12月24日【嵐の終わり】
扉から一歩外へ踏み出しますと、そこはもう嵐のただ中でした。暴風に揉みくちゃにされて、どちらが上でどちらが下なのか、分からなくなります。
実浦くんは左腕で、顔のない子供を抱き寄せました。右腕には、火灯し妖精の入ったカンテラを、しっかり抱え込みました。
それと同時に、実浦くんの足元が、すっと下へ落ちたような感覚がありました。それは感覚だけでなく、本当に、床が消えてなくなってしまったのです。実浦くんはいつのまにか、高く火口の上空へと、投げ出されていました。
地面の側に背中を向けて、仰向けに見上げた空には、暗い嵐が荒れ広がっています。このまま火口へ落っこちるのか、もしくは嵐に吸い込まれるのか。実浦くんがそう思ったときでした。
暴風が、暗雲が、嵐そのものが、
「あら、なによそれ」
火灯し妖精が驚いて、カンテラの中から身を乗り出すようにして、子供の顔を覗き込みました。顔の穴の中では、やはり嵐が暴れています。「それ、平気なの?」と火灯し妖精が尋ねますと、子供は「うん」と小さくうなずきました。「へえ、すごいのね。あんた、嵐の子なんだ」と火灯し妖精が感心したので、嵐の子はつま先をもじもじすり合わせました。
嵐の消え失せた空は、あっという間にいつもの平静を取り戻します。どちらを向いても、霜の解けてあらわれた朝露のように、冷たく澄み切った闇しかありません。真下にだけ、真円の火口がぽっかりと、紅い熱と光とを吐き出しているのがよく見えます。
けれど、そうして、辺りの様子をよく見ていられたのもここまででした。綺麗な放物線を描くようにして、宙に放り出された実浦くんたちは、やがて放物線の頂点を過ぎますと、あとは自然に落下していくのです。
『あ、いけないいけない』
カンテラは慌てて、大きな鳥か、あるいは滑空機のようなものになろうとしました。しかしあんまり慌てていたせいでしょう。翼は鳥とも滑空機ともつかないものになってしまって、上手く飛ぶことができず、きりもみのようにして落下速度をはやめます。
このままでは、火口へ落ちる!
実浦くんが目を見開いて、間近に迫る火口を睨みつけたときでした。
何千何万、何億という数のヒトリガが、群れをなして火口から飛び立ち、実浦くんたちを柔らかく受け止めたのです。それはまるで、よく温まったお布団の上に飛び込むような、夢のように心地よい着地でした。
火の粉と光とを散らしながら、マグマから生まれたヒトリガたちは、その羽の目玉模様をぴかぴか点滅させました。電気言語です。何と言っているのか、実浦くんには分かりませんが、可変のものには理解できるはずです。滑空機への変身に失敗した可変のものは、今はまた元のカンテラの姿になっていました。そして『うんうん』とヒトリガたちの電気言語に相槌をうち、やがて『頼まれたから、助けに来たんだって』と言いました。
「頼まれたって、誰に?」
実浦くんが尋ねますと、カンテラがそれに答えるよりはやく、火灯し妖精が「あっ!」と嬉しそうな声を上げました。そして小さな指で、遠くの方を指差しました。
彼女が指した方を見ます。そして、実浦くんもそれを見つけて、ほうっと口元をほころばせました。
観測所の屋上に、人影が見えます。ふたつの人影は、屋上にある通信機のそばに立ち、実浦くんたちに手を振っているのでした。
ヒトリガの群れは、火口の上を優雅に一周したあとで、観測所の屋上へ実浦くんたちを下ろしてくれました。通信機からヒトリガへ救助要請を送り、それからこわごわと様子を見守っていた灯り捕りは、実浦くんたちが無事に屋上へ到着すると、おじいさんの手を取って大いに喜びました。
おじいさんは、まだあの気難しそうな表情を崩したわけではありませんでしたが、唇の端っこに、どうやら笑顔らしきものを少しだけ浮かべました。
「おい、なんだか妙なものが増えているな。厄介なものを連れて来おって」
おじいさんは、嵐の子を見て顔をしかめました。けれど、実浦くんが何か言う前にその子の手を取って、「凍えている。中に入りなさい」と嵐の子を連れて行ってしまいましたので、実浦くんと火灯し妖精は、目を見合わせて笑いました。
観測所の中は、カンラン石の暖炉がそこかしこ煌々と照らしており、春のように温まっています。嵐の子を、暖炉の一番近くの特等席に座らせて、おじいさんは奥の部屋に行ってしまったようでした。ホットチョコレートの匂いが漂ってきます。
