僕らはそれを船旅に例えた

大路まりさ

第一章 船旅のはじまり

第1話 真鍮のお喋り


久しぶりに日の光を浴びたような気がした。

僕は一体、何年眠っていたんだろうか。


僕の体はすっかりと冷えきっていた。

体の節々もなんだかぎこちないような気がしたけど、まだ体を動かせる状態じゃ無かった。


「やあ、久しぶりだね」


声がした。

そこには、僕が知っているよりも少し歳をとった男性がいた。少し長めの茶髪に、穏やかな表情。


「やあ、久しぶりだね。君はなんだか老けたかな。」


僕は言った。

6年もの間、僕らは一緒にいたんだ。

しかし、時が経つうちになかなか会う時間が無くなってしまった。


「君が最後に僕を出して、何年経つ?」

「10年は経ったね。仕事が忙しくなってきたし、最近は他の奴らの世話でいそがしくてさ。すまなかったね。」

「少し腹が出たんじゃない?僕自身ははすっかり錆びた気がするけど。」

「中年太りってやつだね。さ、今日は君をお風呂に連れていかないといけないんだ。」


彼は僕を抱えて風呂場へと向かった。


彼は渡辺吟(わたなべぎん)。

彼は日本で活躍するトランペット奏者。


僕はBACH(バック)180ML37SP。

言わずもがな、僕はトランペットである。

銀色のボディに2本の支柱、学生からプロまで使用している人気モデルだ。


「最近はシルキーばっかり使ってたろ。なんで急に僕を呼んだんだい?」

「実は君に頼みがあって。」

「だったらもう少し優しくしてくれよ。僕の体はすっかり固まっているんだ。」

「ごめんごめん。とにかく、今日は風呂だよ。このままじゃ君を連れては行けないからね。」


僕の体はみるみるうちに解体されて、本体はすっかりと軽くなってしまった。

ぬるま湯につけられて、僕はブラシで体を擦られた。


「あのさ、僕らが初めて出会って、一緒にコンクールに出たのを覚えてる?」

「コンクールって吹奏楽コンクールのこと?」

「そうそう。君にまた舞台に上がって欲しくてさ、僕の教え子の元に連れていこうと思っているんだよ。」

「え、君が僕を誰かの元にって珍しいね。」

「だよね。あんまり一人に肩入れするのもよくないんだろうけどさ、伸びしろがありそうだから頑張ってもらいたんだよね。その子の相棒が随分使われたトランペットなんだよ。やっぱり部活で使われてるからか体に凹みあるし、だいぶ歳もとっていて悲鳴を上げていたんだよね。だから、僕の楽器を貸してあげようかなって。」

「学校なんだから他にも楽器あるんじゃないの?

それにその楽器だってきっと吹いてもらいたいと思ってるよ。」

「あるけどやっぱり手入れした楽器を使ったら気持ちも上がるでしょ。やっぱり公立の学校じゃなかなか綺麗には使い切れないし、いいものは買って貰えない。」

「僕じゃなくちゃいけない理由があるんだね」

「そうだよ。ブージーアンドホークスのとてもいい楽器ではあるんだけどね。」


吟は頷く。


「部活って年功序列であったり、出せる音域でパートを決められたりするような気がする。

その子はね、音域は狭いけどいい音が鳴る。ブージーももどかしいと言ってたんだ。それになんだか君と上手くいきそうなんだよね。君はきっと気に入るよ。」

「あ、わかった。奥さんに似てるんでしょ。女の子だ。」

「嫁に似てたらアルティザンを連れていく。」

「それもそうか。」

「まあ女の子で間違いないけどね。」


話をしているうちに、僕の体はどんどん綺麗になっていた。

久しぶりの外の空気、そして久しぶりの湯船。

しかも湯船にはブラスソープも入れられて、ゆったりと浸かることが出来た。


「僕はさあ、演奏して貰えるならとっても嬉しいんだけど、吟は僕と離れて寂しくないの?」


僕はアメリカの楽器の工房から日本へとやってきた。

それから楽器屋で僕の他に何本かのトランペットが並べられて貰われていくのを待っていたんだ。


その中から吟は僕を選んだ。

高校から大学を卒業するまで。ずっと一緒に過ごしてきた。


「寂しくないわけがないだろ。君が僕を導いてくれたのは間違いない。音大への受験だって決心がつかなかったけど、君が後押ししたんだから。」

「でも僕を他所へやるんだろ。」

「不貞腐れないでよ。君だから頼むんだよ。さあ、綺麗になった。」


話をするうちに僕はピカピカに磨かれていた。

いつも大雑把な吟が、綿棒やシルバーポリッシュを使って細かい所まで磨きあげた。

それで思い出した。吟は演奏家にならなければ、リペアマンになりたいと言っていたんだ。


「離れるのは辛い。でも彼女を後押ししてあげて欲しい。」


苦笑いをしながらそう言った。

丁寧に磨かれたボディは、まるで新品の頃のようだった。

それだけ綺麗にしていくならば、吟にも思入れがあるに違いない。


「吟、何かを思い出したの?」

「僕も君に出会うまで、音楽室にしまわれていた楽器を使っていた。

よく分からない練習も、理不尽な先輩からの言いつけも守って、口が壊れるんじゃないかと思うくらいい練習した。

今は音楽を仕事にできてよかったけど、大切なことをもっと早くに知っていたら、僕はもっと学生時代に悩むことも無かったかもしれない。

それを考えたら、彼女がずっと音楽を好きでいられるように助けてあげたいんだ。」

「・・・・そっか。僕は吟と出会ってからのことしか知らないけど、それでも君の苦労は知ってるつもりだよ。」

「君もだいぶ年季が入ってしまったけど、頼むぞ。」

「君に頼むと言われたら頑張るよ。」

「僕が吹き込んだ、僕の音が鳴る自慢なんだ。」


僕は綺麗に磨かれて、全てのパーツを組み立てられた。


「頼むぞ。」

「ああ。」


頼んだぞ、と声をかけられたあと、僕は再び眠りに着いた。

久しぶりに浴びた日の光は、悪くなかった。

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