誘惑

 なんなのだろう。それに、ハンサムって。

 彼女たちは見世みせのある方からやってきた。


 ぽつんと一滴垂らされた『奇術師』という単語は、なぜだか鈴花の心をときめかせる。


 波紋のようにさざ波が広がり、「わくわく」とか「どきどき」だとか、忘れていた感情が蘇ってくる。


 いくら従順に暮らしていても、窮屈な生活は鈴花の心を静かに蝕んでいたらしい。わたしだって年頃の娘だ。楽しい事や面白い事、それに色恋にだって興味がある。


 普段はお使い途中に寄り道なんてしないのだが、風に舞う紅葉に誘われているような心地がして、ついつい女学生たちが歩いてきた方向へと足を向けてしまった。ほら、こっちにおいでよ、楽しいことが待っているよ、とでもいうように落ち葉はくるくると舞う。


 少しだけ急ぎ足で。弾むように。お菓子の入った重箱はそっと抱えて。


 鈴花の萌黄色の袖が翻った。すれ違う女学生集団の明るい笑い声が聞こえる。頬を染めて歩いている若い男女の幸せそうな顔が見える。


 ――ねえ、ほら。わたしだって。

 年頃の娘らしく流行りものに飛びついて、素敵な男性にときめく権利はあるのよ!


 誰にも言えない主張を心の中で叫び、目当ての奇術師の小屋を探して興行区域を歩いた。


 玉乗り、くらやみ小屋、犬の曲芸……。ずらりと並ぶ見世はどこも賑やかだ。


「さあさあ、お代は後でいいよ」

「入った入った!」


 元気のいい客引きの声に浮足立つ。

 出口から押し出される者の中にはタダ見の客がかなりいるようだ。回転率を重視して客を入れる見世物小屋ならば、鈴花も見学した後、どさくさに紛れて失礼してしまえばいい。


(ええと、奇術師の小屋は……)


 それらしい鮮やかな張り紙を見つけた鈴花はいそいそと近寄る。


『西洋手妻ニ刮目カツモクセヨ』

『摩訶不思議! 奇術師のトリックショウ』


 ここだわ! と喜んだのも束の間。


「えっ⁉ 前払いなんですか?」


 奇術師の小屋の入口には切符売りがいた。


「すまんね。うちは立ち見じゃなくて席を買ってもらうことになっているんだ」

「そんなあ……」


 ここまで来て入れないなんて。がくっとうなだれた鈴花は溜息と共にその場を去ろうとした。


 その時だ。「今日の演目に興味がおありで?」と、とてつもなく麗しい異国人男性に声を掛けられたのは。


 柔らかそうな茶髪と糊のきいた白いシャツ、そして甘い笑顔にたじろぐ。


 流暢に紡がれる日本語にも驚いた。たどたどしさや強弱のおかしさもない、耳に心地良い穏やかな声。老若男女誰からもぽうっとした目で見つめられそうな人だ。


 例えるなら――ぱっと思い浮かんだのは一度だけ食べたことのある西洋菓子。


 名前はなんといったかしら。ええと、そう、シュウクリーム? パリッとした皮にとろけるように甘いクリームが詰まった、夢のように美味しいお菓子!


「……突然声を掛けて驚かせてしまったかな? 『奇術師』の演目に興味があるのかと思ったのですが……」


 驚きのあまりおかしなことを考えてしまった鈴花に、シュウクリーム……もとい、異国人男性は長い睫毛をぱちぱちさせながら苦笑する。この人が話しかけているのはどうやら自分で間違いないらしい。返事をしなければと焦った。


「きょ、興味、はあるのですが」

「うん?」

「……えっと。あの、持ち合わせが少ないのです」

「なるほど」


 くすくすと笑った男は垂れ目がちの瞳を細めた。


「では、私と一緒に入りましょう」

「え?」

「興味、おありなんでしょう? 私も一人で見るよりもかわいいお嬢さんと一緒に見たほうが楽しいし……。お代は私が持ちますからお気になさらず」


 誘われて仰天する。

 お金を持っていないんですなんて同情を引くようなことを言ってしまった事を激しく後悔した。これではまるで、代金を出して欲しいとねだっているようではないか。


「そんな、とんでもないです。見ず知らずの方に……」


「いいんですよ。実は私、この奇術小屋のパトロンでして。お嬢さんが楽しんでくれて、なおかつお友達や親御さんに宣伝してくれれば万々歳。じゅうぶん私の利益になります」


 そういうものなの?

 しかし、誰彼構わず声を掛けているわけでもなさそうだし、やはり鈴花に同情して申し出てくれているのかもしれない。


 気前の良い御仁は、鈴花の抱えている風呂敷包みに目をやった。


「そう言えば何か持っているけれど……、もしかして急ぎの用か何かかな?」


「これは……、その、お使いで」


「……早く帰らないと怒られてしまう?」


「い、いえ、大丈夫です!」


 あまり「大丈夫」ではないのだが、しゅんとした顔をされたのでつい了承してしまった。……でも、生ものではないし、何時までに帰ってこいとも言われていないし……。


 たまにはわたしだって羽目を外したっていいんじゃないだろうか。


 誘惑に傾きかけた心を後押しするように、笑顔を取り戻した男性が鈴花の背中を優しく押した。


「それなら安心した。じゃあ入ろうか」


 そして代金を二人分払うと有無を言わさぬ笑顔で鈴花を促す。


 言葉や態度は優しいけれど、鈴花に悩む余地を与えてくれない。


(……ええと。騙されてるわけじゃない、わよね……?)


 もしやこれは新手の勧誘か客引きか。

 実は中で高額な支払いを命じられたり、おかしな品を買わされるのでは?


 急にびくびくし出した鈴花を見て、男性はふっと真顔になった。冷たい表情でこちらを見下ろす。


「――だめだよ。今さら逃がさない」

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