米良街道

@nobuo77

第1話

 父は七十二歳の真冬日に、ゴキブリを喰ったのがもとで死んだ。


 数日前に降った東京の大雪がまだ溶けきらずに、あちこちの道端や軒下に薄汚れたまま残っている日の午後、石油ストーブで暖まった二階の父の狭い書斎に、のこのこと這い出てきたゴキブリを手づかみにして、父は口に放りこんだらしい。

 動きの敏捷なはずのゴキブリが、動きのかんまんな老人に捕獲されることなどあっていいはずはない。ゴキブリの動く方向と父の手のおちる位置が、あまりにもかさなりあってしまったのが、不幸のはじまりだったのかもしれない。

父は手につかんだものを確認することなく、口の中にほおりこんでしまった。


「どうも腹の具合がおかしい」

そう言って父がふらふらと、青白い顔色をしながら二階から降りてきたのは、その日の夕方だった。

台所に立って、蛇口から勢いよくコップに水をため、ごくごくと喉の奥に流し込みながら、独り言をいっている。


「なにか食べたんじゃない」

少しはなれたところにいた母が、ちらっと父の顔を見ていった。

この二、三日、顔に剃刀をあてた様子もなく、無精ひげがのびていた。


 その頃父は、古代史の論文の執筆に夢中だった。若い頃から手がけていた「天照大御神一族の渡来と卑弥呼の謎」という研究テーマが、この冬にはどうにか一区切りつく見通しが立ったところだった。


