スローイング・ライフ

明丸 丹一

スローイング・ライフ

この瞬間、我の意識は形作られた。そう、外という場所と内という自分を今まさに認識し始める。我は我であるということを完全に理解する。それ以外のことはそれ以外のこと。まあ、我自身のことはおいおい考えていけばいいとして、今はそれ以外のことだ。しだいに我とそれ以外の境界線ははっきりとしていき、意思によって動かせるものを認識する。それを動かすと、弾力のある何かに押し返される。我はどこかに閉じ込められているらしかった。そうこうしているうちに、今度はその弾力のある何かに押し出されていく。ゆっくりゆっくり押し出されて、外へ出る。外である。まぶしくてたまらない。こうして我は、我と外と暗闇であるあそこと、今いる場所である外を認識するおぎゃあ。あれ、考えていることが外へ出されていくおぎゃあ。しかしそのせいでうまく考えがまとまらない。おぎゃあ。おぎゃあ。

ずいぶん長い間、おぎゃあおぎゃあと繰り返すうちにいくらかはましになってきたこいちゃんよ。そうです、こいちゃんです。こいちゃんはママがこいちゃんのことをそう呼ぶの。こいちゃんはママからあいすくりーむをもらって食べさせてもらうんだけど、うまく食べられなくて困っているけどあいすはおいしいです。くりーむが口のまわりについてしまって、ママがふいてくれるんだけれど、そのあいだはあいすが食べられないし、あいすは食べると無くなってしまうのが残念です。だからじっくりじっくりなめています。そうやって時間をかけてあいすを食べていると、そのうち学校に行けることになりました。ランドセルが届いた日は眠れなくて、次の日そのランドセルを背負って学校に行くときは行ってきますと言います。家から出るときの決まりです。学校に着くと何人かの気の合う友人が出来ました。その友人と話ているときに、こいちゃんはと言うと、「お前自分のこと、こいちゃんとか言ってのかよー」と言ってからかわれたのですごく悲しくなって今日はずっとぼんやりしています。しばらくぼんやりして、やっぱりぼんやりしていてもつまらないので、僕は友達と遊ぶことにしました。ドッジボールです。僕は当てるのはなかなかうまいのですが、取るのはへたっぴです。今もボールが顔面に迫っているのだけれどどうにも反応できなくて、どんと音がしてぐう。

気がついて、もう金輪際ドッジボールはやらないと決めた。そんなことより、今俺は音楽にハマッている。やっぱりギターはいい。何がすばらしいって、ともかくカッコイイ。これに尽きる。マジでいい。だけど俺の手はそんなに大きくなくてリードをうまく押さえられない。手の大きさという問題は結構致命的で、しばらくは我慢してやっていたがだんだん限界を感じてくる。こうなると飽きるのも早くて、すっぱり止めてしまうことにした。今までバンドに費やしてきた時間を勉強に当てて、見事大学に合格。ついでに上京する。念願の一人暮らし。しかし実際やってみると一人暮らしってのは結構きつい。掃除洗濯料理風呂、その他もろもろ自分でやらなきゃいけない。課題もたくさんあって、思ったより趣味に時間を掛けられない。秋の夜のつるべ落とし。この頃すぐに日が暮れる。

時間の流れのその早さに焦りだして就職活動を始める。最初の二、三社は緊張に押しつぶされそうになったが、だんだん要領を覚えてきてやっと内定をもらう。選ぶ余裕などないのでそこで働くことにする。これからよろしくお願いします。入社してみると、君は仕事の覚えがなかなか早いなんて褒められて、まんざらでもない気分。私はこの会社に骨を埋める覚悟です。なんてことを言ってた頃が懐かしい。リストラのあおりを受けて閑職に追いやられる。妻と娘はどうなるんだ。それに、私はこんなところで人生を終えるのかと思うと惨めな気持ちになる。結局定年まで勤め上げて、退社する。こうしてみるとなかなか悪くない。千穂も幸せな結婚をしたと思う。老後のための蓄えもないわけではない。第二の人生を楽しく生きよう。それには趣味を持たなくては。適当に探していると、地元の友人に囲碁に誘われる。囲碁か。悪くなさそうだ。基本的なルールを覚え、早速打ち始める。ほほう、そうきたか。ならこの手はどうだ。えい。やあ。とう。勝った。勝ち続けた。この年になって隠れた才能が花開いたようで、今では近所でわしに敵う者はいない。しかしこの頃、時々指が震えるようになってきている。もう年だ。そんなことを思いながら帰る途中、反対方向からやってくる車に轢かれた。ああ、もう駄目かもしれない。そんな顔するな鈴子。形あるものは必ず壊れ、命あるものはいつか死ぬのが世の定め。わしはもう十分生きた。しかし振り返ってみると色々あった。いや、全てあっという間のことだった気もする。ああ、もうどうでもいい。眠くなってきた。まぶたが意思に関係なく降りてくる。視界は暗闇に包まれる。だんだん自分という内側と外側の境界線が無くなっていく。そして、今はもう何も無い。


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スローイング・ライフ 明丸 丹一 @sakusaku3kaku

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