3-4

 

 ほどなくして殿下たちの開けた穴は、人が一人通れるほどの大きさにまで広げられた。

 地面までは三メートル弱といったところか。

 足がかりもなく、飛び降りるにはちゅうちょしてしまう高さだ。

 操縦士がゴンドラの引っかかっている木の幹に命綱の片側をわえると、ギルベルト殿下はファルス殿下のこしもとに命綱を巻きつけ始めた。

「何をしている、ご令嬢方を先に」

 巻かれる傍から解こうとするファルス殿下の手を、ギルベルト殿下が阻む。

「下で支える者が必要です」

「それならば私でなくとも」

「兄様を失って、この国はどうなります……!」

 なおも言いつのろうとするファルス殿下だが、時間も煙も待ってはくれない。

「言い争っているゆうはありませんわ。お早く」

 ファルス殿下は私の横入りに苦い表情を見せたが、ギルベルト殿下の手を借りて下へと降りていった。

 次はエレノア嬢をと振り返ったが、なぜか殿下が私の腰にロープを巻き始めている。

 いやいや、何をしているの。エレノア嬢はヒロインだよ、未来の王妃だよ?

 エレノア嬢をさしおいて私が先になんするのはおかしいでしょうが。

「でん……」

「おまえが先だ」

 手を止めることなくがんとしてゆずらないギルベルト殿下に、先の自分の言葉が頭をかすめる。

 ヒロインより先んじていいのかと迷いはするも、言い争っている暇はないのだ。

 幸いにも煙は上空へとのぼっているが、いつ風向きが変わり、ゴンドラ内まで及ぶかもしれない。行動が早ければ早いほど、全員が助かる見込みが増える。

「エレノア様、……心苦しいですが」

 ゴンドラ内に残されて不安だろうに、エレノア嬢は健気けなげにもうなずいてみせた。

「私は大丈夫ですわ、お早く」

 ファルス殿下に下から支えられながらゴンドラから降りる。

 命綱を戻すと、すぐにエレノア嬢も下りてきた。

 ギルベルト殿下は操縦士を下ろした後、命綱も巻かずに飛び降りてくる。

 え、と思う間もなく、傍の地面に着地すると、ぐいと肩をかれた。

「すぐにここをはなれる。はぐれるなよ」

 ギルベルト殿下の先導で煙からのがれて木々の間を走り、開けた場所まで出る。

 殿下は皆がそろっていることを目で確認してからこちらへと向き直った。

「リーゼリット、どこにも怪我はないか」

 殿下が私の顔布をほどき、わずかな傷さえも見逃すまいとするのを正面から見据える。

「ええ。殿下こそ。一番長く上にいらしたでしょう」

 殿下の鼻口を覆う布を下ろして両手で頰を挟み、見分しやすいように固定した。

 どこを見るかって? もちろん、鼻の穴よ。

「お、っおい、何を」

 恥ずかしいのか、すぐに離れようとする顔を追って身を寄せる。

「っバカ、離れろ……っ」

「では動かないでいただけます?」

 密着を避けるためか、かたぐちに手を当てて突っぱねてくるため、に力がいる。

 顔の前を手で覆われないだけ、まだましか。

「……っ、み、皆が見ている、だろう……」

 こうに見えることくらい承知の上よ。だから何だというのだ。

 すす、なし。鼻毛のこげつき、なし。よし!!

 確認を終え、今度は殿下から良く見えるように、くいとあごをそらした。

「殿下、私の鼻の中も見てくださる?」

「はっ、はあ?」

「すすがついていないか、鼻毛がげていないかですわ。お早く!」

「?????? ………………っ、な……ないが」

 よし!

 こんわくまっただ中の殿下から手を離し、今度は近くにいた操縦士の顔を固定し覗き込む。

「な、何をなさいます、ご令嬢ーっ?!」

「おいぃっ」

 操縦士はおろか、背後でも何やらわめいているが、今は構っていられない。

 おっかなびっくり顔のエレノア嬢とファルス殿下の鼻も順に覗き込み、全員に気道熱傷の兆候がないことを確認した。

 はあ、まったくやれやれだ。

 あとは、喉がひゅうひゅう言い始めないことをいのるのみだな。

 喉のやけどによる気道きょうさくで息ができなくなっても、私では何もできない。

 ファルス殿下から手を離そうとして、顔に当てていた両手がぬるりとすべる。

 走った後の汗にしては量が多い。

 よく見れば殿下は息をつめ、何かに耐えるように自分の体を抱えている。

「どこかお怪我を?」

「いや、これは……」

 言いよどんではいるが、額にも汗がにじみ、無事でないことは明白だ。

「……っ、失礼します」

 一声断ってから殿下のジャケットに手をかける。

「リ、っ……リーゼリット嬢……っ」

 制止も聞かずに剝ぎ取る勢いでがすと、胸に大きな布が当てられているのが見えた。

 なんこうされていると思わしきその布に収まりきらなかったのだろう。

 布の周囲には青やむらさき、黄色をしたまだら模様の内出血こんが広がっていた。

「……見苦しいものを」

 痛々しいが、色から見るにこれは新しいものではない。

 原因は思い当たる。胸骨あっぱくをしたときにろっこつが何本か折れたのだ。

 薬はられているようだが、折れた骨がそのままでは響いて痛かろう。

 何かで締め上げるように胸部を固定できれば。……上からロープを巻きつけるか?

