだ。旧鼠もまああの様子ではしばらく大丈夫だろう。しかし、いずれにしろ見張りを立てる必要があるな」

青背の言い分に白妹が頷いた。

「私の感じる領域の外に人を送るわ。一里ごとに一人ずつで、五人ずつ交代制、今から告知しましょう」

「今?」

「そう。私達、今から赤湯の泉へ行くから」

「今か?」

二度訊ねて、青背は首を傾げた。赤湯の泉とは、国の西北にある温泉が湧き出でる場所のことである。十五丈ほどの広さがあって、底の土は赤く岩壁の塗料や染料に使う事もあった。普通の温泉と東へと流れる清流があって、時に憩いに使われた。今から温泉に入るのか、と青背は自分の着物の前を思わず見た。自分が血に塗れているから洗いたいのかと思ったからだ。

「首領」

ずっと影のように黙っていた素枝が声を出した。振り返って顔を見る。白妹が言った。

「かの女が来るのよ」



―――――――――――

「おお足、ちょうどいい。情勢は聞いたか?」

足は窟屋の通り道で青背とかれの率いる狩猟班の数人と擦れ違った。青背が声を掛けてくる。

「は、およそは」

狩猟班と青背の―――足はその姿を見た事がないが―――旧鼠と言う東山の主との立ち回りと、都人との遭遇についての情報はあっという間に山守に周知された。今後の対応についても既に見張りが送られ、足もまた下での活動は素材の調達よりも、朝廷の動きに対する情報を中心に集めるようにと指示されていた。

「こんな時だが、ちょっと湯に浸かりにいく予定でな。おまえもくるか?いつもの労いだ」

「湯に?」

こんな時に―――と不思議に思わなくもなかったが、山守たちのやることに足は一切疑問を差しはさまないようにしていた。一年ほどかれらのために働いているが、ムラの暮らしよりもより文化的に豊かであることに彼はいつも感嘆させられた。話に聞いたところでは、山守達は男女関係なく共同浴をするという。一瞬、白妹の事を思い出して返事が躊躇われた。

「白妹は一緒じゃないぞ。あれは特別だからな」

「まっ」

青年の心の内を読んだような台詞に、思わず足は意味のない音を出して目を白黒させた。

「とっ……んでもありません。拙生が山守さまと一緒に……など……いえ、こちらで手伝うこも多いですので、ありがたいですが、どうぞ皆様でごゆっくりと」

「ああ、そう?」

どこか断られることを予想していたように青背が鷹揚に言いながら、くっくっくっと笑いながら背を向けた。 どういう事だ、と早春が秋津に尋ねるが、彼女は肩を竦めるだけである。年長のイタビが、ごほんと咳をした。

そんな賑やかな狩猟班と擦れ違った高泣が、不思議そうな顔をして振り返ってこちらを見た。







――――――――――――


「―――あれは何だ、人間か?」

速津の館から南に一里ほど下がった別館、つまり現在自分達が寝泊りしている建物の一部屋にて月祖根はそう問いかけた。まるで昨日との対比のように、速津が立って窓の外を眺めている。振り返ったその無表情な顔はどこか仮面じみている。

「あれ?」

「巨大な鼠の顔をした六本脚の化け物と、人の形をした化け物の集団だ」

言って、月祖根は右腕の痛みに顔をしかめた。折れた腕はとりあえずの救急処置をして板で固定し薄茶糸の更布で吊ってある。館に辿り着いたのは月祖根と、速津の付き人の女だけだった。兵の一人はどこに行ったのか、姿が見えなくなっている。もし

効率的に心を折ったのだ。もはや使い物にはなるまい。

「見られたのですか」

女はどこまでも冷静だった。唸る

「どんな化け物がいるか知っていたのか」

「いいえ、全て話で聞いただけなので驚いているのです。まさか……本当に姿を現すとは」

驚いたとは思えないような声の調子で女は言ったが、目を伏せると睫毛がわずかにわなないているようだった。そもそも感情の起伏が分かりにくい女ではあった。そうでなければ小国と言えど国主などやっていけないのかもしれない、と月祖根は思い直す。格子状の木製の窓から夕日がさし込んでいる。簡素な木の床に座ったまま、月祖根は続けた。 

「あんな―――生き物は見た事がない。ムササビのように身軽で猿のように素早く、伝説の虎のように強い。巨大な鼠の化け物に対して対等に闘っていた。最後には押し勝つほどにな」

「なるほど」

「その軍団を率いるものがいた。名を、青背と名乗った」

相槌はなかった。静かな空間に、外から笑い声が聞こえた。少し離れた建物の二階では既に宴会が始まっているのだった。しばらくして、速津が「名乗った?」と訊き返した。月祖根は頷く。

「異形というよりも、異国じみた風貌の輩だ。見た目は人そのものだが、私の腕を折ったのもそいつだ」

「そうでしたか」

そう言って速津が何か考え込んだ。輪郭はすっとしているが、中年に差し掛かった顎の下に弛みが出来ている。見上げ続けた首の後ろが痛んで月祖根は正面を見た。速津がようやく座る。

「知っていたか?」

「確かに、あるムラの逸話を思い出しました。彼らは…鼠窟屋のツチグモの事を指して『青白』と呼ぶと」

「なぜそれを最初に言わなかったのだ」

憤然として月祖根が問う。速津は冷水を思わせる声で静かに返す。

「この山に関して全て語るにはあまりにも多く、そして時に脈絡がない……ほとんどはおとぎ話のようなものです。例えば山に何百年もいきる者は不死の妙薬を持っている、など」

月祖根は沈黙して彼女の話の続きを待った。速津は、額をすべて覆う紺色の髪留めの下の鋭い目を月祖根の顔に当てた。

「―――もしくは、かれらに手を出すとこの山…ひいては国全体に災厄となり滅ぼすだろうと……都人のあなたには、ずいぶんと荒唐無稽に思えませんか?」

そう聞かれて、彼は言葉に窮する。確かに多くの言い伝えがあるのだろう。それはどの土地にもあることだ。彼はふと、目の前の女への憐れみを覚えた。速津がどこか非協力的だった理由が少し分かった気がした。例え荒唐無稽な言い伝えだったとしても、それではどこか心理的にも躊躇が生まれてもおかしくない。自然に権威のある未開の住人はそうでしてしか生き残れないのだ。


「速津殿、あなたは知らないだろうが」

月祖根が切り出した。


「朝廷の持つ土木技術はこの国で最も優れている。これぐらいの宮であればひと夏で作れるだろう。それだけではない、最新の軍隊、法の整備、そして思想―――例え国が滅んだとしても、大皇は寛大な方だ。垣を巡らせ、土を耕し、より立派な宮を与えられる。国ごと建て直すどころか、よほど豊かになるでしょう」

言っている間に、月祖根は本当にそのような気がしてきた。大皇が実際にそうするかは別として、それがかれの意思だと都で常にそう教えられてきたのだ。この世で最も優れた一族として、我々は荒振る神々を平定し、さ迷える未開の者たちを導く責任がある―――。

月祖根はどこか物柔らかに告げた。その目元だけがうっすらと細められている。自分の表情にふと気付いて、彼は頬の筋肉を歪めて改めてわずかながら笑みを浮かべた。

そのすぐ後に、小部屋の外で足音がして別館に残った数少ない都軍の兵士の男の声が聞こえた。

「月祖根殿。大安彦様が報告に来るようにとのことです」

「すぐに行くと伝えてくれ」

月祖根の顔がすっと厳しくなる。ある程度の危険を承知して山に入ったものの、ほとんど全滅するとまでは予想していなかっただろう。北筑紫にいる大皇にもいずれ遣いを送る際に報告されることになる。月祖根はきゅっと口元を引き締めてその場から立ち上がった。

「何か役立ちそうな情報を知っていれば、迷わずすぐに私に言うように。それが結局あなた方のためになる」

出て行く際に、彼は後ろの速津に向けてそう言った。

「あなた方のお知りになりたいような事は、何も」

速津は、どこか物腰柔らかな調子でそう答えた。月祖根は部屋を出て行った。そしてその後姿を見つめる速津の表情を見る事はなかった。


速津と別れた後、部屋の外で控えていた彼女の付き人を見た。速津に用があるのだろう、月祖根が梯子を降りて行った後に入室の旨を伝えるのが背中に聞こえた。中庭に降りると、清々しい風が頬を撫でた。

鳴らされた土の地面を重い足で進む。やがて宴会の声が近付く。一階が吹き抜けの建物の梯子の上、開け放たれた窓から鮮やかな藤青の着物の色が見えた。


重々しい気持ちで入った宴会場はとても報告に相応しい雰囲気ではなかった。三十人以上入っても余裕のありそうな板座の上の方に、髭を生やした男が座っている。大安彦である。周囲には彼を囃し立てる部下と女たちが侍らしてある。

その前には三人の女と三人の男が対になって立っており、何やら奇異な演劇を披露しているようだった。近寄ると、女方は皆仮面を被っている。奇怪な様に月祖根は挨拶も忘れて困惑の表情を浮かべた。


「ああ、そこにいる立ち姿の麗しい君。そのうららかな歩き方、さえずるような声!あなたが私のいもになるべきか?」

「ああ我が、その鷹のような瞳、大きな手。あなたこそが我が背であればいいのに」

よよ、と三人の女方がそれぞれ嘆くふりをして、男方がみな困惑の声を上げる。

「なぜだ我が妹?何が我々の邪魔をしよう?」


そのとき、ぱっと女方が仮面を上に上げて言う。


「だって母が何と言うやら!あなたこそがあたくしのですもの!」


囃子がわっと声を上げる。参ったぞ、私の妹でない女子を誰だ!と口々に言いながら男達が仮面を再び被った女たちを追いかけ始め、きゃあきゃあと言いながら女たちはくるくると円を描いた。もちろん本気で追いかけっこをしているわけではなく、劇の一環であるため誰も捕まらずにえんえんと回り続けている。月祖根にとっては狂乱としか言いようがなかった。

「俺は、誰の兄でもないぞ!」

さらに頭を抱えたくなったのは、大安彦が低い食卓を乗り越えてその六人に参加してバタバタと女達の後を追いかけ始めた事だった。一人の女の腕を掴もうとしたところで、月祖根に気が付いたようだった。間抜けなまでの笑顔があっという間に消える。

「ご報告に来ました」

うむ、と不機嫌そうに声を上げて大安彦が自分の座に戻った。

「人払いを」

月祖根がそう言うと、彼はさらに渋い顔をして「このままで良かろう」と言う。口論は避けたかったが、兵をなくしほとんど速津側の使用人しかいない状況でそれは受け入れがたかった。

「さすがに、それは」

猪のように鼻を鳴らすと大安彦は部下に命じて人をはけさせる。山で土蜘蛛に急襲され兵を失った事は、屋敷に帰った時に遣いを飛ばしておおよその説明をしているはずだった。そもそもその時に宴会を中止していればよかったのに、と月祖根は思ったが、大安彦に合理的な判断を期待する方が無駄だと既に知っていた。

板の上に座って改めて事のありさまを説明する。

「敵は思ったよりもずっと手ごわく、そして得体が知れません。一度兵を組みなおすか、または」

「不甲斐ないな」

月祖根を遮って、大安彦が鼻息を吐きながら言った。その肉の重さで潰されたような瞼の奥の小さな目が月祖根を蔑む視線を送っている。ほうぼうを指して生えた黒い髭の下の小さく見える口がもごもごと動いて、さらに参謀を責めたてた。

「全くもって情けない。一人、帝のために死ねんとは……逃げ帰ってもその様では弓もつがえまい!ええ、聞いたところ相手は人間ではないか!しかも女ばかりの集団だと?貴様生き恥もその生まれだけでは事足りんのか?」

その声は外まで聞こえているだろう。果たして人払いした意味があったのかと思わんばかりだった。月祖根はぎりりと歯を噛み締めた。

そして入山の危険は承知の上だったはずだ。土蜘蛛も明らかにただの人間ではなかった。それを男に言っても、おそらくただの言い訳にしか取らないのだろう。生きるのがはりのむしろなのは昔から知っていたことだ。そして正しいものが勝つわけでもない。

「大安彦殿、御間違えないよう……人の形をしていても相手は土蜘蛛……化け物です。ただの人間と侮るべきではありませんでした。それに女ばかりと言っても、その大将格は」「関係がない。反乱の芽は早々に詰むぞ!帝に援軍を頼むのだ」

再び月祖根を遮って大安彦は憤然と告げた。それをするにも数週間は必要だろうと月祖根は考えた。敵の規模も定かではない。また、山を信仰する地元の人間たちが反乱する可能性もなくはなかった。

「全て叩き潰せばよい」

これだからものを考えた事がない人間は、と月祖根は頭を抱えたくなった。少なくともそれだけの理由が必要だった。無理に討ち伏せればそれだけ遺恨が残る。それに、まだ土蜘蛛についての情報も十分ではない。その正体、規模。大皇もまた何故か妙にそれを知りたがっているのを月祖根は察していた。

全面戦争は避けたい。速津のような小国を滅ぼしても大皇の名誉にはならない。

それらを月祖根は声を潜めて説いた。

そもそもそれをする価値がないからこそこうして自分達が送られたのである―――。とは言わなかったが。

大安彦は不満そうにしていたが、また鼻息をついて、月祖根をじろりと見て言った。

「その土蜘蛛は人語を解するのだろう」

「会話は出来ました。……不可測的ではありましたが」

「相手を無条件で降伏させることが出来れば、お前の今回の不始末も挽回できるかもしれんな」

まず、入山しての調査を命じたのは大安彦だという事を無視して月祖根に全ての責があるような言い方に彼は心の中で失望のため息をついた。次に、それは難しいのではないか、と月祖根は思った。青背という敵の頭首ならまだしも、巨大な鼠の化け物が降伏をするとは思えない。

しかし、ふと目の前の男を見て―――まだ大安彦よりは対話の可能性があるかもしれない、と彼は考えた。かれが何の理由もなしに月祖根を放したとはどうしても思えなかったからだ。

五日後には北筑紫から使節が視察と同時に大皇への報告を持って帰る日だった。それまでに何かしら報告できるような進展が欲しいのは、大安彦も月祖根もおなじことだった。

「善処します」

この曖昧な言い方を、大安彦は気に入っていた。単純で全面的な肯定しか受け入れる事が出来ないのだ。

どっと疲れて、月祖根は退室して梯子を下って行った。正面はるか先に山が見えている。その東には青磁色の海が広がっている。ふと、この国は美しいのだと、今さらながらに月祖根は気が付いた。

各地に温泉があって、傷や病気の治癒に効能があるとも聞く。まさか自分がそんな事をする余裕はないだろうが、と幻想を振り払うように雄壮な景色から目を逸らした。


今後の対策について既に考えを巡らしつつ月祖根は邸内を歩いていた。右腕を振れないようにそっと抑える。命は助かったが、右腕が使えなくなって忌々しい事には変わりはない。

ふと、視線を感じて顔を上げると、戻ってから腕の治療が行われた小部屋の前に見慣れた人影がいた。速津と彼女の付き人である。

今までずっと話していたのだろうか、と月祖根は不思議に思いながら、速津に近寄っていく。彼女が会釈をするのに、月祖根は別の可能性を頭に思い浮かべた。彼女が大安彦との会話を聞いていた可能性はあるだろうか。どちらにしても近くにいた使用人が聞いていてもおかしくはない。

「月祖根殿。ひとつ思い出しました」

速津はそう切り出した。古紫色の着物が落ち着いた色の背景に適して見える。その表情もどことなく穏やかだ。

「鼠窟屋のツチグモにまつわる話、試す価値があるかと」

弱くなった夕光が彼女のその顔を照らしている。整っているが美形ではない女の顔を月祖根は興味の内に見返す。

「うまく行けば、かれらをおびき出すことが出来るやもしれません」

月祖根は驚きに思わずふたつ瞬きをした。

西に向かって吹く風が両者の間を吹き抜けて、付き人の女の髪を乱した。月祖根の両側に垂らした髪もふらりと揺らされる。きっちりと頭の上で丸めて髪留めで留めた速津だけが涼しい顔をしている。



足元に三角草が咲いている。緑の蔀に紫と白、そして薄紅色の可憐な花弁が映えている。その周囲には七丈ほどの高さにもなる都万麻の木や、甘い香りを放ち、秋中には美しく黄葉する桂などが植わっている。そのかぐわしさのため、貝殻と一緒に乾燥させすりつぶして練香にも使うこともあった。


青背は一人、山中を斜めに伝いながら歩いていた。先ほどまで、十数人の同胞が共同で使う温泉の方に顔を出していたのだが、興味津々な山守の一人が猪手に下での事情などを尋ねたためあけっぴろげな猥談の気配を察して、青背はさっさといとますることに決めたのだった。


一人清浄の滝に辿り着いて深靴を脱いでいく。皮弁という上部は白鹿の皮で作り、さらに足の周りを覆う皮船自体は馬の生皮で作ってある。布の下に着た鎧の代わりの、生地のかたい犀という水牛に似た一角獣の皮をも脱ぎ取る。 

かれは素足を踏み出して、滝に打たれた。その名の如く、全ての穢れを洗い流すような清流に打たれてかれは目を瞑った。


やがて近くにある共同浴の広い温泉とは別の、秘湯へとかれはそのまま向かった。服が濡れないようにと近くの枝に掛ける。

すべすべした岩の上を歩いていくと、黒髪が湯けむりの間に見えた。その近くには服を着たままの素枝が佇んでいる。

「おまえもゆっくりと浸かっていくといい」

そう言うと、素枝は頷いて去って行った。

足を滑らさないようにしてかれはその岩の淵に腰かけた。


「ねえ」

先に声を出したのは白妹だった。かれは右下の湯の上に突き出した長い黒髪の方を見た。

「今日の都人、どんな人間だったか覚えている?」

少し考えて、前に視線を向けて青背は答えた。

「蛇のような男だ」

湯を向こう側、標高の低い下から生えている白椨の葉が見えた。濃ゆい緑のまばらに赤い小さな実をつけている。足元からはわずかな熱感が下腿を伸縮していた。明らかに以前とは違う。触覚が徐々に変化してきているのだ。

「……悪手だったか?やつを逃がした事」

「それが分からないの」

白妹はそう言って、肩を湯に沈める。やがて青背も湯に身体を入れる。生き残った男は逃げ帰って何を語るだろうか、とふと青背は想った。案外と堪え性のある都人。

「生き延びた者だけが物語を語る権利がある……」

「何?」

「いいや。どこかで読んだんだが、その通りだなと思ってな」

正しくは勝者だけが物語を好きなように語る事が出来る、という主旨の記述だった。好きなように語ればいいさ、と青背はどこか他人事のように思った。物語と言えば、とかれは案内人の男が月祖根という男に語っていた事を思い出す。山の女神の癇癪。かれはその事を白妹に語った。

白妹は笑って、そして少し考えて青背に訊ねる。

「私達の山のおとぎ話は覚えている?ぞぞおり」

「地揺らしの時に起きる怪物だろう」

子どもの頃に聞いた話を思い出そうとして青背は言った。ぞぞおりとは、数百年に一度山に現れるという伝説のいきもので、見た目は巨大な円球に毛が生え、目がない代わりに巨大な口にはびっしりと牙がついているという世にも恐ろし気な話だった。山守の大人たちはこれを、山で迷えばぞぞおりに食われるぞと言って子どもらを脅すのである。

白妹が青背に反論する。

「違うわ、ぞぞおりが山を揺らすのよ」

「違うね、山を揺らすのは山神さまだろ。見た事がないのに何で分かるんだ」

「私しか知らない事があるのよ」

ふふ、と白妹が思わせぶりに笑った。

「それにしても、猪手が今日帰ってくるとは思わなかったよ。でも、いい機会だったかもしれないな。あれの存在は心強い」

青背は話題を変えた。山守の一族で子を産むために外に出るのは、青の認める実力が求められた。それは単純に、より強い者こそが強い子を産めるだろうという単純な理論からだった。猪手は狩猟班の元三席で、小柄ながら筋肉量が多く、近接戦闘に長けていた。

「猪手はもう二回目だから、次は違う誰かを選出しなければね」

「順当に行けば秋津か。だがあれにはわたしの側に居てほしいな。頭の回転が早いよ、いずれ次席を任せられそうなぐらいだ」


青背はよく夜の見張りで隣に立つ凛とした女の横顔を思い出す。狩猟でも常に安定して獲物を仕留める。腕っぷしも立つし、それでいて尖ったところがなくあらゆる面において適任とも言えた。


「実力順に行って適役がいるわ」

「? 誰だ」

白妹は顔を向けた青背の眉間をとん、と軽く突いた。


「あなたよ」

白妹の顔を見返して、その言わんとするところに青背は数秒して気が付いた。そして、思わず噴き出した。根拠がないとは言わないがとりとめのない。

「有り得ないことを!」

かか、と笑いかければ白妹は真顔だった。

「本当にない?」

その問い返しが真剣な色を帯びていたので、青背もおやと表情を改める。

「有り得ないな。青がいなくなればどうなる?」

「たった今言ったじゃない、次席には秋津か、イタビもいる。猪手も素枝もいるでしょう」

「いるにはいるが、実際に任せるかどうかは別問題だよ。必要性を感じないね」

「そう?子孫繁栄は青と白の主題のはずよ」


どうにも話が噛み合わないな、と思って青背は眉を少ししかめる。繁栄の管理をするのも青と白の任務だが、それ以上に今いる一族の安全の方が大切なはずだ。

ふと思い当たって、青背は声の音程を落として問う。

「そんなにわたしが不要か?白妹。それがお前と山の意志ならばわたしの要望なぞさらに関係ないだろうよ」

「そんな事は言っていない」

即座に白妹は否定する。ほっとした青背は気を取り直し、悠々と肩を頭の後ろで組んだ。筋肉質の躰は決定的に白妹とは違う特徴を持つ。しかし、つくり自体は全く同じなのだ。

「ならば、わたしは適任ではないよ。正直、考えた事もなかったさ。それに―――わたしは、絶に山を出て行くことはない」

青背の脳裏に幾つかの影が差した。ひとりは、青背の父というべき面影。おぼろげなその輪郭を消すようにかれは湯に濡れた手を額に当てた。じんわりとした熱感が広がる。その事実にほっとする。

「この話は終わりだ。これ以上疲れるのはやめよう、今日は訪問が多い。こんな日ははじめてだ」

「……そうね。悪かった。許してくれる?」

言いながら白妹がその端正な顔を青背に向ける。長い黒髪が唇にかかっている。青背はそれを何気なく指でかき分けて、「伸びたな」と言った。白妹が髪を伸ばすのはそれがしきたりだからだ。

