少年とミツバチ

@nobuo77

1話完結




「助けて!」

 ミツバチのミッチーは、朝早くから、ミカンの花粉集めに夢中になりすぎていて、午後にやって来たときに、木と木の間に張りめぐらされていた、クモの巣に気づくのがおくれてしまいました。


 羽をバタバタさせて、ようやくクモの糸を取りはずしましたが、運わるいことに落下したところが、昨日降った雨でできた、水たまりの中でした。

全身、水びたしになりながら、まだクモの糸がからみついている羽をバタバタさせてもがきつづけていました。


「こんなところに、ミツバチがおぼれている」

 坂道をかけあがってきた健太はそうつぶやくと、肩で息をしながら、ミカン畑の小さな水たまりのはしに浮いている、一匹のミツバチを右手で、軽々とすくいあげました。


 健太は明日の日曜日、眼下に広がる島かげの一つに、父親と釣りにいく約束をしていました。このミカン山から、釣りのポイントになりそうな島かげをさがそうと、やって来たところでした。


 手のひらにのせたミツバチをながめていると、手足がかすかにうごいています。

「なんだ、まだ生きているじゃん」

 健太は声をあげました。


 どうやら健太の手のひらにのっているミツバチは、羽ばたこうとしているようでした。羽と羽とに水がくっついているので、うまくいかないらしい様子です。

 健太は、右の手のひらを顔に近づけました。こうするとミツバチの姿が、いっそうよく見えました。


「ほら」

 健太がミツバチのお尻を小指のさきでかるくつつくと、羽のあいだの水滴が一滴、二滴こぼれ落ちました。

ミツバチは、軽くなった体を、健太の手の平の上で、ブルッとふるわせました。


「助かった」

 ミツバチのミッチーはうれしそうに声をあげました。でも、健太には聞こえないほどの小さな声です。

 健太が右手を宙に振ると、ミツバチのミッチーは、一気にミカンの木のほうに飛んでいきました。


「おーい、健太」

 夕方になって、ミカン畑に父親の声がひびきわたりました。

 学校を終えて、帰宅するとすぐに、

「ミカン山に行って来る」

 と、家の裏で畑仕事をしていた両親に、声をかけて出かけたきり、健太は夕方になっても帰ってきません。

心配した父親が、ミカン山の見まわりついでに、健太をさがしにきたのです。

「健太、どこにいる」

 父親は、あたりを見わたしました。

しばらく耳をすませても、どこからも人の気配はしません。


「困ったやつだ。そうだ、船着き場かも知れないな」

 父親は、明日、健太を連れて、釣りに出かける約束をしていたことを思い出しました。ミカン山から船着き場の方をながめると、防波堤が少し見えています。夕日をあびた海面が、宝石色に光っています。

 父親は坂道にとめていた軽トラックに乗り込むと、船着き場へ向かって、ゆっくりとくだりはじめました。


 船着き場に着いた父親は、自分の釣り舟のないことに気づきました。

「健太のやつ、また1人で出かけたのか」

父親は夕やみの海面をみつめながらつぶやきました。


これまでも健太はときおり、1人で釣り舟にのって、沖に出ることがありました。

海のおだやかのときには、両親も暗黙の了解をしていました。

家が猟師のこの島の男の子たちは、小学五六年生にもなると、釣り舟の操作も手なれたものです。

 健太の家は半農半漁ですが、両親が農業でいそがしいときには、両親には無断で釣り舟をこいで、漁にでるのです。

健太の釣ってきた魚を、父はよく晩酌の肴にしました。


 ところがこの夜は、両親がいくら待っても健太は帰ってきませんでした。

心配になった両親は、知りあいの釣り舟を借りて、沖をさがしました。

点在している島かげにちかずいて、

「健太!」と、大声をあげました。


 そのころ健太は、少し大きな島の入り江に釣り舟をよせて、熟睡していました。

昼間のつかれと、入り江のゆりかごのような心地よさが、健太を深い眠りにさそっていたのです。


 ミカン山はミツバチの巣から、谷一つへだてた斜面に広がっています。

 翌朝、ミツバチのミッチーは、海から谷に向かって吹きこんでくる上昇気流にのって、下界を見わたしながら飛んでいました。


 すると、船着き場には、赤い点滅灯が光っているのが見えました。昨日の朝までは見かけたことのない光景でした。ミッチーはミカン山に向かっていた進路を、船着き場に変えました。


