5-9
「子供の頃からずっと思っていたんだ。誰かのためだと思っていたことが、ふとした拍子に自分のためであると気づかされる。それが嫌になって、やがて人と関わるのをやめた」
何歳になっても偉い人はいつも言うのだ。『自分のためではなく、誰かのために生きるべきだ』なんてことを。そしてそれがどうしようもなく真理であるように思えるからこそ、そんな自分自身が嫌になっていった。
「そんな僕だからさ、きっと誰かのために生きようと思っても無駄なんだと思うよ。そんな気持ちじゃ誰も救えない。だからいっそのこと、関わらなければいい。そう思っていたらこんなに時間が経っていた」
我ながら子供みたいな言い草だと思った。けれどもそれはどうしようもなく事実なのだ。
「あなたは自分自身が誰かのために生きていないという事を知っていて、だから他者と関わる必要性を感じていないんですね」
僕は頷く。
「ここで考えていることだってそうだ。きっと僕が時間をかけたことは必ず無駄に終わる。成功したとしても、誰の役にも立たない。わかったところで、救われる人間は誰一人としていないだろうね、今のところは。僕は誰も救うことはできないよ」
「私もあなたの研究、付き合ってるんですけど。あなたのいうその『無駄な』研究を」
そうだったね、と僕は苦笑した。けれどもそれさえ良い事ではないように思える。彼女ほど頭の回る人間を、僕のエゴのような研究につき合わせるのは、マイナスにしかならないのではないか、そういう疑念を抱かずにはいられない。
「<法則>についての研究は、世間からしたら余計なお世話とさえ言われている。時折しか起こらない現象で、しかも要らないものが消えるだけなら、もうそのままでいいんじゃないか、何かを証明することには何の価値もないんじゃないか、なんて声がマジョリティだ。そのことは君だって知っているだろう?」
「……けれどもいつかは役に立つんです。数学者が発見した数式がその時点で社会の役に立ちますか? その後何十年、何百年と経ったのちに、少しずつ科学、人間社会に役立てられていくんです。そういうものです」
つまり、役に立つかわからない仕組みの理解でさえ、将来の変化に繋がる可能性がある。彼女はそう言っている。
「だとしてもそれはきっと、僕が死んだずっと後だ。それに何より、結局自分自身が自己満足だと思っている時点で、僕は駄目なんだよ」
「自己満足……ですか」
彼女は呆れたような言い方をする。それなのに、決してこちらを見捨ててはいないような目をしている。やはり不思議な子だ、と思った。
「先生の孤独の理由、少しだけわかりました。けれども……私には、あなたの中の何かが根本的に違うような、そんな気がするんです」
「根本的に違う?」
「そうです。あなたの考え方です。人を救えないと苦しんでいるところ。自己満足のためのコミュニケーションを忌み嫌っているところ。あなたの言うそれらは間違ってはいませんが……やっぱりそれだけが真実だとしたら、悲しすぎます」
学生は一つ息を吐いて、それから何かをずっと考えていた。きっと、僕にかける言葉を選んでいるのだと思う。彼女をじっと見ていると、目尻に少しだけ涙を浮かべていることに気付いた。どうして彼女はそこまでして考えているのだろう。僕のために自分の時間や感情を分け与えるのはどうしてなのだろう。彼女のそれは僕が生涯得られなかった、相手を救うための自己犠牲なのだろうか。
この子は一体、僕に何を伝えたいのだろう。
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