雪妻

@nobuo77

第1話

「芳ちゃん、雪よ」

 日曜日のおそい朝、私は布団の中で、妻のはずんだ声を夢うつつに聞いていました。南国のこの地に雪が降ることは滅多にありません。

 多くてもひと冬に二、三度あるかないかです。平地に雪が積もることはほとんどない土地柄です。雪がほんの少し舞っただけで子供だけではなく、大人でもうれしいものでした。


 私はまだ布団からぬけだすことが出来ずに、頭だけを持ちあげて、窓のカーテンをあげてみました。借家の前はすぐに田んぼがひろがっています。

 昨日までは灰黄土色の殺風景だった稲の切り株や、あぜ道の枯れ草の上にうっすらと雪がふりつもっていました。この町に引っ越してきて見る、初めての雪景色でした。

 妻は部屋の前の小さな庭のはしにたっていました。ガラス窓の中に私のすがたを見つけたようです。黄色いマフラーで首まわりをおおいながら、早く起きておいでという素振りで手招きをしていました。


 ガラス窓を開けると、一気に冷気がおそってきました。

「積もるかしら?」

 やがて妻はそういいながら、私のそばから部屋にあがり、台所のほうに行きました。


「登美子、あれ鶴じゃない?」

 田んぼのひろがっている一角に小高い丘があって、まわりには杉の木が数本立っています。そのあたりに、白い大型の鳥が五、六羽、音もなく舞いおりたのです。

 小高い丘全体に雪は降りつもっています。杉木立の青い葉もうっすらと白くなりはじめていました。


「ほんと、鶴よ!」

 コーヒカップを差し出しながら、妻は少し興奮気味に声をあげました。

 それから私たち二人は窓際に座って、しばらく雪の中の鶴をながめていました。群は警戒するようにして、木立のかげからでようとはしません。ながい首とくちばしが動いています。


 しばらくして、一羽が、田んぼの中を歩きはじめました。人家のあるこちらのほうに向かっているように見えます。

「子鶴みたいね」

 曇りガラスを手でふきながら、妻は遠くに引きこまれるようにしながら、見つめていました。

 五、六羽の鶴が飛来するなど、今まで見たことのない光景でした。冬でも温暖なこの地方でよく見かける大型の鳥といえば白サギぐらいなものです。


 その夜妻は、「少しも温もらない」

 といいながら、布団の中の私に抱きついてきました。手足が白い冬大根のように冷えていました。

「今朝の子鶴ね、あれから手招きしたら、よってきたよ」

 妻は私の脚の中に足をさし込みながら、語りかけてきました。


 彼女は結婚前、身ごもってしまいました。つきあいはじめて半年ほどたった頃でした。

「産みたい」

 私はどう返事していいかわかりませんでした。そのころはまだ、はっきり結婚を前提としたつき合いではありませんでした。心の中には、半分遊びの気持があったのはたしかでした。


「堕ろした」

 一週間後に会った彼女は青白い顔をしていました。彼女の小柄な体全体に寂寥感が漂っていました。

 そんなことがあってからはそれまで以上に、二人でドライブしたり、洒落たレストランで食事したりして、楽しい日々を過ごしました。

 一年も経つと、あの忌まわしい堕胎の記憶は水に流してしまったように、会うたびごとに、彼女は明るい表情をしていました。私たちは昨年の夏に結婚しました。


 耳元で,子鶴が寄ってきたと妻がいったとき、私は今朝、田んぼのさきの杉木立に見た鶴の群のことは忘れていました。

それよりも次に妻がささやいた一言のほうが私には心の中にひびきました。

「おめでたみたい」

 すっかり火照った妻の体、充実した息づかいを耳元に聞きながら、私はいつの間にか眠っていました。


 先ほどから、玄関のドアをたたく音がしていました。枕元の目覚まし時計に目をやると、まだ夜明け前でした。

「こんな早い時間に来る人間なんかいないよ」

 私はつぶやきながら、寝返りをしました。

「……?」

 そばに妻の気配がないことに気づきました。


 夜中に一度目覚めたときには、私の背中に顔を埋めるようにしながら、妻がかるく寝息をたてていたのを覚えています。トイレにでも立ったのかしらとおもいながら、しばらくは部屋の気配に耳をすませていました。しかし、それをうかがわせるような物音はありません。


 また、ドアがとんとんと鳴りました。私は寝間着の上から、壁に掛けてあったオーバーを着て、そとにでてみました。

 夜明けのうっすらとした明るさの中に、うす雪がふりはじめていました。南国の平野に昨日、今日と二日つづけて降る雪なんて、十年に一度もないくらいの珍しさです。

 私は玄関先に立ったまま、先ほどからドアをノックしている人はどこにいるのだろうと目で探しました。が、それらしい人影は見あたりませんでした。脇の駐車場のほうにもいってみましたが、数台の車が駐車しているほかには、いつもと変わった様子は見あたりませんでした。


 それよりも私は、妻の姿が屋内に見あたらないことの方が気がかりでした。もしかして彼女は、私よりも先に目覚めて、窓の外に雪が降っているのを知って、昨日の朝の様に、表に出ているのかもしれないと思いました。まだ、少女的な心の残っている女性ですから。

 雪は昨日よりもしんしんと降っていました。雪は玄関先にも音もなく舞いこんできました。どこもかしこもが銀世界に変わっています。田んぼやこんもりとした丘や杉木立もみんな雪国の世界です。


 私は寒さにふるえながら、家のまわりを見てまわりました。妻は昨日の朝、庭のはしの小さな菜園の前に立って、雪景色をよろこんでいました。しかし、そこにも妻の姿はありません。

 私は少し不安を覚えながら、玄関先に戻ってきました。その時です。遠くに鶴の鳴き声が聞こえました。目をあげると、田んぼのはしの杉木立に二羽の鶴の姿がありました。

 いままではまったく気づかなかったのですが、よく見ると、人の足あとが玄関先からまっすぐに田んぼのほうにのびています。先のほうは雪にかくされていますが、その延長線上には杉木立があります。


 足あとは小さなものでした。小柄な妻のものに間違いありません。

 私は急いで足あとを追いました。家を出、道路を横切り、田んぼの中にはいっていきました。雪は場所によっては、履いているスニーカーが隠れるぐらい降りつもっていました。

 田んぼをすすむにつれて、妻の足あとはだんだんに薄くなり、それにとって変わるように、鶴の足跡が杉木立に向かっていました。

「登美子」

 私は妻の名を呼びました。

 するとそれに呼応するかのようにして、杉木立のほうから、鶴の鳴き声がしてきました。


 くぉおー、くぉうー

「登美子」

 一瞬、杉木立に雪煙りがたちました。おどろきながらながめていると、雪煙りの中から二羽の鶴が姿をあらわしました。

 どうやら親子鶴のようです。真っ白な大きな羽をゆったりと羽ばたかせ、私が立っているほうに飛んできます。

 くぉうー

 親子鶴は私のいる田んぼの上空を一回りすると、やがて降りつづく雪の中に見えなくなりました。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

雪妻 @nobuo77

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る