完璧な余白

ソーイング

 どこまでも完璧な青空に、ひとつだけ雲が残っていた。

 今朝、部屋の中に籠る、どこか陰鬱とした湿り気を追い出そうと窓を開けた時のことだ。

 

「律花。目、すこし腫れてない? ……失恋でもした?」

 静謐な朝。いつにも増して黙り込んでいた私に声をかけたのは、母親だった。

 コーヒーのなみなみ入ったデカンタを片手に微笑む彼女は、特にこの朝に、なんの変哲も見出していない。その事実が、私の心につかえた。

「別に」

 私が短く言葉を返すと、彼女は私の目に対する興味を失ったようだった。それ以上会話を続けることもなく、コーヒーをカップに注いでこちらの手元に置くと、今度は向かいの父のカップにデカンタを傾け、冗談の一つも交わさずにその場を離れる。

 今朝の朝食は、納豆と白米と味噌汁にサラダ。

 思春期の発育のタネとしては、いささかタンパク質に欠ける献立だった。

 特段感動も無く、もそもそとサラダを口に運び、ずずずと味噌汁で流し込む。喉を通るのは、いつも通りの出汁と躰にいいらしい紫蘇ドレッシングの混ざった味。

 こんなにもつまらない朝食なのに、誰も文句を言わない。


「いってらっしゃい。気を付けてね」

 ドアと連動している録音ではないかと疑わしき母親の声を背に浴びて、私はようやく、忌々しいモーニングルーティンから抜け出した。

 午前七時半の通学路は雨もなく、いつもなら、まあまあマシな朝の出だし。

 バス停までの道すがら、はてさてと今日の予定を考えるところ。

 大通りに出て、日陰になっている街路樹の下で足を止めて、

「――ふぅ」

 溜め息を吐いた。

 最近はいつもこうだ。いつも通りに、つつがない日々を送っているはずなのに、ふと気がつけば、心の隅に言いようのない焦燥感がある。

「夢ってことになんないかな、これ」

 朝一番に飲んだコーヒーの味を思い出しつつ、私はまた、バス停への道を歩き始めた。


 今日から数えて十二日前に、世界は荒廃を始めた。

 そう言っても過言ではない。

 焦燥感はそのせいだろう。ゆっくりと軋み始めた現実に、意識が悲鳴を上げているのだ。今は現実から空想への過渡期で、だから、ありもしない現実の幻視が映るのだ。

 見知らぬ誰かの温もりが残る座席に背を預けて、私はそう結論付ける。

 そう、十二日前だ。思い出した。

 確かあれは、母親が二階の物置に――

「となり、失礼しますよ」 

「あっ、はいっ。どぞ……」

 突然、隣からかかった声に、私は思わず体をこわばらせて答える。

 見れば老婦人がよいしょと同じ座席に収まって、手提げを膝に乗せた所だった。

「学生さん?」

「え、あ。ハイ」

「そう。見覚えがあったから話かけちゃった。あなた、たまに商店街とかで見かけるわ」

「あ、はい」

 特に会話が広がる訳でもなく、二人揃って見合い、しばし間が空いた。

「あ……ごめんなさいねぇ、なんかこう、話さなきゃーって思ったのよ」

「はぁ」

 釈然としないままに相槌を打って、お互いにやはり気まずくなる。

 結局、老婦人は二つ先のバス停で降りて行った。

「……なんだろ」

 丸まった彼女の背中が、ゆっくりと前の方から出て行くのを見送って、私はぽつりとそう漏らす。

 歯痒いというか。

 見知らぬ老婦人に対して抱く感情がなぜそれなのかは分からなかったが、確かに私はそのとき、彼女に対してままならぬ気持ちを抱いていた。

 ひとりでにドアが閉まって、バスが息を吐く。

 それから三つのバス停の間、隣には誰も座ってこなかった。


「ということで、私は今悩んでいます」

 屋上。青空。千切れた雲と、錆びた手すり。

 またしても空を眺めながら、私は呼びつけた先輩にそう言った。

「つかさ。なんでそんな話をウチにすんのよ。学年も部活も違うウチに」

「そう言えばなんででしょうね」

 少しからかいたくなって、はぐらかすように私は笑う。

 先輩は髪を根本から金色に染めた、所謂不良だ。耳にはピアスの穴が残っているし、昔は制服だって着崩していた。いい子ちゃんの私とは違う。むしろ対極の存在だった。

「いや、呼ぶかフツー……。ちょっと知り合いで、連絡先知ってるってだけだろーに」

 呆れ顔で鉄柵に肘を乗せて頬杖を突く先輩は、どちらかというと不機嫌らしい。

 なんとなくそうだとわかった。

「たとえば、の話なんですけど。十二日前に世界の分岐点があったとして」

「スゲェたとえばだな。現実離れの勢いがエグいな」

「まぁまぁ。そこから世界はちょっとずつ変わっていくんですよ。毒とか出血みたいにじわじわ広がって、躰を蝕むんです。でも死ぬほどじゃないから。尚のことたちが悪いって言うか――」

