第二話「獣の餌」(2)
その看守の言葉とは裏腹に、ゼトアはその日からぱったりと姿を見せなくなった。ウィアスしかいない牢獄に訪れる者は他になく。看守の男はウィアスを心配しながら、毎日話し相手になってくれていた。
「どうやら隣国との戦闘に入ったらしい。ゼトア様は前線部隊の指揮に向かわれたそうだ。相手は人間達の軍だがそれ程脅威ではないらしいから、すぐ顔を出すだろうて」
慰めるように言いながら、平べったい皿に水を入れて鉄格子の隙間から差し出してくれる。
ウィアスには食事が与えられなかった。看守の男が言うには霊獣の食事がわからないとのことで、城の者達が途方に暮れているらしい。
「上の決定がないと何も出せないなんて言うもんだから、この水はワシとお嬢さんだけの秘密だ」
そう言って謝る男には感謝しかない。おそらく獣姿の捕虜等初めてなのだろう。本当ならば文字を伝えて教えてやりたいが、それをしてしまえばこの看守の男が罰せられる可能性もある。ゼトアに対してあの機械を隠したところを見るに、それは間違いなさそうだ。
『私はまだ大丈夫です』
ウィアスは空腹により酷く重たい頭を上げて、微笑んだ。その痛々しい姿に、男は思わず顔を背けたようだ。
霊獣は普段は野生動物と同じように狩りをして生肉を食らう。たまには植物も食べはするが、もっぱらその主食は肉である。見た目通りの単純なものだが、それでも知性がある分ややこしく考えられてしまっているのかもしれない。
「戦に出る前のゼトア様に“上”で会った時は、確かに『餌の用意をしている』と言ってたんだがな……」
看守の男が『上』と言うのは、この牢獄の上の空間――魔族達の国『ユニアセレス』の首都に聳え立つ、魔王の居城『フェズジーク城』のことである。ウィアスはどうやら意識を失っている間に、国境を越え魔族達の住む魔都へと運ばれていたようだ。
遥か頭上にはたくさんの魔族達や魔王の気配があるはずだが、地下へと伸びたこの牢獄にはそのような魔力の流れは伝わってこなかった。
自分への食事を『餌』と言う、彼の表情が目に浮かぶようだ。冷静な切れ長の瞳に、あの包まれるような優しさを隠して。あくまでも捕虜である霊獣の娘への対応は、人目がある魔城内ではそれが正解である。果たしてどこまでの者が知っているのかは知らないが、少なくとも口の軽い一般兵達が聞き及んでいることはないだろう。
何日も続く空腹に、もう腹の音すら鳴る余裕がない。比喩ではなく『お腹と背中がくっつく』状態にあるウィアスの身体は細く、そして美しい蒼の毛並みも乱れてしまっていた。獣の体調を素直に伝えるその毛並みに、ウィアス以上に看守の男の方が心配しているようだった。
「ワシは罰せられる覚悟があるから、『普通の動物の肉で良い』って伝えてやる」
『大丈夫です。貴方が私のせいで、罰せられるのはおかしいですから』
気丈に微笑むウィアスに、看守の男は頭を抱えた。
ウィアスは内心、正常な判断能力を失っていた。
あれからもう数日間、何も食べていないのだ。看守の男が隠れて与えてくれる水でなんとか命を繋ぎながら、その頭は飢えた獣の本能に支配されつつあった。
鉄格子の向こうに見える男の姿が、酷く甘い肉の塊に見える。その肉が優しい、それでいて心配そうな表情をこちらに向けていることさえ、ウィアスには目に入らなくなっている。
――肉……肉……っ。
脳裏を掠める恐ろしい本能に、ウィアスは強く口を噛みしめて耐える。グルルルルと低い唸り声を自分が上げていることに、肉の――男が飛びのくように怯えたことで気付いた。
その時、重たい扉が開く音がした。獣の本能が刺激されていたウィアスは、その扉から香る匂いに歓喜の遠吠えを上げる。
「待たせたな。餌を調達してきた」
大きなソレを引き摺って扉から現れたゼトアが、ウィアスの囚われている牢獄の扉を開けるように指示する。看守の男がソレに目をやったまま動けないでいたので、ゼトアはもう一度命令を下し、ようやく鉄格子の扉が開かれた。
ソレは――白髪の痩せた男だった。
色気すら感じる整った顔立ちの、酷く顔色の悪い――いや、これはおそらく魔力に染められた色合いだ。鋭く尖った耳から人間ではないだろう。まだ若そうだ。しかし灰色に染められたその肌には、魔族でもエルフでもない不思議な魔力を宿している。
「こいつは元は魔族だが『ガーゴイルの呪い』を受けた呪われた一族だ。まだ意識はあるが、もう助からない。新鮮な肉がご馳走だろう? さあ、こいつを食え」