 でも、胸部全体を固定するには弱いし、締める力を分散させないと逆に痛めてしまう。

 テーブルクロスもマスク代わりに引き裂いてしまったし……。

 他に手ごろな布はと視線を巡らせ、今日のよそおいに行き当たる。

 ちょうどいいものがあったわ。長さもはばも、強度も十分。

 ドレスの腰元を飾るはばひろリボンをほどき、しゅるりと外す。

 ファルス殿下がぎょっとした様子を見せるが、それには構わず、胸周りへ渡してきつめに巻き、両端を結ぶ。手ごろな大きさの枝を結び目に通し、まんりきの要領で締め上げた。

「苦しくはありませんか」

「いや、大丈夫だ」

 深く呼吸をするのに問題がないようなら、締めつけ具合はこのくらいでいいか。

 殿下の短剣でリボンに小さな切れ込みを入れ、そこに枝の両端を通して固定する。

 多少穴が広がりはすれど、がしっかりしているため裂けてくることはないだろう。

 枝の先が直接肌に触れないよう位置を調整して仕上げれば、簡易バストバンドの完成だ。

「急ごしらえではありますが、これで少しは痛みが和らぐかと」

「息をするだけで痛みが走っていたのに、今は楽に息ができる。この顔の布も、なければ今頃はき込み苦しんでいたことだろう。感謝する、リーゼリット嬢」

 顔の布は気道熱傷防止だったんだけど……せきも防げたなら、なおのことよかったわ。

「お役に立てたのでしたら光栄ですわ」

 肋骨骨折の方は、そもそも私がいしだたみの上で胸骨圧迫を強行したからであって。

 素人しろうとさんいらっしゃい状態だったし。礼を言われるようなことではない。

 むしろ真実を告げられずにごめんね、との言葉をごくんと飲み込んだ。

 さて。幸い誰にも怪我はなかったものの、もうもうと煙を上げる木々をどうしたものか。

 私たちが着陸したのは、王城を囲う木々の中でも街にほど近い場所だったらしい。

 火事に気づいた誰かが呼んでくれたのか、消防馬車が放水を始めている。

 さわぎを聞きつけ、野次馬も集まり始めたようだ。

 火事現場は民家から距離があるとはいえ、……これは大問題だな。

 どこからどう見ても王家ようたしな、豪華な気球。

 明らかに王子としか思えない格好の二人に、はなやかな装いのご令嬢。

 女連れでゆうに遊んでいて火事騒ぎを起こしましたなんて、相当やばい部類のゴシップなのではなかろうか。

「王子が……」

「あれが噂の……」

 こちらを見てひそひそと話している人たちの声が漏れ聞こえる。

 ひええ、視線が痛い……、肩身がせまい……。

 どうしようね、これ。また陛下の呼び出し案件ですかね……。

「すまないが、後を頼めるかな」

 ファルス殿下は操縦士にひと声かけると、ギルベルト殿下の背に手を置いた。

 弾かれたようにファルス殿下を振り返り、私を見やったギルベルト殿下は、なぜか今日見た中で一番ひどい顔色をしていた。


◆◇◆


 きんきゅうとは思えぬほどの落ち着いた対応。言葉一つで周囲を動かす力まで見せた。

 とっぴょうもない行動には驚かされるが、兄の命を救ったばかりか、やっかいだった胸の痛みすら難なく取り去ってしまった。

 確信する。やはり、こいつをおいて王太子妃のうつわはいない。

 煙を見上げるリーゼリットとは対照的に、エレノア嬢は暗い表情でうつむいている。

 あの様子では、こいつが兄を救った本当の令嬢だと気づいたな。

 まともな神経をしていれば自分から身を引く。

 これでようやく、自然な形で兄からエレノア嬢を離すことができる。

 リーゼリットもこれから兄の人となりを知っていけば、あるべきところに納まるだろう。

 あとは兄が気づきさえすれば──俺はこの役目を終えられる。

 幸せそうに兄の隣に並び立ち、祝福の声を一身に受けるリーゼリットの姿を浮かべ、知らず眉根が寄る。

 まっすぐに俺を見るくもりのない瞳。心を許した者に見せる穏やかな笑み。

 照れてみせたり口をとがらせてみたりと、くるくる変わる豊かな表情。

 俺を呼ぶ声が、耳によみがえって……。

「あれが噂の、まわしき赤の王子か」

 えんりょな言葉に、ひくりと指先が揺れた。

 の目が圧をもって俺の身を包むのがわかる。

 優しい兄が、その目にいかりを滲ませるのも。

 いつのまにか野次馬が集まっていたらしい。これだけの騒ぎだ、当然か。

 今の言葉はリーゼリットの耳にも届いただろうか。

 あれだけくったくなく関わってきたのだ、あいつはきっと何も知らない。

 俺を見る目が翳ってほしくはなかったが、いつかは知れることだ。避けては通れない。

 ちりりと痛む胸には気づかぬふりをした。

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