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本浄が消えたことを悲しむ間もなく、僕はその仮説について調べることにした。そうしなければならないような気がした。
お金も連絡手段も、何一つ持っていなかったので、交番に行った。家出をする高校生はそこまで珍しいものではないのだろう。警官は僕を冷静に諭しながら、しかるべき行動をとってくれた。お陰で僕は簡単に家に帰ることができた。
「ごめん」と僕が言うと、母は「別にいいわよ」とだけ返した。これほどの厄介事があったにも関わらず、母は怒りも悲しみも表に出さなかった。それから沈黙が続いて、いつもは耐えられるようなそれが何故だか苦しくなった僕は、ふいに「なにか言ってよ」と呟いた。それはほんの気まぐれのような感情だった。
母はしばらく考えて、それからこう言った。
「今回の旅はさ、あんたにとって大切なものだったの?」
僕は頷く。「それなら良かった」と母は笑った。
それから何日か過ぎた日、僕は自分から率先して祖父に食事を届けに行った。祖父に話したいことがあったからだ。
祖父の家に行き、地下のアトリエへと向かう。乱雑に物が散らかった部屋の中心で、祖父は相変わらずそこに一人座っている。けれどもこちらをじっと見据えていた。僕は見つめ返す。そして彼が以前話してくれた言葉を思い出す。『絵を描かなくなったことが、悲しいことだと思うか』という言葉。今ならわかる。祖父はそれよりも大切なものを優先しただけなのだ。だから芸術家をやめたことは、何一つとして悲しい事ではないのだ。
「気付いたんだな、お前も」祖父がそう言うと、僕は頷いた。何も伝えていなくても、彼は何かを理解したようだ。
「全部、初めからわかっていたの?」と僕が訊くと、「当たり前だろう」という言葉が返ってきた。
「愛する息子がおれのために描いてくれた似顔絵が、汚いなんて思うヤツがどこにいるんだ。俺の描いた自己満足の絵なんかよりも、よっぽど大切なものに決まっている」
芸術的価値なんてどうだってよかったんだ、子供に比べたらな、と祖父は言った。やっぱり僕は、この人が初めからわかっていたことにすら、ずっと気が付かないでいたんだ。
僕は祖父に話した。この数か月のこと、消えてしまった彼女のことを。
「僕の数か月は無駄だったのかな」と呟く。
「どうかな、それを決めるのは自分自身だ。これからのな」
祖父の言葉に僕は「そうだね」と頷いた。祖父は葉巻を咥え、息を吐き、それから灰を落として、もう一度口を開いた。
「けれども一つだけ、言っておきたいことがある」
そう言った彼の瞳は、何かに少しだけ後悔しているように見えた。
「歳をとるとな、何かを信じられなくなるんだよ。あの日確かに間違いないと思ったことが、急に不安に思えてくる。大切なものが大切である理由を思い出せなくなってくる。お前にもそんな時が来るだろう。一番大切なのは、その時どうするかだ」
「あの日の大切なものを信じ続けろ、っていうこと?」
僕がそう言うと、祖父は肯定とも否定ともとれない表情をした。
「その上で信じるものが変わるなら、それはそれでいい。その上で後悔してもいい。一番大切なのは、その時に何かを信じることをやめないことだ」
僕は頷いた。今はわからなくても、いつかこの言葉を思い出せるように。
それから帰り道、僕は東公園に行った。
本浄瑠璃が可愛がっていた猫は、どこにもいなかった。彼女と一緒に消えてしまったのだろうか。
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