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 それから彼女は後ろを向いて目元を拭い、小さく深呼吸をして肩を上下させ、もう一度こちらを向いて口を開いた。

「人を救いたいと思うのはとても素晴らしい事ですけれど、人を救えると思うのはとても愚かなことです。私たちは人の痛みなんてわからないんですから、絶対にわからないんですから」

 だから、あまり自分を責めないでください。学生はそう言った。その瞳はあまりにも穏やかで優しい。

 けれど、だったらどうすればいいのかと思う。彼女が言っているそれはつまり、人間の本質的な孤独を露わにしているだけなのではないだろうか。

「それなら、人と関わることはやっぱり間違いなんじゃないのか。人の痛みがわからないなら、尚更だ」

 彼女は首を横に振る。

「それでも人と関わって良いんですよ」

「人を救えると思ってはいけないのに? 自分の満足のために誰かを求めることを、認めてしまうの」

 他者の理解が不可能であるというのなら、本当の意味でも繋がれるはずがない、僕はそう考えていた。

 それなのに、彼女はゆっくりと頷いた。

「それが自分の為であると思っていいんです。私たちは自分自身のために、他人を想って構わないんです。みんな、そうしているんですよ」

「どうして」と僕は訊く。

「だって、私達は結局、他人がいないと幸せになれないんですから。あなたにとって一番幸せだった時を思い返してみてください」

 僕にとって一番色づいていた時間、そんなのは考えなくてもわかることだった。その日々は確かに、他のどんな時期よりも一人の他者と深く関わっていた。その時、自分でも彼女に言っていたじゃないか。本浄のおかげで自分の価値を見つけられたって。そして本浄も、僕のおかげでひとつの価値を自分に見出せたと言っていた。僕らは助け合って生きていた。そうすることで、見ている景色がほんの少しだけ色づいた。

「君の言う通り、僕にとって一番の日々も、他者と関わった日々だった。あの時、僕と本浄は『自分が自分として生きるため』に互いと関わっていた」

 そうでしょう、と学生が頷く。

「けれど、相手の痛みがわからないことも、自分の満足のために行動してしまうことも、人間にとっての欠陥のようなものだ。それでも僕たちは他者と関わって良いのかい。その果てに待っているのは、独りよがりゆえの虚しさだけではないのかい」

 違いますと彼女ははっきり否定した。

「自分ではそれをコントロールできませんけれど……それでも確かに、相手を救える瞬間があるんです。あなたが自分の満足のために起こした行動が、誰かの道しるべになることがきっとあります。偶然なのかもしれませんが、それは今のあなたでもやっていることなんです。そうでなければ、この研究室にいる人たちは皆、あなたの元から完全に離れてしまうはずです」

「……うん、そうだね」

「そういう偶然が、奇跡みたいな価値が生まれるから、私たちは他者と関わることを赦されるんです」

 この子が必死に考えて、言葉を選んで、僕に語り掛けている。僕はそこで何となく悟った。僕のためだと思っていたその葛藤や涙は、元を正せば彼女自身のための涙だったのだろう。


「思いやりの本質が自己満足でも構いません。それが本当は相手のためじゃないとしても良いんです。……副産物としての優しさでも、誰かを幸せにできるんですよ」

 そう言って、ずっと僕のために言葉を紡ぎ続けてきた彼女が、やっと表情を緩めた。

 一つの前向きな諦めをすることで、僕たちはやっと他者に一歩踏み出すことができる。それは僕が生まれてからずっと考え続けてきたことの答えだった。

「大切なのは、『相手の痛みは本当の意味では理解できないこと』、それをはっきりと自覚していることです。そうしていれば、きっと私たちは繋がることができます。……たとえ、言葉さえ伝わらないとしても」

 他者の完全な理解なんてできない。この事実はとても悲しい事だ。

 けれど、それを認めることは、むしろ相手との繋がりを確かなものにする。相手のため、と思い込むことからの脱却。この子は今、それを僕に求めている。

「……なるほどね、僕はそんな簡単なことに気付けないぐらい、愚かな人間だったってことだ」

「大丈夫ですよ」彼女は優しく微笑む。「みんな、すごく苦しんで、やっとの思いでそのことに気付くんです。なのに、しばらくしたらまた忘れちゃうんです。そしてまた気付いての繰り返し。自分って、どうしようもないですよね。人生って、ままならないですよね」

「そうだね。そして、僕は人生がそうであることを、初めから知っていたような気もするよ」

「はい。私も同じです。それに、今日、もう一度気付けました」

 僕がこれまで見ようとしていなかっただけで、それは初めから自明であったように思える。本浄には悪いけれど、やっぱり僕はひどいあまのじゃくだったようだ。


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