「律。お前、アレだろ。自分でもよく分かってねぇんだろ。言いたいこと」

 こちらの言葉を遮るような指摘に、私は平静を取り繕った。

「まあ、そうとも言います。図星と読みます」

「開き直るな。全く、そう言うところはホント――」

 まるで何かに気付いたように、先輩はそこで言葉を止めた。

「先輩?」

 私は首を傾げて、彼女の顔を覗き込む。

 先輩は、無意識なのか、おもむろに右手をすっと指先から、正した襟元の裏へと差し込んで、確かめるようになぞり、

「……まさかな」

 どこか安堵したように、その手を引き抜いた。

「なにが、まさかなんですか?」

「なんでもねぇよ」

 私の問いに、先輩は顔をちらと背け、人差し指で自らの顎をなぞる。 

 間違いない。彼女は今、その下に何かあるんじゃないかと想像したのだ。

「ところでさ、律」

「はい、なんでしょう。先輩」

「……アンタさ、親が仲悪かったりする? よく金のことでモメたりとか」

「いえ、特には」

 私の返事に、そっか。と先輩は素っ気なく頷いた。

 



 私の悩みは、極めて単純な、思春期にありがちなものだ。

 それはたとえば、母に対して「弱い人だ」と呆れることであったり、父に対して「身勝手な人だ」と憤ることである。身近な人間への卑下はつまり、反抗期というのだろう。

 だが、私にとっての問題とは、感情に対する疑問だった。

 なぜ母は「弱い人」になったのか、父は「身勝手な人」にされたのか。所感に至る導線が、どうしても記憶の中に紐づいていなかったのだ。

 嫌悪は好感とは違う。

 決定的な出来事がなければ、他人への評価がマイナスになることなどない。

 だとすれば。私はいつ、そんな転換点となりえる衝撃的な体験をしたのだろう。

 足元がぐらりと揺れて、視界の端の景色が止まる。珍しく乗った電車は、相も変わらず息の詰まるもので。少しだけ低いホームの床に踵をつけて、私はようやく溜め息を吐いた。

 これから、他人の住まう居心地の悪い場所に帰るのだ。彼ら夫婦を他人と決めつけているのは私だが、こうして考えを整理した後だと、それは未知への恐怖と改めた方がいいだろう。

 私の家族は、どこかでよく似た経歴の他人とすげ替えられたのだ。

 いつものバス停を過ぎて、大通りから住宅街に逸れると、もうだいぶ人を感じる音は耳に入ってこなくなった。このあたりには学校もないせいか、すれ違う人もいない。小さい頃の遊び場だった公園を横目に、併設されている幼稚園を過ぎれば、もうすぐ家の前だ。大手住宅メーカーのカタログと瓜二つの我が家が、目の前に表れる。

 見上げた窓曰く、母は今、家にいないらしかった。

 私は速やかに鍵を回してノブを引き、脱いだ靴を揃えて階段を上がる。二階には三つの部屋があって、ひとつは私の部屋で、それを挟むように物置があった。どうして真ん中なのかと言えば、唯一エアコンが付いていたかららしい。

 部屋に入った私はまず、鞄を投げ出した。制服を脱ぎ散らかして、下着姿のままでベットに腰を下ろし、そのまま背を倒した。投げ出された上半身が、少し湿気ったシーツに触れて、その冷たさと浸みこんだ自分の匂いを、私は存分に堪能する。

 こうしている間は、誰も私のことを侵す余地はないし、私が私であると認識もできた。二週間に渡る家族という他人への線引きは、やがて私そのものの境界さえあやふやにしたときがあった。私の領土は、このベットの上くらいだった。