「もう長いこと伸ばしてるとね、短かった頃がどんな感じだったかも忘れちゃったわ」

「ふうん、そんなものか」

言いながらかれは、それは寂しい事だな、と思った。だってかれは山を駆けまわっていた短髪の少女を覚えている。まだ何の役割にもとらわれずに自由であった頃の自分達を―――。

「何だよ」

ふと、白妹の親指が自分の目の下を拭うように当てられたのに気が付いて青背はそう言った。白妹は、じっと青背の顔を眺めていて、「なんでも」と言ってほほ笑んだ。

その見慣れた容貌が近付いてくるのに、青背は幼いまじないごとを思い出した。

誰にも見つからない山の中、塞ぎこんでいるといつだって見つけに来てくれた。涙を拭ってくれた。

ふたりは交わらない紋様同士を合わせるように、額に額をつけた。

伏せられた睫毛の濡れ羽色。












『おまえ、どうしてあれをにがしたの』


はっとしてかれは現実に引き戻された。管玉と小玉を組み合わせて作った色彩鮮やかな髪冠。同じ色合いの首飾りの先には金で装飾された丸鏡が据えられている。緑青色の着物の生地には複雑な刺繍がなされ、襟と裾は金で境をつけてある。長い袖に小さく輝く金模様は太陽の形をしていた。

左手を腰にあてた堂々とした立ち姿。ある儀式のためだけに使われる特別な岩屋のひろびろとした空間。山守の暮らす岩屋とは違い、そこはほとんど手がつけられておらず、ごろごろと大小の岩が転がっている。その奥にかの女はいた。松明に照らされているのは黒炭の爛爛と燃えるような瞳。彼女は、白妹はこんな瞳をしない。

湯あみをしてから滝で身を清めたのは、この神降しのためであった。十分すぎるほどに返事が遅くなってしまった事を知りながらも青背は答えた。

「……山に住むもの同士、必要以上に互いを害することはないはずです」

『そっちではないわ』


直ちに訂正されて、心臓がわずかに跳ねた。旧鼠の事ではないという。白妹と同じことを聞くのだ。なれば答えも知っているはずなのに、これ以上何を聞きたいのだろう―――青背はがらにもなく戸惑う。だって、それ以上思い当たるものがない。

「殺しても我々には何も得るものがないと―――」

『吾にうそをつくのはおよし』

ぶぉん、と顔の横を風が通り過ぎる。二十歩あたり後方の岩に物体がぶつかって粉々に激しく砕ける音。振り返ることも出来ずにかれは『かの女』を凝視した。右手が衣からぬっと突き出ている。その手前にあったはずに巨大な大岩が消えている。かの女が入れ墨の彫られたその神の右手で岩を―――青背でさえ両腕を使って持ち上げるほどの重さのものを―――まるで小石を投げるかのように片手で投げたのだ。

足腰は鍛えられていると言え、普段は碌に弓も引かないはずの細腕。おそろしいと同時に、山守の一族はこれによって生かされてきたのだと今一度確認する。武器があったとはいえ、旧鼠さえも下す事の出来る力は明らかにムラで生きる人間のものとは一線を画している。長く山に生きるうちにかれらの体自体が変異しているのだった。

身じろぎすれば、脇の下にじっと汗をかいていた。嘘はついていないはずだった。

「確かな情報筋からの忠告です。今下手に動くべきではないと。それに男の態度にも……何か妙なものを感じました。どこか死ぬのを良しとするような―――それはわたしの勘ですが。悪手だったのならば、咎めは受けます」

『かん………そう、そうともいえるわね。吾がしるのはやまのことだけだもの。だからきになるのよ……おまえのこうどうのきげんがね。そうたとえば、おまえじしんの……きょうみ……とかね』

あなたのための取捨選択、それ以外の理由などありません、わたしの青としての覚悟はそんなものではない」

息をつかずに青背は言い切った。憤慨したように聞こえてもいいとさえ思った。目の前の白妹の姿を纏った神がすうっと目を細めた。生殺与奪の権利は全て彼女にある。それを自ら委ねるつもりで常に生きてきた。

『そうね』

身構えた青背に対して、かの女は案外あっさりと譲った。


『おまえのようなもののことをながすなみだもない、としたのにんげんはいうわね』

「実際にもうないのです」

青という責務を担ってからこの十年、感情ゆえに涙を流した記憶はかれの記憶にはない。誰が死のうともかれは泣きはしない。命あればそれは終わりへと向かう。感傷は青には必要がないのだから。

「この山に生息するすべての生物があなたの耳と目です。ならば青背はその手足になりたい。あなたにとって妨げになるものは誰でも斬り捨てよう。それが自分自身でも」

衒いもなくそう告げると、山は意外なほどに謙虚な言葉で返す。

『おまえのことはたよりにしている。吾にしれることはかぎられているもの』

「何故そんな事を仰るのです、あなたこそ我々の知る全てなのに」

驚いて青背はたずねる。何百年も生きる獣達と異形の生き物を育み、青背達にもその力の片りんを分ける強大な神。

『おまえたちだけは、ずっと吾とかこもいまもともにあるわね―――そう、吾がおまえのさきつおやをすくったときから』

青背は頷いた。それは幼い頃から繰り返し聞いた白と青の歴史。

まだ自然と人間との境目が近かった時―――白と青の先つ祖は地上のつみ人だった。天からも地上からも追いやられ、命を脅かされて辿り着いた先がこの山であった。山神の遣いである白鹿に導かれ身を隠し、山の奥に彼らだけの楽園を築いた。

地を耕すことの出来なくなった代わりに、山の恵みによって生きるようになったかれらは。その恩を忘れないように彼らは山守となった。それが白と青の始まりである。

子どもの頃から何度も聞いた話だ。そらでいえる。


それから築かれた青白の制度も、今では誰よりも身に染みて知っている。白は青を選び取る。白は山の霊気に最も近い者であるため女性でなければならない。青は男女どちらでもよいが、武と薬学に長けた者ではならない。

青背は膝をついて顔を上げ、はっきりと言う。

「そしてこれからも我々はあなたと共にある」

『そうであればいいのだけれど』

そう答えて、かの女はどこか寂し気に首を傾げた。青背は、いつにない彼女の弱気にたじろぐ。こうして言葉を交わし、行動で忠誠を示す以上に出来る事はないのかと歯がゆくなる。

「失礼ながら……あなたは何をそんなにおそれていらっしゃるのですか、山神よ」

そんな青背にかの女が近づく。すべらかな指先でかれの顎をついとさらに上げる。接触は珍しくないのに、何か秘め事でもしているような、どこかうしろめたくなるような焦燥を感じて青背は瞬きをした。松明の灯りが暗がりにいるふたりを後ろから照らしている―――。

『人災よ』

と、かの女ははっきりと言った。青背ははっとする。その顔がいつのまにか間近にあった。試すかのようにかの女が身を屈めて青背の顔を覗き込んでいる。

かれの黄金の混じりかけた淡い眼光をしっかとかの女の瞳がとらえる。混沌によって深く澄み切った末の光の入らない漆黒。崖の淵を覗き込むよりもさらに深い空洞がそこにある。

ぶるりと震えた。かれの脳から全身を電撃のように貫いたのは、まぎれもない恐怖だった。だれが。なにを。単純化した疑問が行き先をなくして頭の中にあふれる。

原始的な恐怖に飛び去りたいのにそうできない。瞳に絡め捕られている。

ぺた、と音を立てる。立てていた膝が崩れて両足を地面についたのだった。

おそろしいと思った。逃げてしまいたかった。そうするわけにはいかないと分かっていても、本能が逃げをうつ。仰け反ろうとするのを理性で押しとどめようとして、下の唇を噛みしめているから血がぷつぷつと溢れ出したのにも気付かなかった。

その時、かの女が眉間に皺を寄せた。

『………』

何事かを口元でぼそぼそと呟く。それは人の決して理解することのできない類の囁き。それさえぴたりとやめて、かの女は真顔に戻ると、手を青背の顎から左頬に滑らせると、右耳に口を寄せて、そっと囁いた。

『―――――』

耳孔に直接注ぎ込まれるかの女の声。はっと、青背が右に視線を寄せる。同時に、白妹の体からがくりと力が抜けるのを見て反射的に体を支えた。全体重がくたりと掛けられる。完全に気を失っている。神降ろしが終わったのだ。


白妹の身体を抱き抱えて、足元に注意しながら外に出ていく。岩屋を出たすぐの通路で、人影に会う。外で待機していた素枝だった。夜目の利くかれらにとって松明の有無はさほど問題ではない。

「何か機嫌を損ねましたか」

彼女がそう訊くので黙っていると、「すごい音が」と素枝は続ける。岩を投げられた音だろう。

「特には。いつもの事だ」

それよりもひっかかる事の方が多くて、それどころではなかった。ふと、表情を曇らせて青背は素枝に訊ねた。

「何か聞いたか?」

会話の内容も、聞こえていてもおかしくはない距離にいた彼女だ。だが、素枝は何を今さら、という顔をして青背の顔を見返した。

「あの方はあなたにしか話しかけないでしょう」

そうだったな、と言って青背は前を見た。やがて洞穴の道の入り口あたりに火の灯りを見た。

そこには夜の晩をしている早春がいた。いつもこの時間帯は眠そうにしているのだが、見ると顔は真っ青だった。強張った顔で青背の腕に抱かれている白妹を畏れの混じった視線でちらりと見た。

気に宛てられたか、と青背は思った。間近であてられたとはいえ、青背でさえ恐怖心を抱いたのだ。まだ経験の浅い少年がそれを感じたとしても無理はなかった。

「頼む。たぶんもう今夜は起きない」

そう言って、素枝に白妹を預ける。背に彼女を背負うと、素枝はしっかりした足取りで左の通路の奥へと入って行った。


「このまま夜衛に加わるよ。お前も少し外の空気を吸った方がいい。ひどい顔色だ」

青背がそう言ったからか、それとも白妹から離れたからか、早春はふーっと息を吐き出した。途中で弓道具を拾って連れだって外に出た。

アカキツの襟巻がないので首回りがすうすうする。早春も同じなようで、亀のように首を縮こまらせた。青背よりさらに体にぴったりした鶸色の狭衣に腰を帯革で留めているが、なにぶんまだ体に厚みがないため痩せて見える。

空を見上げれば星が一面に輝いていた。

黄支子色にいっとうまばゆく光る星の周りに白く小星が散っている。指を中指と指し指を分けて見せてその星の軌跡にかざす。


「―――あの星座の一帯は、海向こうの大陸では畢宿と呼ばれているのだ」

「ひつ?」

「うさぎを捕まえる網の事だ。狩りを司る星座らしい。だから文書で読んだ時から覚えている」

「青背さまは何でも知っていらっしゃる」

「わたしが?」


不意を突かれたように問い返せば、早春は憧れに光るような目をこちらに向けていた。青背の知り得る事などたかが知れている。山での知識。青としての情報。そして特別に手に入れた舶来のいくつかの書物。その中で使えそうな、もしくは気になったものを覚えていただけだ。

「わたしなど、かの女の足元にも及ばないよ」

むしろ知らないことばかりなのにと言いそうになって、ふとかれは山神もこんな気持ちだったのかもしれない、と思った。そうであれば、なんと孤独な事ではないだろうか。


「……お前の目に、かの女はどう映る?」


早春は一瞬ぎくりとしたように下の歯を見せて、うーんと考え込んだ。嘘のつけない少年である。


「正直いうと、まだ実際に会った事がないのでわからないのですが」


彼はちらりと左右を見て声を潜めた。何にせよかの女には筒抜けなのだが、それを言うの意地の悪い気がして青背は黙っていた。どちらにしろかの女は気にしないような気がした。


「とてもこわい方なのではないかと思います……山守の誰よりも」


その言葉に、青背は「ははっ」と少し笑った。「それはお前、比較にならないよ」と教える。山守の誰もがほとんど彼には甘いのだから。早春は続けた。

「だから青背様はすごいと思うのです。あの方に向き合って……言葉まで交わして」

「ここだけの話、会話だったら一日中狩りをして帰った日よりもずっと疲れるよ」

正直に青背は言う。会話した後は特徴的な頭痛がする。白妹などはしばらく起きないのだから、それほどの体力を使っているのだろう。早春が興味深そうに質問を投げかける。

「自分はまだ見た事がないのですが、どんな方なのですか」

「そうだな。一言でいえば激しい……かな。この山なのだもの、そうなるのも当然だ。依り代の白妹のからだを壊さないかと、いつも気をつけて話している」

「そんなに……青背さまは選ばれた青なのにそうしなければならないのですか」

「『だからこそ』代々、青でしか扱えないのだ。今日もそう、大岩を投げられてな。まあ、二代前の青の頃はほとんど降りる事もなかったと聞いているが」

「前の青は……」

そう言いかけてはっと彼は口を噤んだ。それが青背の前ではある意味禁句であることを知っているのだ。代わりに少年は本音をこぼす。

「……しかし不公平です。自分は他の青を知りませんが、青背様を優れた頭首だと思っています。なぜ青背様ばかりが責められなければないのですか」

「逆だ」

青背は山を見下ろしながら言った。

「あの方は、とりわけて青としてのわたしの事を気にかけてくださっているのだ。そもそも頻繁に来るのもそのせいだと…そう白妹に聞いたことがある。しかしまあ、分からないことも多いがね」

そもそも神の事をすべて分かってどうする。時に人間同士でさえ些細な違いによって理解し合えないというのに。

「そうだな。不公平と言えばそうなのかもしれない。だがお前もいつか分かるときが来るかもしれない…それは情が深ければこそなのだ」

言って、青背は星がさんざめく夜空を見上げた。西方白虎の畢宿。月がそれにかかれば多雨になるといわれている―――。



それから、晴天が三日続いた。山は激動の一日を忘れたように元の営みを取り戻していた。そして三日目の昼、転機は訪れた。

その日、山の中腹から烽火の煙が上がった。色は白みを帯びた黄色。つまり味方である。狩猟班はイタビと秋津に首尾を任せて青背は珍しく窟屋で留守番をしていた。洞穴の前の洞窟で子どもらや早春に近接戦を教えている。しばらくして、広場に来たのは足だった。数日前に再び地上に下った彼が日にちを置かずに山頂までやってくるのは珍しい。

「早いな」

青背は右片腕の出た赤茶色の着流しの裾がある方に腕を突っ込んで腕を組んだ。子どもらを置いて彼に近寄る。

「今すぐお二人の耳にお入れしたいことが」

そう言った足の顔はどこか緊張していた。ふと、彼が顔を上げ青背越しに何かを眩しいものを見るように目を眇めた。青背が振り返る。百歩先の窟屋の入口、上の方に中で夜湧きや霊虫を払うための石を研磨していたはずの白妹が立って二人を見おろしているのだった。

鹿の仮面に黒地に赤の苏州刺繍で裾を彩った外套が風に揺れていた。青い空と薄鼠色の岩肌を背景に、それは淡水に落とされた血の雫のように鮮やかで、そして不吉なほどに美しかった。


山の裾まで降りてきていた。三丈くらいの高さのクマシデが並んで、秋に向けてその葉を黄色に変えつつあった。木々の間から姿を現した集団に驚いて、橙の頭を持つコマドリが枝を飛び立った。

山から出て平地を踏んで進むその姿はひとつひとつ突き抜けて華やかで、その頭数は九あった。

「ああ、もう土がついてる。外套を羽織って来ればよかったなぁ」

「アンタ、だから白っぽい服を選ぶなと言ったんだ。帰りはきっと雨だから、泥が跳ねて染みになるよ」

泣き言を言う早春に年長のイタビがそう言った。彼女自身は目の下に月白の模様を滴状に描いている他は、砥の粉色に紺の刺繍が入った外套を膝まで着ているのがいつもと異なる点だった。相変わらず豊かな髪は大きな三つ編みにして背中に垂らしてある。足元は地味な色の袴であるあたり、天候を気にしたのだろう。

「雨だなんて聞いてない」と早春は反論する。

幼さの抜けないのは顔以上にその態度かもしれなかった。鋭い爪痕のような仰々しい入れ墨を両頬に入れているのが、仲間内で狐の髭ほどにしか見られないのはそのせいだった。

彼は白練色のあたらしい着物を上に羽織って下には黒の内着を着て襟を出している。腰は細い帯革で留めてある。首元には貝殻と珊瑚の首飾りが揺れており、揃いの耳飾りがつくりの繊細な耳朶からぶら下がっている。

「あなた、青様と話していて聞いていなかったでしょう。見栄を張るなと言ったのに」

秋津は逆にいつもの体に合った狩猟服である。いつもの美しい姿勢で、誰とも被りがないせいでむしろ洗練されて見える。よく見ると耳元に早春と対になる耳飾りをつけているのがわかった。

「でも海の向こうから来たものは青背様も一番真っ先に見るじゃないか」早春がそう言って口を捻る。秋津が眉と目の間をぐっと開けて表情で黙るように促す。かれらの首領の機嫌が目下すこぶる良くないことを知っているからだ。

「……」

青背は黙っている。上着は薄灰色と白の混じった狼の毛皮の外衣を覆っている。暑くないのかと尋ねられたが、例によって温度感覚が鈍くなっているためにこれといって不快には感じないのだった。

他の狩猟班の面々も早春以外は精鋭と呼ばれる者ばかりであるが、かれらの目的は今回狩りではなかった。

それは素枝が片耳から垂らした、長い髪留めとその先に振れば音がなる長形石英がついていることからも明らかだった。

素枝は基本的に白妹の付き人ではあるが、彼女もれっきとした狩猟班である。集中力に長けていて弓の射撃精度などは青背よりも上、つまり一族随一である。付き人をしていて腕が鈍らないかとそれとなく訊いたところ、時間があるときは白妹に弓を教えているのだと言った。

一行は、その白妹を中に挟むようにして進む。やがて一番近くのムラの柵が見えてきた。

青背にとって、白妹を山の外に連れてくるのは全く本意ではなかった―――山の外に行かれては守る事も出来ない、と言われ立場上完全に止める事も出来ず、口論に負ける形で同行しているのである。


かれらが山から降りて、都軍の使節と会談の機会を持つことになったのは、一昨日の報せがきっかけであった。

『市場では、いえ国全体に噂が広まっているのです。都の役人と、朝廷に対して反抗的な【土蜘蛛】が話し合いをすると』

『誰が?旧鼠か?』

青背がすぐさま皮肉を飛ばしたのを白妹に諫められる。入り口から近い小岩の会議所にて足、素枝、白妹、そして青背は腰を下ろして向かい合っていた。

報告の内容は、土蜘蛛―――もとい青と白の山守一族が速津の別館にて顔合わせをするという噂がかれらの知らぬところで広がっている、というものだった。

『それではやはりご存知ないんですね』

『起き抜けに地割れを食らったぐらい唐突だね』

『私も何も知らないわ。確定事項として話されているの?』

『拙生の聞いた限りではそうです。ですからいつの間にそんな事になったのかと思ったのですが、万が一を考えこちらに上がってまいりました』

『いや、助かった。明日下から戻った採集班に知らされても時間がなかっただろう』

そう言ってかれは腕を組んだ。仮面をかぶったままの白妹と顔を見合わせる。二人は何かしら通じ合ったらしかった。瞼を半分食い込ませて、青背はふぅんと口元を歪め言った。

『なぁにを企んでいるのかね』

何の事か分からない足は黙っている。そんな彼に白妹が訊ねる。

『都の役人とは、旧鼠が来た時に青背が会った者のことね』

『おそらく。……逆にその事については話が出回っていないのですが。しかし、役人は二人いるといいます。名を聞いたのは、大安彦。今の大皇の直系の血筋の者だということです』

『わたしが会ったのは別の役人の方だ』

どこか納得顔で青背は言った。ふす、鼻を鳴らして瞼を開けた。

『いいだろう、噂の高貴な血筋とやらの顔を拝んでやろう』




難なく柵を乗り越えた後、一行は堂々とムラの真ん中を通っていく。背の低い枯野色の小さな住屋が並ぶさまを早春は興味深そうに眺めている。外に出てきてかれらを目撃したムラの住人が突然頬をぶたれたように硬直している。

やがて黄金の稲畑の横を通ると、さらにムラの子どもが口々に叫んで、指をさしたり興味から近寄ったりするのをムラ人が血相を変えて止める。彼らは驚愕と畏れの混じった眼差しで一行を見送る。

「歌垣などに参加した者の話ではもっと華やかだと聞いていたけどなあ」

そんなムラ人たちの様子を注意深く見ていた早春が、少し残念そうに零した。少なくとも、簡易な家やほとんど統一された麻の衣から予想される暮らしは自分達の暮らしよりよっぽど簡素に見えた。その上たいていの人間が集まって畑に出ているのだ。

少し先に行けば民家の隣、網で作られた籠の中に小さな鶏が入っているのを見つける。山の下に出るのは初めての早春が秋津に訊ねている。

「あれは食うために取っているのかな」

「いいや、あれは時告げ鳥だ。朝を鳴いて知らせるために逃げないようにしているんだ」

「うそ、へえ!飛んで逃げないのかな」

「飛べない鳥なんだ」

「適当言ってる?」

疑わし気に早春が言うと、秋津はイタビに聞いてごらん、と肩を竦めた。稲畑の側に立った杉の木を越えると、首を縄で括られた犬が、住居の隣で一行に向かって熱心に吼えている。

「狼?」

早春が訝しんだ。

「狼の仲間だ。食用で飼われているのさ」

「へえ、逃げないのか」

「食べられるために飼われてると知らないのさ」

「……それも分からないのか」


以前子作りのために長期にわたって下に降りた事のあるイタビが小声で教えた後、彼は驚いたような、どこか残念なように言った。それからは黙って、ムラを抜け、森を通り抜け、そしてかれらは速津の郡へと入った。昼を過ぎていた。

どこの国の人間だ、と気軽に声を掛けてくる者がいる。じろりとそちらを見れば黙ってしまった。

誰も手を出そうとはしない。誰かが山守だ、と呟いた。

下りとなれば風のような速さで駆ける事が出来るが登りとなってはそうもいかない。


「走るぞ」


青背がそう言ってからかれらは市場を駆け始めた。人の頭の上をひらりと飛び越す。

早春が一度調子に乗って掘っ建て小屋の屋根を走ろうとして、「あっ」と言って脆い屋根からずぼりと足を抜き出した。

青背は噂などは気にしない性質だったが、頼むから山守として民衆の印象に残ってくれるなと祈らざるを得なかった。

そうしているうちに、あっという間に別館の前に着く。流石に館の周りは兵士に守られている。


「鼠窟屋の山守が会いに来たと伝えてくれ」

「下がれ」


そう言われて高い柵の手前に大股で下がる。その際に、都の役人たちの位置を把握した。こちらの姿を確認しているのだと青背には分かっていた。目の端に男の姿を認める。

驚きに息を吸い込む音が聞こえるようだった。窓枠から見知った顔が覗いている。青背達の姿を見て確認する。そうだ、かれらこそが自分たちを襲った悪名高い土蜘蛛だと―――。


