12月23日【石炭袋】


 河川敷に並べられていた無数のランタンが、ふわりと宙に浮かびました。それぞれの速度をもって、ゆらりゆらりと揺れながら昇っていくランタンを、実浦くんたちは黙って見送ります。

 全てのランタンが、実浦くんの頭よりずっと高いところまで飛び上がったころ、カンテラが『じゃあ、そろそろ帰ろうか』と言いました。

 そうです。帰らなければなりません。この嵐の外側へ。暗く静かな夜の国へ。


 実浦くんの友達たちが寄ってきて、実浦くんの服を掴みました。行かないで、と言っているのです。けれど実浦くんは、首を横に振りました。

「ぼくもう行かなきゃならない。嵐が来るから」

 そして、視線を川の方へ向けます。川の中ほどには、顔のない子供が立っていて、実浦くんを睨みつけています。その子が酷く怒っていることは、誰の目にも明らかでした。火灯し妖精が怯えて縮こまりましたので、実浦くんは彼女をカンテラの中に隠し、カンテラを腕の前に抱きかかえました。

「卑怯者」

 顔のないその子が言いました。

「お前、ほんとはいやなやつのくせに」

 否定することもありませんので、実浦くんは「うん」とうなずきました。

「誰かを傷つけて、ざまあみろって笑える人間のくせに。お前が誰かに光を分けてあげるのは、善い人のふりをしたいからなんだろう」

「そうだ」と実浦くんが言いますと、カンテラの中から「違うわよ!」と火灯し妖精が叫びました。

「なによあんた、意地悪なことばっかり言って」

 火灯し妖精は、威勢よく拳を振り上げながら怒ります。実浦くんはそれを嬉しく思いながらも、指の先で彼女の羽をちょいちょいとつついて、「違わないんだ」と彼女を制しました。


「ぼくは本当に、いやなやつなんだ。ぼくはいつだって自分が一番正しいような顔をして、悪者をやっつけるみたいな気持ちで、気に入らないやつにつぶてを投げたんだ」

「そんな人じゃないわよ、あなたとっても優しいでしょう」

「それはあの子の言う通り、ぼくが善い人のふりをしたためだ。たくさん善いことをすれば、昔のぼくが犯した罪は、すべて帳消しになると思っていた。そんな考えこそが卑怯だなんて、思いもせずにね」


 ランタンが、ずっと空の高い方へ昇っていきます。それにつれて、実浦くんたちの立っている河川敷は、どんどん暗くなっていきます。やがてランタンは、空の星と紛れて見分けがつかなくなりました。そしてどこまでも透明な川の水に、夜空の星々やランタンが映りこんで、実浦くんたちは夜空の縁に立っているようです。

 実浦くんは、川の方へ一歩踏み出しました。右足が水際を踏んで、靴の中に冷たい夜が染み込んできます。

「そうだ、お前はいやなやつだ」

 顔のない子供が、再び実浦くんを責めました。

「だから、お前はずっとここにいるんだ。意地悪なやつ、乱暴なやつ、ひねくれたやつ、みんなずっとここから出られないんだ」


 ああこの子は泣いている。実浦くんはそう思いました。顔のない子供は、もちろん顔がないので目も口もどこにもなく、ただ嵐の吹いているだけなのですが、それでも実浦くんは、この子が泣いていると思ったのです。そしてなぜ泣いているのかも、実浦くんにはよく理解できました。「分かるよ」と実浦くんは言います。

「始めから、善い人であれたなら良かったよね。あの子たちが羨ましかった。あの子たちみたいに、最初から優しく、高潔であれたならば良かった。でも、ぼくたちは違った。ぼくたちは意地悪で、乱暴で、ひねくれていて、だからここから出られない」

 実浦くんはカンテラを左腕に抱えて、空いた右腕を、顔のない子供へ差し出しました。

「でも、一緒に出よう」

 子供は、呆気にとられたのか、力の抜けたように腕を垂らしました。それからすぐに肩をいからせますと、差し出された手を強く叩きました。

「いやだ。意地悪で、乱暴で、ひねくれたやつなんて、夜の国だって歓迎しない」

「じゃあ、一緒に優しくなろう。いつか憧れたあの子たちみたいに、優しく、高潔で、誰かの幸福を願えるような人間になろう」

「いやだ。そんなのは、ぜんぶ嘘だ。そんなことしたって、お前の罪が消えるわけじゃないんだぞ」

 実浦くんは、深くうなずいてから、強引に子供の手を取りました。真冬の夜、星が空をひと巡りする間ずっと、北風にさらされていたかのような、冷えてかじかんだ手でした。子供の方も、実浦くんの手の温かさに驚いたようでした。あるいは、自分自身の手の冷たさを始めて知って、それに驚いたのかもしれません。


「行こう」

 実浦くんが引っ張ると、顔のない子供は、今度はその手を振りほどきはしませんでした。そしておずおずと、こわごわと、実浦くんの引く方へと足を進めます。

 顔のない子供が川なかを一歩行くごとに、川面に映った銀河が揺れ動きました。揺れた光は川底の小石に反響し、それぞれの波長を干渉し合って、電気言語のようなまたたきを残しました。

