1-1 6/14, 6/15(i)

[6/14]


 チャイムが鳴り、二限目が始まる。太陽は既にかなり上の方まで来ており、窓から差し込む光が少し鬱陶しい。春か夏か、と訊かれれば六月は確実に夏であると言えるだろう。そんな天気だった。自分がそれほど汗かきでなくて良かったと安堵しつつ、教科書とノートを開き、シャーペンを握って今日のテーマを記述し始める。今日も<法則>とは縁のない一日を過ごしている。


 それが確かに不必要なものだとしても、自分のあずかり知らぬところで何かが失われて気持ちのいい人間は少ない。僕もその一人で、だからこそ、そのリスクを孕んでいる芸術なんかに興味を向けようとは思わなかった。こんなご時世に独創性や芸術性を求めることは到底門違いだと思う。もちろんほとんどの人間はその<法則>とは何の関わりもないし、何かを生み出そうとする人間は依然として沢山いるのだけれど、少なくとも僕とは無縁だった。


 僕は勉強がそれなりに得意だった。数学や物理は特にできた。読書をする習慣はなかったから国語はそれらに比べると劣ったけれど、それでも他の皆よりできないという事はなかった。

 それ以外のこと、特に何か独創的であることや尖ったことがあまり好きではなかった。将来は少しでも安定した職業に就ければそれでよくて、一つだけ欲を言うならば給料が高い方が良い。どこか大きな企業の技術職なんかがぴったりだと思う。そう考えると理系科目ができることは非常に幸運だった。


 もちろん、勉強が生きるための必須条件であるという事はないし、なにか一つでもそこそこに能力があれば、それなりの活躍ができるように世の中はできている。そうでなくとも、人並みの行動さえできるのならば生活に不自由はしないだろう。正直なことを言うと、どちらかといえば僕はそんな「人並みの行動」が少し苦手な部類の人間である。思い悩むほど困ってはいないが、人と話すことや集団行動を行うことは決して得意ではない。きっと誰かに「勉強しかできない人間」だとか言われていると思う。そしてそれは正しい評価だ。

 だからもちろん、いろいろと不出来な僕は、勉強のできない人間を卑下するという事はない。けれど、加えて生活に必要な処理さえも苦手である人間がいるとしたら、それを心配するのは当然だろう。そして、それ以外のことも全部上手くできていないようなら尚更だ。

 僕は本浄瑠璃が少し心配だった。



「……わかりません」

 教師がこんなの去年やったことだぞと言ってため息をつく。教室中が少しざわめき、彼女を笑う声が聞こえ始める。それを軽い咳払いで諫め、教師がチョークで正しい答えを記述し始める。それらの簡潔な説明が終わったところでやっと、彼女は座ることを許された。座った後の本浄は、黒板に書かれた文字をノートに一語一句漏らさず書き写していた。丁寧に手を動かしているわりにさして綺麗じゃない字だ。写経が遅すぎて、その間に次の問題の解説が始まっていることには気付いているのだろうか。

 それら一連の流れを見て、僕はまたか、と思った。

 本浄が問題を解けないのも珍しい光景じゃない。それを教師が非難し、同級生が嘲笑するのも、見慣れた光景だ。隣の席の少女とその周りで起こる、いつも通りのルーティンワーク。

 その後、本浄は体育の授業でいつまで経ってもキャッチボールができないことを教師に心配され、昼休みは一人で弁当を食べ、放課後は一人で補習室へ向かった。補習の後にやってくれるでしょ、と言い、彼女と同じ班の人間は掃除をサボって帰っていった。補習から帰ってきた彼女はあたりをきょろきょろと見まわした後、一人で黒板を掃除していた。

 虚弱そう、と誰もが思ってしまうような細い体躯をしている。

 視線はいつも下向きだ。もしかしたら本浄にとって、正面とは自分のつま先の方向なのかもしれない。

 声の小ささは自信のなさの裏返しなのだろうか。

 表情も明るいとは言い難く、愛想笑いがとても下手だ。

 彼女はとても生き辛そうな人間だと思う。




[6/15]