邸内に入った瞬間に兵士の数を数え始める。その武装、立ち居振る舞い。柵の高さ、逃げる時の通り道―――。罠である可能性も十分に考えてきた。ある程度相手にその気がないと確認してからの訪問だが、今の時点で相手はどうしたって味方とはいいがたいのである。

逃げ道であれば窓から飛び降りればいい。むしろ逃げ道がないのは敵の方だ。


そう考えを巡らしている間に、青背の顔の凄みを増す。ただでさえ顔の半分に紋様が入っているのだ。

「頭首」


素枝に声を掛けられる。


「話し合いです」


そう言われて、気付くと力の入っていたこめかみから力を抜く。味方に分かるほどに気が溢れてしまったようだった。

中庭を歩いていくと、地面から床までが二丈ほどはありそうな背の高い屋敷に案内される。梯子を使って上がるのに、先に兵士に武器を手渡すように要求された。目につく手持ちの弓や剣などの武具は渡したが、衣の下にはいつも様々な種類の武具が仕込んであるのだ。だてに嵩張りがあるわけではない。

梯子を渡る時に、ふと空を見上げると灰色の雲が垂れこめている。きっと昨日は月が畢宿にかかったのだろうと青背は思った。

やがて全員が部屋に入る。縦に長い部屋の板張りの床先の上座に男の姿を見た。一目で都の人間だと分かるのは二人手前、五人は後ろに、そして後は速津国の兵士が十人壁際に控えている。

青背達を連れてきた男が席にまで先導する。上座にどっかりと腰を降ろした男を見下ろして、大したことはないな、と青背は思った。その突き出た腹といい体形にはまるで締まりがない。体形だけではない、その所作や雰囲気に緊迫感が足りないのだ。例えば死線をくぐった人間はすぐにその雰囲気だけでわかるのと同じようなものだ。

特に都人は髭を伸ばすのが特徴のようで、ごわごわとした黒い毛が下膨れの顔からほうぼうに垂れている。月祖根などはむしろ毛深くないので、中途半端に伸ばして痩せた印象になっているのが、青背の目には妙に滑稽に映った。


「大畝比子親王が第三子、都軍直属第六兵団大将の大安彦だ」

「第六兵団将校、月祖根」

「鼠窟屋の山守頭首、白」

「同じく、青」


簡単に挨拶を澄ませてから、酒が出されているが呑む気にはなれなかった。本当に青背達が姿を現したのが信じられないと言った様子で、青背は笑いだしたくなった。

月祖根の方が額に布を巻いている。何故だろうと一瞬考えて、自分が彼の額を刃の切っ先で割った事を思い出した。深くはないので表出させた方が治りが早いだろうに、と思った。


「白殿はなにゆえ仮面をされているのだ」

いきなり大安彦はそう切り出した。

「この我々を前に、失礼ではないか」

白妹より先に青背がむっとしたように反応した。

「彼女は巫女ですので」

「巫女だからなんだ?一度確認するだけだ、問題なかろう」

「これは―――」

なおも言い募る大安彦に対して、青背が反論しようとする。だがそれを止めたのは、白妹その人だった。

「分かりました」

頷いて、彼女は仮面に手を掛けた。

「少しで良ければ」


ばさりと艶髪が落ちて容顔が明らかになる。大安彦の口が円形になる。やはり彼女は都人にとっても美しいのだ、と改めて思った。むしろ顔かたちが明らかに違う彼らにとってこそ異様な美しさに映るのかもしれない。

何にせよ今はそれは関係がないはずだ、と青背は思った。


白妹が仮面を被り直すと、大安彦は、あんぐりとあけていた口をはっとしたように閉じて、会話を進めようとする。彼は月祖根と青背の顔を見比べて再び無遠慮に発言した。


「既に顔を合わせられたそうだな」


月祖根は一瞬苦々しい表情を浮かべそうな雰囲気だったが、無表情で「ええ」と頷く。青背は逆に余裕の表情で返す。 


「月祖根どのには以前お会いしましたな。こちらの陣地に無断で入られた以上、目的を訊くのがこちらの流儀です。それが果たされなければ、敵意があると見ても仕方ない」


立て掛けたられた窓の隙間から生ぬるい風が吹き込んでいる。


「―――が、この国では薬学に長けている。腕が痛むようであれば、薬師を探されるのが良いだろう」


意外な忠告に月祖根は青背の顔を見た。大安彦は既に役目は果たしたと言わんばかりに興味なさげに月祖根に先導を促す。


「土蜘蛛の皆々様方に来てもらったのは、他でもなく今後速津国の朝廷との関係についてです」


月祖根が言うと、大安彦がかぶせる。


「統治権を委譲するという形で動いておるのだ」

「速津がそれを認めたので?」


青背が問い返したのに、都軍側の参加者が注目した。かれはさらに言葉を次ぐ。


「いえ、速津媛は―――この国主だと聞いたのでね。それで我々とどう関係あるのです?国を委譲されるなら我々は関係ないでしょう」

「大いに関係あります。信仰と統治権の分離は国の分断を招く」


月祖根がそう答えた瞬間、青背はもはや取り繕う気が失せてしまった。


「何が欲しい?」


そう訊ねるかれの目が据わっている。月祖根は嫌な印象の薄ら笑いを浮かべて切り出した。

「自らを神だとのたまっているあなた方の―――」

「我々の仕える山神の事を言っているのなら、のたまっているのではなく神なのだ」

「鼠の化け物の事ですか?」


すかさず月祖根は訊ねる。青背はちょっと考えて、ああ、と言って答える。


「あなたが以前見た旧鼠の事か。あれは違います、そもそもこの山に平素かれらは棲んではいない。それよりも、」

かれは胡坐をかいた膝の上に肘を置いて、左手の中指と指しゆびで頬杖をついた。


「のたまっているのはあなた方のほうだろう」


怪訝な顔をする月祖根と大安彦に対して青背がさらに続ける。


「あなた方の将、オオキミとやら。人の腹から生まれた都のこどもが、いったい何をして神になったと言うのでしょうね」


大安彦がドン!と床を叩いて、酒の容器が一瞬浮き上がる。


「これだから未開の土蜘蛛は……大皇の尊さも知らんとは」

「あなた方こそ、山神を敬いもしないだろう。わたしは訊いているだけですよ―――一体何をして神とするのでしょう、と」


青背はのらりくらりと、しかし瞳の剣呑な光は消さずにそう続けた。

大安彦が睨み上げながら、ぶるんと顔を振る。耳の側で止めた巨大な角髪が揺れた。


「そう……例えばそうだな。お前等の崇めるような化け物をあまた殺してきた。ゆえに、神殺しの神とそう呼ばれることもある―――だがそれは間違いだ。やつらが蛮族故、振る舞い方を知らん。だから大皇がお咎めになるしかないのだ」

「より大きな正義のためには、少々血を流すことも致し方ないですからな」


青背はまるっきり皮肉でそう言った。しかし大安彦は言葉の額面通りに受け取って、話が通じたと思ったのか、多少機嫌を直して頷いた。


「! そうだとも」


欠伸がしたくなって青背はちらりと横を見たが、白妹が真面目に前を向いているのでやめた。それに、彼女の侍女のうるさい視線からも逃げたくなったのだ。


「だから、我々に何を求めておられるのです」


改めて青背は訊いた。


「速やかに山から退陣されるといいでしょう。下での住居の確保は我々もお手伝いします」

月祖根がそう言ったのに、はは、とついに青背は乾いた笑い声をあげた。ちらりと横を見ると、三者三葉複雑な表情を浮かべている。

白妹…仮面で分からないが多分無表情。

素枝…話の内容よりも青背の態度に物を申したい、という顔をしている。しかしその実都人に対しても怒っている。

イタビ…抑えてはいるが、扱いに対して怒りを覚えている。

秋津・早春…表情に差はあれど露骨にムラに住みたくなさそうな顔をしている。

後で早く話し合いたいものだな、と思いながら青背は役人たちに向き直った。


「失礼、それでその代わりに何を得られるのです」

「大皇のために仕える事が出来るかもしれませんよ」


真顔でそう答えた月祖根の正気を疑いながら、青背は先に話させることにした。


「どうして大皇さまがツチグモなどを使いたいと思うのです」

「面白い噂を聞いたのだ―――何やら鬼道を使うと」


大安彦が再び話に入ってくる。


「その噂の居所も気になるところですが。例えばどのような」

「天候を読み、未来を予知することが出来ると。時には人心を掌握しさまざまなまじないや呪術にたけるとな」


山守の方に微妙な雰囲気が流れた。それは白妹の能力にほぼ一致していたからだ。青背は慎重に訊ねる。


「もし―――それが本当であれば、どうするのです」

「実に貴重だ。丁重にもてなしたい」


大安彦が『貴重』『丁重』といった言葉を使うところに本気が見えるな、と青背は心の中で思った。山守側でさらに風向きが変わってきたぞという空気を感じる。


「特に、鬼術の中でも、大皇は不死の術を使う者に興味を持ち、ずっと探してきた」


青背は否定も肯定もしない。白に―――山に愛された者は彼女に不死の恵みをもたらされるだろうという言い伝えが実際にあるからだ。そこでかれは『噂』の居所を確信した。


「それに、この器量だ。都でも中々に見らん この山で腐らせるのがあまりにももったいないと、そう思わんか」


大安彦は褒める意味でそう言ったらしかったが、これが青背の気に一番触った。


「そこに白妹の意思は存在するのか」


怒ったようにかれは言った。きょとんした大安彦の顔にさらに腹が立つ。


「仮に噂が本当だとして、我々が断ればどうなるのです」

「容易に是非を口に出さないことだな」


大安彦が言った。


「朝廷に反逆して大軍に打ち滅ぼろされた土蜘蛛たちの話を知らんのか」

「話に―――」


青背が立ち上がりかける。開戦今やと思えんばかりの雰囲気に一石を投じたのはまた、鹿の仮面を被った巫女だった。


「お待ちください」

「白妹」


青背が名を呼ぶ。

彼女はそれには応えず、ふたたび仮面を外した。

それは少なくとも、まず立ち上がった大安彦を黙らせるほどには美しかった。


「私たち、あなた方の仰る通り田舎者ですもの。いろいろな話を聞いて混乱しているんです。 もし良ければ返事を数日待って頂きたいのです。……事を急くのは田舎者のすることでしょう?」


彼女はそう言って、その硝子質めいた瞳を大安彦に向けた。それはまるで急冷された山からしか取れない稀有な最上質の黒曜石のようなあやしさだった。


「ふん……」


そう言いながらも、大安彦はまんざらでもなさそうだった。


「確かに白媛の言う通りかもしれんな」


男は、どこか浮ついた様子で髭を触ると、言った。


「良いだろう…あと数日だけ待とう。しかし、落胆させてくれるなよ」


青背は内心驚いて、どうやったのだ、と言わんばかりに白妹の顔を見た。再び仮面を纏ってしまった彼女の考えている事はどこか不透明だった。そして顔合わせはお開きになり、半々その場で抗争が始まるのだろうと思っていた山守達はどこか拍子抜けした顔で武具を受け取り、無事に速津の別館を出たのであった。



「数日後に彼らが申し出を断ればどうします」

「返事は関係ない。見たか、あの土蜘蛛たちの顔を。反逆することしか考えとらん。おれは力づくで奪うだけだ」


月祖根は心の中で驚いた。そこまで頭が回っていたとは思わないが、月祖根から見ても土蜘蛛たちがここまで不利な交渉を受け入れるとは思えなかった。


「何にせよ、大皇が欲しているのは白媛だけだ。後は全て生かしておいたところで役に立たんだろう。……それに不死の力を持つかもしれん巫女か。良い土産物ではないか」


味方ながら胸糞の悪くなる男だ、と思いながら、その言葉に月祖根は賛同しかねた。青背と山守達の人間離れした戦いっぷりを見ているからだ。かれらを味方につける事が出来ればどんなに今後戦線で有利になるかは計り知れないだろう。

それならばなぜ彼らを生かして返したのか―――と問いたかったが、彼はやめておいた。

大安彦が熱に浮かれたような目をして白の事を「俺の側室に構えても良いかもわからんぞ」などと話し始めたからだ。


あの女、本当に鬼道を使ったのではないかと月祖根は密かに考えながら、適当に相槌を打った。















―――――――


側近が隣の部屋に控えている、と言って退室した。

雨が降っている。随分と夜も遅くなった。女は溜息をつきながら瞼を一度閉じて、立ち上がり、連子窓のつっかえを外す。軽い音がして窓は閉じ、外の音が遠くになる。


あの月祖根という役人――目ざとい男だ、と女は心の中で舌打ちをした。

別館の使用人には念のため動向を見張らせてある。例えば精力的に情報収集に動いているだとか、両利きか左利きであるとか、夜は骨折の痛みで魘されているとか、情報は多いだけあった方がいい。交渉と言えばこちらは武力で劣っているだけ圧倒的に不利なのだ。


女は考える時の癖で顎に手をあてていたことに気が付く。ふたたび溜息をつくと、天蓋の中の布団の上で額の髪留めを外して、櫛を抜いた。

その時、ガタ、と音がした。風が当たったかとおもうような些細なものだった。

もしくは。

「伊美?」と従女の名を呼んだ。返事はない。警戒が強まる。天井から降りた虫除けの幕にさす影はない。しかし―――。妙に気が逸る。


女は念のため布団の下に忍ばせたものに片手を忍ばせながら、近くの者を呼び寄せようとする。

「誰、」そう言いかけたところで、背中に気配を感じた。否、これはそんなものではない。純粋な殺気―――。言葉を吐き出しかけた口をすばやく回された手に覆われる。そのまま手際よく、寝所に背中から押さえ付けられた。ぼんやりとその顔を照らしている。


「あなたならどうするのが一番賢いか分かるはずだ……」


男子でも珍しいほどに短く切られた髪。おさまりのいい額。その武力の象徴である紋様。


「お久しぶりですね、叔母上」


そう言って、侵入者は言って口の端を引き上げた。下手な笑い方だが、そうでもしないと抑えられないのだろう 目線を下げた首元の刃の冷ややかな感覚にそう思った。

幼いころ、本当に怒った時にかれは自身でも制御がつけられなくなった。それが出来るようになっただけ成長したのだろう、と女はどこか他人事のように思った。

「久しいな、………青背」

それは現実感を失くすような外の雨音のせいなのかもしれなかった。雨垂れの音が二人を記憶という名の乱気流に放り込むような、時期はずれの昔話に閉じ込めるようなそんな夜だった。











―――


窟屋の入り口、月を見ながら、白妹は後ろに控える従者に言った。

「あの子が山の外に出たままなのが知っている」

静かな落胆と共に、彼女は続ける。

「あなた達、大切な事はいつも私に教えない」

「あの時は…」


素枝の声が少し震える。そのままあった事を告げようとしても、言葉にした瞬間にそれは意味を変えてしまう。十年前の一族内での内紛がそうであるように。

事実上今の青を青たらしめるその決定的な出来事は、密かに 全てを賭して白を守る青の鑑だと讃えられる

そうであってほしくはないと願っていたのを知っているからだ。

十数年前、山守の一族には幾つかの血筋があった。白を多くに輩出する母系一族が最も権力を持ち、青背の母親はその一族の出身であった。当時彼女は歴代でも霊力の強い、最も優れた白の一人であったが、番いを交わしていた青が去ってからというもの、正気である時間がどんどん少なくなり、最後はあっという間に儚くなってしまった。

彼女の後を継ぐべく候補者として考えられていたのが、白妹、そして青背の母親の姉の娘―――つまり青背にとっていとこにあたる少女だった。ここで問題になったのが、血筋である。

実力で言えば、幼い時分から天候を予知し、山との親和性を示し、霊気に恵まれた白妹で間違いはなかった。しかし彼女はいわゆる雑子という、白の血筋とも青の血筋とも関係のない母親の子どもであった。その上、既に母親は幼いころに採集の最中に獣に襲われて命を落としているため、孤児でもあった。

そこを女は突いた。表ではそんな素振りは見せずに、白妹の器に毒を盛ったのだ。

幸い、彼女は一命を取り留めた。しかし床に臥せている間、女は手回しをしていた。病弱であると

新春祝いの場であった

謡いながら器を横に、横にとずらしていく。青背と素枝は内心。朱器に酒を接ぐと一枚だけ底に白い小花の絵が浮かび上がるのである。それを見た者は必ず 5席ずらして どちらにしろ白妹には何も飲むなと告げていた。

信じたくはなかった。女は呑まなかった。かっと目を見開く。女に渡ったのが分かった。かれは対峙するつもりだった。窟屋に悲鳴が響き渡った。


苦しみもがいて倒れ伏したのは、彼女の幼い娘だった。

運命のいたずらというほかなかった―――今となっては知る由もなかったが、白花の器ではなかった。ひとつ右隣の器だったのだ。それでもそれを後悔する選択肢などは無かった。


「お、おぉおお……吾子よ……どうしてお前が……」

すがって呻くその女の 動揺していた。母親の気がふれてから数年、叔母に面倒を見てもらった。いとこを妹のようにして育った。その青背が反旗を翻すとは思っていなかったのかもしれない。しかし青背だってまさか叔母が 確かめたかった。そしてそれは最悪の形で叶えられた。

慟哭を全身で押さえて、青背はやがて混乱の満ちた窟屋の中に立ち上がった。

「叔母上、なぜと仰られるか。その身に覚えはありませんか」


まだ若い、いや幼いとさえ言っていい子ども。

「仲間に向けた毒はその毒によって射返される………そう教えてくれたのはあなただったのに」


深い絶望をその声色に出すこともなく、零度の声に覆う事をその時かれは覚えたのだった。

「お前…、おまえがああああぁぁぁああ!」

襲い掛かる。獣の速度で反応する。一瞬受け流して蹴り、勢いを殺した後、額を真横に切り裂いた。悲鳴が上がり女の身体がどうと倒れ伏した。


協力者を素枝や他の僅かな同胞の協力によって割り出していた青背は彼等を粛正した。

幼いいとこを手に掛けたという事実がかれの迷いを殺したのだ。

首謀の女自体にはまだ息があった。

その夜を境に山守の一族は割れた―――多くの郎党が去った。

そしてその春、新たな青と白を迎えた。



「何のつもりだ?そんなに戦争を始めたいのか」


着物の襟を正しながら速津は聞く。息は少し上がっているが、たった今闖入者を迎えた身としては異様に落ち着いていた。その様子さえも見越して、青背は声を潜めながらも妙に嬉々とした調子で話しかける。

「おお、あなたに手を出せば奴らは動くのですか!随分と仲が良いですね、まるで前魏と結託したかの王のようだ」

そうして、わざと目の周りの皮膚を歪めるようにして青背は嘲笑した。

「たわ言はやめろ……それから履物は脱げ」

速津はちらりとかれの足元を見ながら言った。踵を浮き上がらせてはいるが、水っぽい泥をつけた底の深い上履きが無残にも寝所に敷かれた布を踏みつけている。


「長居はしませんので気になさらず」


青背はこともなくそう答えた。かれの後ろの青草の畳にまで泥がついているのだろう。板をはぎ取られた窓枠の、中数本の連子骨が途中から消えている。削り取ってその間を縫って侵入したのだろうと速津は推定した。切り取られて不格好になった木窓の向こうに庭が見えている。この大雨だ、叫んだところで外の兵士には届かない可能性さえある。

どうやって青背に気付かれず従女に知らせるか―――思考を巡らせる速津を知ってか知らずしてか、青背が嘲弄するような視線を向けながら話を切り出した。

「いえね…あなたがどこまでも恥を忘れて我らを土蜘蛛とさげすむ奴等の手先になっているのを見てね…何か良き情報でも握っているのではないかと思って」

「……わざわざはずかしめに来たのか?」

速津がいぶかし気に訊く。

「恥ずかしいと思うなら既に後ろめたいのでは?」

かれは笑みを口元に、怒り故の呆れを目元に浮かべた仮面を貼り付けたまま、呪詛のように腹から低い声を出した。しかし、速津は気にするようでもない。


「ふん、相変わらずだなその果断なまでの誇り高さ―――恥を忍んで地を這うことを知らない、その高潔さでお前は滅びるのだ」

「敵の援軍はいつ来るのです」


話す事などはないというように質問を続けた青背に対して、速津は恐れずに言を次ぐ。


「なぜ戦う?和解の話し合いをしてきたばかりではないか」

「人を小馬鹿にするのもやめてください、あんなのは話し合いでも何でもない。数の優位を盾に取った脅迫だ……どうせあなたもそうだったくせに。ねえ、十年自分を偽って手に入れた王国を手放されるお気持ちはどうですか」

「お前と一緒にするな」


きっぱりと速津は言った。


「私はこの世を知っている!子を失い一族を追われてもこうして逃げ延び、そして生き残るように―――」

「……生き延びてどうするのです」


遂に青背が速津のことば自体に反論する。


「誇りを失った人生はもはや生きていると言うまい。よくあんな奴等と―――」

何かを思い出したのか、唸り始めそうなほどに口元が歪み皺を作る。

「奴らのいうそこに自由などはない。言葉だけの自由だ。降伏したとして、我々が本当の意味で生き物として、人として、奴らと対等に扱われることはないだろう。何が恵みだ。すべてまやかしだ。傲慢にさえ気付かぬ傲慢……」


一瞬青背はまるで速津の前にいるのを忘れたかのように呟くと、天井を仰ぎ見て、ふっと顔を戻した。いつものじとりとした目つきで叔母を同じ高さの視線から睨むと、問いかける。

「そこで何をするのです、あなたは。首に紐を巻かれて食い尽くされるのを待って尻尾でも振るのですか」

「お前たちが蔑む私の生き方が生き物として正しいのだ」

痛烈に言い放ったかれに、速津は真っ向から目を合わせて答えた。

「胸を張って頭を上げて歩くほどに、この世は既に自由ではない」


雨はいつやむともしれず、降りしきっている。庭に橘の木がその常緑の葉を小刻みに揺らしている。その葉の下でウスバカゲロウが雨を凌ぐためにじっと身を動きをひそめている。

速津は続ける。

「中央政府の力は強大だ。彼らは自然をうやまわず、神をも殺す……だからこそいずれ彼等が日本を制覇する時が来る。その巨大な流れの中ではお前たちなどただの小石に過ぎない……」

