青空に溶けゆく旋律4

 門を通り小庭に向かった僕は草の上を進むと窓を開けて待つお姉さんの前で足を止めた。

 人1人分で開けられた窓から歓迎するように流れた冷気が火照った僕の顔をそっと撫でる。同時に冷気に乗ってきたほんのり甘い香りが胸をくすぐった。だけどそんなことがどうでもよくなるくらいに部屋からの空気はさっきまでの暑さが嘘のように冷たく心地いい。僕の顔は思わず緩んだ。

 するとお姉さんはその場でしゃがみ僕の目線に合わせる(段差分もあってまだ見上げる程高いが)。


「もしかして聞こえてた?」


 そう言いながらお姉さんはピアノを指差している。


「――うん」


 僕は小さな声で返事をしつつ顔も頷かせた。


「そっか。でもだよね」


 うんうんと1人で納得したように頷くお姉さん。


「外は暑いでしょ?何か飲む?って言ってもオレンジジュースぐらいしかないけど」

「飲む」


 暑さで喉が渇いていたこともあるがやはり子どもはジュースに弱いらしい。それにお姉さんの言う通り暑かった。


「じゃあそこからでいいから上がっておいで」


 立ち上がったお姉さんが開けてくれた道を通りサンダルを脱いだ僕は家へ上がった。


               * * * * *


 あの頃の面影はあったが手入れのされていない小庭は草が伸び放題で時の流れを感じた。


「すっかり草も伸び放題。まぁ誰も手入れしてないから当然だけどね」


 バイクを止めた夏樹さんは僕の横に並び同じく小庭を眺めながらどこか寂しげに一言そう言った。


「誰も住んでないならしかたないですよ」


 今でもあの大窓から家に入る幼き自分が見えそうな程に小庭の光景は記憶に深く刻まれていた。


「それじゃあ久しぶりに中へどーぞ」


 夏樹さんは僕の肩を1度ぽんっと叩くとホテリエのような流れる動作で手をドアに向ける。そしてそのままドアまで歩くと鍵を取り出し開いてくれた。歓迎するような彼女の表情を見てから歩き出し玄関へと足を踏み入れる。

 そしてあの時と同様にまずは一言。


               * * * * *


「お邪魔します」


 普段母に言われているようにちゃんと挨拶は忘れない。

 だがしかし、知らない人の家へこうも易々と上がるのはいかがなものか。そう思いもするがあんなに優しそうなお姉さんをどうして疑えようか? それに今まで灼熱地獄にいた僕がクーラーの効いた―しかもジュース付き―の部屋をどうして拒めようか? いや、無理だ。

 僕は家に上がると子どもながらにして楽園というものを知った。帽子を脱ぎ全身で冷気を浴びている後ろで窓が閉まる。


「ちょっと待ってて」


 お姉さんはそう言うとどこかへ行ってしまった。ピアノの傍で1人残された僕はどうしていいか分からずただただ佇む。

 だがお姉さんはすぐに戻って来た。片手にタオルを持って。


「これでちゃんと汗拭きな」


 タオルを受け取った僕は冷え過ぎた汗を拭き取り始める。顔や腕などしっかりと。

 その間にお姉さんは奥にあるキッチンへ。


「終わったらこっち」


 冷蔵庫から出した紙パックを傾けオレンジジュースを注ぎながら声だけを僕の方に飛ばした。

 それに従い汗を拭き終えるとタオル片手に僕はお姉さんの元へ向かう。僕が到着するとほとんど同時に2人分のジュースを入れ終えたお姉さんは紙パックを冷蔵庫へ戻した。


「あの...これ」


 僕はどうすればいいかと尋ねるようにタオルを差し出した。


「それじゃあ君はこれをテーブルまでよろしく」


 タオルを受け取ったお姉さんは並んだコップを軽く指差すと横を通り行ってしまった。

 僕はそんなお姉さんの背中を見送ると言われた通りコップをそれぞれの手で持ち零さないように慎重に運んだ。ジュースに集中しながら1歩1歩落ち着いて足を踏み出していく。その重大な任務をテーブルに置いたコップから手を張すことで成し遂げた僕は1人満足気に頷いた。


「ありがと」


 集中していたせいか満足感に浸っていたせいか足音に気が付かなった僕の頭をお姉さんは後ろからぽんと撫でるように叩いた。

 そしてそのままソファへ倒れるように座る。


「君も座りなって」


 言葉と共に隣を軽く叩き、僕は脚を組んだお姉さんとテーブルの間を通って隣に腰を下ろした。

 そんな僕にお姉さんはテーブルから取ったコップの1つを差し出す。


「ありがとうございます」

「いーえ。でも君はあれだ。礼儀がなってるね。きっと親の躾がいいんだろうね」


 お姉さんはそう言うと僕のコップに自分のコップをコツンとぶつけ「乾杯」と一言言いジュースを飲み始めた。

 その姿を少し見てから僕も「いただきます」と小声で言って冷たいジュースを飲む。キンキンに冷えたジュースは呑み込んでから胃に行くまで――いや、胃に行ってからもその存在感を存分に放っていた。

 そして言うまでもないが甘くて美味しい。


「君、名前は何て言うの?」


 ジュースを一気に半分程飲んだお姉さんは僕の方に少し体を向けてからそう尋ねた。


中西なかにし 真人まさとって言います」

「まさ君か良い名前だね。私は安城あんじょう 夏樹なつき

「なつきお姉ちゃん」


 僕は確認するように呟く。

 そしてその声は当然ながら隣にいた夏樹さんにも聞こえていた。


「おっ。偉いね。ここでおばさんなんて言おうものなら速攻で家から追い出してたかも」


              * * * * * 

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