2-3
観光を楽しんで、と男性店員から笑顔で送り出されたメイたちは、再び歩道を歩き始めた。
未だに人だかりができているサブレ―屋の横を通り過ぎる。
焼き菓子の匂いよりも胸に抱いた花束の方が強く香って、ほっとした。
(信じ合う……か)
自分にゆかりのある花であるため、花言葉も当然知っていた。幼なじみたちと自分の花の花言葉を披露しあった時は、「素敵な意味でしょ?」と深く考えずに自慢したものだ。
しかし、今ではとても難しい言葉だと思う。
信じ合うとは、一体どういうことなのだろう。魔王を倒した勇者が天使を殺し、それが許される世界で、答えは見つかりそうにもない。
そして、メイの胸を占めていることはもう一つあった。
(エルさん、やっぱりなんだか変だ……)
彼はいつもに比べてやけに静かだ。花屋ではいつも通り明るく振る舞っていたものの、どこか上の空というか、そんな雰囲気がずっと漂っている。
(……もしかして、何か思い出したのかな?)
足を止めてアネモネを見上げていた、あのときがきっかけだった気がする。もしそうだとしたら、あの美しい花には嫌な思い出があったのかもしれない。
そう考え始めるとまるで自分のことのように苦しくなってきて、メイは足を止めた。斜め前を歩くエルの背中で小さく揺れているマントの裾を、ぎゅっと掴んで引き留める。
「ん? どうしたん」
「あの、」
大丈夫ですか? そう、出かけた言葉を呑み込んだ。
みな、心に秘めた想いがある。メイが自分の正体を隠し偽って生きているように、エルが思い出した記憶も、決して口に出したくないものなのかもしれない。
そこに踏み込んでいいのは、正面から向き合う覚悟のある人。ずっと彼の隣で生きていくことができる『人間』だ。
(……わたしじゃない。だって、あと少しでお別れなんだから)
「嫌やなあ、メイちゃん。そんなじいっと見つめられたら照れるやん」
いつも通りの冗談めかした口調と、明るい笑顔だ。
重たい前髪に隠された瞳には、今どんな感情が宿っているのだろう。考えてみたけど、やはりわからない。
けれど、エルが笑うから。メイも何も気付かなかったふりをする。
「せや。結構歩いたし、情報収集の前に喫茶店にでも入ろか。城のそばまで行ったらどこも混んどるやろうから、ここらで軽く腹ごしらえしといた方がいいわ」
「たしかに、そうですね」
ビビアナ半島は、
そしてメイたちが入った喫茶店は、参道を半分ほど進んだ場所に位置していた。
「どうぞ、ごゆっくり」
メイド服に似た黒と白の制服に身を包んだ女性店員に通されたのは、白いパラソルが
席に着いた瞬間、舗道を歩いていく人々が、こちらをじろじろと見ていることに気付く。
「なにあの人、怖くない……?」
「見てよ、あの前髪。火傷の跡も不気味だし……」
メイは反射的に顔を上げた。目が合った瞬間、そんな会話をしていた若い女性たちが気まずそうにそそくさと去っていく。
「メイちゃん、何にするん?」
ぐっと膝の上に置いた手を握ると、エルがテーブル越しに声を掛けてきた。その声はいつも通り明るい。
(今の、聞こえてなかったかな……?)
「おーい」
「あ、すみません! ええと……じゃあ、これにします」
さすが観光地というだけあって綺麗な装丁がされたメニュー表の中から選んだのは、何の変哲もないホットミルクだった。勇者にまつわる飲み物や軽食もあったが、もちろん選ぶ気にはなれない。
「了解。あ、お姉さーん」
テーブルにそっと置いたブルースターの花束に視線を送っていると、エルが右手を上げてあっという間に店員を捕まえた。
そのとき、ふいに気付く。
彼の右手の薬指に、見慣れない指輪がはめられているのだ。
中央に小さな宝石が二つ寄り添うようにして飾られたもので、銀のアームには蔓草模様が丁寧に彫り込まれている。とても美しい品だ。メイは宝飾品に詳しくはないが、宝石はダイアモンドのようにも見える。
(……それに、二つ並んでるなんて……)
婚約指輪。
その単語が思い浮かんだ瞬間、エルが声をかけてきた。
「メイちゃん、どうしたん? 難しい顔して」
「えっと……その指輪……」
喉に何かつっかえているかのように、うまく言葉が出てこない。
今まではつけてませんでしたよね? そう質問するより早く、エルが「ああ」と指輪をそっと左指でなぞった。
「唯一の手がかりなんや。今ある記憶の一番最初の日には、もうここにはまってた。わずらしいし今までは外してたけど、せっかく情報収集に来たからな。一応付けとこ思って」
「……そんな……。たぶんですけど、婚約指輪なんじゃないですか……?」
「俺も最初はそう思った。だけど、左手じゃなくて右手の薬指やろ? それに、今の俺はメイちゃん一筋やから。そういう意味もあって外してた」
一筋、迷いなくそう言われて心臓が跳ねる。それに。
(――今わたし、ほっとした?)