「ご自分は違うとでも?」

睨みのきいた半眼で青背が問い返す。

「いいや違わない」

速津は間を置かずに即答し、さらに続けた。

「しかし我々の血族は生き残る―――無駄に血を流し絶えるお前たちを切り捨てて」

相変わらず不遜な顔つきで自分を見ている青背を上目に、不敵な眼差しで彼女は言った。

「…お前には分からないだろう。子を持ったこともないお前には……」

「わたしには必要のないことです」


少々の苛つきを抑えながら青背は答えた。なぜ持たないものを、持とうともしてもいないものを引き合いに出すのか―――。

速津が、刃を目の前にしているとは思えないほど大胆に挑発するような口ぶりでさらに青背を煽る。

「しかし白妹も巻き込む覚悟があったとはな。今度はお前の愚かしさがあの子を殺す―――」

「黙れ」

咄嗟にそう言った青背は、ぐるぐると喉を鳴らさんばかりだった。実際に場所が場所であればそうしていたかもしれない。より獣に近付いた姪を見て、ふと速津は憐れみに近い感情を覚えた。優秀な、しかしそれゆえに気がふれた妹の唯一の忘れ形見。しかし憐れむにはあまりにも遠い年月と、間違いを繰り返しすぎていた。

血の粛清を下したのはかれの方なのだ。


速津は話を引き延ばすために、さらに展開する。青背の弱みは分かりすぎるほどに分かっていた。

「交渉によってはあの子を助けられるぞ。都人は発展と引き換えに自然と対話する力を失った……あの子を誰もが欲しがるだろう」

「はっ!やつらと同じことを… あなたが、彼女を殺そうとしたあなたがそれを言うのですね」

嘲るように笑ってから、青背がもっともな事を言った。速津が、おかしいと思い始める。さっきから声を潜めていないのに伊美が気付く様子がない。もしかすると何かあったのではないか。その場合は、誰かに頼っている場合ではない。じわじわと敷布団の下に手を伸ばす契機を窺う。

「…あの子の力を認めていたからこそだ。そうやって気のないふりをしてお前は……あの子を失う事を心から恐れている。 あの時から毒見を側から外さず―――夜も眠れない」

青背はそれを聞いていて、珍しくその明るい茶色の目を見開いたかと思うと、ぽんと膝を打って立ち上がった。「なるほどそれがあなたの手口ですね」顔を俯かせて青背は一人で納得したように言う。「そうして裏切れとそそのかしたわけだ」

「何の話…」

「知っているのですよ、あなたが鼠を忍び込ませていることぐらい。まったく油断のならない人だ」

言いかけた速津を遮って、青背が彼女の眼前に中剣を突きつける。喋りすぎた―――知っていることと知るはずのないことの境を違えた事に速津が気付いた瞬間だった。しかしもう言は取り返せない。切っ先に確固たる意思を感じて、悪寒が速津の首をじっとりと濡らした。

「我々は山守。それ以外に生きる術を知らん! しかし、あなたは違ったようだな……」

額に大きく残るその傷に刃を向けながら、青背は今度こそ叔母を見下した。しかし次に出てきた台詞に、速津は失笑しそうになる。

「あなたが少しでも誇りを持っているのならば―――もう自分で引き返せないならば。わたしがこの手で止めを指してやろうと思っていたが……」

やはり甘い。ここまで来て、なんという感傷だ。

「認めよう、こんな事ならばその傷をつけた時にあなたを殺すべきだったと―――」

「私を侮ったからだ」

青褪めながらも、速津は唇に笑みを浮かべていた。だが青背は彼女の勝利宣言を即座に打ち消す。

「いやそれは違う」

そう言ってかれは思い出す。まだ叔母に息があると分かった時、かれは止めを刺しに迷いない足取りで進んでいった。その腕を寸でのところで止めたのはかれの幼馴染だった。

「白妹がそれを望んだからだ」

速津は心の中で呟いた―――そう、かの女がお前の弱み。お前の枷。そしてお前の棺になるべく女だ。

だが嘘をつく必要もなく、ふたりのひずみは明らかだった。

「あの子が望むものがお前に分かるのか」

「あなたに白妹の何が分かるのです」

「お前こそ、あの子の何を知っているのだ。お前が思うよりもあの子はおそろしいぞ」

そう言うと、青背はその顔に困惑を浮かべた。しかしそれは初めて聞いたからというわけではなさそうだった。むしろ、なぜお前までもがそれを言うのかという不審―――何にせよ、有利なこの状況ですべき顔ではない。

今だ、と速津は感じた。さっと右足で床すれすれに足払いを掛ける。不意を突かれた青背の体勢が崩れる。女が敷物の下から小刀を素早く引き抜く。今ならばやれる、一息に―――。

真っ直ぐに小刀を両手で支え、身体ごとぶつける。ぶつけようと、した。どっと衝撃を感じたのは正面ではなく、左側面だった。青背に刃が突き立つ瞬間に、何者かが体当たりをして速津を止めたのだ。その何者かは、手刀で手の小刀を叩き落とすと、壁にまで彼女を押しのける。

その隙に青背はぱっと身を翻して床を二蹴りすると、木の窓枠に指を引っかけて腕の力だけで上体を曲げると、足の先から勢いよく飛び出して行った。そしてその二人目もまた、その後を追う。幼いころの面影を色濃く残したそのかんばせ。その後姿はどこか見慣れた狩猟服だった。速津の知る彼女はほんの子どもであった。山でお産をする女だった―――産婆でもあった速津が取り上げた。秋に生まれたので、秋津。速津方の血を引く、聡い子だった。

ふたりが出て行った後に、速津はよろよろと立ち上がって従女を呼びながら部屋の外にさ迷い出た。隣の部屋に入った瞬間に、床にぐったりと倒れた女の姿を見つける。仰向けにして声を掛けると、その瞳が開きぼんやりとした視線の先に速津を認めた。

物音が聞こえて外に出た瞬間首筋に痛みを感じて、気を失ったのだという。脇には青背の愛用していた長針が落ちていた。青背か秋津か、どちらかの仕業だろうと速津は目途を立てた。


「睡眠薬………完成していたか」

「申し訳ございません。まさか直接襲われるなんて……兵を呼びますか?」

「いや……もう今夜は来ないだろう。それに、都人にあれらとの繋がりを悟られたくない」

言って速津は雨の中暗闇を行っているであろう闖入者たちの姿を想った。

―――やはり相変わらずだお前は。











「悪かった」

「ねえ、もしあなたが命を落としたらどうやって謝るつもりだったの?」

周りに人のいない窟屋の裏方で、仮面を押し上げた彼女は青背の謝罪にそう返した。謝れないんじゃないかな、などという軽口は言わない方が身のためだろう。そう思って青背は黙っていた。

昨晩の大雨がうそのように空は晴天だった。しかし山は地面のぬかるみがひどいため、山守も窟屋の周囲以上に行きはしない。ましてや登ってくる者もいないだろう。というその道をいつもより時間をかけて秋津と二人で登ってきたところを、待ち構えていた白妹に捕まったところだった。

「あの人の館に忍ぶなんて、正気だとは思えない。なぜあの人が私達に有利になるような情報を吐くと思うの」

「少しは収穫はあったよ」

「足まで怪我して、ねえそれに見合うものだったの?」

当初はそうでもなかったが、秋津に蹴られた左踝の上が後で腫れあがった。上履きを脱がなければいけなかったので、すぐに白妹にばれてしまったのだ。もしかしたら脛骨にひびぐらいは入っているのかもしれないが、さほど痛みは感じないのでじき良くなるだろうと静観している。

自分がこの調子ならば速津も同じくらい負傷しているのではないかと思ったが、今はそれは問題ではない。

何もしなくたって問題は目の前に山積みなのだ。

「悪かった、理由があったとしても青として軽率だった。事後報告になってしまったし」

「もう、」

さらに白妹が言い募ろうとした所で、「失礼します」と岩屋の間から声がした。白妹がさっと仮面を下げる。顔を出したのは秋津だった。

「そろそろ集会の準備をしても良いでしょうか」

「ああ」

青背が顔を仰のけて秋津を見た。都人と速津の館で話し合いという大事から一晩明けている。おまけに下に行った面々が別々に帰って来たかと思えば、青背は朝帰りである。全員何があったか各々察しつつも気になって仕方がないのだろう。

「集会の窟屋に集めておいてくれ」

そう秋津に言って、その散逸した後ろ髪が消えるのを見送って、白妹に声を掛ける。

「中に行こう。わたしもまだ二人で話し合うべきことがある」

そう言ってふたりは入り口近くの小会議場に入った。すぐに、白妹がかぶりを振りながら言う。

「この山から出ればあなたを守れない」

「勝手な行動は謝るよ。でも、もうそんな次元じゃないんだ。……それに、きみは以

前山の外に出ろと行ったくせに、今はどうしても山から出るなと言うんだな」

赤湯にて白妹が青背に山を降りる事を示唆してきた事を思い出してかれは言った。その時に比べて、彼女は今冷静さを欠いているように見えた。白妹はどこか傷ついた鹿のような視線を青背に送った。青背の視線よりもやや低めなその頬が薄暗がりに入って青褪めて見える。

「普通に行くならまだしも、あなたが自分の意思で山を出て行くときはいつだって―――」

彼女は首を振って項垂れるように岩穴の地面と壁の境目に目を落とした。乾いた岩土が淡色の砂利となって地面に落ちている。


「危険を承知で飛び込んでいくようで」


なるほど、と青背は納得した。確かにそれとは話が違う。それを踏まえてかれもまた話し始めた。


「きみは前に、わたしに山を降りてみないかと言ったな。猪手やほかの女性のように……色々考えていたんだ。きみ自身の望みを本当に聞いた事がなかったと」


白妹が鹿が耳をそばだてるように背筋を伸ばして聞いている。青背はこの小部屋にいる時は立っているといつも頭がすれすれになってしまうのだった。とにかく出来るだけ淡々と聞こえるように青背は言葉を紡ぐ。


「正直に言うとわたしはあいつらが嫌いだ。特に大安彦とかいう―――愚昧な輩は頭を叩き割りたくて落ち着かなくなるくらいにな。だが、あいつらにとってきみは貴重な人間らしい……だから」


慎重に言葉を選ぶようにしながら、青背は告げる。


「山を降りて奴らに協力するときみが言うなら、」「それが私達の意志ならばそうするわ。取引に応じて共に行くと言うならば」


白妹は口早に手っ取り早くそう言った。青背は辛抱強く着物の折り目を正すように言い募る。


「それは聞かなければ分からない。一族の総意として。しかしきみだけは違う。きみだけはもし総意が違ったとしても、生き延びられるだろう」

「どうしたの、いきなり」


白妹はついに驚いたように声を上げた。


「今までずっと青として……」


何かを言いかけて、考えるようにして彼女は口を紡いだ。先に続ける言葉が出ないと確認して、青背は首を傾けた。確かに今さらだ、と思いながら。


「きみの意見を参考にしたいと思っただけだよ」

「私―――あなたが一緒に行くというならば行くわ」


青背はしばらく黙っていた。左手の中指と人差し指をこめかみにあてて親指を咬筋に添える。白妹は息を潜めるようにして青背の返事を待っている。外で足音が聞こえて、数人が連れだって通路を歩いているようだった。小部屋の中でさえ陽光がいっぱいに差し込んでいる。岩穴の至るところから陽が差してきっと今日はとても暖かいはずだ。


「すまない白妹、わたしにとって生まれ育った山は全てだった。青という生き方でなければ…その誇りを捨てて生きるという事は、わたしにとって生きるという意味をなさないのだ」


青背は白妹を真っ直ぐに見た。そうせ集会の場でも似た事を言うだろうが、それは青として、また青背として訊かれたとしても同じ答えだった。当然のことだ。二者は同一だからだ。青なくしての青背はなく、そしてその意味もなかった。


「わたしは飼い殺されるよりも、最後まで山守として生きていたい」


言い切った青背を白妹は、遠くを見るような深いまなざしで見て、さびしいようなほほ笑みを口元に滲ませて言った。


「きっと私はあなたのこと、あなたが私を知るより知っている。だから嬉しいわ、正直でいてくれて」


ふたりは小部屋を出て、岩穴の奥の大きな集会場へ向かっていた。やはり窓からさし込んでとても明るい。緑が見える。歩きながらそっと白妹が独り言のように言った。


「あなたの心にそう思わせるのが過去の面影でなければいいけれど」

「どういう意味?」

「ここにいない人の事を自分の責任のように思ってはいけないということよ」


その言い方に青背はああ、と当てがついた。白妹は青背の両親の事を言っているのだ。厳密に言えば、さらに父親のことを。山に迷い込んだ国外の男。奇抜な気性であった母がその権限を持って山に留め、番の青とした男のことだ。

そして白であった母親を置いて山から逃げ出した人間でもある。


「わたしは絶対に父のようにはならない。中途半端に背負って投げ出すくらいなら、どこにも行かない」

「青背。何も悪い理由で去ったのだと決まったわけじゃないわ。いなくてもいなかったということにはならないように、何事にもどこかにきっと意味がある。そう例えば、……あなたが生まれた」


諭すようにそう言う白妹の口調が、いつになく青背の神経に棘を刺した。期待などは欲しくない。慰みなどはいらない。


「それも間違いだったんだろう」


かれはぶっきらぼうにそう言い捨てた。

瞬間、白妹の顔に複雑な色が交じり合っては言葉を成さずに消えていく。その瞳を、もの言いたげに開けられた口を見ないようにして、かれは顔を真っ直ぐにだけ向けて岩穴の奥へと歩を進めた。


―――広さが縦と横に三十丈にもなる岩屋に全ての山守が頭を突き合わせていた。青と白が立った前には地上での会議に参加した狩猟班の多くが座り、その後ろや壁際にまで一族郎党が立つか、中腰、もしくは座って事のありさまを聞いている。

火灯りは少なく、話をする者だけの顔をぼうっと照らしている。しかし暗所でもよく目のきくかれらにとってそれはさほど問題ではなかった。そして話が終わった後、かれらは怒りと言うよりも、覚悟の据わった目をしていた。山で生きる以上闘いは避けられない。今回はそれが外からの脅威に変わっただけのことである。

先にこちらから仕掛けるか、という話に対して秋津が今いる役人を殺したところで都軍が攻めてくる状況は変わらないと答える。地上で消耗する危険を冒すより、自分達の陣地で相手を迎え撃つ方がいいだろうという結論に達する。


一度隣の山に居を移してはどうか、というのは年長の萩の慎重な意見だった。


「いや、奴らはどちらにしろ攻めてくるだろう。それに、一度変わってしまった山はもう元に戻らない」

青背がそう言う。

「山神がいるのはここです。我々はこの場所を動きません。何も我々が奴らの領土を欲しがっているわけではないんだ」


ほかの山守の一人が、もっともな義憤をあらわにして言った。


「その通り……戦いを強請っているのはあちらさんの方でしょう。私たちは今のままで良かったものを」

と、秋津。

「山に戦いはつきものです。都のお貴族さんも痛い目を見た方がいいんじゃあないかね」

イタビも賛成した。


疑っていたわけではない。しかし会議をして、さらに山守の気高さが明らかになる。

青背は、それを誰よりも誇りに思っていた。














―――――

土蜘蛛達との顔合わせから二日が経った。秋意の漂う夕暮れを、月祖根は速津の館へと兵を一人だけ連れて歩いていた。高い柵を前にして立つ兵士に速津への面会を言伝る。やがて物々しい入り口が両脇からゆっくりと開かれた。


「薬を調合してくれませんか」

部屋に通され、速津の従女が外から扉を閉めるなり彼はそう言った。

「薬師ならば、別館にやりましたが」

「あれはこの国の出身ではありませんね。豊能国の方から来たとか」

「そうです。優秀だと聞いて紹介してもらったのです。国には薬師が少ないですから」

「あなたが国で一番の薬師です」


二人の周りに一気に沈黙の帳が下りたかのようだった。女は珍しく鶯茶の落ち着いた色合いの袴を着ている。この館で最初に通された速津の小部屋。香が焚かれる事なく壁に影を落としている。やがて速津は「何のことでしょう」と言った。月祖根はそれを予測していたかのように、頷いた。


「ある者にこの国の薬師を当たってみろと言われましてね。探してみたものの全く心当たりがないと来た。ふつう、民間に名の知れたものが一人や二人いるものですが……」

そう言いながら月祖根は昨朝の市場の様子を思い出した。国の端から端までかき集めたように様々なものが取引されている。露店の間の通り道は荷物運びの牛から国外の人間、果ては外海人までもが行きかう。何より人々が好きなのは噂話で、真実味のあるものから眉唾物までありとあらゆる話が飛び交っていた。速津の言った通り山に『耳』があれば、山にだってすぐに知れるだろうといった具合だった。

月祖根は旅人を装って、薬師について聞き込んだ。薬草ならば、と指示された場所に行くと、なりばかり大きい若者が山菜と薬草を売っている。山近隣のムラから薬草を取りにふもとまで行ったのだと言う。薬草については詳しいが、薬師についてはとんと知らぬと言った。

目立たない男だと思ったが、何か月祖根しか知らない情報を教えるというならば 情報が価値を持って取引されているのだろう。旅人である、と言って立ち去った。詳しく言う必要はない。

何人も人を辿って行くうちに辿り着いたのが語り部だった。この国に薬師が少ないのはなぜなのか。

語り部―――その名の通りその土地の伝承や歴史を口頭で語る技能を持った人間。文字の発達していないこの八島国のあらゆる場所、都にはもちろん郡やムラにも存在する。その速津の語り部は、ひっそりと寂れたムラの片隅に隠れ家のような居を構える老人だった。


「この国の人間ではない、旅人だと言うと、それならばと語ってくれました」


―――この速津国では十年前に流行り病で多く人間が死んだ。当時速津国を納めていた速津氏の夫人も、その病に倒れて床に伏してしまった。

そこに何やら郡のはずれから来たという、流れの薬師が現れて彼女に薬を調合するようになった。すると数日のうちに容体がみるみると良くなり、感激した速津氏は薬師をそのまま屋敷にとめおいたという。

そして数年が経ち、病から床に臥せがちだった妻は亡き人となり、速津氏は薬師を新しい妻に迎えた。薬学だけではなく、女は政治の手腕にも長けており、速津氏を支えて、時にはその代わりをするまでにもなった。

さらに数年が経ち、「不幸にも」速津氏は急難にあってこの世を去った。その後は妻が全てを取り仕切るようになった。速津家は男系相続だったが、かつてこの国の成立時には、巨大な王国の女王の支配下にあった言い伝えもあり、彼女は今では国の王として君臨するようになった。

しかし実のところ、それは女に呪い殺されることをおそれて皆が従っているだけなのである。速津氏の血筋が絶えてしまったのは、女が現れて数年の間の出来事だった。くにいた薬師さえも女を恐れてこっそりと身を潜めて生きるようになってしまった。今公にそれを語るものがいないのは、みな彼女を恐れているからだと。元働いていたものは今では遠くに追いやられ、どこから来たか分からない女の従者と新たな兵士ばかりが屋敷では働いている―――。


語り部の翁の訥々として淀みのない語り口を思い出しながら、そこで月祖根は言葉を切った。窓を連子窓から格子窓に変えたのだろう。重なり合った影を伸ばして、速津の首から下を踊っている。その上には仮面のような無表情だけが、ただある。月祖根は訊ねた。


「鬼術の心得が?」

「いいえ」


息をするように速津は答えた。


「どこからきたのでしょうね」

「何が」

「この国一番の、その薬師は」


それは、この話の最も根幹的な問いだった。しかし答えは期待していなかった。女の左右の均整の取れた顔は崩れない。

「心配されずとも大丈夫です」

今さらながら月祖根は助け舟を出した。それは同時に彼自身の目下の保身のためでもあった。

「誰にも言いません。いや言っても意味がない―――後を尾けさせていたなら知っているでしょう。二日後に私は山へ使節として行きます」

それは一昨日の土蜘蛛達との会合の後の事だった。大安彦は珍しく夜遅くまで別館の階下の一室で大皇の使節と話し合っていた。実際は月祖根もその場にいるべきなのだが、何かと理由をつけて疎外されていた。

そしてようやく出てきたかと思うと、大安彦は月祖根に新たな役目を任せる、と重々しく告げた。

それが、山守の所にまで保留になっていた交渉の返事を聞くという役目だった。その返事は是でしか認められないという。

『是であれば―――』

『その場で是が取れたならば、そうだな、そのまま白を連れて戻れ』

『非であればどうします』

『ん? 非であれば奴らは大皇への反逆者だ!』

『それからどうするのです』

そう訊いた月祖根を大安彦は何か奇異なものを見るように見返した。

『我々は―――』

そう言いかけて、大安彦のその目を見た時に月祖根は気が付いた。いや、考えないようにしていたが気付かざるを得なかったと言った方が正しい。ただ一言、煩わしい、というのが見て取れた。まるで道端の小石でも見るかのような目つき。

『月祖根殿』

わざともったいぶるように男は口を開いた。

『時には犬のように是と、それだけ言うのが正しいのだ』

大安彦はまるで訓戒を語るように、そう言った。

『この世は、生まれながらの勝者のみが口を利く事が許される』

この男が愚鈍な割りに大将として向いているのは、そういうところだったと月祖根は思い出した。戦線で彼は自分が戦わずして単純な兵士を鼓舞することに長けている。もっともらしく大皇のために戦うことがどんなに誇らしいか、またそうであるべきか語って見せる。それが出来るのは、男自身がそれを心底信じ切っているからだ。生まれながらにして神の血筋と呼ばれ、いくらでも驕ることを許されたからこそ。それ以外の人間は彼にとって人間ではないのだ。

月祖根は落胆さえしなかった。やはりか、という気持ちが大きい。実際のところ、援軍の情報でも聞いて勝利が確定した瞬間に、栄誉を誰かと分け合うのが惜しくなった―――と、さしずめそんなところだろう。

特攻せよと言われた方がまだましだ。いや、それを言うのでは流石に怪しいのだろう。だって月祖根は弓を引けもしないのだから。

自分の知らないところで何かが決定しているのは今さらのことだ。まだ大皇か誰かの命令であれば良かったと思わなくもなかったが、どちらにしろ結果は変わらない。逃げる事は出来ない。

温泉でもどうか、と言われて暇を出される。余生を好きなように使えと言われているようで生ぬるい気持ちがしたが、館に籠っているつもりにもなれず兵を連れて別館を出た。

そこでふと、土蜘蛛の首領の事を思い出した。薬師を探されるのが良いだろう、と言っていた。かれはどういうつもりで言ったのだろうか。右腕は相変わらず木板で固定し布で吊ってあるが、無理に動かせば激痛が走り冷や汗が止まらなくなる。

