暗黒卿の魔国譚

ブロンズ

第一章:暗黒卿と勇者召喚

第零話:すべての始まりは血の紅玉




 はるか大昔から語られるような物語には、必ず始まりが存在する。

 うたわれ、語り継がれるような物語とは、何をもって幕開けるのか。

 

 もしも、物語の始まりがその人間の生を……、全てを大きく変える事になった瞬間にこそ、幕開けるというのならば。


 彼の始まりは、おそらく。



 ………。

 ……………。



 ―――荒廃した戦場……否。

 最早、その地は戦の場などと呼べるようなものではなかった。


 大地が抉れ、岩が穿たれ、草花は根こそぎにされ。

 言うなれば、厄災の過ぎ去った荒野。


 一帯には命の火を灯していたであろう肉塊たちが散乱しており、それらは嘗ては同じ職務を全うしていた者同士だったのだろう。

 均一の全身鎧を身に纏い、均一の剣を手にしていた。


 だが、しかして。

 動きもしない死体に、武器や防具など必要なく。

 まだ息がある者も、じきに命を守るそれが必要無くなることは明白で。



 そんな肉塊の中に……まだ息のあるモノの中に、彼はいた。



 ―――と、言うより、未だ息があるのは彼だけなのかもしれない。

 かつて鍛え上げた彼の聴覚を通して、聞こえるものはほとんどなく。


 辺りには静寂が広がっている。


 ……或いは唯一息のある男。

 その男には、名倉という名前があった。


 すぐに、二度と呼ばれなくなるだろう。


 自分の意思で全く動かぬ身体、糸の切れた人形と大差ない五体。

 ただ、無為にヒューヒューとか細い息を吐きだすだけの口。


 今の彼に出来るのは、ただ一つだけ。

 その、おぼろげな意識の中で、確実にそのの姿を捉える事だけで。



「気分はどうじゃ、人間。……まぁ、よい筈などないが」



 戦いと言えるかもわからない……そんな、一方的な蹂躙をもたらした化け物は、厄災というには驚く程に普通だった。


 筋骨と言うには余りに細く、屈強というには余りに白く。

 透き通るような銀色の髪をなびかせた、妙齢の女。


 女は、何が楽しいのか……まるで、気の合う友人に語り掛けるように言葉を紡ぐ。



「―――俺、ハ……死ぬ、ノか……?」

「訛った話し方じゃのぅ」

「……………」

「うむ。それはそうじゃろう。おびただしい出血で、臓も出とる。それに―――フフッ。両足共に、面白い方向に曲がっとるな。糸の切れた人形でももう少し行儀よく倒れるじゃろうて」



 何がおかしいのか。

 もはや顔も動かせない男からは、己の惨状など分からないが。

 女が持つ真紅の双眸には、確かにそれが映っているのだろう。


 己は……もうすぐ死ぬ。


 あと数分もしない間に。


 この世界に来た事を、チャンスだと思えた。

 全てを失った己も、最初からやり直せると信じた。

 頑張り次第で、必ず。

 もう一度、己の力で上を目指せる世界―――そう、確信していた。



 現実はどうだ。

 彼がこの世界で積み上げ、蓄えてきたもの。

 自信、実力、……或いは、過信。

 戦闘が始まってから、ものの数秒で瓦解したもの。

 彼が未だに他の敗者と同一のモノになっていないのは、一重にこれまで積み上げた超人的身体能力があったからだ。

 かつての世界であれば、おおよそ怪力無双。

 金メダルでオセロができたであろう身体能力に、千を超える屈強な兵士たち。


 それらをもってしても、たった一人を殺せない。


 一方的な蹂躙によって、完全な無に帰したのだ。

 これが本当の強者、極東に生息すると言われた【魔族】の力だというのだろうか。



「―――さて。どう――死ぬんじゃ。最後に一つだ――質問―――も、良い――の?」

「……………」



 耳が遠くなる。

 彼は、自分が死に向かっていることを一層強く意識させられる。

 女の言葉こそ理解できるものの、それに対する答えを紡ぐ事すらできるか怪しい程に。



其方そなた―――……という――を知っておるか?」

「……………」

「なに。し、ら、ん……と。もう声も出んのか。だらしな――う」



 聞き取れた部分のみを分析し、かろうじて口を動かすことで伝えた意思に対し……自分を瀕死にした張本人でありながら、勝手なことをのたまう女。


 同時に、女の貌が……一瞬だけ……僅かに一瞬、深い悲哀に歪むのを。

 同じ失った者の悲しみに満ちるのを、男は最早殆ど見えぬ霞んだ目で、確かに見た……気がした。




 ―――と、その時。


 


 男の顔へ、雨が降りかかる。


 顔の上だけに、ゆっくりと。



「……………!」



 同時に、ぼやけた視界が鮮明になり。


 抜け続けていた力が。

 命そのものが流れ続けていたような感覚が、なくなる。



「人間の薬液じゃが、この濃厚な甘みが好みでな。―――ふふ。余が買っている様を想像すると笑えるであろう?」



「―――と……。これで、多少はマシになったじゃろう。ここは一つ、余と取引せんか?」



 自分を殺そうとしている女の話など、どれだけ聞けども全く笑えないが。

 確かに、はっきりと……声が聞こえるまでに男の意識は鮮明さを取り戻し。


 ……異種族蔓延はびこるこの世界でも、死の直前であった人間がここまで回復する程の薬は、そう多くない。

 恐らく、最上級の回復薬ポーションなのだろう。

 細胞単位に浸透したそれらが急速に肉体を覚醒させる。



「………ぅ、……ぁ」

「―――はて? 人間たちの薬液では、最上のものと聞いたのじゃが。話せるようには……何じゃ、その複雑そうな顔は」



 ………。



「言いたい事が、多すぎて……な。アンタが突然現れて、襲われて。自信を打ち壊されて、戦友を殺されて、命を救われて。あと―――」

「その場つなぎじゃから、普通に死ぬぞ?」

「………あぁ。俺は普通に死ぬ……―――なんて?」

「例え其方が異界の者でも。腹からが見えとるし、薬程度で再生など出来ぬ。常識じゃろ。―――ホレ、それじゃ」



 ―――ゾウ……? 


