第二話「獣の餌」(3)


 看守の男はしばらく待っても戻ってくることはなかった。どうやらこのまま明日まで戻ることはなさそうだ。それが自分に対する信頼からなのか恐怖からなのか、ウィアスにはわからなかった。

 新鮮なる血肉を得たウィアスの身体は快調で、既に痛み等もなくなっていた。血の匂いを残す食べ残し――男が身を包んでいた衣服だ――には目をやらないようにして、ウィアスはその場に丸くなり目を閉じた。

 獣のための牢獄にベッド等があるはずもなく、冷たい地面の感触を感じながらずっと睡眠を取っていた。この感触にも慣れた。慣れた――はずだった。ぐにゃりと、頭が揺れたような気がした。

『あー、こんな冷たい牢獄で寝ることになるなんてなー。俺ってこれでも、獣にはなってないつもりだったんだけどなー』

 聞き慣れない……いや、どこかで聞いたことのある男の声が響いた。それはまるで、ウィアスの頭の中に響いているようだった。

 ウィアスは急いで目を開けると、痛みの無くなった首を動かそうとして、目の前に伸びた自身の“両手”に悲鳴を上げた。

『お前、クソ天使の槍食ったんだって? なんつーことしてんだよ。おかげで俺は、お前の身体の糧にされたんだぜ?』

 相変わらず頭の中には男の声が響く。だがそんなことよりも、ウィアスは自分の身体に起きた変化に驚いていた。

 ウィアスの身体は、人の――正確には魔族の女性の身体になっていた。魔力に染まった蒼の肌こそ同じ色だが、その身体は十六歳頃の魔族の少女のそれだ。自分の目で見える限り、両手に腹、そして両足と、魔族のパーツがしっかりとついている。そう、両腕がついていた。

 切り落とされたはずのウィアスの腕は、ガーゴイルの男の肌色で再生されていた。

『俺が糧になったんだ。是非感謝して欲しいねぇ』

 先程から頭に響いていた声の主を思い当たり、ウィアスはぞくりと背筋が震えた。その震えが突然全裸で牢獄に座っていた冷えのためか、自身の頭に響く男の声のためかは、考えないようにした。

『お前、賢い霊獣様なんだろう? 俺のこと、びびったりしないのか?』

「貴方は、先程のガーゴイルさんですか?」

 頭に響く声に、ウィアスはついに返答した。人型の声帯で初めて行われたその会話は、小さく、しかししっかりとした声で発声された。果たしてこの返答の仕方が正解かはわからない。だが声の主は愉快そうに笑った。どうやら通じたらしい。

『そうだよ。お前が綺麗さっぱり食ったあの身体は俺だ。そして、クソ天使の槍の力を宿したお前の身体に、俺の身体と意識は混ざった』

「身体と、意識が? 意識が混ざるのは……きっとこの状態のことなのでしょうが……この身体は貴方の身体を……模倣したということですか?」

『なかなか冷静な嬢ちゃんで助かる。この水の魔力に染まった身体は間違いなく嬢ちゃんの身体だ。俺の身体から“魔族の身体”という部分だけを抜き取って混ぜ合わせた、正真正銘“女の魔族の身体”だ』

「……そんなことが、出来るのですか? あのゼトアは」

『違う。この力は天使の武器の力だ。お前、あの槍を……ああ、多分言葉の綾ってやつか? 天使の槍と同化したんだろ?』

 男の言葉に用法ミスを指摘している余裕はウィアスにはなかった。頭の中はあの天使に受けた傷のことでいっぱいだったからだ。あの魔力の渦を具現化したような攻撃は、確かに何かを混ぜ合わせるに相応しい流れだったように思える。

「……つまり、貴方と私は真なる意味で混ざってしまったということですね?」

 真に、つまり身体も精神も、全てをこの身体で共有するということか。ウィアスの言葉に男もやや呆れたように肯定する。

『そういうことだ。まったく……この俺様がゼトアにしてやられちまったぜ』

「……貴方とゼトアには、何か因縁でもあるのですか? その……命を奪われそうになった、以外で」

 餌として投げ込まれた男の身体には、ゼトアの匂いが染みついていた。それはつまり濃厚な接触が――命の奪い合いがあった証だ。その身体を食らい尽くしたウィアスの身体もまた、二人の男の匂いに包まれていることだろう。自身の匂いに鈍感なのは、霊獣も変わりはない。

『……あまり嬢ちゃんには言いたくないんだがな。だが、これから身体を共有するなら隠せるもんでもないしな。いいぜ、教えてやる』

 男はそこで言葉を区切り、ウィアスは視線を新たに造り上げられた自身の身体に向ける。男の肌の影響か、左半身の色合いが灰色の魔力に染まっている。頭に手をやると、捩じれた角の感触があった。後ろを見るに、翼と尻尾は生えてはいない。