鎮痛剤は今さらだが、それよりも必要な調合薬をはたと思いついて、月祖根は薬師を探すことにしたのだった。

速津が館の使用人達に月祖根達を嗅ぎまわらせていたのは薄々気付いていた。そもそも彼らの陣地にいるのだから多少話を聞かれても仕方がないとは思っていたが、外に出る時でさえ尾行をつけているのである。それで遂に今日、兵を連れて市場を歩いていた時に袋小路に誘いこんで待ち伏せて対峙したのである。その後動けないところを撒いたため、語り部の事は知られなかったのだろう。


「……私だって兵士なのだ。弓をつがえる事の出来ない身でも、誇りはあります」


月祖根の真意をはかりかねて沈黙した速津は、思索するように左手の中指と人差し指を頬骨に添えて親指を咬筋に当てた。その仕草に、月祖根は強烈な既視感を覚えた。


自分の成すべき役割が決まった今、月祖根は不思議と穏やかだった。そうすると改めて、この土地に来た時から謎に包まれていた土蜘蛛とこの国にまつわる謎について知りたくなった。そもそも大皇がなぜこの小国の土蜘蛛に拘るのかというところからして違和感があったのだ。そして内情の片りんを知るうちに予想したよりも深い呪いめいた宿縁を感じるようになった。


「土蜘蛛の女性は皆、男並みに勇ましいですな。別館に来た少女で、肩まで髪を流した少女を見ました。年は十六の頃で―――目のあたりといい、輪郭と言いあなたによく似ていました」

「何が言いたいのです」


速津ははっきりと言った。その物言いの仕方は、おそらく土地柄なのだと月祖根は思っていた。だが、それも決して偶然ではなかった。


「少し興味が湧いたのです。個人的な興味、ですからして、私だけが知れればいい……世間でも言うでしょう、語ることが出来るのは勝者の証だと」


もしかするとそう一般的ではなかったかもしれないな、と月祖根は速津の反応を見て思った。


「あなた方は、何者です」


言ってから月祖根は失敗した、と思った。速津の態度がさらに硬化したからだ。


「わたくしに出来るのは風の噂を語る事だけです。既にそうしてきたように」

「これは失礼、質問を変えましょう。先ほどの事は忘れてください」


そう言って月祖根は少し躊躇った。個人的な興味と言ってしまったのが我ながら引っかかったからだった。


「青と白……ほかの土蜘蛛も変わっているが、なんというかあのふたりだけ妙に異質だ。特にあの、」


一旦月祖根は言葉を切った。


「あの青背という頭領は……一体何者なのですか」


速津はしばらく黙っていて、そして「青は」と言葉を切り出した。


その言い方に、月祖根は眉を上げた。


「放っておいてもあれはもう長くはない。……少なくとも人として」













――――――


「こんな山奥まで都の役人どのが御足労頂くなんてな」


乾いた岩肌を革履きで叩いて青背が姿を現した。来訪者から距離を取って岩穴の方にたたずむ鹿の仮面も見えた。速津の別館の時と同じように、隣に侍女が影のように連れ添っている。

目の前の青年を月祖根は見る。目の下の紋様かと思えたのはひどい隈だったのだ。

彼は腰に下げた刀から左手を離して手を上げて見せた。ここではもう気負ってきざな話し方をする必要もなかった。


「交戦の意思はない」

「うちの料理番を離してもらおうか」


月祖根の言葉を無視して青背が言った。どうやら一緒に来た山守の男の事らしかった。人質に取っているつもりはなかったが、そう見えても仕方がないだろう。ちらりと横目に顔を見ればひどく怯えた顔を浮かべている。


「ここに来たのは、以前お話しした通り、その後のお返事を聞かせて頂くためだ」

「―――それが本気ならば、早くそいつを離す事だ」

「勿論だ。さそもそも人質のつもりは―――」

「青背さま、私は大丈夫です」


そう言って男が突然岩を踏んで前に進んだ。彼らの注意がその男の集中した瞬間、月祖根の耳の近くで耳慣れた風を切る音が聞こえた。振り返ろうとして、肩がぶつかる。

雄たけびを上げて、月祖根の連れてきた兵士達がそれぞれ武器を手に山守に突撃していた。

騙すのはまず味方からというわけだ、と月祖根は気が付いた。それにしてもあまりにも酷い作戦だ。見る間に弓を持っていた山守に射られてばたばたと前後不覚に男達が岩場に倒れる。

男達が、恐怖心を紛らわすためか。わーーーっと叫んだ。

その中でも一人の男が猛突進して行って、弓を乱射している。その姿に、月祖根はああ、あの一人生き残った都軍の兵士だ、と気が付いた。明らかに気が触れている。

生き残る事だけが幸せではない。

しかし、男の狙う先を見てはっとする。それは明らかに仮面の女―――白に向かっていた。弓が放たれる。寸時に、侍女がその身を挺して矢を腕に受け、二人は岩に身を隠した。


「死にたくない”」


それが男の最後の言葉だった。中剣で近くの兵士を切り捨てた青背が、やはり獣のような遙かな跳躍をして一息で男の後ろから抑え込むように斬り抜く。何本か矢を受けてまだ立っている兵士たちがいたが、他の山守も二人、岩から飛び降りてきて迎え撃った。スパ、と小気味いいような音を立ててあっという間に味方の軍勢が血の海に沈んだ。

立っているのは不本意ながら今や月祖根だけであった。

左手も使えなくはないが、右手に比べると非力すぎる。青背が切りかかってきたのを受けるが、すぐに押し負けてしまう。


冷静な死神の顔を間近で見た。

唐突に月祖根は気が付いた。


やはり私を殺すのはお前だった―――。


顎に激痛が走る。顎を打たれたのだと気付いたのは顔が地面を引きずる頃だった。誰かの声が叫んでいる。岩の上が兵士の血で苔まで浸っている。それを最後の景色として、月祖根の意識は途切れた。


















―――――


事切れた兵士の死体を押し車の上に乗せて岩屋の裏方に行って、その崖から落としていく。既に山の下腹部と中間部に向けて交代の見張りは送ってある。

青背に指示されて最後の屍を運び終わった男が、崖から落ちて行くそれを目の端で見送った。

やや曇り空。湿度が高い。風は南を向いていた。

青背はその岩の上で崖に向かって少し離れて立っている。両脇に真っ直ぐ背を伸ばした裏白樫の木が立っている。 わざわざ彼らを呼んだのは男手が欲しかったから、ではなかった。青背はその崖側にいる二人の男をその場に留めた。

「そこで止まれ」

中指と人差し指で二人を指してかれは、さらに続けた。

「お前らのどちらかが下の鼠だ」

男達の顔に動揺が広がる。まさか、とどちらともなく言った。しばらくの風の音だけが聞こえる沈黙の後で、青背は右の男を指した。

「足、こっちにこい」

大柄なその青年は無実を訴える。

「青背さま、何かの間違いです」

「黙れ」

青背は容赦なくそう切り捨てた。早く来い、と言うように手招きするのを、彼は覚悟を決めて大人しくその前に立った。

「どいてくれ」

しかし青背の目的は彼ではなかった。

「あの」

かれの右側に寄った足が状況を理解できずに話しかける。

「少し黙っててくれ」

青背は少し柔らかくそう言った。しかしかれの静かな怒りはおさまらない。それも当然だ、よりによって大切な片割れを危機に晒したのだから―――。

「高泣、お前が鼠だ」

そう断言された瞬間、男のみぞおちがぎゅっと引き絞られる感触がした。ああ、今までで一番と言っていいほどに、山守の、彼の王はかれに注意を払っているのだと実感したからだ。

高泣は当初、その穏やかな、垂れぎみの長い鼻と、糸のように細い目と、柔和な形をつくる口元をほとんど変える事はなかった。

「青背さま…どうして」

否定も肯定もすることなく彼は問い返す。

「香の匂い。速津の館で嗅いだものと同じだ。油断したな」

やはり速津の方に伝手があったか、と男は思った。お互い様だ。

速津の館に行ったのは久しぶりの事だった。都軍が攻めてくるのにもう時間もない。今後の段取りについてだった。戦火に巻き込まれては今まで速津に情報を流していた意味がない。青背はもう随分嗅覚が落ちていたようだったが、確かに油断したなと高泣は自らの落ち度を認めた。それにしても。

「いつから?」

そう訊ねながら、罪悪感と快感が混ざったような表情を抑えられない。足が忌避感の明らかな表情を浮かべた。地上に降りる際に時々一緒になることがあるが、裏表がないとはまさにこの青年の事を言う。高泣にとってはつまらないほどに実直な男だった。

「確信したのは、お前がさっき都人達と一緒に来た時だ。最初は強いられていたのかと思ったがあの時お前は―――」

一呼吸ついて、その時の情景を一度頭に思い浮かべたのか、青背は言った。

「私に怯えていた」

その通りだ、と高泣は思った。興奮はあれど恐怖心が消えたわけではないのだ。むしろ恐怖心がほとんど高泣の行動の原動力で、そのほかは付帯的なものだったと言っていい。

しかしそれも最早意味がない。青背は獲物を逃がさない。特にそれが白妹に害をなす者ならば、なおさら。簡素な足を覆う浅黄色の上履きに目を一瞬落として、高泣は言葉を繰り出した。

「我々に勝ち目などないのです」

風が背中から吹いていた。崖の下から、怒るようなうなり声が聞こえてくる。しかし高泣はもはやそれを恐ろしくは思わなかった。山は高泣の裏切りも裁きはしなかった。ましてや最後まで気付きもしなかった。他の山守が信じるほどにそれに力などないのだ、と思うようになったのはやはり速津の密偵として動くようになってからだった。

最初はどちらにでも翻る事の出来るように布石を敷いていただけだった。それと同時に奇妙な快感だったのも確かだ。あの二人を欺いているという優越感。

そして徐々に山守側が不利になるのを見るにつけ、より速津の方、すなわち都軍の方に肩入れするようになった。

いつだったか、前時代的な、と言った。女王がこの八島国を支配していたのはるか昔の事であった。その後今の都の王にとってかわられたと、そういう話である。勝った方が優れているのである。そして勝った者だけが語る権利を得るのだと。

そう言った視点で考えてみた事がなかった。確かにそうなのかもしれない、と思った。

実際のところ、山も山守も変わりはしない。相変わらず勇猛で、果断で、豊かな暮らしだ。だが例えば青背と白妹がもし都軍側であれば、きっと英雄と語り継がれるだろう。

そしてそれはかなわない。所詮は土蜘蛛であるからだ。何者でもないのに巻き込まれて死んでいく。それは嫌だった。かといって、反旗を翻して逃げる勇気もなかった。


「皆が皆、あなたのように生きられると思うな」


言った声が震えていた。初めて青背に真っ向から逆らった気がした。しかしそれを裏付けるだけの根拠はある。

「明後日の早朝、北筑紫から来た兵を都軍が送ります。その数、二千人です」


足が驚いた顔をする。青背はその風にたなびく尻尾髪以外は微動だにさせなかった。


「誰もが誇りのために死ねるわけではないのです」

「戦から逃げたければ、止めはしなかったものの」


それはそうだろう、と高泣は思った。怖気づかれては逆に足手まといになるからだ。


「逃げてどうなるのです。惨めに生きろと言いますか」


男は子どものように主張した。どうにかして青背を揺さぶりたいと、そう思った。


「何度か毒を盛ろうとも思いました」


そして告白する。料理番であることは有利だった。祭りの日の特別な芋酒。毎日の夕餉。時々頼まれる白湯。機会はいつだってあったし、白妹の体調がすぐれない日はその察知能力が著しく落ちるという事も把握していた。


「そこまで憎んだと―――?」


そう問われて、高泣は答えられなかった。青背は怒りとも悲しみとも違う、極めて中庸的な表情を浮かべていた。本当に理解できないからただ訊ねているのだと分かって、高泣は言葉を頭の中で反芻した。

憎んでいるのではなかった。頭首として認めていないわけでもなかった。青と白。互いが互いとして、切り離せない絶対の存在。そう、その二人を身近で見るのが。


「いえ、むしろ……」


それが自分であったらどうであろうかと、思わせた。

青背がその答えの続きを待っているのを感じて、高泣はふっと笑みを浮かべた。青背に全ての答えを与える必要はない。自分は誰のためにも生きてはいない。そしてせめてその記憶に残る事しか出来ない。


「もう時間がない。あなたも、本当にご自分に何が大切か考えて選ぶことだ」


そう言って、彼は上履きの裏を砂の音を立ててずらした。後ろに向かって自ら身を投げ出す。それが最後の自由だった。

一瞬、視線の隅で、青背が足を踏み出したのが見えた。思わず体が反応したようだった。いくら仮面で覆おうともその生まれ持った性情は偽れないものだ。

それを高泣はずっと昔から知っていたはずだった。

それを想って、高泣は笑った。それは青背に対してでもあり、自分に向けたものでもあった。


ああ、何とおやさしいことだ。









「―――よくある話だがあれの母親はあれが産まれた時に死んでな……あれを取り上げたのが産婆をしていた速津だと聞いている。その時に高く泣いたから、高泣」


崖の上で数時、ぼんやりとしていた青背がそう話した。足は、今しがたの出来事にまだ呆然としながらかれの横顔を見た。


「なぜか今、思い出したんだ」


やがて二人は窟屋に引き返し始めた。その途中で足がぽつりと言う。


「高泣どのは、誰か特別な誰かが必要だっただけなのかもしれません。青さまと白さまの二人のように」


その言葉に青背は首を捻りながら、「はたから見ればそう思えるんだな」と言った。


「それならばおそらく、あれにとってわたしは首領として正しくなかったということだろう」

「青背様」


足が珍しくはっきり言った。


「十人に同じ箜篌くごを弾かせれば十種の違う音が出ます」

だから?と青背が視線で聞いてくる。


「たとえその箜篌が素晴らしくても、弾き方は人それぞれ違います。でもそれは箜篌のせいでは決してありません」


青背はすこし驚いた顔をして、足はその言葉を待ったが、次にかれの言った言葉にがくりと肩をおろした。


「足、お前しゃれた事を言えるんだな」















――――――

母は高貴な家の人だった。

田舎貴族ではあったが、教養高く将来は皇族の姫に、と世辞が飛び交うほどだったという。それが蛮族の男と犯した一度きり―――という話だったが―――の過ちで一度は家を追われた。

その後子に恵まれなかった家に請われて幼い彼を連れて戻った彼女は、都に側女として入り、その執念で彼を都の官僚にまでつけた。相手の男がどうなったかは知らないが、彼の容貌が母にそっくりだったことは、子どもながらに彼を安心させた。

水鏡のような母が幼い自分の肩を痛いほどに掴んで、真正面から縋るように言った事を今でも夢に見るのだ―――。

『月祖根、母の期待を裏切ってくれな』



腹に鈍痛を感じる。何度か足蹴にされて、はっと起きる。縄を掛けられて石牢の床に転がされている自分に月祖根は気付いた。気を失っている間に随分雑に扱われたのか身体のあちこちが痛んだ。

「痛めつけるのは自分達の趣味じゃないけど……」

声に顔を上げると、見張りなのか山守の少年がいた。刈り上げた髪と頬の入れ墨が特徴的だ。大きな吊り目でぎろりと地面に這いつくばる月祖根を睨んだ。

「仲間に手出しはご法度だ。特に白妹さまに手を出す奴はな、誰であっても殺す」

月祖根が起きた事を確認すると、少年は岩屋の入り口に行き、外を眺めた。


身じろぎして、月祖根は右腕の留め板に添って仕込んだ刃がまだそこにあることを確認した。

刃に塗られているのは速津の調合した猛毒である。比較的苦しみが少なく速やかに、そして確実に死ぬことのできるという。誰に使うにせよ。例えそれが自らであったとしても。

やがて少年がぴしりと背を伸ばす。その扉の向こうにいる人物と数語言葉を交わして、少年は去って行った。代わりに岩戸に現れたその姿を見て月祖根は意外には思わなかった。

「一度殺し損ねると何度だって殺し損ねるのかもしれない」

そう言って夕焼けから逃れるようにして入ってきたのは青背だった。赤っぽい毛皮を首から垂らして腰に中剣。きっとこれが通常装備なのだろうと月祖根は思った。

そう言ったかれの口調は冗談を言っているようには聞こえない。おそらく本当に、時機を失ってしまっただけなのだろう。

「ただでさえ戦の準備で忙しいのに、お前等は仕事を増やしてくれるな」

言いながらかれは岩に腰かけた。古い竈 背中には木材がばらばらと落ちている。削ってあるものだろう。きっと 外からは指示を出すような声が聞こえてくる。戦の準備、と口元で呟いた月祖根に、思う事があったのか青背が念を押すように言った。


「明後日の早朝、都の兵が千人来る。が、お迎えじゃあない。残念ながら」

月祖根は驚かなかった。数までは知らなかったが、都軍が入る日を考えれば、時機的に妥当だった。


「本当だったか」


青背が彼のその反応に、独り言のように呟いた。月祖根は一つ前の青背の発言に返事をする。


「……味方から騙し討ちにされて、どうして都軍が迎えに来てくれると思える」

「お前の本意ではなかったと?」

「特攻なんてのは、圧倒的な突発力と武力があって初めて効果が出るんだ。あんなのはただの自殺行為だ」


その彼の言葉に、はっと青背は笑った。獣のような歯が尖っている。よく見ればその赤茶けた髪に返り血が飛び散ったまま乾いている。「お前も不憫なやつだな」と同情しているのか分からない真顔で月祖根に向かって言った。月祖根は何か言おうとして、喉が異常に乾いているのに気付いた。それもそうか、と今朝の無理な予定を思い出して自分自身に納得する。そして青背に向かって「水をくれ」と試しに言ってみた。

「甘えるなよ」

その要望はさっぱりと切り捨てられる。

「明日の朝にお前は殺して崖から落とすから、そう乾きも長くは続かん。安心しろ」

そう言って青背は岩牢から出ると、入り口の岩を押してずらして扉を閉めた。月祖根の視界が暗闇に沈む。



それから数刻が過ぎていた。月祖根は右腕と、全身の痛みで魘されていた。そんな彼の乾いた唇に冷たいものが触れる。上向かされた顎を伝うのは水だ。月祖根は徐々に喉を潤し始めた液体を何度か嚥下すると、母上、とうわごとに呟いた。


「母上ではない」


暗闇で突然声が不満そうに言った。はっと目が覚めて身体を起こしそうになって、全身に走る痛みに月祖根はもんどりうった。その身体を床に整えてやって、影は月祖根を見下ろしているようだった。

松明をつけていない上に扉を少ししか開けていないので月の光がさし込まず、岩屋はほとんど闇である。それでも青背に取っては問題がないようで、その影が動いて再び岩の竈の上に腰かけるのが雰囲気で分かった。


その姿を見て月祖根は館での会話を思い出す。

青は眠ることがない、と速津は言った。

それ故に、消耗が早いと。


『あれは力を酷使しすぎているのだ。人としてはもう持ちはしない。山はどのような形でも生かしたがっているが……』

月祖根は全て理解できないまでも彼女が語るのを聞いていた。時折それはひとり言のような響きを帯びていた。あれは人の子か、と聞くと彼女は確かに頷いた。

『二十年も前の話、愚かな女が異国の男との間に産み落とした子だ』

『誰よりも強く、誰よりも山に寵愛された子どもだ。それが幸か不幸かは―――』

そう言って速津は言葉を切った。その先が続けられないことを確認して、月祖根は訊ねた。

『あれは女だろう』

実のところ大安彦は面会の後に、あれは女か、と言うまでは男と疑う事がなかった。だが速津はどうでもよさそうに肯定も否定もしなかった。

『だとすればどうするのです』

彼女は続けた。

『あれは人と獣と、そして神の境目にあるもの』

その瞳にあったのは確かに憐れみであった。

『その出自から山の外から来る人間を憎んでいる。どうしても山から離れずに、心中する気だ』

速津は決して自分の事を含めて語ろうとはしなかったが、その口ぶりからして、彼女にとって青背は近しい存在だったのではないかと月祖根は思った。


月祖根は訊ねた。自身を偽り近しいものを葬ってさえ果たさなければならない大義とはなんでしょう、と。

速津は、黙っていた。返事はもらえないだろうと思っていたが、彼女は言った。


『語るだけで危険な真実もあります。根が深ければ深いほど毒の強い薬草のように』


『しかし、大義など本当はあってないようなものかもしれません』


彼女はどこか悲しそうに言った。


『ただ生き長らえたいだけの命です』


それは月祖根が最後に部屋から出て行こうとする際の事だった。速津は彼を引き留めて何事かを言いかけた。

『もしあれと話すことがあれば………、花の盃―――』

彼がそれを聞き返すと、速津は正気に戻ったようにはっとした。次に悩まし気に首を振って、何でもありません、とだけ言った。そして再び瞳を開けたその顔は、元の土人形のような無表情でしかなかった―――。






悪かったな、と影が言う。月祖根はどれのことだと考えて、自分が母上と呼んだことを言っているのだと気が付いた。なんと言うべきか迷って彼は、まず「母は」と月祖根は言った。

喉がまだ掠れているが、先ほどまでよりはずっとましだった。

「もう二度と会う事はない、だが」

ずっとこなれた喉を一度嚥下して、彼は言葉を終わらせる。

「おそらく、それが正しい」


青背は黙っていた。そして、「お前は母親似か?」と訊ねてきた。暗闇の中でもきっとよく見えているのだろう―――その視線が自分の顔に注がれているのを月祖根は感じた。

そうだが、と言うと、青背はそんな気がした、と言った。そして彼女はぽつりと言った。

「わたしは父に似ている」

それはどう感情を込めていいのか分からない、迷い子のような口調だった。

「そうか」

月祖根はそう受け止めた。この誰にも声を聞かれない窟屋の片端で、月祖根という、死に行く人間にだからこそ言えない事もあるのだろう。

彼はその時、青背と何かを分け合ったような気がした。闇はそれからほんの少し留まっていて、そして何も言わずに出て行った。

そうして、彼は息をついて、まどろみ始めたのだった。


―――首に何かが絡みついている。それは無造作に見えて確固たる意志を持っている。強い意志を以て、月祖根を害そうとしているのだ。その細さから信じられない強さで気道を締め上げる。