 布団の端に追いやっていた掛け布団を掴み、私はそれを抱くようにして躰を布団の中に沈めた。口元へと当てた布団の中で呼吸をすると苦しくて、私の匂いに包まれた。

 酸欠の苦しさは、私に自傷的な快楽を与えた。

 別に、自分が好きなわけではない。それしか逃げ場がなかったのだ。

 

 母親が帰ってきたことは、下の階から響いた玄関のドアの音で分かった。

 私はそっとベットの上で身を起こし、はらりとはだけた布団に構うこともなく目を擦る。

 窓の外からは、西日が差し込んで、焼きつくように壁と床に映っていた。

「律花ー。いるー?」

「いるー」

 下の階から響いた母の声に、私はなんとか聞こえる程度の、間延びした声を返す。

 これも、最近の違和感の一つだ。

 一週間程前から、母は私の有無を確認するようになった。それまでは、お互いにもっと無関心でいたのだ。少なくとも、

「買い出し、行ってくれない? 母さん、いくつか忘れちゃって」

 などと、部屋のドアを開けて言うような間柄ではなかった。

 うまくは言えないが、もっと他人行儀だったはずなのだ。

「だらしない格好ね、はしたない。お父さんが見たら悲しむわよ。頑張って育てた子なのにって」

「……別に。いいでしょ、家だし。私の部屋だし」

 母親が文句を言うのに、私は被せるようにして反論して、その手からメモを奪い取った。

「お金は」

「後でね。レシートで精算するわ。無用に小遣いを渡すなって言われてるのよ」

 お父さんにね、と母親は付け足した。

 母親は父をよく立てる。所謂、絵に描いたような良妻だ。家計簿は彼女が付けて、父がそれを確認するというこの夫婦の決まりごと一つ取っても、その関係性が見て取れた。

「じゃ、遅くならないうちによろしくね」

「うん」

 私は素直に頷いた。母親はそれに満足したのか、ドアを閉めて階段を降りて行く。

 手元のメモには、物忘れでは片付けられない量の食材が書き連ねてあった。

 

 服は、なるべく地味なのを選んだ。

 具体的に言えば、胸元に英字の綴られたベージュのパーカーに、すとんとした黒のズボン、あと白っぽいスニーカー。ずぼらとカジュアルの中間のような服装である。

 いかにも平凡な格好をして、すぼんでいく夕暮れの下を一人、駅前のスーパーに向かう。すれ違うのは、買い物帰りの主婦と、ランニングのおじいさんと、学校の上級生。

 私はそっと首うしろのフードに手を回して、俯くようにフードを被る。会いたくないのは、数人の顔見知りだった。

 断じて言うが、私は別に人見知りではない。

 誰だって、馴れ馴れしい他人とは会いたくないだろう。この世がおかしいのか私がおかしいのかは知らないが、抵抗ぐらいはさせて貰うつもりだった。

 神々しいほどに明るいスーパーの入り口を跨ぎ、開いていくガラスドアを横目に中に入ると、鼻先にぷうんと香ばしいトンカツの匂いが漂ってきた。見ればすぐ左手のコーナーに、照明の光をたっぷり吸い込んだ黄金色の衣が、ずらりと並んでいた。

 私はつい、なんの気もなしにそちらへ赴く。間違いない、揚げたてだ。近づくとその油の香りはなお一層鼻腔に心地よく吸い込まれ、胸をいっぱいにした。

 近づいてみればこそわかる、この衣の完璧さ。毛羽立つようにぴんと張った衣は、ほうばった時にザクザクと愉快な音を立て、その奥に隠された柔らかな肉を際立たせるのだろう。ソースは中濃を選びたい。肉と衣、それぞれが中庸に交わり、一つのおかずとして完成に至るには、やはり濃厚で甘く、深みの中に酸味の住まう、あのこげ茶のソースでなくては駄目だ。肉に心ゆくまでかけ、炊きたての白米と、暖かく具の少ない味噌汁と共に、全てを一口にガツガツと食べる。そこに体裁などあってはならない。唇が油でツヤつくことも、翌日の体重計のことも、考えてはならない。

