跡白波に立つ

愛果

第1話 波音

 大学生活って、バイトしたり飲みに行ったり恋愛したりって感じだと聞いていた。

 実際、専門学校も大学も大して変わらないだろうと思い私は生物系の専門学校に進学したのだが、現実はそんなに甘くはなかった。

 一人暮らしをするにあたり、バイトをするのが絶対条件だったため、私は週に四回ほどペットショップでのバイトをしている。

 そして学内で飼育している生物のお世話や日々の勉強、実習の準備に記録……と目が回る程忙しい日々。

 正直心を殺して毎日を送っている。

 それでも私が毎日を頑張れているのは、家の近くにある海のおかげだろう。

 朝早く、登校前に海に寄り、一人きりで波の音を感じて流木に腰を下ろす。

 この時間が、苦しみだったり忙しさから解放され、まるで映画や音楽の主人公になった気になれるから好きだ。


 ある朝のこと。

 二年生に進級し、より一層忙しくなった私は初めてバイトをサボった。

 苦しくて苦しくて仕方がなかったわけではなく、なんとなく行きたくなかったのだ。

 激しく燃え上がるような不満もなく、ただただこの海のように静かに今日は行きたくないと思ってしまった。

 砂浜に赴き、いつも腰掛けている流木を探すが見当たらない。

 仕方なく浜に腰を下ろし、足を伸ばして海を眺めた。

 ざあぁ、ざあぁと寄せては返す波と漂着した貝殻や海藻。

 ここに流れ着いた命だった跡の多さに自分が生きている世界、感じている世界の狭さを知るのだ。

 鴉が緑の海藻をつつくのを見て、何の関連性もないのに自分がみじめに思えてくる。

 いつか私が死んだら誰かが悲しむだろうか。

 鴉につつかれて果てる命なのだろうか。

 そんなことを呆然と考えると今まで殺してきた心が急に騒ぎ出して、涙が止まらなくなった。

 私が流す涙も、海から見たらちっぽけなものだ。

 海の中ではもっと壮大で美しい命のやり取りが毎分毎秒行われている。

 私は、この世界の中のちっぽけな命であり、そいつが流す涙などもっとちっぽけなのだ。

 涙を抑える必要なんてない。

 ちっぽけなものだから、存分に泣こうか。

 そう思いつつも染みついた癖のせいで声を殺して泣く私。

 本当に、くだらない。


「大丈夫?」


 声の先に目を送ると、涙を流し座る私の横にかがむ美しい女性の姿があった。

 肩程までの黒髪はパーマっ気があって、ジーパンに白シャツというシンプルな格好ながらも美しく見える。

 目が切れ長で、薄い唇を少しだけにっと歪めて私を覗き込む彼女は、私の背中に手を回しさすりはじめた。

 初対面だということなどどうでもよくて、ただただその優しさに甘えてしまう私がいる。

 私が次第に声をだして泣きはじめると、背中をさすっていた手を私の頭へと乗せ、大丈夫だよ、と小さくこぼす。

 彼女に救われた瞬間だった。



 何分か泣いて、すっきりした私はありがとうございますと無理やり笑って見せた。

 そして私の心情を汲み取ってくれたのか、どういたしましてとだけ言って柔らかい笑みで返す女性。

 彼女は立ち上がって、海を見つめながら


「朝、たまにここに来てるよね」


 と言う。


「私、見られちゃってました?」


「うん、見られちゃってたよ」


「ここ、静かできれいで好きなんです」


「わかるよ、特に朝早いと陽を反射して波がきらきらしてるしね」


 お互い顔を合わせてにひひと笑い、私も立ち上がる。

 学校ではちびな私だが、このお姉さんは身長がなかなか高めだ。

 ざっと166、7はあるだろう。

 すらっとした華奢な体に、イルカの鳴く声のように高く凛とした声。

 モテるんだろうななんて思いながら海に視線を逸らした。


「この時間に来るの、珍しいよね」


「あ、えっと実は今日バイトサボったんです……」


 私が恥ずかし気を含んだ言い方をしたのがおかしかったのか、彼女は口を開けて笑い、


「そんな大犯罪犯したみたいな、あはは」


「でもきっと迷惑かかっちゃいましたし」


「いいんだよ、バイトなんだから」


「そういうものですかね」


「そういうもの、と思ったら楽なんだよ」


「なるほど」


「私、いつもあなたと入れ違いでここに来るの、だから知ってた」


「そうだったんですね、えっとお姉さんは……」


「紫野 波音(しの なみね)って名前だよ、お好きにどうぞ」


「波音、って素敵な名前」


「そうでしょ、ありがと」


「じゃあ波音さんは、なんで海に来るんですか」


「なんで、ってうーん、理由は特にないかな」


「そうなんですね」


「今度はお姉さん早起きしちゃうから、朝に会えるといいね」


「……はい! 」


 またね、と手を振り私の家と逆方向へ歩いていく波音さんを、見えなくなるまで目で追う私。

 まるで、高校生の時にクラスの男の子に抱いた憧れの様な、恋愛感情のような胸の高鳴り。

 次はいつ会えるかな、と楽しみになる自分に、今は目を背けてバイト先に謝りに行こうと思った。

 去る波音さんの後姿は、その瞬間この海の主人公のように綺麗で。

 また会う日が待ち遠しくて仕方なかった。

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