八月の彼-2

  八月の彼-2


 渡し損なった指輪を弄んでみる。細い指が瘦せ衰え、灰に変わる前に何故契りを結ぶことに思い至らなかったのか。飽きる程の自己嫌悪を重ねた今更に、自身を責めるのも殆馬鹿らしい。一度失いかけて、二度目が無いとでも思っていたのであれば大概に御目出度い。立塞がっていた現実に向き合えば、付けられた始末も有ったと言うのに。


 前触れなく我が家を訪なった彼の姿を見て、先ず感じたのは天地の裏返るような眩暈だった。吐き気を催すほど嘔吐きを上げて泣きじゃくり、細い肩を握り潰さん勢いに抱擁して、息を整えるのにどれだけの時間を要したのかも定かでない。


 此方で就職した兄に伴って引っ越したのだと、簡単な経緯の他は語らなかった。其れを考えれば、事の顛末における責任の一端は彼にも在ろう。療養の為の転居であると知れていれば、と。此れもまた詮無い過程ではあるけれど。



 本当に、酷く筆が重くなる。此処迄を打ち出すにも幾月か使っている。言い回しを考える余裕もなく、当たり障りのない文に収まっていることがとても辛い。書き残せない事の恐怖と秤にかけて漸く指を動かしている。



 来訪の翌日には転居先に招かれた。ご令兄にも紹介に預かり、ではご両親にも、と言う所で待ったが掛かった。どうも、御母堂は気性の激しい性質らしい。息子が同性と交際しているなどと知れれば実家に連れ戻されかねないと言う事で、挨拶は一時保留の運びとなった。


 それから一月の間、通い妻よろしく彼の家に入り浸り世話を焼いた。炊事洗濯閨の御供迄喜んで全てこなし、束の間疑似的な新婚生活を謳歌したのだった。



 人に話した事が有る経緯としては此処迄、と記憶している。酔った勢いで過去のしくじりを洗い浚い吐き溢すのが常である為確証も無いが、恐らくこの先は相当に濁した筈である。「聞かせるに忍びない顛末である」と言う面も少なくは無かろうが、忌憚無くせば真意は少し外れる。


 彼と過ごした日々は間違いなく我が人生のハイライト、三十年の内にあれ程濃密な幸福で満ちた時間は無い。あと半世紀を生きたとしても、「あれ以上は無かった」と捨て台詞吐いて死ねる自負がある程。本当に、幸せで、大好きでした。


 で在ればこそ、思い出話の締め括りを恨み言で汚すのは許しがたい事だ。


 「泡の様に消え失せ、後になって喪失を知った」

 「そんな終章を添えてやる方が、余程彼には似合いだろう」


 万力で脳を締め上げられるような苦痛の中で私が編み出した、現実へのたった一つの細やかな抵抗だった。

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