 だが生憎、トンカツは母親からのリストには載っていない。私は少し、残念がりながら……と、そこまで考えたところで、ふと思い至った。

 確か、私はそこまでトンカツが好きではない。特段嫌いという訳でもないが、油っぽい肉の塊をガツガツと食べるなど、恐らくしたこともないだろう。そのはずだ。

 では何故、今、私はこの馬鹿馬鹿しい程に明るい惣菜コーナーに立っているのだろう。

 いつもの違和感が私を襲う。誰か知らない他人の感情が、感覚が、私を蝕む。

 生理痛にも似た、じくじくとした痛みが下腹部に走り、次いで吐き気がこみ上げてきた。ここ数日もこんな感覚に襲われることはあったが、こうまで強烈なのは初めてで。

 思わずふらりと倒れこみそうになった私の腕を、誰かが掴んだ。

「大丈夫か?」

 聞き覚えのある声。フードのせいで視界には収まらなかったが、誰かは分かった。

「……先輩」

 波が引くように落ち着いた私は、ようやくそちらに振り返る。

 そこには確かに、金髪でどこか粗暴な印象の、見知った顔があった。

「偶然見かけたんで、つい気になってよ。昼のことがあったし」

 少し決まりの悪そうにそう言う先輩は、私の腕を掴んだままの手とは逆の腕に、買い物籠を持っていた。

「いえ、助かりました。突然、くらっときちゃって。……あはは」

 先輩の腕を払って、取り繕うように私は笑う。

 だがそれが続いたのも、先輩の次の言葉を聞くまでだった。

「もしかして。なんだけど、アンタも違和感があったりする?」

 息が止まった。

 張り付いた笑顔はぱらりと剥がれて落ち、動揺も隠せない程に、目を見開いてしまった。

 緊張だろうか。喉奥から聞こえる呼吸の音がやけにはっきりと耳に残って。

「……え?」

 つう、と目から涙がこぼれていた。

 そう大した量ではない。ほんの少し、加減を間違えた程度の雫が、頬を伝って首筋に消えた。

「ちょ、なんで泣くし。……ああもう。いいからここ出るよ。アンタ何も持ってないよね、ウチ、レジ済ませてくっから、外で待っとき」

 珍しく慌てる先輩に、私はぐし、と鼻をかんで、子供のように頷いた。

 頭の中がぐちゃぐちゃで、そんな自分が衆目を集めるのも耐え難くて、私はそっと、先輩の言う通りに、入り口のガラスドアから外に出た。

 外はもう真っ暗で、背中にスーパーの明かりを受けながら、少し端の方で待っていた。

「お待たせ。ごめんな、あーしんち、シングルだから、買い物しなくちゃなんだ」

 嫌味なくにっと笑って、出てきた先輩は両手に下げたビニール袋を掲げる。

 そこには確かに、肉類のパックや野菜のものと思しき凸凹ができていた。

「はいこれ。アンタの」

「え」

 唐突に差し出されたビニール袋を前に、私は困惑した。

 すると先輩は、少し得意げな顔をして。

「メモ、落としてたぞ。そう量も無かったから、適当に揃えといた」

 私は驚いてポケットをまさぐる。確かにメモがなかった。

「……すいません。その」

 右手でビニール袋を受け取る。気恥ずかしさもあいまって、私は俯いた。

 思えば、こうも人に弱いところをさらけ出すのは初めてだった。

「いいって。あのまま買い物ってワケにもいかんかったろーし。んで、さっきの話の続き、してもいい?」

「はい」

 私が消極的に頷くと、先輩は少し、思い出すように話し始めた。

「ウチもさ。謎だったんだよね。今日の昼、なーんでアンタのとこに行ったんだろうって。階段降りたあたりから考えて、んで、気づいた」

「気づいた、って。何に?」

「律さ、誰かに似てんの。どうもウチはそいつのことを忘れてるっぽいんだけど。『律がそいつに似てる』ってのは忘れなかったっぽいんだよね」

「はぁ……」

 先輩の荒唐無稽な話に、私は釈然としないまま相槌を打った。

「さっきンだってそうだろ。アンタの後ろ姿、誰かに似てたんだ。んで気になって見てたら、律、アンタだって気づいた。まあ、倒れるのは予想外だったけどさ」

 言われてみればそうだ。と納得して、更に気付く。

 律。という呼び名だ。

 先輩は当然のように私をそう呼ぶが、よくよく考えればそれは奇妙だった。

「でも、誰か、って誰ですか。友達とかですか」

「ん。そだな。まあ、アンタとの共通点って考えれば……」

 先輩は、ちらとこちらを見て、私をつま先からつむじまで、じーっと見ながら考えて。

「姉。かな」

 と、断定した。

「お姉ちゃん、ですか……」

「どーよ、ピンときた?」

「半信半疑です。とりあえず、家に帰ってみないことには」

 そう言って、私はスーパーのガラス壁から背中を離す。これ以上話し込むと、母から督促の電話でも入りそうだった。私が解散の意思を表明すると、先輩も理解してくれたようで、その場から背を離すと、

