怪奇の小箱

白河夜船

隣家

 ごっ、ごっ、ごっ、

 また、あの音がしている。

 壁に固い何かがぶつかるような音。

 ごっ、ごっ、ごっ、ごっ、

 何の音だか分からない。ただ、こんな音が一晩中、ここに越してきてから毎日聞こえるのだから堪らない。

 ごっ、ごっ、ごっ、ごっ、ごっ、

 音が聞こえ始めるのは、決まって夜の十時半からだった。等間隔に、強弱もなく、同じ音が延々続く。

 ごっ、ごっ、ごっ、ごっ、ごっ、ごっ、

 一晩中、とは云ったけれども、その音が実際何時頃まで続いているのか、私は確かめられたことがなかった。

 代わり映えのしない音、それも正体の分からない奇妙な音を、一人きりの室内で聞いていると、どうにも気が変になるようで、いつも途中で音が聞こえない二階角部屋に逃げて篭もってしまうのだった。

 ごっ、ごっ、ごっ、ごっ、ごっ、ごっ、ごっ、

 家自体は良くもなく、悪くもなく、それなりに住み心地のいい家である。空き家を持て余していた親戚に借りたということもあり、家賃も安く、今更引っ越す気も起きないのだが、あの音だけはどうも気になる。

 ごっ、ごっ、ごっ、ごっ、ごっ、ごっ、ごっ、ごっ、

 音は隣家から聞こえてくるようだ。しばらくは越してきたばかりの手前、近所づきあいを気にして耐えていたのだが、つい先日「このままではいかん」と意を決し、隣家の呼び鈴をおずおず押した。

 一回目。

 二回目。

 三回目。

 何度押しても、反応はなかった。いや、そもそも家全体が妙に静かで荒れていて、人が住んでいる気配すらない。急に怖くなり、私はその場から慌てて逃げた。

 後日。日課にしている散歩の途中で、たまたま近所の婆さまと顔を合わせた。

 いつもなら挨拶がてら二言、三言、言葉を交わし、それで別れてしまうところなのだが、折角だからと思い立ち、隣家について少し尋ねてみることにした。

「あの、うちの隣の家なのですが」

 空き家なのですね。

 そう話を続けるつもりだったが、婆さまの「ああ」という渋い声に私の言葉は遮られた。

「かわいそうだったねえ」

 などと云う。

「かわいそう、とは?」

「おや、まあ、ほぅか。越してきたばかりだから、知らんのだねぇ。まあ、知らなくても別に構わんことかもしれんが」

 婆さまが云うには、もう五年以上も前、隣家の住民は皆死んでしまったということだった。

「一人残らず……ですか。何か事件や事故に巻き込まれたので?」

「いんや。あれが来たでの。来ちまったら、仕方ないじゃ。早ぅ逃げれば良かったんじゃが、間に合わんで」

 何の話をしているのか、分からなかった。あれとは何か、聞いてみても婆さまは「あれはあれじゃて」と云うだけで、答えてくれない。

「あんたには関わりないかろ。そっちは向いておらんから」

 何やら妙なお墨付きをもらって、釈然とせぬまま家に帰った。

 ごっ、ごっ、ごっ、ごっ、ごっ、ごっ、ごっ、ごっ、ごっ、

 その日の晩も、音は聞こえた。

 相変わらず、同じ間隔で、強弱もない、平坦な音。

 ごっ、ごっ、ごっ、ごっ、ごっ、ごっ、ごっ、ごっ、ごっ、ごっ、

 隣家を覗けば、何が音を出しているか分かるかもしれぬ。唐突にそう閃いた。

 今までは人がいると思って考えるのも憚っていたが、誰も住んでいないなら、ちょっとくらい覗いてみても悪くはなかろう。

 とは云っても私には、夜中、暗い空き家に踏み込むほどの度胸はなかった。懐中電灯を持ち、敷地の外から隣家を覗く―――それを想像するだけでも背筋が冷えた。

 せめて、塀が邪魔しない二階の窓から覗いてみるのはどうだろう。思い立ち、懐中電灯を片手に二階に上った。

 ごっ、ごっ、ごっ、ごっ、ごっ、ごっ、ごっ、ごっ、ごっ、ごっ、ごっ………

 いつも篭もっている角部屋とは反対の、隣家に面した部屋へと入る。ほとんど使っていない物置部屋で、電球を付け替えるのを忘れていたものだから、電気を入れても薄ぼんやりと暗かった。ちかちかと灯りが明滅を繰り返す。

