1-3 6/15(iii)
続けて一時間ほど、本浄への個別指導を続けているうちに気が付いたことがあった。
僕の知る限り、普段の彼女はいつも話すことに緊張しているようだった。けれど、今の彼女は意外とそれなりに喋る。どうやら根っからの口下手ではないようだ。よくよく思い返してみれば、彼女が話しているのを見るのは授業中に当てられた時か、何かクラスの仕事を押し付けられる時ぐらいだ。単純にそれらの多くが話し辛い場面だったのだろう。
「うん、そんな感じで法則を覚えたら、あとは過不足なくそれに当てはめていくだけ。一番合理的な代入をすれば、期末試験ぐらいの問題はなんとかやっていけるはずだよ」
僕もある程度慣れてきて、本浄も少しずつではあるが理解を深めていっているようだ。
「すごいですね。法則に当てはまるか、合理的かどうか、考えるんだ」
やっと一問、ほとんど自分の力で解くことができた本浄。彼女はいつも暗くて、あまり表情が豊かな方ではない。特に喜びや嬉しさを表に出すのが下手だ。けれども今の彼女は、少しばかり安堵の表情を浮かべていた。
「本浄さんのいう通り、確かに公式とか法則とかって合理的だ。……もしかすると、それってある意味美しいのかも。なんていうのかな、上手くいけばパズルのピースみたいにはまっていくんだよね、ぴったり、きれいに」
そんな彼女の反応に気を取られていたからだろうか、僕は柄にもなくそんなことを言ってしまい、直後に少し後悔した。もちろん彼女はそんなこと気にも留めていないようだったけれど。
「不思議ですね。本当の世の中って、そんな合理的で綺麗なものじゃないのに」
本浄は少し口角を上げて、それでも笑っているとは言い切れないような憂いを帯びた表情でつぶやく。いつもの本浄の表情だ。先ほどの安堵の表情が珍しいだけで、彼女はこんな表情ばかりだった。授業中に指名されたとき、一人だけ残って課題をさせられているとき、クラスメイトに日直の仕事を押し付けられた時。そんなとき彼女はいつも、こんなふうに合理的ではない世の中を憂いているのだろうか。
「たぶん、だからテストの問題は簡略化されているんだよ。現実の世界の自然現象を綺麗に表現するのは難しいからね。摩擦を無視したり、空気抵抗を無視したりして、やっと僕達みたいな凡人でもわかるぐらいの形に整頓しているんだ、と思う」
「なんか、小説とかと一緒ですね」と本浄が呟いた。
「どうして」
口から無意識に疑問の言葉が出た。小説が引き合いに出されるなんて、見当もついていなかったからだ。
「ほんとうの世の中って、ぐちゃぐちゃしてて、ものすごくわかりづらいから。だから、その中の一番必要な部分だけ、一番きれいな上澄みだけを抜き取ってるんじゃないですか、物語って」
なんとなくだけど的を射ていると思った。
「本浄さんは読書が好きなの?」
そう僕は尋ねた。彼女の口から、小説の例が出てくることが意外だったからだ。これは普段本を読まない僕の偏見なのだろうが、読書というものは「心に余裕がある」人間が行うもの、というようなイメージがあった。自分自身についても、人生に余裕がないから勉強ばかりしていて、読書する心の余裕なんか無いのだと思っていた。それはきっと本浄も一緒だろう、そう勝手に考えていた。こう口にすると、大変失礼な言い草だけれど。
「はい、少しは好きかもしれません。意味が分かっているか、って言われたら、怪しいですけど」
本浄は部活動にも入っておらず、特に家の中でやるような趣味も持っていない。だから手持ち無沙汰な時間を消化するために、両親が持っていた本を読むようになったそうだ。そういう背景を知ると、何となく納得できる。他にやることがない故の読書、というものは、他人と趣味を共有していない彼女にとって自然であるように思える。同じように友人のほとんどいない僕にとっての勉強みたいなものだろう。
「日向野くんは、どうですか。本、読むんですか」
「ほとんど読まないかな、漫画さえも読まないし。趣味がないってよく言われる」
「そうなんですね。他の娯楽は? 音楽とか」
「聴かないかな、昔少しだけピアノをやっていたけどね。絵にも興味ないし、映画もあまり見ない」
先ほどは読書を例に挙げたが、芸術や娯楽もすべて同じだと考えていた。やっぱり僕は、音楽を聴くだけの心の余裕がないのだろう。少なくとも今は。
「そうですか、勉強が趣味、って感じなんですね」
そう本浄はつぶやいた後、不快に感じたらすみません、と慌てて付け加える。気にしないよと僕が告げても、表情には少しの罪悪感を浮かべていた。
「日向野君は、勉強していて楽しいですか?」
「うーん、楽しいかはわからないけど、安心するかな」
安心する、という言い方に疑問を覚えたのか、本浄は軽く首をかしげる。
「勉強している間は他のことを考えなくて済むし、気持ち的にはたぶん、他の人にとっての暇つぶしと変わらないと思う。でも、それがどうやら将来の役に立ってしまうらしいから」
「ああ、頭いい人の考え方ですね」
わたしには無理でしょうね、と言って、彼女が苦笑いをした。
「そんな風に思えたら、わたしも勉強できていたのでしょうか」
そう言った彼女はすぐさま「そんなはずないですね、わたしなんかが」と首を横に振る。
「でも僕も、少しぐらい読書をしておけばよかったかな、なんて思うことはあるよ。少しでも本を読んでいれば、何かが豊かになるかもしれないし」
とはいってもその理由の半分くらいは国語の成績のためなのだけれど。そこまでは言わないことにしておく。そもそも、そういう打算的な考えを持っている人間に娯楽や芸術鑑賞は似合わない。
「だったら、わたしのおすすめを教えておきますね、もちろん強制はしませんけれど」
そう言って彼女は鞄から本を出した。
「サリンジャーの『ライ麦畑で捕まえて』。今のうちに読んでおく必要がある話です」
そう言って、やけに年季が入っているわりに折れも破れもない一冊の本を僕に手渡した。勿論この会話のために用意しておいたはずはないだろう。そして彼女がおすすめというのだから、読みさしのものでもないはずだ。という事はやっぱり、彼女はこれを常備していたのだろうか。読書の時間なんてものは設けられていないこの学校で、わざわざそんなことをしているのはよほど本が好きな人間か、通学時間が長い人間ぐらいのものだろう。
「どうして、今のうちに読んでおく必要があるって言ったの」
「読んだらわかる、と思います」
本浄はそれ以上なにも言わなかった。僕もそれ以上訊かなかった。
その日から、僕はたびたび彼女に勉強を教えるようになった。
別に彼女のほうから教えてくれとせがんでいたわけではなかったが、度々補習プリントや小テストの解き直しを前に固まっている姿を見ると、流石に居たたまれない気持ちになってしまう。普段の彼女は相変わらず失敗ばかりで、だからいつもメランコリックな表情をしていて、それなのに放課後はほんの少しだけ穏やかになる。この時間は多分悪いものではない、少なくとも彼女にとってはそうである、そう思いたい。
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