「それもそーか。んじゃ、ほら」

 なぜかおもむろに、私に右の手のひらを差し出してきた。

「……なんですか、その手は」

 握手でもしようと言うのだろうか、私が不思議そうにしていると、あれよと言うまに左手を握られてしまった。

「ちょっ、何を」

「んー? いや、もしかしたら寂しいかなーって。そう思っただけ。いや、あーし一人っ子だから、よくわかんないんだけどさ。姉妹って手ェ繋ぐもんだろ?」

 気恥ずかしさで固まる私をよそに、先輩はまた、子供のように笑った。

「なんですかその偏見は……仮にそうだとして、高校生にもなってそんな」

「いーから。とりあえず握られとけって。行くぞ」

 ぎゅ、と私の手を引いて、先輩は先を歩き出す。

 先輩の手は、少しかさかさしていて、それでも暖かかった。

「どした、目ぇそむけて」

「恥ずかしいんですよ。ただ単にものすごく……」

「思春期だな」

「端的な羞恥心です」

 しかしなぜか、私は先輩の手が離せなかった。

 往来は電車の合間のタイミングだったのか人通りも少なく、ずっと私と先輩の二人だけだった。他には誰もおらず、薄ぼんやりとした街灯だけが、点々と繰り返し過ぎていった。

 大通りから住宅街に入ったところで、先輩がぽつりと呟いた。

「仮に、さ。消えたのがアンタの姉だとして。どうして消えたんだと思う?」

 私は、何の気はなしに答えた。 

「さぁ、嫌だったんじゃないですか、この世界とか。消えちゃいたかったんじゃないですか」

「そっか。……まあ、そんなとこだよな。たぶん」

 それ以上拘ることもなく淡白に、先輩はそう呟いた。

 それからすぐ後に、先輩とは家の前で別れた。




 家に帰ってすぐに、私は自分の部屋を漁り始めた。

 母親は何か小言を挟んで来たようだが関係ない。覚えていないのか耳に入らなかったのか、とにかくその程度のことだったのだろう。

 可能性のありそうなものは片端から調べた。アルバム、絵、日記、作文。

 そして、その全てに恐るべき発見があった。

 居るのだ。

 私に少し似た他人。私より少し年上の、誰かが常に、我が物顔で家族の輪の中に描かれている。写真の中の家族もクラスメイトも、その距離感に誰も異常性を感じてなどいないようだった。

 誰だ、という疑問に答えは出ている。だが、感情はそうもいかない。

 その女が写っている写真のどれも、私は気味が悪いとしか思えなかった。

 その事実に、思わず私は言葉を漏らす。

「……成程」

 つまり、おかしいのは私なのだ。今の私なのだ。

 写真を見つける度に、その中の誰もが、私を嘲る。その中にある完璧な家族が、私を苛む。これでやっと納得がいった。私が家族や、周囲の生活に対して感じていた感情の中にあった空白は、全て姉だったのだ。

 なぜ、誰も朝食に文句を垂れないのか。

 なぜ、バスの中で老婦人が話しかけてきたのか。

 なぜ、私は両親を理由もなく蔑んでいたのか。

 なぜ、先輩が私のことを律と呼ぶのか。

 全て納得がいった。答えが出た。

 そして最後に、私は見つけてしまった。自分がまだ、幼かった頃の作文。

 そこにはたどたどしい文字で、私が綴った言葉が残っていた。

 

「わたしのかぞく  二年B組 しのざきりつか

 

 わたしの姉は、完ぺきなおねぇちゃんです。

 わたしにつらいことがあってもなぐさめてくれるし、お父さんとお母さんの口げんかも仲直りさせてくれます。わたしはおねぇちゃんの、そういうところをそんけいしています。おねぇちゃんは、べんきょうもよくできます。この前も、お母さんにじまんの娘だとほめられていました。

 でも、わたしが一番すきなのは、おねぇちゃんがやさしいところです。この前、おやつでだいふくが一つあまったとき、おねぇちゃんはわたしにくれました。トイレそうじをてつだったときも、ポッキーをくれました。毎日、朝になるとおこしにも来てくれます。お母さんがしてくれない、ひざまくらもしてくれます。おねぇちゃんのひざは、少し小さいけど、でも、わたしはおねぇちゃんの方がすきです。