 明くる日の朝、電車が一時間おきにしか来ないため、ホームルームの五十分前に教室に着いていた僕は、珍しく隣の席に鞄が置かれていることに気付いた。ちなみに本浄の席は窓際の一番後ろの席で、僕はその一つ右だ。席替えが行われた時、彼女と少しでも仲良くなっておけば席を交換できたのにと考えた記憶がある。角の席は、なんとなく一番静かで落ち着く気がする。前後左右の人間が二人しかいないことが大きいのだろうか。斜め方向も合わせると、人で埋められているのは八方向のうち三つのみだ。それは人と話すことを得意としない本浄にとっても、きっと有難い場所なのだろうなと思った。

 そんなふうにして窓際の席を羨みつつ、鞄を置いて数学の参考書を取り出す。念のために今日の時間割を思い出し、宿題が全て終わっていることを確認した上で、付箋の挟まれていたページを開いた。六月の昼間は確かに夏のはしりを感じさせるけれども、六月の朝はまだ過ごしやすい。学校に着いてから汗をぬぐうことも両手を温めることも必要とせず、すぐに作業に取り掛かることができる。雨が降っていたら話は別だけれど。

 数学や物理をやっていると安心する。事象に公式を当てはめ続ける行為はそれだけで安心できる。きっと世の中を見回すと、僕なんか話にならないぐらい数学ができる人間がごまんと存在するのだろう。彼等はきっと、僕みたいな数式処理しかできないような人間とは違い、新しい公式を発見したりできる。学者と呼ばれるような人は、きっと彼等のような人間の延長線上にあるんだと思う。けれど、就職さえできればいいと考えている僕にとって、そこまでの能力は必要ない。こうして求められる立式と変形だけできれば、それでいい。だから宿題が終わった後も、こうやって数学の問題を解いているのだ。将来への無難な投資。少しばかり価値のある時間の浪費。


「あの、日向野、くん」

 ぼんやりとそんなことを考えながら手を動かしていると、不意に名前を呼ばれた。ヒガノくん、というのは僕の苗字だ。

 参考書から目を離し、右を向くと、本浄が立っていた。急いで教室に帰ってきましたと言わんばかりに息を切らしている。本浄の座席は僕の左側だ。自分の席に行くのに僕が邪魔なのだろうか。それなら通れるように椅子を引くけれど、まだ他に誰も来ていないのだから、僕の後ろではなく前を通ったっていいはずだ。

「あの、これ、前回の中間の範囲の物理なんですけど。今日中に提出できたら、赤点を見逃してくれるらしいんです」

 そう言って一枚のプリントの端を両手で摘み、こちらに見せる。ひらひらと揺れる紙面に印刷された図、曲面を下ろうとする小物体Aの図は確かに一か月くらい前まで学習していた内容で、そして少なくとも大学受験が終わるまでは何度も見る事になるであろう図だった。

 僕がそんなことを考えていた間、彼女はしばらく黙っていたが、やがてばつの悪そうな顔をしつつ口を開く。

「でも、全然わからなくて……、日向野くんに教えてもらいたいんですけど」

 なるほどそういうことか、と納得する。本浄に限らず、クラスの人たちが僕に話しかける理由なんて業務連絡か勉強の質問かの二択ぐらいしかない。口下手な本浄から後者を提案される事には少しだけ驚いたけど、それでも僕に話しかけるのだったら、理由はそれぐらいだろう。

 プリントには先日の中間試験と殆ど同量の問題が記載されていた。ふだん、クラスの人たちから僕への質問は一問単位で行われることが多い。それは多分申し訳なさからなのだろう。比して本浄が見せてきたのは両手の指で足りるかどうかの問題数だ。忙しいわけでもないけど、わざわざ殆ど喋ったことのない彼女のためにそこまでの時間を割く義理もない。確かにそうなのだけれど、それなのに僕は、彼女に手を差し伸べることにした。

「いつまで?」

「えっ」本浄が驚いた表情でこちらを見た。

「だから、そのプリント、いつまで?」

「今日の放課後、下校時間、七時までです」

「だったら放課後にしよう。一時間じゃ終わらないかもしれないし」

 そう言うと彼女は少し驚き、その薄幸そうな顔をわずかにほころばせて「ありがとうございます」と言った。それにしても、どうして未だに一か月前の中間を引きずっているのだろう、と考えたところで、二週間ほど前に物理の再試が行われていたことを思い出した。これはそれすらも失敗してしまった本浄にとって、文字通り最後の救済なのだろう。

 僕は本浄瑠璃が心配だった。主に進級が。

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