どさりと牢獄の中に男が投げ入れられる。べちゃりと血を飛び散らせながら、男の身体がごろりと転がり、仰向けになって止まる。ウィアスと男の目が合った。
激しい感情の籠った燃えるような深紅の瞳に、ウィアスはその男の生への執着を感じ取った。絡まり合う視線に、何故か馴染むような感覚を覚える。
ガーゴイルの呪いは、聖職者達の間で噂話程度に聞いていた。昔、水源を支配していた意地悪な魔族の一族が、周りの者達から妬まれ、ついには呪いを掛けられたという伝説だ。彼等はその一族こそ『水』に苦労するようにと、常に渇きを覚える呪いを掛けた。
その呪いにより意地悪な魔族の一族は、常に喉の渇きに苛まれ、そのきめ細かい肌は岩のようにひび割れ、そしてその呪いの名の通り、岩の魔獣『ガーゴイル』のように巨大な羽根と悪魔を体現したような黒き尻尾と捩じれた角、そして翼のように伸びた耳をその身体に有するようになったという。
倒れた男の姿は、まさしくその『ガーゴイル』そのもので。蝙蝠のような巨大な羽根と腰の辺りから長く伸びた黒い尻尾を下敷きにして、男の身体が小さく動く。腹に空いた巨大な穴からはどす黒い鮮血が溢れ出し、ゼトアの言うようにもう助からないことはウィアスの目から見てもわかった。
聖職者の扱う治癒魔法ならウィアスも行使することが出来るが、治癒とはそもそもその者に生命の力が残っていてこその力だ。大きく開いた傷口の治療や、ましてや失われた血液を補充するようなことは出来ない。
「く、くそ……俺は、こんな嬢ちゃんに、食われるのか……」
擦れた声で男が言った。それは生への諦めでも、ましてやウィアスに対する侮辱でもなかった。男の視線は、いつの間にかゼトアに向いている。
「そうだ。この霊獣の娘の糧となれ。お前は“死ぬには惜しい男”だ」
そう言ったゼトアの表情は、これまで見たこともない程歪んでいた。そこにゾクリとした快感すら感じる程に、彼の纏う空気に欲望が混じった。それを獣の嗅覚で感じ取ったウィアスは、狭い牢獄の中で男から距離を取るように後ずさる。最後に残った理性が、ウィアスにそうさせていた。
「意地を張っても無駄だ。お前には肉が必要で、こいつはもう助からない。俺のためにも、自分のためにも早く食うんだな」
ゼトアはそう言って、看守の男に「しばらくここは俺が預かる。お前は外に出ていろ」と命令した。男が目を見開くと「この者は俺の嫁となる者だ。血肉を啜るその姿を、他の男には見せたくないんでな」と続ける。
上官からの命令に逆らうことも出来ずに、看守の男はウィアスをちらりと見やってから、重たい扉を開けて外に出て行った。
廊下にはゼトアのみが残される。彼はその歪んだ表情を隠すこともせず、反対側の壁に背を預けてこちらをただ、眺めている。扉が開きっぱなしだというのに、閉まっていた時よりもよっぽど重圧が強く感じた。
それは目の前のゼトアから放たれている強く重い魔力に他ならず、ウィアスは酷く重たい身体を更に地面に伏せるようにしてその圧に耐えようとする。
「嬢ちゃん……俺を早く、食べてしまえ」
相変わらず強くゼトアを見詰めたまま、男がそう言った。それは酷く誘うような音色でウィアスの耳を刺激する。新鮮なる血肉が好物なのは抗いようのない事実で。男の腹から匂う甘美なる誘惑の香りで、ウィアスの理性は今すぐにでも吹き飛びそうだった。
「『殺したくない』なんて、嘘ばっかだな」
挑発するように続けられた言葉に、ウィアスはその腹に己の牙を突き立てる。途端に広がる新鮮なる肉の食感に、ウィアスはほとんど無意識に歓喜の声を上げていた。そして、大切に大切に、痩せた男を食べていく。
――殺したくないなんて、嘘。
男の言葉を反芻しながら、男を食らう。まるで男と交わり合うように、その血肉を己の身体へと染み込ませていくかのようだった。
それは食事ではなく、儀式であった。
黙々とガーゴイルの血肉を食らうウィアスの頭に何かが触れる。それを確認することすら億劫で、ウィアスは目線だけでその先を確かめる。
ゼトアがウィアスの頭を撫でていた。まるで愛犬にでもそうするかのように、優しい笑みを落しながら、血塗れの獣の頭を撫でる。それは食事ではなく、儀式だから。
「瞳に力が戻ったな。もう心配はなさそうだ。明日、迎えに来る。それまでにしっかりと“飲み込んで”おけ。これはお前のためでもある」
ゼトアはそう言い残し、そのまま牢獄から出て行った。看守の男が戻る気配はなく、ウィアスは静かに男の身体を全て食らい、飲み込んだ。
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