 ごっ、ごっ、ごっ、ごっ、ごっ、ごっ、ごっ、ごっ、ごっ、ごっ、ごっ、ごっ、

 しばらく開けていなかった窓を開けると、光に寄ってきたのだろう、小さな羽虫やら蛾が数匹家に飛び込んできた。手で払いながらも、隣家へと懐中電灯の灯りを向けた。

 長く伸びた光が隣家の一角を照らし、そこだけ丸く景色が浮き上がった。

 まずは手近な隣家の二階を見る。何もない。

 次に一階を照らし出した時、窓の一つに何やら動くものがあるのが見えた。

 動物ではない。

 人影、のようである。

 ごっ、ごっ、ごっ、ごっ、ごっ、ごっ、ごっ、ごっ、ごっ、ごっ、ごっ、ごっ、ごっ、

 頭を引いては振り下ろし―――を規則的に繰り返している。壁に頭が当たる度、「ごっ」という音が私の耳に届いた。

 あれが音の正体なのだ、と悟った瞬間に怖くなり、慌てて窓を閉めて鍵を掛け、いつもの角部屋に飛び込んだ。

 もう音は聞こえない。

 けれど、空耳と云うべきか、幻聴と云うべきか、耳の奥底に音がこびりつき、その晩はずっとどこかであの音が聞こえているような気がした。

 ごっ、ごっ、ごっ、ごっ、ごっ、ごっ、ごっ、ごっ、ごっ、ごっ、ごっ、ごっ、ごっ、ごっ、ごっ、ごっ、ごっ、ごっ、ごっ、ごっ、ごっ、ごっ、ごっ、ごっ、ごっ、ごっ、ごっ、ごっ、ごっ、ごっ、ごっ、ごっ、ごっ、ごっ、ごっ、ごっ、ごっ、ごっ、ごっ、ごっ、ごっ、ごっ、ごっ、ごっ、ごっ、ごっ、ごっ、ごっ、ごっ、ごっ、ごっ、ごっ、ごっ、ごっ、ごっ、ごっ、ごっ、ごっ、ごっ、ごっ、ごっ、ごっ、ごっ、ごっ、ごっ、ごっ、ごっ、ごっ、ごっ、ごっ、ごっ、ごっ、ごっ、ごっ、ごっ、ごっ、ごっ、ごっ、ごっ、ごっ、ごっ、ごっ、ごっ、ごっ、ごっ、ごっ、ごっ、ごっ、ごっ、ごっ、ごっ、ごっ、ごっ、ごっ、ごっ、ごっ、ごっ、ごっ、ごっ、ごっ、ごっ、ごっ、ごっ、ごっ、ごっ、ごっ、ごっ、ごっ、ごっ、ごっ、ごっ、ごっ、ごっ、ごっ、ごっ、ごっ、ごっ、ごっ、ごっ、ごっ、ごっ、ごっ、ごっ、ごっ、ごっ、ごっ、ごっ、ごっ、ごっ、ごっ、ごっ、ごっ、ごっ、ごっ、ごっ、ごっ、ごっ、ごっ、ごっ、ごっ、ごっ、ごっ、ごっ、ごっ、ごっ、ごっ、ごっ、ごっ、ごっ、ごっ、ごっ、ごっ、ごっ、ごっ、ごっ、ごっ、ごっ、ごっ、ごっ、ごっ、ごっ、ごっ、ごっ、ごっ、ごっ、ごっ、ごっ、ごっ、ごっ、ごっ、ごっ、ごっ、ごっ、ごっ、ごっ、ごっ、ごっ、ごっ、ごっ、ごっ、ごっ、ごっ、ごっ、ごっ、ごっ、ごっ、ごっ、ごっ、ごっ、ごっ、ごっ、ごっ、ごっ、ごっ、ごっ、ごっ、ごっ、ごっ、ごっ、ごっ、ごっ、ごっ、ごっ、ごっ、ごっ、ごっ、ごっ、ごっ、ごっ、ごっ、ごっ、ごっ、ごっ、ごっ、ごっ、ごっ、ごっ、ごっ、ごっ、ごっ、ごっ、ごっ、ごっ、ごっ、ごっ、ごっ、ごっ、ごっ、ごっ、ごっ、ごっ、ごっ、ごっ、ごっ、ごっ、ごっ、ごっ、ごっ、ごっ、ごっ、ごっ、ごっ、ごっ、ごっ、ごっ、ごっ、ごっ、ごっ、ごっ、ごっ、ごっ、ごっ、ごっ、ごっ、ごっ、ごっ、ごっ、ごっ、ごっ、ごっ、ごっ、ごっ、ごっ、ごっ、ごっ、ごっ、ごっ、ごっ、ごっ、ごっ、ごっ、ごっ、ごっ、ごっ、ごっ、ごっ、ごっ、ごっ、ごっ、ごっ、ごっ、ごっ、ごっ、ごっ、ごっ、ごっ、ごっ、ごっ、ごっ、ごっ、ごっ、ごっ、ごっ、ごっ、ごっ、ごっ、ごっ、ごっ、ごっ、ごっ、ごっ、ごっ、ごっ、ごっ、ごっ、ごっ、ごっ、ごっ、ごっ、ごっ、ごっ、ごっ、ごっ、ごっ、ごっ、ごっ、ごっ、ごっ、ごっ、ごっ、ごっ、ごっ、ごっ、ごっ、ごっ、ごっ、ごっ、ごっ、ごっ、ごっ、ごっ、ごっ、ごっ、ごっ、ごっ、ごっ、ごっ、ごっ、ごっ、ごっ、ごっ、ごっ、ごっ、ごっ、ごっ、ごっ、ごっ、ごっ、ごっ、ごっ、ごっ、ごっ、ごっ、ごっ、ごっ、ごっ、ごっ、ごっ、ごっ、ごっ、ごっ、ごっ、ごっ、ごっ、ごっ、ごっ、ごっ、ごっ、ごっ、ごっ、ごっ、ごっ、ごっ、ごっ、ごっ、ごっ、ごっ、ごっ、ごっ、ごっ、ごっ、ごっ、ごっ、ごっ、ごっ、ごっ、ごっ、ごっ、ごっ、ごっ、ごっ、ごっ、ごっ、ごっ、ごっ、ごっ、ごっ、ごっ、ごっ、ごっ、ごっ、ごっ、ごっ、ごっ、ごっ、ごっ、ごっ、ごっ、ごっ、ごっ、ごっ、ごっ、ごっ、ごっ、ごっ、ごっ、ごっ、ごっ、ごっ、ごっ、ごっ、ごっ、ごっ、ごっ、ごっ、ごっ、ごっ、ごっ、ごっ、ごっ、ごっ、ごっ、ごっ、ごっ、ごっ、ごっ、ごっ、ごっ、ごっ、ごっ、ごっ、ごっ、ごっ、ごっ、ごっ、ごっ、ごっ、ごっ、ごっ、ごっ、ごっ、ごっ、ごっ、ごっ、ごっ、ごっ、ごっ、……………

 明くる朝、浅いながらも睡眠を取り、少しだけ冷静になった頭で考えた。

 あの影は一体何だったのか。分からない。分からないが、きっとあの影こそが婆さまの云っていた「あれ」なのだろう。

 あれは、北―――隣家の玄関から見て、真後ろの方向を向いて頭を打ち付けていた。

 何をしていたかは想像するしかないが、壁の向こうに行きたがっている、ようにも見えた。壁の先には道があり、その道の向こうには公園がある。その先にはまだ新築の可愛らしい家があったような………

 たしかに、あれはこちらを向いていない。

 だから私には関わりがないのか。

 何だかほっとしたような、この町の厭な秘密を知ってしまったような、複雑な気分になった。



 それからしばらくして隣家は取り壊されて、空き地になった。

 あれがそれからどうなったかは、知るよしもない。ただ、公園の向こうの家は現在空き家になっているらしいと噂で聞いた。

 つまりは、そういうことなのだろう。

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