求めたものは平穏だけだったのに...
ミイ
第1話 崩れる日常
暗い部屋の中で、息をするだけでも大変だった。
体が独りでに震えるのを抑えようとするが、体は俺の必至の抵抗を気にすることなく震え続ける。
こんなに体が言うことを聞かないのは三十歳にして初めてのことだった。
「あぁ、やっちまった。何もかも終わりだ」
数十分前のことだ。
会社に残って仕事を終えた俺が帰るころには、ほとんどの家の明かりが消え、この世界には誰もいないんじゃないかと言わんばかりに静かだった。
今日も上司の難癖に頭を下げ、自分の仕事にさらに上司の仕事が降ってくる日常を過ごした。早く帰って寝よう。
そんなことを考えながら、自宅から少し離れていて森に囲まれ舗装されていない車道を走っていたとき、なんの前触れもなく俺の日常は崩れたのだ。
あくびをしていた俺は暗闇から急に現れたものに気づかず撥ねていた。
なんだ、何が起こったんだ。ブレーキをかけ自分がおかれた状況を理解するのに数分かかるほど俺は動揺していた。
「う、嘘だよな。まさか、そんなことないよな」
気持ち悪い汗が体中から出ているのが分かる。気持ち悪い。
俺はゆっくりと車を降り、何かがぶつかった場所にとぼとぼと歩き出した。
怖い、見るのが怖い。俺の思い過ごしであってほしい。必死に願いながらその場所にたどり着いたとき、自分が何をしでかしたのかを理解した。
そこからの記憶はあいまいだった。声にならない声があふれたような気がするが、どうやって帰って来たのかさえも覚えていない。
スーツのまま床に倒れている俺は、立ち上がることが出来ない。
「なんで、なんで逃げちまったんだ!」
人が、いや人だったものが原型をほとんど留めずにそこに倒れていたのだ。目の前の惨状をどうすればいいのか分からない俺は、捕まるのが怖かった。
ただただ、そのことだけを考えて車に乗り込み逃げ帰ってきたのだ。
体はひどく疲れているし、もう考えたくもない。視界がだんだん暗くなっていく。まるで、俺のこれからの人生を象徴するかのようだ。
朝になっても眠気が取れることはなかった。顔を洗って鏡を見ると、そこには過度の労働で疲れきり、身長は百八十近くあるにも関わらず、体重が五十キロいくかどうかのやせこけた男が立っていた。
今頃外では、警察が来て事件を捜査してるかもしれない。俺がやったことはすぐばれて捕るだろう。家族に顔向けも出来ない。
頬にどこからか落ちてきたのか水がつたる。
あれから一週間、仕事を辞めてからの数日は、テレビで事件が取り上げられるのを確認するのも怖く、何もできずにいたが、自分の起こした事件がどう取り上げられているのか気になり確認しようとしていた。しかし、いつになっても事件が報道されることはなかった。
どういうことだろう、警察が隠れて捜査するようなことでもないのに。まるで、轢き逃げが起こったことを誰も知らないかのような感じがする。
ピンポーン、インターホンが鳴った。
急な音に反応しビクッと心臓が飛び出すかと思った。
普段この家に訪ねてくるようなやつはいない。だとすれば、警察官か。いや、一人だけ思い当たる人物がいる。
妹の
仁美なら嫌がっても抱きしめてやろう。仁美は高校生にしては大人びた様子だが、俺のことを嫌うこともなく休日はよく一緒に買い物に行ったものだ。
恐る恐る扉を開けると、スーツを着た男性が二人立っていた。
「すみません。
「はいそうです。」
ほんの少しの淡い希望を抱いていた俺は顔を上げることも出来ずに答える。
そんな俺を不思議な様子で見ているであろう警察官たちが続ける。
「最近不審人物を見かけたりしませんでしたか?」
「えっ」俺は間の抜けた声を出してしまった。
「えっと、不審人物ですか?」
「はい、最近急に見かけるようになった人とか」
俺を捕まえに来たのではないのか?何の話をしているのかわからないのが顔に出ていたのか。
堂々とした立ち振る舞いで威圧感のある警察官だったが、事情を説明してくれた。
なんでも最近、商店街も寂れたこの街に殺人犯が逃げてきたとのことだった。
最近は家を出ていなかったから騒ぎになっているのも知らなかった。
結局、警察官たちは俺が何も知らないことを伝えるとそのまま帰っていってしまった。
どういうことだ、俺が起こした轢き逃げはどうなったのだろう。まだ、犯人を特定できていないのだろうか?
どうしても知りたくなったので、久しぶりに外出して自分の目で確かめてみることに決めた。
家を出た矢先、近所でおしゃべりで有名な
「あら、浩一さん久しぶりね。最近見かけなかったから風邪でもひいたんじゃないかって心配してたのよー」
「えぇ、少し気分が悪くなっていまして...」
「一人暮らしも大変ねぇ。なんかあったらいつでも相談してね」
「は、はい。その時は連絡させてもらいます」
日常会話をしてくるのであれば、本当に俺が轢き逃げの犯人とはわかっていないのだろう。ならば、覚悟を決めて聞いてもいいかもしれない。
俺は時子さんに事件について聞いてみることに決めた。
「あ、あのですね。その...時子さんに聞きたいことがありまして...」
「なになに、何でも聞いて!」
「えっと何と言いましょうか。うーん、最近と言いますか」
俺が聞き方に困っていると、
「男ならシャキッとしなさい」
と、時子さんが自分の子供を叱るかのように言ってきた。
悩んでも仕方ない、俺は時子さんに率直に聞いてみることにした。
「最近、この近くで車関係の事件とか起こりませんでしたか?」
俺の質問の意図が読めないためか。少し不思議そうにしていた時子さんだったがすぐにいつもの調子に戻り、笑顔で答えてくれた。
「最近でしょ。そんな話は聞かないわねぇ」
そのあと一時間ほどいつもの調子で話を聞かされたが、知りたいことは知ることができた。何故かは分からないが、俺が起こした轢き逃げはまだ誰にも知られていないらしい。訳が分からないが、だとすればしなくてはいけないことがある。
重力に負けて横になりたい自分の体を動かし、俺はあの場所に向かった。
車を降りて確認したが、人が倒れている様子もなかった。さらには、血痕さえもないのだ。どういうことか理解できなかった。あれはすべて夢だったのかと考えたがあの光景が夢なわけがない。あの人は生きてて大丈夫だったんじゃないかとも考えたが、そんな奇跡みたいな話あるわけないし、それなら時子さんが知らないのはおかしい。
あの人の情報収集力は目を見張るものがある。
自宅に戻ったあと、この後どうするかについて考えることにした。
車は結構な速度を出していたと思う。なら、申し訳ないがあの人が大丈夫だったとは思えない。例えば、熊などに連れていかれたとかはどうだろう。いやいや、それはないか。
しかし実際のところ、死体が出てこないなら俺が自首しても変人扱いされるだけではないのか?
いろいろと考えをめぐらした結果、出した答えは車を処分して様子を見るだった。
罪に問われるなら、それは素直に応じようと思う。だが、出来るなら静かに暮らしたい。
今後の方針を決めた夜、車を処分するために町はずれの森の奥に走っていた。この森は不法投棄が多く、大型家電製品なら何時でも集めることが出来そうなほどだ。
車を底が深く、濁って水の中が見えない池の中に沈めた。
頼む、もうこれですべてうまくいってくれ。俺は心の中で何度もそう思いながら池を後にした。
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