5

 アスファルトには人の形の白線が引かれている。血の跡が乾いた地面に沁みていた。


 俺の両手足は冷たく、微かに震えていた。俺の手には硬く重たい鉄の塊が握られている。


 俺は夢を見ているのか。


 空は晴れ渡っているのに俺の胸中はどんよりと重苦しい雨雲みたいになっていた。


 正しくその日だった。俺の世界が決定的に変わってしまった日。裏と表がひっくり返ってしまった日。


 俺はずっと、まだガキだった頃から世界から自分自身を、自らの心や、愛を、守ってやらなきゃならなかった。


 だから俺が殺したそいつがどんな人生を送ってきたかとか。


 そいつに母親がいて父親がいたんだろう、ということとか。


 一瞬驚きと恐怖と憤怒の入り混じった眼をした後、縋るような目をしてきたこととか。


 俺が震える手で二度目のトリガーを引いたその直後に断末魔のうめき声をあげ、ぴたりと動かなくなったこととか。


 だからそれらは全部、なにもかもどうだっていいはずなんだ。


 だって、人間はいつか死ぬんだし人から死ぬことを望まれる人間にだって非があるんだ。何より俺は心からそいつの冥福を願っているし、俺はそんな、見ず知らずの他人の死によってこれまでだって充分に罪の意識で苦しんだんだ。


 世界はいつまでたっても俺が望んだものをくれないから、俺は自分の嫉妬や醜い感情が自分の心を壊してしまう前に、それらを必死で手に入れようとしていただけなんだ。


 俺は頑張ったし努力をした。その結果行きついたものがドラッグでエクスタシーでPNPだったんだ。


 そして世界は今日も終わらない


 …なぜ誰も俺を罰しない?


 なんで誰も俺を殺さないんだ?


 なんで…


 ・ ・ ・


 ベッドの上で目を覚ますと腰に引き攣るような痛みが走った。


「痛っ……クソっ……めちゃくちゃにヤりやがって……」


 俺のすぐ横で麻薙は無防備な寝顔を見せていた。


 いつもは結わえている長髪が枕にビロードみたいに広がっている。


 麻薙は流石に疲労困憊なのか、すやすやと安らかに眠っていた。


 …こいつは俺が人殺しだって知ったらどう思うんだろうな。


 ブローカーなんてやってるくらいだからそんな話にはそこまで驚かないだろうか。そんな考えが一瞬浮かぶ。


 …でもこいつはおれとちがって聡いやつだから。


 そういうヤバいこととは関わらないように静かに距離を置くだけなんだろうな、きっと。俺達の”こういうこと”なんて、初めから何もなかったみたいに。


 俺のカバンの中のスマホが鳴動する。反射的に手足がすっと冷たくなる。


 俺は音を立てないように慎重にベッドから這い出る。身体が、腰から下が思うように動かず焦りを感じながらバスルームに何とかたどり着くとドアを締め切りスマホの通話ボタンを押した。


「もしもし藤生?今いいよな?」


 奴賀の声が耳元で聞こえる。冷たい金属で突き刺されたみたいな重い緊張感が一気に身体を支配する。


「お…はようございます…」


「ひょっとして寝てた?まあ昨晩はお楽しみだったよな」


 一瞬驚きで心臓が跳ねた。まさか自分が誰とどこにいるのかすらこいつには知られているのだろうか?


「あんな量じゃお前足りないだろ?エクスタシー。ははは」


 だが奴賀はクスリのことを言っていたのだと分かって安堵したのもつかの間、俺の心臓は大きく跳ねた。


「今晩決行することに決まったんで連絡した。待ち合わせは新宿駅西改札。絶対来いよ」


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る