ぞんざいたる所以
狐火
第一章
滝沢ひばりという女
パッヘルベルのカノンをアラームの音にしているこの女は、自分が美しい人間であるとすました顔で断言でき、懐疑論で有名なヒュームの存在を無に帰せるような女であった。その女の名は、滝川ひばり。都内私大に通う女子大生だ。
彼女の見た目の美しさは大学内でも有名で、彼女の歩いた道には薔薇が咲くと言われるほど、彼女の崇め奉られ方は異常であった。それを良く思わない人間もいて、そしてその人たちの非難が正当化されても致し方ない程、ひばりは男を弄ぶいたずら猫のようだった。
起床一秒後でも並みの女のフルメイク姿に劣らない見た目で、ひばりは自分の家のポストへ向かう。そして一通の手紙を持って部屋に戻ってきた。ご機嫌な様子でひばりはそれを開封し内容に目を通す。
『拝啓
貴方と過ごした春の温かさに気が付く間もなく、いつの間にか夏になりました。貴方が連絡もくれず姿も見せてくれないせいで、僕は真夏の日差しを全身で感じてしまいます。
貴方のせいで受ける苦しみだと思えばこれも又幸せと思っていたのですが、先日貴方がどこの馬の骨かもわからない男と歩いているのを見かけてから、僕の身体は生きることを拒否し始めました。
嫉妬とは、痛くて重い物ですね。軟弱な僕には到底持ち続けられるものではありません。貴方の笑顔を見ることのできない僕は、酸素すら自分の敵のように思えてきます。どうか、貴方に会うチャンスを下さい。又僕の隣であの甘い声を聞かせてください。
それが出来ぬと言うなら、僕は死にます。僕の命を懸けて、貴方を愛しているということを貴方に知らしめたい。
貴方に触れる男ども、貴方に好きだという男どもを道連れに、僕は死んでやりたい。けれどそれでは美しい貴方に返り血が付いてしまう。それは何としてでも避けたいのです。
どうかまた、僕に一目会って下さい。
敬具
早川聡』
ひばりは恍惚な笑みを浮かべ、手紙に鼻を近づける。インクとお香の混じった匂いに肩を震わせ、甘い声を漏らして伸びをした。その様子はなんてすがすがしい朝だと言わんばかりで、ひばりは薄紅梅の唇で手紙にキスをする。
手紙を机の上に置き、ひばりはお気に入りのアークロイヤルという煙草をふかす。優越感に浸り窓際に腰かける姿はどこか哀憐という情を感じさせ、部屋の角を流し目で見つめる姿はこちらの視線を自然とうなじに誘導した。
長い髪を右肩にまとめ垂らしたことで露わになるうなじは、後れ毛によって一際艶やかさを醸し出す。指で撫でることを許されるならば体中の神経が指先に集まってしまうのではないか、そう思わせるほどひばりのうなじは情欲的で柔らかそうであった。
自殺をほのめかす手紙を受け取った人間とは思えないほどひばりは冷静で、むしろ今の状況を楽しんでいるかのようだった。肺まで行き届かせた息を、もう一度体外へ放出する。きっとひばりの脳内は早川が自分を想い命まで落とそうとしている、そんな唯我独尊に似た自惚れでいっぱいだ。
それは一種の快楽であり、ひばりを勘違いの沼へと沈める。今の気分にぴったりな音楽でもかけようか、とひばりが煙草を片手にスマホに手を伸ばした瞬間、狙ったかのようにスマホからチープな着信音が鳴った。
怪訝な顔をして冷たい眼差しをひばりはスマホへ向ける。そして煙草を咥えスマホを手に取りディスプレイをじっと見つめた。
タバコはひばりの豊満な下唇に乗って先を赤く染める。敢えてひばりはその電話には出ず、画面が暗くなるまでスマホを見続けていた。音が止み、ようやくスマホが暗くなると反射して映った自分の顔をじっと見た。そして煙草を口元から離し、スマホに煙を吹きかける。
一体何を思っているのか、それが読み取れないほどひばりは無表情であった。
煙草を灰皿に置いてひばりはスマホを操作する。どうやら折り返し電話をかけるようだ。
『もしもし、みっくん?電話出れなくてごめんね』
ハスキーだが艶っぽい声をひばりは出した。
『ん?今起きたぁ』
相手に全てをさらけ出し甘えているような声を出すひばり。喉の奥から絞り出されるその声はひばりの武器である。立ち振る舞い、声のトーン、言葉の緩急、その全てがひばりの計算の範疇であり、パフォーマンスである。完ぺきな男の弄び方だった。
『今日?』
通話相手に今日の予定を聞かれたのだろう、ひばりは一瞬手紙が乗っている机をちらりと見る。そして今日の甘味を見つけたと言わんばかりに舌なめずりをした。
『今日は何も予定ないよ』
まさに愉悦を表現したかのような笑みを、ひばりは浮かべる。自分を想う男が自分を手に入れることが出来ないあまりに死のうとしている事実、そしてそれを知りながら他の男に抱かれる自分、嗚呼、なんてエキゾチックなんだろう。酔いしれるひばりの表情を見たら、容易にそんなひばりの心情を察することが出来た。
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