 防波堤のそばにやってきたミッチーは、そこに救急車やパトカーが、何台も止まっているのを見ました。

人々があわただしく、数隻の釣り船に乗りこもうとしています。


「健太!、がんばるんだよ。いま助けにいくからね」

 人々の輪の中から、悲痛な女性の声が聞こえてきました。

「健太君のお母さんだ」

 ミツバチのミッチーは本能的にそう思いました。


 防波堤の上から、心配そうに海をみている人々や、まさに船出しようとしている人々の様子から、健太君の身に何が起きているのか、ミッチーは察することができました。


「健太君は昨日、一人で釣りに出かけたんだ」

 朝日をあびた海面が、黄金色に光っています。大小さまざまな形をした島々が転々とつらなっています。ミッチーは、上空から健太君の姿をさがしながら飛びつづけました。


「昨夜の雨や風を考えれば、きっとどこかの島に避難しているはずだ」

 島かげを注意深く見わたしながら、海上のあちらこちらを飛びつづけていたミッチーの目に、一瞬、きらりと光るものが飛びこんできました。


 それは銀色に輝く強烈な光りでした。ミッチーは反射的に、その光りに引きこまれるような気持ちになって、上空から急角度で、降下しました。


 光りの物体が、徐々に大きくなってきます。よく見ると、その光りは、小さな島の波打ち際から、少しあがったところの岩場に、打ち上げられている、釣り船から出ていました。

さらに近づいてみると、船底に張られた、一枚の金属板が、反射しているのだという事がわかりました。


 船底に、横たわった人影が見えます。

「健太君よ。きっとそうだわ」

 ミツバチのミッチーは夢中で、岩場に座礁している釣り船に近づいていきました。


 ミッチーは島々の間の海上を飛行しながら、

「早く健太君の居場所を知らせなくては」

 と、先ほど船着き場を出た数隻の釣り船をさがしました。

羽が疲れるほど飛びつづけて、ようやく捜索船の上に近づくことができました。


 休む間もなく、船頭の鼻さきまで近づいて、

「こっちだよ。こっちだよ」

 と合図を送るように、くるくると旋回しました。

「目ざわりな、ハチだな」

 ミツバチのミッチーはたちまち、船頭の左手で追い払われてしまいました。

「そうだ、仲間たちに応援をたのもう」


「そんな大切こと、どうしてもっと早く、知らせないの」

 巣に戻ってきたミッチーから話を聞いた女王バチは、羽をふるわせながら、ミッチーをしかりました。


「さあ、みんな、いまから健太くんの救助に向かうわよ。準備、急いで」

 女王バチの合図に、働きばちやオスばちなど数千匹のミツバチたちが、いっせいに羽をふるわせて、

「さあ、出発だ」

 と、声をあげました。


「あそこに、座礁した釣り船があって、その中に健太君がいる」

 とミッチーは、仲間たちに知らせました。

「みんながもってきたローヤルゼリーを一つにして、健太君の唇に運ぶのよ」

 女王バチの大きな声が飛びます。


 やがて出来立ての、やわらかなローヤルゼリーは、みんなの力で健太君の唇の上に、静かにおろされました。

 ミツバチたちは、羽をたたみ、息をつめて、健太君の様子を見つめています。


 やわらかなローヤルゼリーが、少しずつとけながら、唇全体に広がっていきます。


「唇がうごいた」

「なめている」

「目があいたぞ」

 ミツバチたちは、大騒ぎになりました。


「ここに残るのは、ミッチーだけでいい。さあみんな、帰ろう」

 女王バチの声に、ミツバチの大群は、再び一つの大きな黒いかたまりとなって、座礁した釣り船を後にしました。


途中、捜索船の上で、数千匹のミツバチの大群が旋回しました。

「なんだあれは」

捜索船の人々は、おどろいてミツバチの大群を見つめています。

「あの島にいってみよう」

船長が、ミツバチの大群がやって来た島かげに、船首をむけました。


 ミッチーは仲間たちを見送ると、くるりと釣り船の上を旋回して、健太君の右手の指に舞いおりました。

 すると、指先がびっくりしたように、ぴくりと動きました。

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