閉じた瞼の裏に彼はその姿を見た。白く光る蛇。髪のように無数の白く透明なその正体。

足掻けど身体は地面に固定されたように重い。

意識が遠のく―――。

「白妹!」

聞き覚えのある声が遠くで聞こえた。その瞬間、身体の上にあれだけ重くのしかかっていたものがふっと消えた。はっと瞼を開けられるようになって、月祖根は相変わらず石牢の床の上に仰向けになっている自分に気が付いた。

全身が冷や汗でびっしょりと濡れている。自分の姿が確認できる。岩穴の扉が大きく開かれているのだ。誰が―――と首をなんとか押し曲げて見れば、岩穴の前、月明かりの下に人が立っているのが分かった。最初一人かと思ったそれは、ふたりの姿だった。

「どうして起きている?お前が手をかけなくたって、明日には死ぬものを」

「………」

子どもをどうにかしてなだめるように、一所懸命に片方を宥めているのが青背だった。幾らか丈高い彼女に抱き竦められているのは、白という女。

月祖根の存在など忘れたように月明かりの下にふたりが立っている。今さらに気が付いたが、かれらは立ち姿がとても美しいのだった。白の肩に手を回していたが、しばらくして青背は彼女から離れて顔を覗き込みながら言う。

「分かった、今わたしがやつをころそう。それでいいだろう?」

「だめよ、あなたには殺させやしない」

頑として白は言い張った。

「あなたの記憶にそうして残るなんて許さない」

「やつが何だというんだ。きみと何年一緒にいると思っている」

「年月なんて、何の意味立てももたないわ。だって」

そう言って白は既に傷付いたように眉を下げた。

「あなたは子どもの頃からずっと変わらないもの。あなたが青になってからは私の事を白としてしか扱わないのに。かの女としてか見はしないのに」

彼女の剣幕に青背は一瞬怯んだ。しかしすぐに、声を潜めつつ冷静に言葉を返す。

「どちらも大切だ。きみは白だし、かの女自身でもある。どちらもわたしにとって掛け替えのない存在だ」

言葉を切らした白はまるでただの少女に見えた。二人の間にどうしても越えられない溝がある。ふたり、肌の熱を感じられるほどに近寄っても、決して交わらぬ平行線。

白は黙って、向きを変えると岩牢の中に再び入ってきた。思わずのけぞる。だが、彼女はその手を月祖根の胸元に当てただけで何をする気配もない。

やがてふっと体が軽くなるのを感じた。身体中を蝕んでいた痛みが嘘のように引いている。それは右腕も同じことだった。折れているのは相変わらずだが、とにかく痛みを感じないのだ。

慌てるように岩牢に入ろうとして、三人入るには狭すぎる事に気が付いた青背が入り口から白の腕を掴んで引きずり上げた。

「そこまでして」

唖然として彼女はそう言った。白はぐったりとしながらも、青背に頼んだ。

「殺さなくたっていい。でもこの山から追い出して。どこかあなたの目の届かないところへ」

「もちろんだ」

そう口早に青背は言った。

「早春」

そう言ってずっと少年がいたことに気が付いた。狼狽している。

「白妹を岩屋までおくりとどけてくる。男をちゃんと見張っていろよ」

見張りの少年はこくこくと頷いた。しばらくして青背は空手で戻ってきた。

「立て」

腰の中剣で縄を切ってそう言うと、月祖根の左腕を掴んで起き上がらせる。そのまま岩屋を出て、斜面に足を踏み出す。行き際に青背が早春に、他言無用だと言いつける。

途中で気が付いたように彼女は松明を手に取った。身の軽さに驚きながら、月祖根は青背が言うままに茂みに入り、先導されるまま山の中へと進んでいった。そうして黙ったまま歩き続けて、しばらく経った時、青背はぴたりと立ち止まった。

「出ていけ。おまえは自由だ」

その馴染みのない言葉を口の中でもてあそぶように、月祖根は自由、と呟いた。その様子に青背はどこか痛ましいものを見る目つきで彼を見た。

「おまえも可哀そうなやつだ」

そう言って、彼女は腰につけた中剣を取って月祖根に差し出す。

「これでおまえ自身の身を守れ」

月祖根は受け取ろうと迷って、そして何か言おうとして―――こういう時に言うべき言葉を何も知らないのだと、そう思った。そうするべきと思った事もなかった。 

「青背」

名前を呼ぶと少し動揺したように彼女は目を丸くした。

「お前は、自由か」

どうしてその問いに行きついたのか月祖根自身でもよく分からなかった。ただ、それを訊ねなければならないような気がした。青背は一瞬考えて、答えた。

「好きでここにいるのだ。そうでなければこの手が流した血をあがなえない」

それは一体自由だと呼べるのだろうか、と考えて月祖根は思考の袋小路に足を突っ込んだ気持ちになった。

びゅうびゅうと怒ったように風が強く吹き始めて、おさまりの悪い彼女の髪を乱している。腰まで高い草がさらさらと衣を触っている。暗がりに佇む木に囲まれて、彼女といるとなぜだか恐ろしさを感じなかった。

人とも神ともつかず、天の定めた男とも女とも枠組みにあてはまらない者。獣を想起させるの瞳に、月祖根は今まで覚えのない美しさをそこに見た。光によってその色を変える瑪瑙の輝きを持つ瞳。憂いを帯びてはいるが、その意志自体ははっきりとしている。

「ずっと下っていけ、全てを忘れて」

「お前は―――」

「白妹は近くにいるのを察するぞ。これ以上怒らせてせっかくの命を無駄にするな」  

「生かすも殺すも山次第ならば、」

月祖根は左手を伸ばして、中剣を掴んだ。手の先が触れたと思った瞬間に、青背は痺れたようにはっと目を見開いて手を引っ込めた。突風が巻き起こる。松明の灯りがかき消える。月祖根は思わず開けていられず、目を瞑った。

そうして開いた瞬間に青背の姿は消えていた。





―――朝から晩まで山の中腹から窟屋まで行ったり来たりを繰り返していた青背が帰ってきたのは真夜中だった。山守の中には夜衛をする者、まだ武器の調整をする者、そして闘いに向けて休息を取るものと様々である。少し離れた所にある白妹の岩屋は少し離れていることもあり、いつも通りの静謐さを感じられた。

見張りの者に聞けば、まだ起きているのだと言う。合図をして中に入ると、くらりとするような香木の香りがする。自室からの出入りが少なかったのは月の日のためだった。薄い石盆の上には他の料理番に頼んで作らせた特別な白湯が置いてある。

素枝は隣接した隣の部屋に控えている。

明日全てが変わるかもしれない割りには、全てが普通だった。しかしかれらにとって闘いとはそれほどに日常的なものだった。全ての山守が日々命を落としてもおかしくないと思いながらその日一日を生きてきた。だから今回の闘いも、その一環に過ぎないと言うのがかれらの考えだった。

月祖根た高泣との事があって一日が経過していた。青背は何でもないように白妹の向かい側に座った。

「どうなるかと思ったけど、間に合ったよ。だいたい奴らが来そうな所に罠は設置した」

「そう。良かった」

白妹は手元で獣骨を削りながら弓矢を作っているようだった。確かに、新しい弓矢はいくらあっても良い。

「きみが塞ぎこんでいると、この山全体が嘆くようだ」

青背は言った。

「ああ、昨日の男。今日一日山を回っても影も形も見えなかった。多分獣に襲われるかでもしたんじゃないかな」

「………」

白妹は黙っている。どちらにしろそれ以上のことを言うつもりはなかった。青背としては、何も月祖根に許したつもりはなかったので、彼女の昨晩の振る舞いに衝撃を受けていた。死にゆく者だと思って、多少緩んだのは確かだ。だがそれだけのことだ。

何にせよ、白妹とは最近衝突が多すぎた。時間がない、と高泣は言った。そのことを青背は、平静の裏でありありと感じていた。

「……こんな夜は昔の事を思い出すわね」

「! いつの話?」

ようやく白妹が口を聞いたのを逃さんとばかりに青背が顔を上げる。

「天気が悪い日は、こうして閉じこもって色々なおとぎ話をしたね」

白妹がようやく手を止める。昔を懐かしむようにその目は遠くを見るようだった。

「あなたはいつも他の人から聞き出したり、書物を見たりして新しい話を聞かせてくれた」

「そうだったっけ」

青背は答える。時折、脳に霞がかって思い出せない事の方が増えた。

「あなたの話す子どもっぽい桃源郷のおとぎ話が好きだったわ」

白妹はそう言った。

「人は大人になるものだ」

と青背が言った。そしてさっきから機会を伺っていた懐の酒を取り出す。

「そして大人になった方が楽しめるものもある」

そう言いながら青背は猪口を二つ白湯の隣に置いた。

「用意がいいことだけど、私は呑まないわ」

「どうして?」

「明日に響くでしょう、それにこれがあるから」

白湯をさして白妹はそう言った。つまらない、とばかりに青背は目を眇める。胡坐をかいて膝に肘をつけて片手に器を持ったまま、そのまま自身も口をつけずちょっと考え込むように沈黙する。

やがて、瞬きをして告白するようにぽつりと言った。

「…叔母上と話をしたんだ」

白妹は何も言わずに聞いていた、松明が、青背の翳りのある顔をその色に馴染ませるように岩屋を照らしている。夜が深まるにつれて外の寒さが岩屋の入り口に忍び寄るかのようだった。

「館に行ったのはこれが初めてじゃない」

「知っていたわ。何度も山から抜け出して行っていたこと」

「きみは何も言わなかったね」

「私があなたのためにならない嘘をつかないように、あなたはわたしのためにうそをつくから、聞かないわ」

二人は淡々と向かい合って話した。

「叔母上は私の愚かしさで一族を滅ぼすのだと、そう言った…」

しん、と沈み込むような声で青背は言った。自ら戒告を受けるかのように眉間に皺を寄せてかれは続ける。

「だが同時に、きみのような力がないわたしにも分かる。やつらの信念はいずれはるかに大きな悲劇を生む」

一息溜めかれはて吐き出した。

「それはこの大八島全てに及ぶだろう。やつら自身も逃れられない規模の犠牲を」

その瞳に、白妹はかれが最も霊力の高い白と言われた女性の子であったことを今さらながらに思い出した。かれにしか見えないものと、白妹にしか見えないものがあるのだろう。

白妹は、その溝を埋めるようにどこか明るく、しかし真剣に言った。

「だから戦って生き延びるのでしょう」

生きる、と意味を問うように呟いた青背の瞳を見据える。背中の灯火の色を目の中に映して樺色に燃える瞳に意思を吹き込むように話す。

「だって、生き延びた者だけが物語を語る事が許される。そうあなたは言っていたわね」

「……そう」

一瞬呆けたように白妹の顔を見つめていた青背は呟いて、もう一度、確かな声で肯定した。

「その通りだ」












―――――

薄雲鼠色の幕は重く、そして広く空を覆っている。普段は太陽が海の東の彼方から浮かび上がるはじめる時間だったが、今や完全にその輝きを封じられてしまったようだった。

「では行くよ」

そう言って、青背は白妹の岩屋を覗き込んでいた。

「絶対にこの岩屋には越させないようにする」

かれは、岩屋の中、いつもの白の装束を着て座る影に誓った。鹿の仮面を付けた彼女は、何も言わずにただ大きく頷いた。

青背はそれを見届けると、岩屋の戸を閉め、そして磐穴の通路を歩いていく。しばらくすれば、一気に巨大な口が開けてかれの王国の姿が目に入った。眼下の広場では同胞たちが崖の方に向けて岩をどんどんと運んでいる。

広場では弓槍剣ありったけの武器が並べられ、それを慎重に選ぶ数人の姿が見える。豊富な矢が矢筒に揃えられている。

身体を冷やさないようにと足蹴りをしながら模擬仕合をする様子も見られる。青背が広場の崖の前まで降り立つと、上に残った狩猟班の面々が待っていた。

その列の間に入ると、かれははるか山の麓を見下ろして呟いた。

「さて、最初の獲物がかかり始める頃かな……」

―――妙な要請の一件だとは思っていた。

筑紫国で生まれ育った男は、国の制度の一環を経て順当に兵士となった。北筑紫ではその地理により、国内はもちろん外つ海までの遠征も視野に入れての訓練が行われる。様々な状況に対応できるように厳しい修練と実演が課されるため、大八島でも秀でた兵軍として名が知られていた。

それは中央の、最近勢力を強めている朝廷からの今回の要請にも表れている。速津国へ行き、土蜘蛛の討伐に参加せよ。頭領の女は生け捕りにすること。

まず男の育ったところでは土蜘蛛という言葉を使わない、というのが最初の印象だった。どうやら荒振る神々を指してそう触れ回っているのだということが分かった。それは、神々にまだ近い田舎のムラに生まれた男に当初若干の抵抗感を与えた。

しかし人と言うのは一旦慣れればあっという間である。相手が神ではなく人外の化け物と思えばむしろ任につく気持ちも楽になった。何にせよ仕事は仕事である。

現地では大将格の男が熱心に演説を行っている。速津国は小国だが、海と山の番う美しい国だ。郡を囲む国の大部分を占める山の麓で男達は仮の軍拠点を建てた。垂れ幕の向こうにどっかと腰かけた大将格の男の姿が小さく見えている。

都からの軍も参加しての大部隊だが、敵の数は多くはない。最初は様子見を兼ねて、それでも四十人ほどで構成される小隊を編成し山の三方面から登る。中腹に中継の印を立てて蜂火を上げる。そして頂上付近でおそらく最も激しく衝突することが予想される、というのが最初の見立てだった。

相手は人ではないため、どんな姿で急襲されるか分からない。男は殊更に気を引き締めて山へ足を踏み入れた。籐蔓を編んで作られた短甲が上半身を守っている。支給された木盾を握りしめる。

色を変え始めた木々は、山深に進むにつれて明らかに巨大化していくようだった。妙な気のする山だった。天気はお世辞にも良くはなく、太陽の出る朝方な事も手伝って冷える。

やがて、木の密度が少ない平地に近い場所に出る。その中央に、何やら自然物とは思えない集合体が見える。一気に隊の緊張が高まる。地元の兵士と見られる男が、慎重に近づいてみるとそれは石で囲われた焚火あとのようだった。まだ温かい、と男は言った。周囲の草には人がいたような窪みと、何よりも狩りをしたのかと思われる兎の死体があった。

「連中、気が付いていないのか」

兵士の一人が呟いた。

「近くにいる可能性がある、探せ!」

隊がその周辺を探るために動こうとした、その瞬間だった。みしり、と木の軋む音が聞こえた。地元の兵士が、兎の死体を屈んで見たのが目の端に見えた。

「この兎―――」

男がそれに触る。それが平常を保っていられた最後だった。正面の大木の方角から、無数の矢が勢いよく飛んできて、立っていた兵士たちをなぎ倒す勢いで貫いた。わっと声が上がる。攻撃を呼びかける声が隊内で一気に広がる。

どれほどの威力だったのか、普通よりも太く長い弓が仲間の兵の死体に突き刺さっていた。男は正面から逃れ左右を見渡す。しかし次の攻撃は頭上から降り注いだ。

上だ、上にいるぞと声が上がり、男達は弓を頭上につがえた。そこに動く影―――それに対して矢を放つ前に、彼らの足元の地面が、そして草の茂みが揺れ動いた。まるで自然が怒りの鉄槌を下したのかと錯覚するような光景だった。自然に擬態した土蜘蛛の強靭な刃が生き残った兵士たちを地面に沈めて行く。

正面左右に上下と四方から攻められて、三個隊があっという間に壊滅した瞬間だった。











―――男はその都から北筑紫まで海を越えて野を越えて遠征してきたものの、北の国長達は朝廷にへりくだるばかりでてんで張り合いがない、というのがもっぱらの噂だった。だから速津郡に行き土蜘蛛を討伐せよとの命が出た時は、ようやく力が発揮できると血湧き肉躍る気持ちだった。

そしてそこで聞かされたのが、以前男と何度か会った事のある、軍参謀であった月祖根の死であった。和平のための交渉にあたっていたところ、愚かな土蜘蛛の卑劣な策略に引っかかり帰らぬ人となったという。土蜘蛛ごときの策略に引っかかるような方ではなかったが、と思わなくもなかったが言う通り卑怯な手で陥れられたのだろう。

大将の大安彦は軍では良い話は聞かなかったが、何という事はない。今回の戦いは月祖根のへ弔辞にもなろう、と言って兵士達を鼓舞する情の厚い面を見せていた。思わず目頭が熱くなる思いがしたが、男は泣きはしなかった。それよりも土蜘蛛を葬り去る事こそが命題である、と炎の意思を燃え立たせてその出番を待っていた。その間に、今回の遠征についての新しい噂が静かに静まっていく。何やら今回の土蜘蛛は女ばかりという話らしい―――。

しかし、先遣隊が去ってから一刻もしないうちに、負傷した一人の兵がふもとの軍居地に戻ってから雰囲気は一変した。元々大安彦は全ての兵を使う必要はない、と考えていたようだった。しかし、血まみれのその兵士が肩を支えられ報告したのは、先遣隊が全滅したという事だけだった。まだ土蜘蛛をひとりも捕らえずして、である。

男は愕然とする思いだった。土蜘蛛といえば、実際のところ地元の蛮族の集まりが窃盗や脅迫行為によって民衆から供物をせしめ、自らを神と呼ばせる事が多いという話を聞いていた。そして当然彼らの多くが当然未開の、人にも劣る畜生である。他国の兵士もいたとはいえまさか都軍が遅れを取るとは、と男は信じられない気持ちで拳を握りしめた。

男の所属する兵団が出兵を命じられる。男は先頭に立って逸る気持ちで進んだ。途中で仲間の屍を見た。名も知らない躯に、仇は討つぞ、と心の中で語りかける。さかしまにも、土蜘蛛はここで罠を張っていたらしい。大木の後ろにその枝を利用して作られた巨大な弓矢の跡を見る。土蜘蛛のくせにさかしまめ、と男は心の中で毒づいた。

できるだけ残虐に殺さなければ気が済まない。

しかし中腹に近付いても人の気配はない。途中、山に仕掛けられてあった罠にかかる者が何人か出てきた事を除けば異常もほとんど見られなかった。だがそれもそうなのかもしれない。最初の陣とは違って、わざと隊列を外に広がるようにして、前と後ろの間隔を開けたまま数百の兵が山を登っているのだ。ここでへたに攻撃すれば逆に一気に袋叩きに合うだろう。

山下から十里歩いたろうかと言う時だった。右手で声が上がった。

「土蜘蛛だ!」

その瞬間男の脳内で火打ち石を鳴らす音が響いた。隊列に関係なく、木を除け斜めに突っ切るように足元の悪い斜面を突っ切っていく。

俺が奴を殺すのだ。

近くで悲鳴が上がった。既に何人かの兵が地面に転がっている。男達の群がる中央で激しく動く人影が見えた。あれが土蜘蛛。

男には最早それしか見えなくなった。土蜘蛛は一人のようだった。抜き身の片刃をまるで蛇のようになめらかに扱ってばたばたと兵を斬り抜いていく。しかし何せこちらは数が多いのだ。焦れたのか、それが周囲の男を叩き臥せると、ひらりと猿のように身軽に木へ駆け上がろうとした。それを許せば、奴を完全に逃してしまう。そんな気がして、男は猛烈な勢いでその脚に飛びついた。革製の、手触りの良い深履きと見慣れない形の着物。地面に叩きつけて乗りあがると意外なほどにきゃしゃな事に気が付いた。

ぎっと驚いたように見上げたその顔に入れ墨が入っている。目の大きな、髭さえ生えていない子どもか女―――いや、女だ。

頭の中で先刻聞いた噂と、事前の指示とが反芻する。この土蜘蛛は女ばかりだという。鹿の仮面をつけた女だけは、生け捕りにしろ―――。

こいつが、月祖根どのを。男の脳内で怒りの火が業炎へと昇華した。

ぐっと、前方で声がした。男の前にいた数人がどこかから飛んできた矢を受けたらしい。兵が男を庇うように前に出る。

男は剣を振りかざした。細身なのになんて力。地面に縫い留めるようにその肩を貫く。動物のような喉を引くような悲鳴が聞こえた。

誰かに取られる前に早く殺さなければ。これは俺の獲物だ。頭にはそれしかなかった。

剣を引き抜く間もなく、視界には地面に転がった大きな石が映った。考える暇もなく、それを手に取り、片手に丁度おさまったそれを、手元の獲物の小さな頭目掛けて振り下ろした。





「見えるか?」

「はい、まるで蟻のように大勢登ってきます」

普段は身体から頭までを覆う布に隠れて見えないその目の上に両手を翳して、少女は言った。目が良すぎるためにそこまでしなくてはならない、山神の偏愛を受けた子の一人だった。その特徴から、次代の白と呼び声の高い子どもでもあった。

「鼠に群がる蟻か」と青背は言って、自身も目を細めて山の中腹を見下ろす。残念ながら木に覆われてかれには何も見えない。

目下で蜂火が上がる。黄の混じった煙。味方の印である。つまり、早くに引き上げて戻ってくる同胞達が数人いるという事だった。各自判断は出来るとは思いつつ青背は指示をする。

「蜂火を上げろ、全員引き上げだ」

岩屋の入口の前、急な岩場のてっぺんに座してかれは言った。

「ここまで来た事を後悔させてやる」









―――男達は速津国の遣いに従って、岩場の近くまで辿り着いていた。幅十条はありそうな広い岩場だが、上に上るには険しい岩を幾つも越えなければならないようだった。木の生えた山道を通れないのかと、幾つかの小隊が既に左右の道から登山を試みた―――が、無残な結果に終わった。

一足ごとに罠が掛けられ、脚を負傷する者、矢で射貫かれる者、いきなり前から転がり落ちてくる者などが絶えず、その試みは断念せざるを得なかった。いずれにしても相手の姿がまるで見えないのが不気味だった。

男は未だに火照った身体を盛んに揺らす。結局土蜘蛛はまだ一人しか仕留められていない。既に犠牲になった兵の数を考えると信じられないほどの悪状況だ。

それでも、ここまで来ればもう勝ったようなものだ、と男は思った。少なくとも現在山の中腹にいる大安彦に言わせればそうだ。後ろからつっかえるほどに兵の数は十分にある。あとは頂上を攻め落とし、獲物を確保するだけだった。

やがて、先に到着していた兵達がそれぞれの指揮官の下、岩場を登り始める。いずれも屈強な兵士たちだ。苦闘しながらもこつを掴み、それぞれの足場を確保しては効率よく登っていく。

「ア”ーーーーーー……」

どこかから人の鳴き声が聞こえたかと思って、男はぎくりとする。土蜘蛛はどこから来るか分かりはしないのだ。バサ、と音がして上を向くと、逆光に巨大な鳥の影が見えた。すぐにその姿は見えなくなり、頭上のはるか上の木にとまった事が分かる。