 父のクセは、熱中すると、まわりのものは何も見えなくなるらしくて、何年か前には、コーヒカップとインク壺を間違えて口に運び、唇を青くしていたことがあった。

それ以後、つけペンをやめて、カートリッジ式の万年筆に切り替えていた。

今回もまた、何を口の中に入れたのかわからなかったらしい。

少し口の中にざらつきを覚えたが、その時には気にならなかったという。


 テーブルにぼんやりと座っている父に母が事情をたずねたところ、ゴキブリの話が出てきた。

「ストーブのまわりをゴキブリがうろちょろしていたな」

父は、母の問いかけにうわごとのような表情でつぶやいた。

「ごきぶり?」

「‥」

「温すぎるからよ。すこし窓を開けたら」

「孫のさおりからもらったバレンタインデーのチョコレートを側に置いていたから、それと間違って口に放り込んでしまった」らしい。

「すぐに気づかなかったの?」

母はあきれていた。

「妙な味だと思ったが、確認せず一気に呑み込んでしまった」

父はぼんやりと目を泳がせたままつぶやいた。

母は腹痛の常備薬を取りだしてきて父に飲ませて、ひと晩様子を見ることにした。


 翌朝になっても父の顔色はさえなかった。

気力も衰えているようで、布団から起き出そうとしない。

目ぶたが垂れ下がり、口のはしには、よだれが少し流れ出ていた。

たった一晩で、父の表情に老いが濃く感じられた。

明らかに昨日までとは様子がちがっていた。


「お父さん、ご機嫌いかがですか?」

と母親が耳元で語りかけても、目を閉じたまま力無く「ああ」とうなずくだけだった。

かかりつけの病院に電話を入れて、その日の午後から入院することにした。

下痢は二、三日でとまった。

しかし、父の体力はそのときを境に、日に日に弱くなり、とうとう二ヶ月間、病院のベ

ットに寝たきりになってしまった。


「ア、ア、ア」

父は亡くなる直前に、そうやって何度か唇をふるわせた。

父が最後に何を言おうとしているのか、ベットを取り囲んでいる家族の者にはわかっていた。

「アマメよ」

母は力無くつぶやいた。


 父の話によれば、ふつう、東京ではゴキブリと呼んでいる昆虫を、宮崎県高千穂地方ではアマメと呼んでいるようだった。

父は無意識で口にほうり込んだり、死の直前に昆虫の方言の名を口にするほどの執念とは一体何だったのか、私は気がかりだった。



 父が異常な言動を見せるようになったのは、昨年のちょうど今頃に、南九州の旅を終えて帰宅したあたりからだった。

約一週間をかけて、古代神話の里巡り、と称しながら、宮崎県の山間部をまわる父の旅は、定年後、ほぼ毎年のようにつづけられていた。


 今回の旅では、かなりの収穫があったようだ。

リュックザックの中の荷物を取り出しながら、ぎっしりと書き込みのある大学ノートをパラパラとめくって見せ、満足げに笑みを浮かべていた。


 翌日からは、朝食を終えるとすぐに二階の書斎に閉じこもり、夕食時まで降りてこないことが度々あった。

いきなり、意味不明な声に、母がおどろいて二階に駆け上がると、父は凍ったように机に向かっていて、微動だにしない。

「お父さん、大丈夫」

母が声をかけると、

「……思案の妨げをするな」

と怒られたりした。


 定年まで都会の一サラリーマンだった父は、若い頃から古代史の研究に熱心だった。

「趣味で勉強している程度でして……」

人にはよくそう言っていたが、アマチュア歴史家として、その分野で父の名はかなり知れわたっていた。


 特に紀元三世紀前後の卑弥呼伝承や天照大御神伝承には、熱心に取り組んでいた。古事記・日本書紀や、魏志倭人伝・倭国の記述はそらんじているほどだった。


 定年後、魏志倭人伝に表されている邪馬台国の卑弥呼は、記・紀に記されている天照大神一族の末裔だった、という持論を検証するために、並々ならぬ情熱をかたむけていた。


 父は自説を原稿用紙に長々と書き連ねて、尊敬するある古代史学者に送った。

この学者は昨年、日向をテーマにした神話と歴史の接点を、大胆に推理した本がベストセラーになっていた。


 返事はすぐにきた。

大変興味ある御説ではあるが、単なる推論だけでは弱い。

今後の研究で自説を補強するような、斬新な傍証がでればおもしろいと思います。

というような内容が書かれていた。


 卑弥呼と天照大御神を同一視したり、末裔論は、これまで古代史学者やアマチュアの研究者達から幾度となく発表されていた。

いずれも机上の推論を乗り越えられないままで、いつの間にか忘れられている。

「斬新な傍証ね……」

父は古代史学者からの返事に、勢いづいたようである。


 それからは今まで以上に、傍証の手がかりを求めて、瞑想やこれまで集めてきた資料あさりに、一日の大半をあてるようになっていた。

若い頃からの新聞や雑誌の切り抜きだけでも、蜜柑箱の段ボールの中にぎっしりと詰め込まれていた。古代史の講演会に出かけたときのメモ書きだとか、書籍の読後感などのノートも数冊になっていた。


 朝食をすませて軽い散歩から帰ってくると書斎にこもりきりで、夕食時に疲れた表情で二階から降りてくる。

サラリーマン時代よりも、疲れは深刻に感じられた。


「傍証といっても、ほとんど過去に考え尽くされている」

湯上がりに、ときにはうつろな眼差しで弱音を吐くこともあった。

「そろそろ、古代史も卒業の時期だな」

私が晩酌の相手をしながら言うと、

「ライフワークは棺桶まで持っていくよ」

と、お湯割りの焼酎をなめながらつぶやいた。



 父の古代史巡りの旅は、ほとんどが南九州、それも宮崎県の山間部を歩くことが多かった。

とりわけ、天照大女神の孫とされるニニギノミコトが、天の八重雲を押し分けて天降ったとされる、宮崎県西臼杵郡高千穂町や皇室参考墓陵のある、西都原の一大古墳群は、父のお気に入りの古代遺跡だった。