 気になる言葉だと。

 それを発した女の視線の先に向かって、男は首を動かし。


 自分の身体から伸びるソレ……紐状のような、肉色の何か。

 まるで、それが自然体であるかのように……それこそが本来あるべき姿であるかのように、或いは固有の生物であるかのように地面に投げだされたが目に映り。



 ―――。



「は……? ……はああああぁぁぁぁぁぁ!?」




「うわぁぁぁぁ死ぬ……ッ!! しぬぅぅぅぅぅぅーーーッ!! ―――って……異界!? 何でわかる―――痛ってぇェェェェェッ!?」


 

 感覚が戻り始めた事で、痛覚もが戻り始める。

 痛みで転がる事も出来ず、叫べども動かない身体。

 その中で、男は女の放った、という言葉の真意について考え。


 確かに己はから来た。

 

 では……それを知っているという事は。

 女が突然に現れて軍が襲われたのは、偶然ではないのか?

 少なくとも、大陸の西側に一軍を壊滅させられる高位魔族が来る事は、まずはずだ。



「………其方、よく喋るな」



 苦しむ男に取り合わず、女はそのまま続ける。



「もっと無口で寡黙で落ち着いた奴だと思っとったんじゃが……」

「お前……がッ、永遠に黙らせようとしたから、だろうがッ!?」

「―――まぁ、そうじゃな。答えるまでもない、簡単な事よ。其方の話し方は独特に過ぎ、地方の訛りという様子ですらない」



「例えるなら、まるでこの世界の言葉になれていない、意味も分からず放り込まれ、死に物狂いで習得しようとしている、といった方が分かり易い」

「……流石ッ、長命種……!」

「うむ。余は、違いが分かる程度には長生きで―――ではなく、取引じゃ!」

「……………?」

「と・り・ひ・き! 横になったままでよいから、聞け!」


「………っす。ところでその内臓こっちに―――」

「先ほど聞いたじゃろ? 探している者がおる。そ奴を探してほしいのじゃ。もし探してくれるというのならば、そなたが生きるための手段をくれてやる」



 女も女でよく喋るが。

 しかし、男にとっても、今はそんなことを考えている場合ではない。

 が誰なのか、聞く余裕もなく。



 彼に、選択肢などはなかった。

 男の心情を一言で言うなら―――死にたくない。


 その言葉に尽き。

 こうして話している間にも、薬液……最上級の回復薬によって多少マシになっていたはずの身体が、死に向かっていくのを鋭敏に感じ取ることができるのだ。


 耳を通す声には雑音が混じり。


 身体の感覚は、痺れも希薄に。


 目の色覚はほぼなくなり、女の輪郭のみをようやく認識できる程まで弱ってきている。

 男には、それが耐えられなかった。

 悪魔の取引などどうでもよく、この苦しみから救ってくれるなら何でもすると思える程に限界だった。



「……分かった。とりひきだ」

「それで良い」



 本来なら、決して聞き入れなかった取引。


 了承した瞬間行動を起こす相手は……女は、先程の薬瓶を持つままに手を伸ばす。

 既に空の筈のそれからは、しかしまた液体が……。



 ………。

 ……………。



 ―――鮮烈な朱。

 それは瓶の中身ではなく、器を持つ女の手から出ているように見えて。


 しかして、そのおぞましさなど。

 それが何かと、考える事もなく。


 男……名倉の目には……己の命を繋ぐであろうそれが、宝石のように輝いて見え。

 女の赤い目とよく似た色のその液体が、ピジョンブラッドルビーという、呪いを運ぶともいわれる宝石のように見えた。



 ―――顔へ、二度目の雨が落ちる。



 その感覚は、先程とは異なった。

 あの甘美で、全ての苦痛が和らぐようなものでは、決して―――。



「……ッッ!? ぐ、ぁあ……ぁぁ……!? アァァァーーーッッ!!」

「まあ、痛むじゃろうな」

「ガ――ァァァーーー!!」

「適当な奴の血でもあればよかったんじゃが、持ち合わせもないしのう? 最悪……というより、ほぼ九割方死ぬと思うが、その時は諦めて死ぬがよい。運がなかったと」



 ―――なんだ、それッ!?


 よく喋る男……名倉は……。

 彼は、気合や根性で確率を超越するようなもの―――所謂、神の加護や奇跡、覚醒などといった概念の存在を信じてはいない。


 魔術……異種族……神々。

 そんなモノが存在する世界に放り込まれ、年単位の時間が流れているにも拘わらず、コレなのだ。


 九割方死ぬ。

 そんなことを聞かされて、冷静ではいられなかった。



(麻痺した身体のまま死んだほうがマシだ……っ!! というか、コレ回復させてから痛めつける類の拷問、だろ……ッッ!?)




「クーッーーリング、オフ……だァァァアーーーッ!!」




 必死に振り絞って出した声は。

 遺言になるかもしれない声は。


 かつて、日本にいた頃……彼が大学の講義で聞き流した、仕組みさえよく分かっていないキャンセルの申し出。



 そして―――意識が途絶える刹那。

 途切れた男の視界には……先程の悲哀の顔とは打って変わり、満面の笑みを浮かべる女が目に映った。



 ……………気がした。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る