大皇の武勇伝のひとつに、勝利を呼ぶ鷹という話があった事をふと思い出し、男は聖戦に参加している事への誇らしさを感じた。男の番が近い。岩に生えた苔がぬめるような色を帯びて誘っているようにさえ思えた。

そして、異音を聞いた。巨大な硬物が同じく硬物にぶつかりはじくような―――。男は目を見張る。目の前の事に思考の一切が飛ぶ。そこには巨大な大岩が、まるで空から振り落ちるような勢いで岩肌を叩き、兵達へと迫る光景があった。



「単純だが、効果的だ」


青背はそう言いながら大岩を転がしていく。崖ではてこを使って萩や狩猟班でない者たちも次から次へと岩を落としている。確認したが、岩壁の下には予想した以上の惨禍があった。大岩は前面にいた兵士を押し潰し、受け身を取ることも隠れる事も許さずに下まで無機質にただ転がっていく。ただ転がるだけでも兵士たちにとっては十分な脅威である。

実際、彼らの歩みはぴたりと動きを止めた。目の前で人が綿のように脆く崩れさるのは、体力以上に脆い精神を砕いただろう。最初の頃は、勢いをつけて乗り切ろうとしていた指揮官も度重なる落岩に声を潜めてしまったようだった。

そのまま膠着状態が続いた。

「消耗戦は避けたいな」と青背が隣にいた秋津に言った。消耗戦で不利なのはこちらである。何せあちらには資源も人も十分にあるのだ。実際岩が尽きたところを一気に攻められれば窟屋は陥ちる。

敵も馬鹿ではない。なんとか上に上がってこようと策を凝らしている。岩場の両脇の斜面には巨大な濠に近い落とし穴と無数の罠を巡らせているが、岩場との境目、ぎりぎりで罠にも落岩にも影響されない場所を少しずつ兵を送ってはじわじわと近付いている。

さらに近付けば射落とせばいいだけなのだが、上に登ってくる兵の数が多くなればそう感嘆にも行かないだろう。

都軍を諦めさせるような決定的な何かが必要だった。敵の数を全てでなくても、ほとんど減らしてしまうような―――。

「青背さま」

考えていた青背に、秋津が声を掛けた。

「私が出ます」





心は凪いでいた。雨を待って静かに沈黙する雲のせいかもしれなかった。ぬるい風が首筋を撫でている。秋津は周囲を右から左へと見回す。こちらからは見晴らしの良い崖。木の棒を使って岩を崖から落としていく同胞。秋津と同じく近接攻撃に備えて武具を確認する者達。

「秋津」

青背が、彼女を呼んだ。その前に行くと、かれは何を言う訳でもなく秋津を見つめた。

その隈は白妹を、ひいては山守を守るための犠牲の証でもあった。夜衛として、時に密偵としてかれに付いてまわった記憶が蘇る。時にその無粋なまでの武骨さ。確かな実力に裏打ちされた傲慢さ。早春ほどに表に出すことはなくとも、憧れていた。

そんなかれが秋津の手を取って、かれの左胸部に当てた。その鼓動の速度に一瞬躊躇ったが、秋津は顔を上げて彼女の首領の瞳を見つめ返した。

受け取った者、それは確かに信頼という貴い感情だった。

「兵の数を減らします」

そう言って、秋津はすらりと二本の刃を手に取った。



―――血でぬめりを帯びた刃はキレを失いつつある。

敵の数に限りはない。それに対して身体は少しずつ、だが着実に重くなっていく。敵が一定数近づいて来たのを確認した時点で岩を落とし、その影を追うように滑り降りた。それからは切って切って、切り倒してきた。まだ身体は十分に動く。敵は比較にならないほどに脆い。しかし、四方から矢を射かけられては避けきれないものもある。そういった傷が積み重なって、疲弊を生む。

秋津は勢いよく兵を斬り捨てながら、心の中で語り掛けた。

早春よ。ひとりは寂しいか。


見張りをしていた彼は秋津から少し離れた場所にいた。大軍が左右から一度に来た時に、死角になっていた所から攻撃されて身を隠していた木から姿を現さざるを得なかった。そして秋津が気付いた時には、間に合わなかった。


肩に矢を受け、刃が一本手から落ちる。拾おうとして、汗と血で滑ついていることに気付いた。後ろから膝に矢が突き抜けて、その場に足を折る。周囲には兵の死体が重なっている。形をとどめたそれは秋津と、ほかの数人の山守が倒したものだ。

山の斜面にそってぐらりと上体が揺れて、岩場に手をついた。その様子を見た兵士達が刀を振りかざしてかかってくる。

秋津は潔く目を閉じて、身体を裂く激痛を待った。しかし、それはいつまで経っても訪れない。

秋津は再び開ける事のないと思った目を開けた。そして兵士達の阿鼻叫喚を聞いた。彼等を襲うのは、巨大な屍食い鳥―――そして、猿達。追いまどう者を追っている影は狼。はるか下、木の間を逃げ惑う兵士の吹っ飛ばし、肉を抉りとばしているのは旧鼠だった。どうして、と秋津は混乱の中思った。意思の疎通をしなかった獣達が、どうして一堂に。

白ではないのだから山の意志など分かりはしない。全てが偶然であったかもしれない。

「神様……」

秋津は思わず呟いていた。それを人は奇跡と呼ぶのだった。













―――――

「情けない…なんと不甲斐ない…都軍ともあろうものが……」

そう言いながら、大安彦は兵を前後に連れ山道を登っていた。中腹の中継地点でしばらく勝利報告を待とうかと構えていたが、齎されるのは芳しくない報せばかりだった。このままでは日を跨ぎかねない。一度岩屋まで来たのに引き返すなど、都軍の名が廃る。

息を上がらせながら男は窟屋に近付いた。午から少しも先に動けていない。𠮟責の一つでも必要なのかと乗り込んで、しかし彼は言葉を失くした。


その岩場は死屍累々という言葉では足りないほどだった。ここは黄泉の国かと思わんばかりの死体で足の踏み場もなく満たされている。兵士、狼、猿、そして土蜘蛛と見られる人影。まるで岩場にいた者全てに平等な死が訪れたように見えた。

「なんなのだ、これは……」

その中でも顕著に異様なのが、岩場と山の境目、巨木にもたれかかるようにして事切れた巨大な生き物だった。顔は狼のように長くだらんと開けられた口からは細かい牙がびっしりと生えている。

胴体は長く人ほどの丈があり、足は四足獣よりもさらに足の数が多い。

それは月祖根の言っていた化け物の姿と一致した。

「……土蜘蛛め」

恐れを侮蔑で打ち消すようにして、大安彦は吐き捨てた。

そして彼は後ろを振り返った。まだまだ兵は数がある。武力がある。化け物たちを治めるのにどうやら多くの犠牲を払ったようだったが、まだこちらには半分近くの兵が残っている。それが全てだ。


「土蜘蛛は、奴らは卑劣にも妙な術を使い獣を呼び寄せた……これこそが大皇に反する化け物の正体だっ!」

静かになった岩場を前にして、大安彦は兵を集めて呼ばわった。腹から響くような声が山の木々を揺らすようだった。

「進軍せよ、仲間の死を無駄にするな!化け物に天の裁きを下すのだ!!」









「打ち落しても足りない! 侵入されます!」

「うん」

萩が叫んだ。青背はそう言って、崖の周囲にいる山守達に呼ばわった。

「一旦下がるぞ!」


秋津達の特攻と、どこからか現れた旧鼠達の攻撃のおかげで岩場と前線は見事に一掃された。相打ちというにはあまりに圧倒的な数の兵士が岩場に命を散らした。しかし、下では何があったのか、精をつけたようにがむしゃらに一気に多数の兵士達が岩場を登ってきた。

当然それらを青背達は正確に弓で撃ち落していく。これ以上落とす岩がなかったからだ。しかし、彼等はまるで正気を失ったかのように次々と屍に隠れ、弓をよけ、盾を使い迫ってくる。それもまるで均一性のない、蜘蛛の子のようにバラバラにやってくるのだ。

このままでは攻め入られる、と見た山守は一度体勢を建て直すことに決めた。すなわち自分達の近接戦闘にも都合の良い後方まで下がる事になる。広場前はそれこそ間口は広いが、窟屋に行くまでにはだんだん狭くなっている。窟屋の段差からは残った山守達が射撃の準備をしている。

「全員配置につけ!」

青背は段差を背中にして、そう言った。

「援護を頼むぞ、」

青背はそう後ろに控える山守に言うと、かれは右手に大剣を、左手に新しい中剣を持って足を踏み出した。左隣りには信頼のおける長年の次席であったイタビが控え、後ろ手には残りの数人の狩猟班が武器を構えている。かれは左手首にそっと口を押し当てた。広場に兵士の足音が鳴り響いた。



―――大安彦は、岩場の下で再び呻いていた。

「進まないだと、そんな訳がなかろう」

報告に来た兵士にそう言うと、彼は疲弊した表情を浮かべた。上からは次々に怪我人が運ばれてくる。しかしそれ以上に兵を送り続けているのだ。その数既に数百に上る。

月祖根がどこからか仕入れた話だと土蜘蛛の頭数もそう多くはないはずだった。実際に今までこちらの手にかかった土蜘蛛はそう多くはない。

大安彦は痺れを切れして、上に行く兵士の後について登り始めた。その目で確かめる必要があると思ったからだ。ちらりと下を見れば、次々に兵士が上ってきている。その中に見慣れない道具を持った兵士を見つけて大安彦は眉を潜めたが、それが月祖根の言っていた巨大な鼠の化け物のために用意されたものであることを思い出した。

広場の入り口に辿り着いた時、彼はその戦いの異様さに口を開けた。

手前に兵士の数が集中して、遠巻きにするようにして近寄りあぐねているのだった。

大安彦は焦れて、群衆のようになった兵士達の背中に近付き首を伸ばしてその向こうを仰ぎ見た。そして目にした土蜘蛛の様子に、目を剥く。

「化け物……」

そこにはまさに彼の化け物と呼ぶべき生きもの達がいた。大安彦は速津の別館で相対したそのその姿には確かに見覚えがあった―――しかし目の前で自分の兵士達を目にも止まらぬ速さで紙切れのように切り裂き、一蹴りで空中に吹っ飛ばし、咆哮のひとつで彼等の足を止めるようなそんな化け物は見た頃がなかった。

それは偶然だったのかもしれない。しかし、大安彦が思わず呟いた瞬間に、青背がその場でぴたりと動きを止める。返り血で色塗られた顔が、正確に大安彦の方向を向いた。広場の端から端まではかなりの距離がある。

だが、身を屈めてかれはその方向に駆け出した。

うっと呻いて、大安彦は兵士に向かって叫んだ。

「青だ!!!!」

土蜘蛛には青と白がいる。青は討伐し、白は確保しなければならない。それが都軍の兵士に与えられた最初の情報だった。

「討て!!! 殺せ!!!!」

大安彦の声に押されるように、兵士達が前に出る。敵の大将が一人で向かってきている―――もしかすれば自分でも一撃を与えられるのでないか。左右にひしめく中で誰もがそう思った事は想像に難くない。そしてかれらの期待は、外れた。

団子のように並んだ男達の最前列が叫び声を上げる。青背が彼等を足で全てなぎ倒して、素早く後ろに飛び去って弓矢を避けた。そのまま後ろに低く身を構えながら、蛙のように地面を跳ねて後退する。

不審に思う兵士の軍団に向けて、かれは突然脱兎のごとく駆け出した。真正面から弓矢のように向かってくるかれに、都軍の弓矢と、刃が迫る。

そしてそれらが当たる直前でかれは岩場を叩いて空中に舞った。

それはまるで鳥のような跳躍だった。兵士達が驚愕に口を開いて、かれの姿を目で追う。だがかれの狙いは兵士ではなかった。ト、と音を立てて、数回岩場を転がり獣のように四足で体勢を整えたかれの口には中剣が咥えられていた。素早くかれが右手に剣を持ち替えて、その狙いを定めた相手は。

「うおぉぉおっ!!」

兵の肉の盾を抜けて無防備な後ろ姿を晒した、大安彦だった。

青背が岩を蹴って突撃する。その刃が男の身体に届く、その矢先。その刃の切っ先が、土色の網の目に食い止められた。

青背がその煩わしい戒めに気が付き反対側に飛び去ろうとする。しかしそれは叶わなかった。反対側からも同じように網が掛けられたからだ。

その四方から気が付いた兵士が加勢して、網を引っ張り青背を絡め捕る。それは元々、大型の獣を捕らえるための錘のある網であった。

手元の中型剣でかれは網を切り裂こうとした。


「残念だったな、海の外の、虎と言う伝説の生き物を捕らえるために作られた特別な網なのだ。貴様は知らんだろうがな。……それにしても、白ではなく青までも生け捕りにできるとはな。大皇も喜ばれるだろう」

既に自分が危険から脱したと確信した大安彦は囚われた青背を前に言った。

「しかし生殺与奪の権は己にある。生き延びたければ、大人しくしているがいいぞ。大皇は慈悲深い方だが、己はそうもいかん」

「わたし達を」


返り血の滴るその頬を、瞳をぎらぎらと獣のように輝かせて青背は大安彦に向かって吐き出した。その叫びは人の言葉でありながら、どこかそれを越えた迫真さを帯びていた。


「混沌であると おまえ達は言うがその中にも真言と義はあるのだ 

それを全て 人間の手で扱おうとするからこそひずみが現れるのだ

そのひずみはやがて大きな悲劇を産むだろう

誰かの狭義を唯一として他者を排斥する

それによって罪のない者を裁かれる そんな世界だ

それが分からないのだな

おまえ達は―――」

「この獣を黙らせろ。抵抗するくらいなら殺して構わん」

大安彦が意に介さずそう言った。網の中央にいるかれに向って矢が飛んだ。






―――――

心臓の音が聞こえる。戦いに向かう時、青背はいつも冷静だった。生と死の狭間で生きるのが山守の生き方なのだと、そう教わった。大人だけではなく、何よりも山の自然こそが最良の師であった。

その性能を見せてみろ、と血が語りかける。戦闘民族である所以を示せ。山の頂点に立つものとして相応しいのだと、証明してみろ―――。

血が筋肉が、風が木が、獣が、旧鼠がそう囁くように、青背はその能力を遺憾なく発揮した。力の加減を忘れたように振う牙の、わが物顔に飛び回る事を許す脚力の解放感。

そして大安彦を見た時、こいつはここで殺せ、と本能が言った。彼の実力などは問題ではなかった。そんなものが歯牙にもかけない。それよりも、この戦場で兵の目の前で彼の首を取ることが最も効果的だと、悟ったからだった。

ただその男目掛けて駆け、そして敵の包囲網にかかった。

弓矢は数本刺さったが問題はない。痛みは感じない。大安彦が磐穴の方に向かって逃げて行く。行かせはしない、と踏み出す。抵抗感に振り返ると、網の端を何人もの兵が必至な顔をして引っ張っているのだった。足元を引きずられて無様にその場で転ぶ。

足に違和感を感じて見下ろすと、右足に兵の一人が刃を突き立てていた。鈍痛を感じる。まだ痛覚が生きているのだ。あまり甘く見ない方がいいのだろう。血を流し続ければ、いずれ動けなくなる。

兵士の顔が目の前で矢に貫かれてばたりと倒れ込む。見ると、イタビがこちらに弓をつがえているのだった。彼女に向かって兵士の矢が幾つも飛び、彼女は飛び去って避けたが、近くにいた男から急襲を受けたようだった。刃と刃のぶつかり合う音が聞こえる。

イタビ、こちらに構うな。入り口を守れ。援護班の前に立て。そして―――。

現実感のないのはあまりに濃い血の臭いなのか。距離感の分からなくなる青褪めた空のせいなのか。正気をかき集めて、青背が網を足元で掴んだ。それを一枚着の衣のように、勢いをつけて右に捻りまわす。数人が引きずられて地面に転がる。止めようとしてか弓が飛んできたが、網を左から右に勢いよく振り回して絡め捕った。

三振り目に二枚の網ごと自分から剥がすように上に振り上げると、兵士二人の身体も空中に舞って、青背はその隙に網から抜け出したのだった。

出た瞬間に、短刀をもってして斬りかかってくる。腹の前で剣で迎えうつつもりが、右手に中剣がないことに気が付いた。素通りして、そのまま刀が素通りして腹の皮と右腿に届いた。そのまま右足を下げて、後ろに振りかぶってさらに斬りかかろうとしてきた兵士の頭を蹴りとばすと、男は毬のように吹き飛んだ。

代わりに空中にくるくると舞った男の刀の柄を掴む。そのまま後ろに一閃する。視ずとも、複数の手ごたえを感じる。

青背は窟屋に向けて上体を低くして駆け出した。時折跳躍しながら流れるように兵士を斬り裂いて進む。先ほどから後ろに矢を射かけられているのが分かるが、それに構っている暇はない。

兵士が周辺を囲う。突破する。斬って斬って、時折彼等の刃が青背の身にも届く。兵士が肉の壁を作る。矢を射る。下がる…。

それは延々と続くようだった。しかし、青背には窟屋に戻る事しか頭にはなかった。もう少し、もう少しなのだ。

ついに窟屋への段差を駆けあがらんとした所で、窟屋の上から矢を射かけられて、後ろ向きに倒れる。なぜ、窟屋の上から。そこには味方しかいないはずなのに―――。

身を起こして仰ぎ見れば、都軍の兵が上から矢をつがえている。そこで何をしている。身を起こそうとして、青背はもがく自分に気が付いた。矢の雨が降ってくるのが見える。両手を素早く地面について右に飛び去る。

頬に土と草の匂いがついた。山に転がり込んだのだ。そうだ、木を伝って窟屋まで伝うしかない。

重くなった身体を枝に引っかけて登り始める。途端に、肩の下に衝撃を受けて青背は木の上から落下した。草の上を何度か弾みをつけて、斜面を滑り落ちた。縁に沿って丸く大きな鋸歯があるのが大葉が鼻の先を掠めて芳しい香りが掠めた。はっと息を吸って、そして吐いた。ようやく久しぶりに息をした気がした。

青背を探しているのか、広場から兵の声が聞こえる。歩みが遅いのは、罠を警戒してのことだった。

ふと、青背は頭をもたげた。広場との反対に、深く続く木々が見えた。その時、山に呼ばれたような気がした―――そのまま呼ばれるように、かの女の方に行きたいとそんな欲望がふいと首をもたげた。そして同時に、そうするわけにはいかないと戒める声も見の内から聞こえる。青背は右手に握っていた刀を握りしめて、ふらふらと立ち上がった。右に山が、左に窟場がある。その間に両足を引かれるようにして、かれは立っていた。

行かなければ、と思った。

「お前を」

そして目の前の闇を切り裂いて、現れたと思ったその人は。


ああ、生きていた。


そしてかれは気を失った。




―――それは、電撃を落とされたような衝撃だった。

自由になれと言われて山守から解放された後、月祖根は山を彷徨い、山の腹に開いた横穴で夜を過ごした。雨水の溜まりで渇きを凌ぎ、食べても害のなさそうな草を刈って口にした。すぐに山を降りなかったのは、ひとえにどこに行けばいいのかが分からなかったからだ。

速津国へ戻っても、大安彦になぜ戻って来たのかと言われる事だろう。おそらく月祖根は既に死んだ者として扱われている。役目は果たしたわけだった。

しかし、自由になれと言われても何をどうしたらいいのかが分からない。幼い頃に山を駆けて遊んでいたので、幸いただの都の役人よりもそう気にすることなく山で時を過ごす。時機を見て山から降り、ムラを選んで、過去を隠し平民として生きるか。本気でそれを考えた時もあった。

しかし結局は、決めきれずに、山へ登ってきたのだった。そしてその戦争を目の当たりにした。山守が人間でもあると言っても、信じない者の方が多いだろう。それほど正気を失くしたかと思う戦いっぷり。特に青背はタガが外れたような悪鬼ぶりだった。

その姿はまさに手負いの獣。ぎらぎらと輝いた瞳がただ前に進む事だけを頭に命を狩り取っていく。重傷を負ってもなお、その事に気が付いていないような。そんな姿に、月祖根は衝撃を受け―――そして思った。

自分が彼女を終わらせてやりたいと。

苦しみを終わらせてやる事こそが、自分に出来るただ一つの事ではないかと。

山の中から出て行こうとしたところで、青背が逆にこちらに転がり込んできた。

「お前を」

言って、月祖根は小刀を握った。青背にもらった剣ではない。速津にもらった毒刃である。


そしてその覚悟を決めた月祖根の目の前で。青背が、彼の姿を認めたかと思うと、その瞳孔がぐるりとひっくり返った。続けてふっと魂が抜けたように全身が虚脱して、月祖根は思わず、その身体を手にしていた。

彼女を抱えたまま座り込む草の茂みに座り込む。彼女の手から血まみれの短刀が零れ落ちた。月祖根は、胸が引き絞られる思いで彼女の首筋に手を当てて、恐ろしくおそい心臓の音を聞いた。一瞬の山の静謐に、自分の呼吸ばかりが強く感じられる。

都軍の兵士の声が間近になり、すぐに現実に戻る。使う事のなかった小刀をかれは差し板に納めた。この出血量ではどちらにしろ持ちはしない。そう思って青背を抱いて彼は立ち上がった。あおのいたその顔は、全てを手放したように瞼を閉じている。


「我は都軍第三師団参謀、月祖根。 ここに敵将を討ち取った!」

彼は兵士達の前にそう宣言した。

驚いた顔の男達の中に、一人、見覚えのある男がいた。


「月祖根殿!」

彼は驚きの声を上げて月祖根の姿を認めた。死んだ男が突然敵将と現れたのだから、驚くのも無理はないだろう。

戻ってきたのだと、彼は思った。そして青背を抱えて、彼の戦場へと足を踏み出した。

















―――

「油断するな。奴らはどこから襲ってくるか分からん」

そう厳めしく言いながら、大安彦は足早に磐穴を進んでいた。多少手こずったものの、窟屋にいる土蜘蛛たちは下の土蜘蛛ほど屈強ではなかった。おそらくだからこそ、後ろでの援護に回されたのだろう。その上、大安彦が予想したほど数も多くなかった。むしろ報告されたものより少なかったぐらいだ。近くの松明を手に取ると、二人の兵士に警護させ大安彦は進んだ。