高千穂の自然景観は神話と歴史をまろやかに包み込んで、現代人に語りかけてくる雄大さが残されている。

それと対照的なのが西都原古墳群の墳墓都市の存在だ。

大小の百を越える様々な様式を持つ墳墓の出現は、そこに強大な権力の介在がなければ成立しなかった、というのが父の持論だった。


「何か手がかりを見つけだすことが出来るかも知れない」

今回は、傍証の検索に行き詰まった父が、気分転換に出かけた旅だった。

その頃、東京の街は暮れの商戦で賑やかだった。前の晩、リュックザックを引っぱり出してきて、旅の準備をしている父に、

「年明けにしなさいよ」

母が言うと、

「時間が足りない」

と相手にしなかった。


 父の厚手のセーターの中には、当てのない目的に立ち向かう、悲壮感のようなものが詰め込まれているような気がした。

私は底冷えのする十二月の朝、車で新宿駅西口前まで送っていった。

父は高速バスで羽田空港に出て、格安の割引航空券で宮崎に向かう。

これがいつもの手順だった。



「今度の旅は収穫があったぞ」

旅から帰った父は、一週間ぶりに家族がそろった夕食の座で、めずらしく興奮していた。


窓の外には雪が降っていた。テレビ画面には、くり返し東京地方に大雪警報、のテロップが流れていた。


「暖かい地方に出かけたんだもの。お父さん幸せよ」

と母が、テレビ画面を横目で見ながらつぶやいた。

「日向も雪だった。九州といっても、山間部には雪が降る。あの地方の祖母山や市房山には、もう積雪が見られた」

冬の期間をとおしてみれば、東京の平野部よりも九州山脈の東尾根の方が積雪の量は多い。

熊本の阿蘇山脈から東に連なる五ヶ瀬や高千穂の山間部には雪雲が流れこむ気象条件になりやすい。


「収穫って、なに」

私は父が満足そうに焼酎のお湯割りをなめている横に座ってたずねた。

「笑わんでくれ。今回の旅では三回もゴキブリに出会ったんだ。もっとも、最後の一回のやつは、錦帯といってな、ゴキブリの大群を連想させる錦の帯みたいなものだった」

夕食の料理を前にしての父の一言に、母や妻の表情がくもった。


「そんな話、食事がすんでからにして」

コップをテーブルの上に置き、話し出そうとする父に向かって、遮るように母が口をはさんだ。


 父は黙ってコップを持ち直し、残った液体に口をつけた。

内心では、今回の旅で自分が受けた感動を、少しでも早く家族に披露したい様子だった。

しかし、その晩は話し出すきっかけがないままだった。



「暮れに、ゴキブリの話をしていたね」

正月休みのある日の午後、めずらしく所在なさそうに縁側の日溜まりに座っている父に、私は語りかけた。

「これまでの日本の古代史観をゴキブリが変えることになる。その道筋をわしは、暮れの古代史巡りの旅で発見した」

と、真顔で語る父の顔を見ながら、私は黙って聞いた。

内容があまりに荒唐無稽なため、私は父に呆けの症状が現れたのかも知れないと、一瞬、深刻な恐怖を覚えたほどだった。

話の内容は、にわかに信じがたくても、話の筋道はそれなりに整然としている。

聞いていても理解できた。

父の目は輝き、額や頬は紅色に高揚して見える。


 父は今回の旅で、あれほど苦しんでいた、卑弥呼や天照大御神に関わる、傍証の何らかの手がかりをつかんだのだと、私は信じた。

それに何よりも、新年早々、話を途中で遮ったり、否定的な意見を言って、高齢の父を悲しませたくはなかった。


「お父さん、近頃なんだか変みたい」


 そんなある時、母が二階の父にお茶を運んで行き、しばらく経ってから降りてきて、深刻な顔で私にこぼしたことがあった。

母の説明によると、父は机に向かって、一心不乱に新聞の折り込み広告紙の裏へ、ゴキブリ、アマメ、卑弥呼、天照大御神と書き込んでいるということだった。

父がゴキブリを口に放り込んだのは、それから数日後のことだった。

父が最後の日向の旅で得た、日本の古代史とゴキブリは本当に関連づけられるのか、父の一周忌が近づくにつれて、私はその思いが日に日に強くなっていた。



 十二月のある日の午後、私は宮崎駅前の停留所で、JRバスの西米良行きを待っていた。

人通りがほとんどない駅前広場には、客待ちのタクシーだけが目立った。

駅前広場のバス停にも乗降客は、わずかしか見かけなかった。

構内を出たところでバスの時刻表を調べると、十分後に西米良行きのバスが出ることがわかった。


 運良く私の勤務している電機会社の冬期休暇を前にした技術講習会が、北九州市で行われ、その講師を担当する事になったのを機に、土、日を利用してやって来た旅だった。

小倉から乗り込んだ特急は五時間三十分近くかかった。東京から福岡までは、飛行機で一時間半足らずでこれたのに。

宮崎駅のホームに降り立ったときには、思わず地の果てに運ばれてきた気がした。

父の古代史の旅の出発点が、東京からこんなに遠いところだっのを私は初めて知った。


 定年後は、ほぼ毎年のようにやって来て、ここから更に奥地を、一週間近く歩いていたのだ。

父の執念が、この地に染みついているように思える。

駅前広場に林立する椰子の葉影の向こうに、薄い太陽が浮かんでいた。南国の光に似合わず弱々しい。

西側に延びる道路から、冷たい風がふきつけてくる。

私が西米良に旅するのは、今回が初めてだった。


 この南国の山深い過疎の村に関する情報は、生前の父から度々聞かされていた。そこは古代から変わらぬ自然風景がいまも残り、古代の暮らしを連想させるような人々の生活が営まれている、ふるさとだった。


