藪の中 芥川龍之介

ノエル

事実はどこにも存在しない。本人の心のなかにだけある。

「一体、なんだって、あんな荒唐無稽な小説を書いたのかね」

わたしは、ちゃぶ台の前に座って煙草をくゆらせる芥川に向かって言った。その小説というのは、つい先ごろ、「新潮」1月号に発表された『藪の中』という短い小説だった。短いとはいえ、中身は読んでもよくわからない結構をしていたからだ。

「うむ」

彼は鼻の穴から太い煙を吹き出しながら、ため息を吐くようにして言った。が、そのあとに続く言葉はなく、わたしは一瞬、躊躇した。というのも、それ以上ものを訊ねるのはよくない気がしたからだ。だが、わたしの好奇心はそれを許さなかった。

「だって、そうだろ。あれは矛盾だらけの小説じゃないか。話の筋もあったもんじゃない」

「ふむ」

彼は人差し指と中指に挟んだ煙草を一旦、灰皿の上におき、短くなったそれを親指と人差し指の間に挟んで、一口吸ったあと、太く白い息を吐きながら言った。

「しかし、小説に筋が必要だという必然性もない」

「物語という限り、そこにストーリィというものがなけりゃならんと思うんだがね」

「いや、世の中、それほど合理的にできちゃいないさ」

「そうかな」

「そうさ。誰もそれほど合目的的に生きちゃいない」

彼は新しい煙草をひしゃげた箱から一本取り出し、それに火をつけて続けた。「だいいち、人間というものは、事実を認識できないようにできている」

「事実を認識できないって、そりゃないよ。もしそうなら、誰しも物事をすすめられなくなる」

「それが人間の傲慢というものなんだ」

「傲慢」

「そう。傲慢だとも。事実がほんものか嘘か、それは本人が決めているに過ぎないんだ」

「そういうものかね」

「ああ、そういうもんだ」

「では、訊くが、あの小説に出てくる女は、あれは文さんではないよな」

「文ではない」

「だとしたら、あれは例の……」

「どうしてそんなことが言えるんだ」

「そりゃ、わかるさ。こう見えたって、俺はお前の親友だ。お前がなにを思ってあの小説を書いたかがわかる。あそこに出てくる『多襄丸』というのは、「多情」に引っ掛けたお前の分身だ。欲情に燃えた自分を隠すためにもあの男が必要だった。つまりは、そんなにしてまでお前さんは、あの女が欲しかった。しかし、面と向かって自分がそんな低俗極まる、卑しいレヴェルの人間だと知られるのは願い下げ。つまり、作家の良心がそれを許さないってわけだ」

「なるほど、長年の『親友』である下種なお前さんの考えそうな捉え方だ」

「下種なもんか。お前さんには欲望があった。相手のある女をモノにするには、その相手を殺さなければならない。そうして本懐を遂げたあとには、その相殺としておのれを殺めるしかない」

「なにを莫迦なこと言ってる」

「お前さんは死にたがってる。病弱なのを建前に冒険を侵したくて、死ぬ前に本懐を遂げたくて、ある妄想を抱いている」

「それが、あの小説を書かせた本体だというのか」

「じゃないのか」

「馬鹿を言うな。俺はそれほど下種じゃない」

「では、なぜあの夫を殺した。小説家として、あの男を生かしておく手もあったはずだ。にも拘わらず、お前はあの男を殺した」

「一体、なにを言いたい」

「つまりは、あれはお前の遺書なんだ」

「遺書」

「ああ、遺書だ。お前は自殺を遠回しに宣言し、それを止める者を欲した。それの具体例があの小説だ」わたしは思わず語気を強めて続けた。「あの女との心中を果たせなかったお前の遺書、それがあの小説なのだ」

「お前の言わんとするのは、こうか。つまり、相手の女の気を惹いて我が物にし、そのうえで心中を図る。そのための前工作だと……」

「違うか。現実にはそれが果たせない。果たせないからこそ、お前はその事実を小説に仮託した。予言しておいてやろう。お前は、あの小説を最後に、二度とこの手の時代ものを書かない。その黒い心の歴史を永遠に葬り去るためだ」

「なんとでも言うさ。事実はどこにも存在しない。本人の心のなかにだけあるんだ」

「そうだな。俺にはわかる。お前の心の中には、黒い鬼が潜んでいる。もう二度とそれを暴きたくないのだ。残念ながら、な」

「暴きたくない、か……」

「そう、これを最後に封印してしまうことだな」

わたしはそう言い終えたあと、静かにその場を去った。そしてその数年後、何度も自死の真似事を繰り返し、本当にあの世へ行ってしまった。わたしは、あのとき、もっと強力に彼を叩きのめしておくべきだったのだろうか……。


出典 https://www.honzuki.jp/book/91535/review/258901/

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