「そういえば」
エルの何気ない声で、はっと我に返った。彼は気楽な雰囲気で頬杖をついている。
「メイちゃんが探してるのって、どんな男なん? ライバルやからな。相手の情報は把握しておかんと」
(そんな人、本当はいないけど……)
メイはジュジュについて知っている情報を、一つずつ挙げていくことにした。
といっても、彼の容姿について詳しく聞いたことはないため、双子だということで、ステラ本人の特徴なわけだが。
「黒に近い灰色の髪で……青い瞳が綺麗な人です。涼しげな奥二重で、最初は少しとっつきにくい印象を受けたんですけど、はにかんで笑った顔がとても可愛くて……」
(って、男性に可愛いはおかしいよね!)
「とにかく、とても素敵な人です。名前はジュジュさんっておっしゃって……ああそうだ、ステラちゃんっていう双子のお姉さんが……」
「お待たせいたしました」
女性店員がトレイを手に現れたため、メイはぴたりと言葉を止めた。彼女は湯気の立つマグカップを二つテーブルに置くと、静かに去っていく。
「……どうして、そいつを探してる……?」
勝手に話を終えた気でいると、正面に座るエルが静かに尋ねてきた。
前にも一度聞いた標準語だ。それに、『どうして』とはどういう意味なのだろう。
頬杖をやめたからなのか、口調のせいなのか、急に空気が深刻にものに変わった気がして落ち着かない。
「慕っている方だから、ですけど……」
おそるおそる答えたあとで、あっと気づく。もしかしたら、ジュジュを探すことになった経緯について知りたかったのかもしれない。
(ええと……)
「突然旅に出てしまわれたんです。目的も行き先もわからなくて……だけど、どうしても伝えたいことがあるので探しています」
切ない恋物語をでっちあげるには、恋愛経験が足りなすぎる。思いがけず本当のことを明かすかたちになってしまったが、きっとおかしいところはなかっただろう。
「……ふうん」
素っ気ない返事だが、納得はしてくれたようだ。どこか不機嫌そうに見えるのは、伝えたいことが愛の告白だと思っているからだろうか。
「そいつのこと、めっちゃ好きなんやなあ。妬けるわ」
どうやら思った通りだったようだ。
「しかも、そいつ美形っぽいやん」
「? そうですね。知的でとっても綺麗な人です」
「そりゃあ、俺は論外なわけや」
冗談めかしてそう言うと、エルはおもむろにマグカップを手に取って口を付けた。
「論外? どうしてですか?」
「メイちゃん、それを俺に言わせるんか?」
残酷なやあ、とエルが笑う。マグカップが静かにテーブルへと戻された。
「俺のこの
再び頬杖をつくと、彼は重たい前髪を軽く指先でもてあそびながら、首を傾ける。
「この前髪やろ? 火傷の跡やろ? 気味悪がるんが普通やと思うわ」
「……」
「あ、そんなにじっと見ても、これはポリシーやから絶対切らへんけどな! 俺の目を見たら、一回ごとにお金もらうで? それくらい澄んだ目しとんねん。実は」
あはは、とエルが笑った。
「やっぱり」
「ん? 何が?」
「きっと綺麗な瞳をしてるんだろうなって思ってたんです」
冗談にすり替えられてしまう前に、メイは
「エルさんは、まっすぐで、とても優しい人だから」
前髪に隠された瞳をじっと見つめる。エルが小さく息を呑んだ気がした。
「……俺は、優しくなんて――」
「それに、火傷の跡だって気味悪くなんてないです。エルさんが今日まで生きてきた証みたいな気がして、わたしは好きです」
「……好き……? 何、ふざけたこと言って――」
「ふざけてません」
エルの容貌を見て気味悪がっていた女性たちを思い出してしまったせいで、ついむきになった。
眉をつり上げたメイを見て、エルがやがて「はは」と乾いた声を漏らす。
「……変なところで大胆なんだな」
その時、ふいに周囲が騒がしくなった。
「――嘘っ! 本当に!?」
「本当だって! あ、ほら! きゃあ、こっちに来た!」
きゃあきゃあ、と黄色い歓声があがる。
エルが振り返るようにして舗道へと顔を向け、メイは小首を
「? なんでしょう?」
エルは何も答えない。
騒ぎの原因はすぐ明らかになった。金の装飾が施された白塗りの箱馬車が、舗道を駆けていく。
「きゃあ! ブルネット様よ!」
「こっち向いてー!」
よく磨かれた窓から、その人の顔が見えた。
首筋に沿って切られた黒に近い灰色の髪に、聡明そうな深緑色の瞳。すっと通った鼻梁に、形のいい唇。
まっすぐに前を見据えるその横顔には、
馬車と同じく白地に金の装飾があしらわれた立ち襟の上着をきりりと着こなした様は、まさに英雄だ。遠い距離にいるというのに、威風堂々とした雰囲気が伝わってくる。
(あれが、勇者……)
――天使を大勢殺した人間。
唇を噛みしめ、ぐっと拳を握りしめる。
女性たちの黄色い声を浴びながら、馬車はあっという間に見えなくなっていった。
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