十数人の都軍の兵士が岩屋の中に入って一つずつ中を確認している。

生き残りのこともあるが、一番は白の確保が目的だった。


「大安彦殿!」


窟屋の奥から声が聞こえる。

「どうした!」

「いました、白です!」


気を逸らせて、男は小走りになった。何度か岩屋を素通りして、苔むした内壁を通り抜け、一番端の岩屋の前で合図をする部下を目印に進む。大安彦は足を緩めた。

その白い鹿の仮面に薄鼠色の着物。白で間違いない、と思った。

ふぅ、と息をついて、男は彼女の前に立った。兵士に後ろ手を拘束されて、岩穴の外へ引きずりだされた女は悲鳴を上げる事もなく大人しく地面に膝を曲げている。

その前に腰を下げて、大安彦は言った。

「……白媛。あなたの仲間の土蜘蛛達は皆、死にさらした」

彼女は無反応である。

「大皇は寛大な方だ。これほどまでに抵抗した逆賊でも、大人しくしていればひどい目には合わさん。これからは、心を入れ替え、朝廷のために尽くすことであなたも許されるだろう」

「………」

「聞いているのか?何か言ったらどうだ、ええ」

その顎を引っ張ると、ぐいと顔を背ける。初めて抵抗らしい抵抗を見せた瞬間だった。

「おい、仮面をはずせ!」

女の後ろに控える兵士に指示をする。

「仮面が後ろでがんじがらめになっていて」

「馬鹿、刀を使え」

隣の兵士がそう言う。男が、白の頭後ろで紐を切り落とした刹那。大安彦はある違和感に行きあたった。会合の時、白は仮面を簡単に外しはしなかったか―――。


仮面が落ちる。女の素顔が明らかになる。女の口から竹筒が零れ落ちる。その顔は確かに笑みを作っていた。

「私達を舐めたまま、死ね!!!」

女が、素枝が、叫んだ。極小の針が、大安彦の首筋に突き刺さっていた。








「…本当に一口も飲まないでいいのか?」

青背は念を押すように白妹に聞いた。石盆の上、白湯の隣に置かれた酒のことである。

「特選の芋酒は……これが最後だぞ」

そう言って、かれは視線を下げた。そこには幾つかの含蓄があった。白妹は、「私はいいわ」と再び断る。

「では私が頂こう…」

そう言って、青背は自分の猪口にようやく口をつけた。そしてそれは白妹の瞬く隙のことだった。松明の灯りが一つの歪な影を作っている。

ひとりが片方に飛び掛かり、もう片方が身を反らしている。それを逃がさまいと、青背は白妹の頬を顎ごと掴んでしっかりと押さえ付けていた。口内を液体が伝う。白妹がごくりと嚥下をするの、青背は確認した後も彼女がそれを吐き出さないように固定し続けた。

ようやく拘束から解放されて、白妹が流し込まれたものを吐き出そうと咳を繰り返した。

「白妹」

青背が言う。白妹は視界がぼんやりと揺れるのを感じた。強い酒を呑んだ時と似ている、しかしそれよりもよっぽど強い酩酊感。

それから彼女はふらふらと上体を揺らすと、立っていられないように崩れ落ちる。その直前に、青背は彼女を抱き留めていた。

「わるかった」

小さく懺悔の声が聞こえた時、白妹は既に目を瞑って眠りの世界へと旅立っているように見えた。

「素枝」

「はい」

青背は共犯の名前を呼ぶと、彼女はすぐに隣の部屋から出てきた。

「足を」




―――足が岩屋に入った時、彼は白妹が布団に寝かせられているのを見て間違いではないかとひどく慌てて一度外に飛び出した。すぐに素枝に捕まり、連れ戻される。

「薬で眠らせているだけだ。…大丈夫だから早く中に入れ」と青背はそう言って、彼を落ち着かせる。


足を至急、と呼んだ割りには青背の口は重く、足は痛々しいほどの沈黙に困惑を深めるばかりだった。遂に耐えかねて口を開いた瞬間に、

「お前白妹を好いているな?」

と言われたものだから、彼は再び気が動転してしまった。

「隠さなくていい。お前、白妹のためなら死ねるか?」

そんな青年に対して、青背は冷静だった。要件のみを彼に突きつける。

「お前の命使いたい…と言えばどうだ?」

質問の意図ははかりかねれど、青年の答えはいつも一貫していた。山守様に仕えると決めたこの命、どのように使って頂いても構いません、と彼はそうはっきり言った。

よし、と頷いて、青背は質問を続ける。

「もし白妹に恨まれても―――彼女に拒絶されても彼女を尊重し…最もためになることを優先させると誓えるか?」

「あの……それはどういう意味の」

状況がわかりかねる、と彼は困惑を露わにした。青背は後ろに寝ている白妹を見て、かれの隣に控える素枝を見て、言った。

「身代わりを立てる。奴らが来る前に白妹を連れて逃げろ」



青背は足に語った。

山の北西に、役目を終えた白が余生を送る小さな村がある。 洞穴を通り橘の木を追ってあるその村の、場所は猪手が知っている。子どもらや戦闘に参加できないものも逃げる用意はできている。

「頼めるな?」

と、かれは訊ねた。足は、一瞬頷きそうになって、それから思索の後に訊ね返した。

「青背さまは……戦いの後に来てくれますか」

それは青背にとっては予想外の事だったらしい―――しかし若者は青背がうんと言うまでは、引き下がりそうになかった。青背は仕方なく、頷く。もとより生き残る気がなかったというのが本音だったが、青年はそれを見透かしていたらしかった。

「それなら……それまで私が白妹さまをお守りします。あなたに代わる者などどこにもおりませんから」

広い岩穴の毛布団の上から立ち上がって、青背は、そうだろうかと訝しげに言った。

「失礼ながら……青背さまは何をそんなにおそれておられるのですか。あなた方ほど深いつながりを持ちながら……」

男は青と白のふたりを長い事知っているわけではなかった。しかしふたりが特別な絆を持っている事は傍目からでも明らかだった。それは時に、羨ましくなるほどの。

「だってわたし、」


何かを言いかけてかれはやめた。いいや、と自分で打ち消して振り返った顔はいつも通りの青の顔をしていた。

「明朝前に出発だそれまでよく休むといい。背負っていってもらわなければ、いけないからな……」





足が去った後、岩屋にはいつもの三人が残された。青背は、大人しく寝ている白妹の髪の端を短刀でこそげ切っている。「悪いな」とかれは再び謝って、その短い髪の束を人ひとまとめにすると自分の衣の袖に差し入れた。かれなりのまじないのつもりらしかった。


「すまないなこんな役回りで」


そうして、かれは素枝にも謝った。彼女は即座に否定する。

「白妹様の影武者など本望ですよ……それにどうせ、この傷ではまともに戦えまい」

彼女は月祖根達の急襲の際に、白妹を庇って腕を怪我している。いくら弓の名手といえど、弓がつがえなければ意味がなかった。

「これを」

懐から、青背は竹筒を取り出す。年季の入ったそれを、素枝は知っていた。薬蔵に納められ、もはや日の目を見る事があるだろうかと思われたそれは、吹き矢である。それも、毒に特化したものだった。

「叔母上の知恵を借りたのだ。即効性の附子を調合した薬が塗ってある。

使うべき時に、使え」

寂しそうに、青背は言った。それは、言外に素枝自身に使う可能性も示唆されていた。それを受け取って、彼女は盟友としても、青背の誓ったのだ。

「素枝の命にかけて……必ずお役に立ってみせます」







――――――

白を見つけたというのと、その白に大安彦が襲われたのだという両方の報告を受けて月祖根が窟屋の奥に辿り着いた時、そこには見た事のある女がいた。

「この女は白ではない」

そう言いながら、月祖根は後ろ手に縛られた女を覗き込む。近くの岩屋には大安彦が寝かされていた。少し顔を覗き込んだが、魘されて月祖根の事も分からないようだった。

「我々を土蜘蛛と侮り蔑むならば……それに殺されるお前らは一体なんだ…?」

女が呻いている。顔が腫れているのは、幾度か頬を張られたかららしかった。

「おいお前、本物の白は……どこに行った?」

月祖根に、大安彦ほどの白に対する執着はない。むしろ青背と対にして考える事しかしなかったぐらいだ。その青背も、今は虫の息である。決して触れるなと部下に念を押して広場の端に置いてきたのである。都軍の月祖根として振る舞うならば、その台詞が妥当かと思われた。

女は答えない。

「月祖根殿」

部下が急かすような視線を向けた。痛めつけるのは趣味じゃない、といった少年の事を思い出す。あの少年もまた、壮絶に散った山守の一人なのだろう。

時間を稼いでもいられなさそうだ、と考えた月祖根の肩に、息を切らした部下の声が響いた。

「月祖根殿―――」

その報告を聞いた時、女が笑いだした。至極満足そうなその笑みに、月祖根は驚いて、そしてある結論に至った。

「なるほど」

彼はそう言いながら、小刀を吊り布の差し板から抜き取った。とん、と女の胸に、彼は優しいほどの動きで突き刺した。

「月祖根殿!!」

「この女に用はない、本物の白は下だ」

言いながら、彼はその場から立ち上がる。

「おい、大安彦殿は」

大安彦を看病している部下に声を掛ける。

「大安彦様は―――」

部下の、どうしたらいいのか途方に暮れた顔が、暗闇の中に滑稽に映って見えた。

「もう、亡くなられました」

「……はっ」

緑苔の生えた洞窟の天井に、月祖根の乾いた失笑が木霊した。

















――――――

息が側で聞こえる。ずり下がる身体を肩に抱え直し、彼女は山道を走っていた。ありがたいことに、目立たないようにと至極地味で動きやすい衣を青背は選んで着せてくれていた。

素枝に習った弓も練習すれば人並みには使えたらしい。山から飛び出して、兵士に守られるように置かれた青背をひっつかんで逃げるのに一役買ってくれた。

苦戦する彼女を身を挺して援護してくれたのが、イタビを含む、生き残った数少ない同胞たちだった。山に一度入ってしまえば、そこは彼女らの庭であった。

垂らされた髪が今さらながら邪魔だった。もう必要がないのだから、ひと想いに切ってくれれば良かったのに、と彼女は青背に対して思わなくもなかった。一束の髪で良ければいくらでも、という気持ちだった。髪に対して思い入れがあるのは、その実青背の方であった。

白妹は、草に覆われて鬱蒼とした地面を踏んで、思い切り脇の斜面を滑り降りた。どすんとあまり好ましくない音がして枯葉の上に着地する。

う、と隣でごく小さな呻き声が上がった。

「痛かったの、ごめんね。もうじき、大丈夫になる」

青背が途中で目を覚ましていたのに、彼女は気付いていた。ここまでくれば見つからないだろう、というところまで来て、彼女はその鬱蒼とした暗色の、年中古い葉の積もり続ける場所の横穴に青背をそっと横たえた。

「し…ろい、わたしは……」

青背はその血の固まった唇を開いた。

「生きて欲しいと……思ってしまった…わたしが、いなくても」

白妹は何も言わずに頷いた。青と白は共生する生き物だと定められている。白は青を選び、青は白を守る。二人で一代である。だが、その狩猟班長であり戦闘時に先陣を切る青の特性上、白は先立たれる事が多い。

共に死なん、というのが伝統だったが、実は山の下に生き延びた白が老後を暮らすムラが存在するという事を知ったのは、白妹が白になってからである。

「だからって、よくも私だけ行かせようとしたわね。それも、足に託して」

青背の容態に関わらず白妹は文句を訴えた。良かれとは言え、勝手に人の命運とその後の人生を託されたのだから文句を言う権利はある、というのが白妹の意見だった。

「あなただけ、死なせないわ。英雄になんてさせない」

白妹は優しいような、残酷なようなほほ笑みできっぱりと言った。

しかしこうして青の企みに気が付けたのは、彼女に忠実な従者の助力によるところが大きい。

「素枝のおかげよ」

高泣の裏切りが発覚し、彼が崖から投身した後に、青背は思うところがあったのか素枝にその身代わり計画を持ちかけた。それは明らかに青としては正しい行いではなかった。白は山に生き山守、ひいては山のために力を使ってこその白である。青はそれを助けているだけに過ぎない。

だから、白を逃がそうとした時点でそれは青背の個人的な欲望に過ぎなかった。素枝はそれを承知しつつ、かれの提案に是を申した。

そしてそれを言った同じ口で、白妹にかれの計画を暴露したのである。

青背の味覚と薬への知感はごまかせない、眠り薬は本物である。しかし味を似せて濃度を薄めているからすぐには眠りに落ちる事がない。眠ったふりをして、数時間して起きた時にどうするか決めてください―――。

どうするか決めろと言いながら、素枝には白妹の選択が分かっているようだった。

なぜそれを白妹に言うのかと、彼女は感謝しながらもそう素枝に訊ねた。すると彼女は笑って、『知りませんでしたか、私、首領といるときの白妹さまがいちばん幸せそうで好きなんです』と言った。

そうしてその後ににやりと、『それに、首領に私が反乱するなんていつもの事じゃないですか』と付け加えたのだった。


青背は仰向けになって顔を横たえたまま、白妹の話を聞いていた。もうその薄茶色の瞳は、おそらくほとんど見えていないのではないかと思われた。そんなかれの冷たい手をぎゅっと白妹は握った。

「しろい」

青背が、もう一度彼女の片割れの名を呼んだ。

「わたしは、どこに……いけただろうか」

その目は、白妹を越えてはるか彼方を見ていた。幼い時分に話した、ありとあらゆる土地の風を、海を、川を、山を、空を、星を、いきものを、そしてこの山と、そこにある生と死を映していた。

白妹は答える。

「もうどこにだって行けるわ」

幼い頃にふたりがよく来た同じ横穴で、かれの側に膝をついて、白妹は言った。

「わたしたち、だって、自由だもの」

白妹は青背の耳に、よく聴こえるように耳を寄せて、その名を呼んだ。

ふたりが青と白になる前の何者でもなかった頃の、その名前を。


青背は、最後に瞠目して、そして、ゆっくりと目を閉じた。その瞼から、おさまりきれなかった涙が一滴、傾けられた頬から枯葉の上へと零れ落ちた。

その時、横穴の外から小石がバラバラと落ちてくる音がした。ごおおおお、と低い地鳴りの音が白妹の足元の地面から響く。外では、立木がメリメリと裂ける音や、石がぶつかり合う音が聞こえる。

白妹は焦らなかった。焦らず、外に出て、そして、目の前に広がる闇を見つめた。闇は一帯を飲み込むほどに巨大だった。よく見ると丸みを帯びた輪郭に、これまた漆黒のぼうぼうと絡まりあった毛が生えているのだった。

目のないそれが、白妹の後ろに隠したものに全集中を浴びせていることが白妹には分かった。

それは脅すように、口を開け、この世のものない言葉で、何かをおうおうと白妹に訴えかけた。

「もう、あげないわ」

白妹は引き下がらなかった。

「十分、縛られてきた。体はあなた方にあげる。でもこの子は連れて行くから」

ごう、とそれは吼えた。


「連れて行く」


最後に、白妹はにっこりと笑って言った。闇がぱっくりとその大口を開けて、そして、ふたりを飲み込んだ。




















「おい、おい……まさかな」


月祖根は言いながら根を張った頑丈な木につかまって、低い姿勢を取りながら収まるまで待っていた。目の前の崖と地面にひび割れが入り、その亀裂から水が漏れ出した。


「木に掴まれ!!」


月祖根は残った兵にそう叫んだ。山全体が大きく揺れている。急斜面や崖などに積もった人や獣の死体もすべて、根こそぎ押し流すようにずり落ちて行く。

永遠に続くかと思われた揺れがおさまり、ようやく周りを見回せるようになって月祖根は途方のなさに笑うしかなかった。僅かながら残っていた兵士も、ほとんど皆地割れに巻き込まれるか、岩や木に押しつぶされるかして壊滅状態にある。

上を仰ぎ見れば、先ほどまで月祖根のいた窟屋も特に入り口付近からひどく損壊し、形無しだ。こうしてみると、自然というやつはどこまでも平等らしかった。


「撤退だ、撤退しろ」


そう急かしながら生き残った兵達と山を降りる。

月祖根と共に居た兵士が、彼の手元を見てもの言いたげにしている。

「大皇へのみやげだ」

「それは、そうですが」

「なんだ。土蜘蛛が人間の頭をしていて、どうする」

そう言った彼の手には、白の被っていた大仰な鹿の仮面が握られていた。

月祖根は歩きながら、山の奥に消えたふたりの事をおもっていた。


月祖根は結局、かれらのところまで最後までたどり着くことは出来なかった。

山に急襲する以前に、大皇の使節に言われた事を思い出す。


『大皇も―――いえ、皇祖神もあなたを誇りに思われることでしょう』


確信はなかった。しかし何か知らなければならない事があると思った。

語るだけで危険な真実があると速津は言ったが、彼が知ろうとしているのはそれそのものだろうと月祖根は感じた。


空は既にほの暗く、紺藍の空気がムラのはずれに佇む白服の月祖根を包んでいた。

老人はどこか彼の再訪を予想していたような面持ちだった。その枯れかけの大樹のような肌で、老人は月祖根を今にも崩れ落ちそうな家へ招き入れた。


この山と山守の関係を、その始まりを教えてくれ、と月祖根は言った。

そして老人は語った。


かつて八島国を統治した強大な王国があった。

太陽を祀りあらゆる神術を操り、外交に長けた女王がいた。

やがて、内敵の策謀により国中で内戦が勃発した。

数多の裏切りによって王家は没落した。

女王の血筋はその特殊な能力故に追われ、迫害されてついにこの地に辿り着いた。


元々この山の神は非常に荒れており、幾度も地割れを起こしてムラ人を苦しめていた。

そしてそれを鎮めたのがその女王の一族だったという。

山に縛られることでかれらは生き延びた。そうして数百年がたち、かれらは人を離れ山神の一部となった。

だから今では誰も語ることがない。


かれらがこの筑紫島、八島国の王の末裔だったことを。






―――もはや自分の心にうそをつく必要はなかった。

月祖根はかれらのありかたををある時から、心の底から美しいと思っていたのだ。そしてその本当に尊ぶべきものを、彼自身の手で終わらせたこと。その名を負う事こそが、かれらに対してできる事で、またそれが自分の負うべき枷であると思った。初めて邂逅した時、自分に剣を突きつけたまっすぐな瑪瑙の瞳の事を思い出して、彼は癒えた額の傷が痛んだ気がした。










―――――


格子状に変わった木窓の外へ、従女が目を向けた。

その頂上付近から蜂火が上がったのを見てからもう数刻が経っていた。

ずっと感じていた戦乱のざわめきは嘘のように消えていた。


「終わったのですね」


目の前の従女はそう言った。女は応えず、そして山をの方を見る事もなかった。

その手元の紙きれに目を落として、愚直に何とか読み方を覚えようとしているのだ。しかしその心はここにない。


「あなた様にとっての呪いもこれで終わったのでしょう」


従女がそう言った。女は遂に顔を上げた。皮肉に笑って、「そう思うか?」と言う。従女はその真っ黒な目を瞬かせずに頷いた。


「少なくとも、山の呪いからは」


女は書物を元の形に折って隣に置くと、すうとため息をついた。


「それはあれの事だろう」


青は、短くその命を終える事で知られていた。山に愛されればそれだけ人離れした力を手に入れる。しかしそれ以上に呪いはかれの心を、身体を病魔のように蝕むのだ。

青背にとってそれは不眠の身体と、神がかった身体能力として顕れた。しかしそれは人間であれば、持つことの叶わぬ力。

そう、人間であれば。

山の執着とは、時に呪いであった。それは人の愛情とはかけ離れている。

かの女に愛されるという事はより人から離れるという事だった。


「―――妹は、それを知っていたのかもしれない。男が去ったと言うが……私にとっては、妹が男を山から解放したように思えるのだ」


一対の番のようであった妹と男の姿を思い出して、女はそう言った。青背が生まれた時、そこには確かに祝福があったのだ。妹が正気を失ったのも、山の呪いだったように思えた。青は元々、山のおっとの立ち位置である。それを奪った彼女の事を許すとは思えなかった。

彼女がそうなってしまった後、その子どもを不憫に思って我が子と共に育てたその数年の間、情を感じなかったと言えばうそになった。

あの祝宴の席で。白花の器を手にするはずだったのはその子だった。いつもの席の配置通り、右隣に必ず毒の器が来るように。その子どもが真っ先に声を上げるのを待っていたのだ。そして、見たのは、自分の器に咲く真っ白な毒花だったのだ。



その時。



ドン、と小部屋が激しく振れた。思わず床に縋りつく。断続的な揺れに危険を感じ、従女と共に外に転がり出る。梯子を使う暇もなく飛び降りて、地面に四つん這いになる。

館の至るところから悲鳴が聞こえている。顔を上げると、目の前で建物の一つが崩れ落ちるのを見た。地面が激しく動いている。地の激しい怒りの声が聴こえるようだった。

これは―――。


無限に思われるような事にもいつだって終わりは来る。

地揺れがやがて微弱なものに変わり、女はようやくゆっくりと腰を上げた。

後ろを見ると、先ほどまであった建物が跡形もなく崩れていた。ひれ伏していた兵がようやく一人こちらに駆けてくる。前を見ると、邸宅の橘の木の下に佇む従女がいた。


「伊美?」


声を掛けると、木の幹に手を置いたまま、彼女は答えた。


「伊美では、ありません」


そして続ける。


「私が速津の鼠です。最初から、ずっと」


彼女の黒髪が風に揺れている。こんなにも周囲は騒がしいのに、なぜかその声がはっきりと聞こえる。髪を上げたその額の白さ。

従女の方に踏み出そうとして、女の右足の甲が不吉に痛んだ。

彼女はそんな女を一瞬憐れみを込めて見つめると、言った。


「さようなら、『速津媛』。あなたはそこから動けない」


そうして崩れた館の邸内から走り去っていく後姿を、速津はいつまでもぼうぜんと見つめていた。


















―――――


ひっそりとした郡のはずれのムラ。稲が金色の穂を垂らしている。赤茶けた髪を揺らして、ひとりの子どもがあぜ道を突っ切っている。

かれはふと、名を呼ばれたように顔を上げた。

目線の先、一羽の渡り鳥が飛んでいる。青と白の間を縫うように。その先をかるがると越えていくように、自由に空に浮かんでいる。


「おーい、」


かれの名を誰かが本当に呼んでいた。かれは顔を正面に向け、見慣れたその姿を認めると、笑って駆け出した。











―――その昔速津の国に、朝廷に反逆した青と白と言う土蜘蛛が、鼠の窟屋に多くのともがらと共に棲んでいた。けれど今では、その話を語るものは誰一人として、いない。

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青と白 三位ザハカ @saraba

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