『俺の影響で中途半端に身体が男にならなくて良かったな。綺麗な娘の身体で、俺も嬉しいぜ』

「……あまり下品なことを考えないでください」

 ウィアスの声に少し苛立ちが混じったのを敏感に悟り、男は大笑いしてから話を戻した。

『ゼトアは俺を嬢ちゃんの中に入れて、女と結婚したと民に示したかったんだ。中身は男の俺を入れて、肌まで俺の魔力で染まると予想してな。あいつは男しか愛せない、自分の都合のためなら命二つ弄るぐらい簡単にやってのける奴なんだよ』

「……ゼトアが……ゼトア本人がそう、言っていたのですか?」

 ウィアスの中では信じられないと叫ぶ心と、納得した心とがせめぎ合っていた。血も涙もない魔族の軍人だと叫ぶ心に、しかしあの時見た優しい瞳に違うと叫ぶ自分もいる。自らの混乱に、男の言葉に縋ってしまった。

『俺の身体を痛めつけながら、あいつは笑って言ってたぜ。「気に入ったメス犬が手に入った。枯れ逝くだけのお前にそのメス犬の身体をやろう。お前にとっての首輪でもあり、お前がメス犬の首輪にもなる」ってな。意識が二等分されるとは思わなかったみたいだがな』

「……そんな……」

 ウィアスは言葉を探すも結局見つからず、気が付いた時には泣いていた。今まで気丈に耐えていたその精神が、信じれるかと心を許した相手からの仕打ちに張り裂けてしまいそうだった。ウィアスはその小柄な細い身体を、自分自身でぎゅっと抱き締める。

『……お前、名前は?』

 男が低い声で問い掛けていた。先程までの運命を呪い嗤うような声ではなく、その声音にはこちらに対しての優しさや気遣いといった感情が潜んでいるようだった。決して表立っては見せないが、本心からの温もりを、ウィアスは確かに感じていた。

「……ウィアス」

 消え入るような涙声で、ウィアスは答えた。流れる涙もそのままに。どうせ自身と共存している存在なのだ。感情を隠すことがどれだけ無駄なことかは、考えるまでもなかった。

『確か“清純”だとかそんな由来だよな? 嬢ちゃんらしい良い名前だ』

 男が低い声で笑う。その声の印象が少しだけ、あのダークブルーの瞳を彷彿とさせた。穏やかな、頼りがいのある背中が心を熱くする。どくりと心臓が、音を立てた気がした。

「……貴方の名前は?」

『……俺はずっと「悪魔の子」だとばかり呼ばれててな。ゼトアの野郎に名前を貰ったんだが、あいつ何てつけたと思う? 男の俺に「ヘルガ」なんてつけるんだぜ?』

「女性の名前、ですよね?」

『やっぱり霊獣の嬢ちゃんでもそう思うよな? 俺の腹に風穴開けながら名付けられた名前だ。あいつは心底どうかしてるよ。どうやら魔族ってのは、永く生き過ぎると頭がおかしくなっちまうらしい』

「人間のような短命な種族でも、若者と年長者では考え方から異なると言いますからね。ヘルガ、さん? は、おいくつなんですか?」

『さん付けなんて寒気がしそうだ。呼び捨てで。どうせこれからはずっと一緒みたいだしな。俺もウィアスって呼ばせてもらうぜ。俺は十六だから同じくらいだろ?』

「わかりました。ヘルガは私と同い年なんですね。ゼトアが本当に結婚したかったのはヘルガだったと、そういうことですか……」

『……ウィアスは、ゼトアの野郎が好きなのか?』

 ウィアスの声が沈んだのを見逃すヘルガではなかった。隠しきれない本心を、ズケズケと言い当てる。

「素敵な方だと思っていました。私は命を救われた恩もあるので、惹かれているのは事実です。ヘルガを放り込まれるまでは、ですが……」

 ウィアスの付け加えた言葉にヘルガはおかしそうに笑い『それは、まだ好きだって言ってるようなもんだ』と言った。その言葉には思いの他、嫌悪感といったものが感じられない。

『命を救われたっていう点では俺もそうなんだ。あの野郎に殺されなくても俺は、どの道死んでたからな』

「……え? あの傷が原因ではないのですか?」

『ガーゴイルの呪いだ。呪いで殺されかかっていた俺の身体を、あいつが先に呪いごと身体を断ち切った……』

 そこでヘルガは考え込むようにして黙った。ウィアスが彼にガーゴイルの呪いのことを聞くべきか悩んでいると、ヘルガは溜め息をついて、諦めるように言った。

『仕方ねぇ。俺も協力してやるから、ゼトアの野郎と“お前”が結婚しちまえ』

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