 そして顔のない子供が、宇宙を映した川の中からついに陸へ上がった瞬間、河川敷も、空を埋め尽くすランタンも、あれほどにぎやかだったお祭りもみなかき消えて、実浦くんはまた、斜陽差し込む教室の真ん中に立っていたのです。


 大きな星図が、西日を受けて燃えるように紅く染まっています。実浦くんはその星図の隅っこに、真っ黒なインクの染みを見つけました。空のあな、石炭袋です。きっと夜の国は、石炭袋の底にあるのです。

 実浦くんはそのインクの染みに、そっと指先で触れてみました。じんとしびれるような冷たさが、実浦くんの肌から骨へ、そしてさらにその奥へ、ずっと染み入ってきます。

 放棄されたものたちのための、夜の国。その国の中にさえも居場所がなく、さらに放棄されてしまったものが集うのが、このお祭りの夜なのかもしれません。すると、世界には一体いくつの石炭袋があるのでしょうか。そしてその真っ暗な袋の中に、一体いくつのものたちが放棄されているのでしょうか。

 実浦くんはこうべを垂れ、星図の上の石炭袋をなでながら、それら全てのもののために祈りました。幸福や救済を祈るのは、どこか傲慢であるような気がしましたので、実浦くんは、ただ彼らのために祈るという行為だけをしました。それで、深い夜のどこかにいる誰かが、ほんの少しでも光ったならば良いと、そう思ったのでした。



 祈りを終えて、実浦くんはとうとう教室の扉の前に立ちました。扉は見た目には木でできているようなのですが、真鍮のような薄っすらとした輝きがあり、その奥からは、ごうごうと嵐の風音が響いています。この扉の先に、帰り道があるのです。

 顔のない子供が怯えたように、実浦くんの手にすがりつきました。

「ぼく、本当にここから出ても良いのかな。ぼくがここから出ることは、善いことなのかな」

 実浦くんの服に頭を埋めたまま、顔のない子供は、不安げに呟きます。実浦くんはそれに「分からない」と正直なところを答えました。

「分からないけれど、でも本当は、物事の善や悪を判断することなんて、神さまにしかできないのかもしれない。ぼくたちにゆるされているのは、善いのか悪いのか問い続けて、悩み続けることだけなのかも」

 実浦くんは子供の肩を抱き、そっと自分の方へ寄せました。

 まだ子供の、小さな肩です。意地悪で、乱暴で、ひねくれた、人間のいやな部分を寄せ集めた子供です。放棄されるべくして放棄された子供です。それでも実浦くんは、その子の肩を抱き寄せたまま離しませんでした。

 実浦くんの中にある、意地悪で乱暴でひねくれたたましいを、そっと光で包んで、心のなかに大切にしまい込むように、この子供のことも、きっと離すまいと決めたのでした。


 嵐の風がいっそう強く吹いたのか、木の、あるいは真鍮の扉が、大きな音を立ててしなりました。もうそろそろ、あの暴風の中に飛び込んで行かなければなりません。

 それでも、いつまでたっても迷っている顔のない子供に、業を煮やしたのか、火灯し妖精がカンテラの中から舞い出ました。

「あなたって、実浦くんにそっくりね」

 そして、顔のない子供の頭を、小さな手でもってぺしっと叩きました。紅い火花が散って、子供の髪を彩ります。

「いつもじっと、何かを考え込んでる。そしていつだってそれは、過去のことばかりなんだわ」

 火灯し妖精は、花びらみたいに子供の周りにまとわりついて、その肩や背中や膝小僧なんかを、次々に叩いていきます。

「いいこと? 善いや悪いや、そんなことは人間が勝手に言っているだけのことだわ。物事はもっと単純に、何かが起こったり起こらなかったりするだけなのよ」

 顔のない子供は、たちまち全身に火灯し妖精の灯りを受けて、ろうそくの芯みたいに、明く橙色に光り始めます。

「ほらもう、これで怖くない? まったく世話の焼けるわね。さあさあ、早く行きましょうよ」

 火灯し妖精が、子供の人差し指を掴んで、扉の方へと引っ張ります。すると顔のない子供は、ぽっかり穴の空いた顔で恥ずかしそうに笑って、うつむいていた顔を上げ、ようやく扉の方へ向いたのでした。


 実浦くんの頬を、激しい風が打ちました。殴るような横風です。教室の扉は開け放たれています。

「嵐が来る。今夜、お祭りなんてもうないんだ」

 自分に言い聞かせるように、実浦くんは、きっぱりと言いました。一度だけ、後ろを振り向きます。教室の中はがらんとしていて、誰ひとりそこにはいないのです。そして実浦くんは、暴風の吹き込む扉に向き直りました。

 扉の先は真っ暗で、嵐が、善いも悪いも吹き飛ばさんと荒れ狂っています。過去の物事はもはや変えられず、実浦くんの前には、これから起こる様々な事象の、可能性ばかりが果てしなく広がっているのでした。


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