 わたしの目標は、いつかおねぇちゃんみたいに、すばらしい人になることです。」

 

 読み終えてすぐ、私は脱力するようにその作文を投げ出した。

「……餌付けされてるだけじゃん」

 小学二年生の律花は、一体どういう気持ちでこれを書いたのだろう。

 もう何も思い出せなかった。

 せめてもの慰めのつもりで、私はアルバムを再び開く。当時の写真を見れば、どうにかなるのかと思ったのかもしれない。

 そして、その写真を見つけた。

 たぶん一つか二つ上の少女が、幼い私と手を繋いでいる。

 私も彼女も、にこやかに笑っていた。幸せそうに、これから先に起きる事なんて、何も知らずに笑っていた。

 途端、私は私の中に、決定的にこみ上げるものを感じた。

 それは幾度となく感じてきた、どうしようもないほどに気持ち悪いという、感情だった。

 私は爪を噛んだ。それは無意識のうちの行動だった。

 そして、思いついたように、携帯電話を取り出して、登録されている連絡先の一つを呼び出す。

 コールが二度鳴ったあと、彼女は電話に出た。

「もしもし」

 記憶にない、感情の薄い女性の声だった。

「……あなたは、どなたですか?」

「赤の他人ですよ。篠崎律花さん。あなたともあなたの家族とも、何の関係もない他人です。すでにね」

「おねぇちゃん。ですよね」

「ええ。そうでした。でも私は、それでいることに耐えられなくなったのです。この番号に辿りついたということは、あなたは『ものわすれ』からは脱したのでしょう。けれど、記憶の余白が治ることはありません。知識は取り戻せても、思い出は取り戻せないのです」

 淡々とした言葉の羅列に、呑まれかけた私は抵抗した。

「そんなこと」

「現に、私は全てを失いました。それが代償というものです。ですから私はもはや、あなたに同情しているのですよ。篠崎律花さん。私の妹だったあなたは、私のせいでずっと、日陰にいたのです。あなたも私を、恨んでいたのですよ」 

「うそ……」

「事実です。あなただけではありません。あなたの家族も、私のせいで、苦しんでいたのです。父親が見栄を張って通わせた塾。母親がどうしてもと勧めた習い事のピアノ。書道。その為にかかった費用で、あなたは志望していた大学を変えました」

「そんなことない! 私は、そんなの知らない!」

「それも忘れているのですよ。だって幸せな家庭には、不必要な出来事ですから。そも、私という原因がいなければ、悩む必要のない出来事です。あなたはこれから、好きな大学に行って、幸せな人生を歩むといい。それがあなたの姉が身勝手に望んだ、あなたの為に出来ることです」

 徹底した彼女の言葉に、私は呆然とした。言い終えた彼女はその後、受話器の向こうでずっと黙っていた。

 それはまるで、台詞を失念した演劇のような空白で、舞台の上で一人、私は言葉を思い出そうとしていた。尋ねなければならない。そう理解していた。

「……あなたは。あなたは私のことが、好きでしたか?」

 珍しく、すぐには言葉が帰ってこなかった。

 驚いているのだろうか、呆れているのだろうか、しばらくして、すっと息を吸う音が聞こえた。

「ええ。あなたの姉は、あなたのことを、愛していました。たとえ恨まれていようとも。これから自らが消えるとしても、あなたの為に、他の全てを犠牲にしました」

 それが、事実だった。

 今度こそ、本当に何も言えなくなって、私は携帯を取り落とす。

 私のせいだったのだ。私のせいで優秀な姉は死に、抜け殻となったのだ。

 喉の奥からこみ上げてきた嗚咽に、私は口を開けて、喉を手で締めた。なんでもいいから吐き出したかった。吐き出して、楽になりたかった。けれども、渇いた喉からは掠れた声以外の何も出てこなかった。

 

 私は立ち上がり、携帯を持ったまま、ふらふらと部屋を出た。

 二階の廊下には、三つの部屋がある。一つは物置、もう一つは私の部屋。そして、一番階段に近い最後の部屋、私はそのドアノブに、手を掛ける。

 どこまでも完璧な生活に、一つだけ違和感が残っていた。

 それがどうして気になってしまったのか、今では思い出せない。

 

 

 

  

    

  

 

 


 

  

 

 

 




    

   

  


  

 

  

 

 

 

 

 

  

  

 

  

 

 

 

 

 

   

 

 

  

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