 父は都会のごくありふれたサラリーマンだったが、父の特徴を一つあげろといわれたら、即座に考古学に傾倒していたと答えることが出来る。

古代史、とりわけ日向神話の考察に関して、晩年になるにしたがって父独自の説を築いていったようであった。


 父も私も東京で生まれ育った。

父のライフワークであった日向神話をのぞいて、我が家と日向とのつながりは皆無といってよかった。

そんな父が何故古代史、それも日向神話に関心を持つようになったのか、生前何度かたずねたことがあった。


「天照大御神にしても、神武天皇にしても日向を避けては前に進むことが出来ない」

というのが父の返事だった。

日向を避けては何故前進できないのか、私は長い間、理解できなかった。

また、「日向神話を紐解くことにより、おのずと邪馬台国の卑弥呼伝説の解明にもつながってくる」

生前の父は、力強く語っていたことがあった。


 私も人並みに歴史に興味をいだいていたが、日向神話まではとてもさかのぼることは出来なかった。

あまりにも遠く、漠然とした説話じみた歴史には、実感がともなわなかった。

 

 休日の午後、二階の奥まった狭い書斎に閉じこもって、まったく先の見通しのきかない深い霧の中の学問に立ち向かう父の姿に、子供心にも感銘を受けたことがあった。



 赤い車体のJRバスは、約一時間後には西都市内を走っていた。乗客は私を含めて三人しか乗っていなかった。

途中何人かの乗り降りはあったが、始発の宮崎駅から乗り続けている客は私一人だけだった。


 古い町の家並み越しの前方に、大きな西都原古墳群の案内板が近づいてきた。左一キロ西都原古墳群。

右三百メートル都万神社と書かれている。私はすでに日向の古代遺跡の中にいるのを実感した。


 車窓の左手に、杉木立に囲まれた小高い丘が連なっている。どうやらあのあたりが四、五世紀頃に栄えた古墳の群落地だろうと察しがついた。

都万神社についても、古代神話に重要なつながりを持っている。


 西都原古墳群の話は、父から度々聞かされていた。ニニギノミコトの墓と伝えられている男狭穂塚と、コノハナサクヤヒメの墓と伝えられている女狭穂塚は、私が父の影響を受けて、日向神話にとりつかれるようになってから、南九州で最初に知った古代遺跡だった。

 

「天照大御神の孫がニニギノミコト。その妻がコノハナサクヤヒメだ。」

休日前の晩酌でほろ酔い気分の父は、すでに結婚して二児の父親になっている私に、小学生に話しきかせるような素振りで、くり返し語りかけてきた。


 若い頃の父はビール党であった。いつの頃か焼酎に変わり、それが晩年には、高千穂や西都の蔵元から取り寄せた地元の焼酎を、お湯割りでなめるようにしていた。


 西都の市街地はあっけなく通過した。乗降客は一人もいなかった。冬枯れの田園があらわれた。住宅が点在しているが、どこにも人影は見あたらなかった。

穂北と杉安と読める停留所で二人の乗客は降りた。老婆と中年の男性だったが、声を掛け合っていたところを見ると、お互い顔見知りなのだろう。

バスはゆっくりと橋を渡った。

持参してきた昭文社の宮崎県地図をひろげてみた。九州山脈の中央部に源流部をもつ一ッ瀬川だった。

橋をわたってしばらく走った道路脇に、米良街道と読める道路標識がたっていた。



 道は右側の山肌を切り開いて、川の流れに沿ってのびている。

道幅の広いアスファルト道路は快適だった。時折、対向車があらわれるくらいで、追い越していく車はなかった。

「お客さん、どこまで行きなさっとですか」

不意にバスの天井のスピーカーから声がした。

程良い車内の暖房に、私はうとうとし始めていた。少しおどろいて運転席の方を見ると、運転手がルームミラーに視線を向けていた。


「西米良です」

「有り難うございます。これから先は乗降客もほとんどありません。ゆっくりしてください」

「大変ですね。これでは燃料代も出ない」

「子供達が朝晩の通学時間帯に乗ってくれるだけです。過疎地の宿命みたいなものです。この路線も、間もなく廃線になる運命です。お客さん、どちらから来られたんですか」

「東京から」

「そうですか。旅行ですね」

「まあ、そんなところだ」

私はバスの運転手の話しに、適当に相づちをうちながら、通り過ぎる川筋の風景に目をやっていた。


 冬だというのに、山の斜面には緑が多く残っていた。九州山脈の東壁といっても、このあたりはまだ、日向灘からの海風を山肌にだきこんでいて、空気をあたためている。整然として杉木立が美しい。

澄んだ川面に、時折、水鳥がくちばしを浸けながら飛んでいく。

川幅のひろい一ッ瀬川に吊り橋が架かっている。どうやら対岸に神社があるらしい。木立の間から鳥居が見える。


 道は時折、大きくカーブした。短いトンネルを抜けると、前方の視界がひらけた。

ダムがあった。バスは杉安ダムという停留所を徐行することもなく通過した。

「やっぱり、古代史を調べられておられるんですか」

少し直線道路が続くと、運転手が話しかけてくる。

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