この部屋で、たくさんの子供たちがホットチョコレートを飲んでいたのが、もうずいぶん昔のことのように思えます。今は、あの嵐の子がひとり、暖炉のそばに所在なく座っているだけです。嵐の子は痩せた背を曲げて、カンラン石の光にじっと見入っていました。
「みなさん、よく帰ってきましたね」
嵐の子の背を見つめていますと、灯り捕りが、暖炉の光に目を細めながら、実浦くんの隣に立ちました。灯り捕りは、大きすぎる上着や大きすぎる帽子をすっかり着込んで、大きすぎる鞄を肩にいくつもかけています。もう、今すぐにでもここを発てるといった様子です。
「旅をしていますと、別れというものは、数え切れないほど経験することになります。けれどいくつ別れを経験しても、さよならを言えない別れとは悲しいものです」
灯り捕りはそう言って、微笑んだまま、実浦くんの目を覗き込みました。灯り捕りの瞳は深い深い青色で、どこかモホロビチッチ地下博物館の、ランプの魚たちが泳いでいた海を想起させました。
「もう、行ってしまうんですか」
実浦くんが尋ねますと、灯り捕りはうなずきました。
実浦くんとしては、もう少し、灯り捕りとの再会を喜びたかったのです。暖炉の前でホットミルクを飲みながら、地下であったことや、嵐の中で見たものについて、灯り捕りに話したかったのです。
けれど、彼女には彼女の都合があり、もうここを発つと言っているのですから、それは仕方のないことなのでした。
「さようなら、実浦くん」
「さようなら、灯り捕りさん」
二人は、握手をして別れを惜しみました。それから灯り捕りは、青白いカンテラをなでて別れを惜しみ、火灯し妖精を頬に抱き寄せて別れを惜しみました。おじいさんは、ホットミルクを温めながら、「いま火を扱っているから話しかけちゃいかん」とぶっきらぼうに言って、別れの挨拶を拒みました。けれど灯り捕りが部屋を出ていくとき、こっそりと「さようなら」と言いました。
全員に挨拶を終えると、灯り捕りは、大きすぎる上着をコウモリのように広げました。上着の内側には、まるきり宇宙と同じ闇が広がっていました。そしてその中に、たくさんの宇宙が始まってから終わるまでの、ありとあらゆる光が、泡のように浮かんでいるのです。
「さようなら、みなさん。あなたたちのこと、忘れません」
そう言うと、灯り捕りは、宇宙の上着を頭からかぶりました。そして卵のように丸く小さくなって、ついにはほんのわずかの光だけを残して、消えてしまったのでした。
「行ってしまったわね」
火灯し妖精が、寂しそうに呟きます。『行ってしまったねえ』と、カンテラも呟きます。実浦くんは、ひどく寂しく胸が絞られそうになったのですが、そうなる暇も与えずに、おじいさんが銀のお盆を持って、暖炉の部屋へ戻ってきました。
お盆にはホットチョコレートが一杯と、あとはやっぱりホットミルクが人数分、乗っています。
「さあ、飲みなさい。美味しいよ」
おじいさんは、なみなみと注がれたホットチョコレートを、嵐の子に差し出しました。嵐の子は黙ってそれを受け取ると、顔の穴の中に流し込みました。嵐はごうごう唸りをあげて、甘いホットチョコレートをさらっていきます。
火灯し妖精が「ありがとう、でしょ?」と尖った声で叱りますと、嵐の子はふてくされたような声で、「ありがとう」と言いました。おじいさんは強い鼻息のような声を漏らしたのですが、それはもしかしたら、ちょっとだけ笑ったのかもしれませんでした。
実浦くんもおじいさんにお礼を言って、ホットミルクのカップを受け取りました。お砂糖がとかしてあります。ほんのり甘くて、実浦くんの体の隅々まで染み渡っていきます。
カップの半分ほどまで一気に飲みますと、まず頬の辺りが熱くなって、それから耳が熱くほてりました。吐く息が体温より熱く、鼻先をくすぐります。お腹に小さな太陽を抱え込んだように、体の内側からほくほく温まってきます。
そういった感覚を、実浦くんはひとつひとつ、丁寧に拾い上げていきました。
「美味しいわねえ」
火灯し妖精も、小さなカップからホットミルクを飲んで、ほっと息をつきました。そして、「だけど今くらいは、ホットチョコレートの方を出してくれたって、良かったんじゃないかしら」と、わざと大きな声で言いますと、火灯し妖精の文句が聞こえたらしいおじいさんが、「ふんっ」と強情に鼻を鳴らしました。
そのやり取りを見て、カンテラがくすくす笑います。実浦くんも笑います。そして、嵐の子も、ほんのちょっとだけ笑いました。
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