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 六月が終わり、七月の初めにあった期末試験が終わった。

 努力もむなしく彼女はいくつかの科目で再試験となり、僕の放課後の予定はまた彼女の個別指導でいっぱいになった。だけど物理が再試験じゃないと聞いたときは、少しだけ嬉しかった。

 梅雨はなかなか開けない。休みになった部活が多いからか、それとも試験が終わってすぐだから皆が浮足立っているからか、放課後の教室はいつもより少し騒がしかった。

 この頃には本浄に勉強を教えている姿が多くの人間に観測され、クラスの他の人間も僕にわからない問題を聞いてくるようになった。ほとんどの場合、僕が他人の問題を解いている短い間、本浄はその会話に加わることなく、一人で自分の机へと向かう。それから他人の問題が解決した後、何事もなかったかのように再び個別指導を開始するのだ。一度だけ彼女に「人気者ですね」と言われたことがあったが、あれは皮肉だったのだろうか。クラスメイトとは結局勉強の話以外まったくしないし、仲が良いというよりはむしろ都合よく利用されているようにしか見えないだろうに。

 それから、数年ぶりに読書をした。彼女は心の奥底でホールデンと同じような思いを抱えているのだろうか。気弱で大人しそうな見た目からは想像もつかない。



「梅雨って、あまり好きじゃないかもしれません。そもそも雨が好きじゃないみたいです」

 結露ができた窓を人差し指でなぞりつつ、本浄が少しばかり不満そうな顔でつぶやく。先ほどまでは勉強を教えていたが、なかなか捗らないため、僕が少し休憩することを提案した。その時も本浄は少し悲しそうな顔を浮かべ、「わからなくてごめんなさい」と呟いた。わからないから教えているのに。

「雨は落ち込んだ自分に寄り添ってくれるから心を安らげてくれる、っていう話をよく聞くけれど」

「確かにそれは事実です。だけどそれって、ネガティブな自分と重なり合うからだと思うんです。だから、雨で落ち着くことはあっても、それが好きであるとは限りません。ネガティブな自分が好きな人は、ほとんどいないでしょう。なんとなく、傷の舐め合いをしているみたいでいやなんです、わたし」

 不思議なことに、本浄は時々こうやって予想だにしないことを言う。少し詩的とも言えるような表現をする。本を読むのが好きだから、なのだろうか。

「本浄はときどきすごく賢いよね、ときどき」

「それ、褒めているのか、貶しているのかわかりませんよ」

 僕の発言に対してめざとく反応する本浄。僕は傷の舐め合いでもいいと思うけどなあ、なんてことを考えていた。


「日向野くん、あのさ、ここ教えてもらえる?」

 そんな無駄話をしている僕の手が空いていると思ったのか、クラスの他の女の子が教科書を持って僕の元にやってきた。

 そのままその子に勉強を教え始めたのだけれど、本浄はこういう時本当に口を開かなくなる。決して明るいわけではないけれど、それでも予想よりはずっと楽しげに話をする本浄、みんなその姿をもっと知ったらいいのに、と思う。


「日向野くんってさ」

「え?」

 女の子が上の空でいた僕を呼び戻した。気付けば本浄は席を外していた。おおかた僕の気付かないうちに、花を摘みにでも行ったのだろう。

「どうして本浄さんにいつも勉強教えてるの? 席が隣だから、っていう理由だけには思えないんだけど」

 女の子がそんなことを聞いてくる。なんとなくクラスでそんな話をしている人がいるのは知っていたが、こう面と向かって訊かれたのは初めてかもしれない。もしかしてこの女の子は、僕が本浄に気がある、もしくは互いにそれ以上の関係なのではないか、ということを疑っているのではないだろうか。

「あの子さ、何もできないじゃん。日向野くんが勉強を教えることにメリットがあるの」

 しかし、女の子の疑問はもっと別の方向にあった。想像していたよりもさらにつまらない質問をされ、僕は少し嫌気がさした。

「そもそも、メリットとかデメリットとかで人と関わるものなの」

 そう言うと彼女はばつの悪そうな顔をした。そんなつもりはなかったが、こちらも少し言い方を間違えたのではないかという気になる。僕は長い間他人と関わってこなかったため、本当にそれがわからなかっただけなのに。

「そりゃ、そうだけどさ……。それでも嫌気がさしたりはしないわけ。あんなに毎日教えているのに、また追試ばかりだし……」

 それについて僕が何も答えないでいると、彼女は「まあ、いっか。ありがとね」と言って自分の席に戻った。それから僕は誰にも見えないようにため息をつく。これ以上言うことがないので助かった。

 廊下にトイレから戻ってきた人間の影があることには、どちらも気付いてはいなかった。

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