12月16日【再び、暖炉の前で】


 静かになった屋上で、誰もなにも話しませんでした。大仕事をやり遂げて、その達成感と疲労感が、みなの体を包み込んでいました。

「私、なんだか眠いわ」

 火灯し妖精がそう言いますと、実浦くんの手の中で、八角形のオルゴールが鳴り出しました。しるべの歌ではなく、別の曲を奏でています。実浦くんはその曲に覚えがありました。たしか、どこかの国でよく歌われる子守唄です。

 子守唄に誘われて、火灯し妖精はとろんとまぶたをとろかします。そして、実浦くんの肩の上にふんわり舞い降りて、小さな体を横たえました。橙色の灯りが、ゆっくり明滅し始めます。

「やあ、疲れたろ」

 おじいさんが、小さな声で言いました。

「下に行って、休みなさい」

 実浦くんも、ほかのみんなも、その言葉に甘えることにしました。暖炉の前のソファは、今やそれを占領する子供たちもいないので、実浦くんたち全員で使っても、なお広すぎるほどなのです。



 暖炉の中のカンラン石は、相変わらずオリーブ色に光りながら、部屋を温めています。実浦くんは、暖炉から程よく近いソファの一番柔らかい場所に、火灯し妖精を寝かせました。

 火灯し妖精はいつかと同じように、真っ暗な鉄鉱石のように冷え始めていました。オルゴールは子守唄を鳴らすのをやめて、硬い黒曜石の体を大きく広げたかと思うと、青白く光る柔らかな毛皮になって、火灯し妖精の上にそっとかぶさりました。

「あんまり飛んだり光ったり歌ったりしたので、きっと疲れてしまったのでしょうね」

 眠っている火灯し妖精を見つめながら、灯り捕りが言いました。実浦くんはうなずいて、そしてようやく自分も、ソファの端っこに腰を下ろします。


 部屋は充分に温かく、平穏です。また少し風が強くなったのか、窓ががたがた音を立てています。見かけにはさっきまでと何も変わらず、たくさんの毛布や、ホットチョコレートのかすかな匂いが、まだそこに残っています。何も変わらないのに、あんなににぎやかだった子供たちだけが、この場から欠けているのです。

「寂しいですね」

 灯り捕りがそう言ってくれたことで、実浦くんはほんの少し救われたような気持ちになりました。子供たちは最後のきょうだいとようやく再開し、幸福な場所へ旅立ったのです。それなのに、その旅立ちを寂しく思う自分が、ひどく身勝手に思えていたのでした。

「ぼくは、もっと心から、彼らを祝福できると思っていました」

「喜びと悲しみは、相反する感情ではありません。喜ばしいことを悲しく思うこと。悲しいことを喜ばしく思うこと。どちらも矛盾ではありませんよ」

「悲しいことを喜ばしく思うことなんて、そんなことがあるのですか」

 驚いて実浦くんが尋ねますと、灯り捕りはその穏やかな微笑を実浦くんへ向けました。青い瞳にオリーブ色の光が反射して、水底の星のようです。

「私はこの旅で、あなたや火灯し妖精や、あの可変の生き物、それからあの子供たちに出会えたことを、心から嬉しく思います。けれど、ここは夜の国。放棄の海。そもそもこの国で誰かと出会うこと自体が、手放しに喜んで良いことなのか疑問です」

「それは……そうですね」


 そうして考え始めますと、実浦くんにはこの世の善悪というものが、全く分からなくなってしまうのでした。喜ばしいことは善いことで、悲しいことは悪いこと。そう決めてしまえるならば楽なのですが、誰にとっても喜ばしいことの影に、とても悲しい出来事があり、身を裂くほど悲しい出来事の先に、喜びに繋がる何かがあるかも知れないのです。

 一体この世の原点は、喜ばしい出来事だったのでしょうか。それとも初めに悲しむべき出来事があり、この世というものが生まれたのでしょうか。そしてこの世の果ては喜びなのでしょうか。それとも、悲しみに結ばれるのでしょうか。



 実浦くんが、よほど思いつめた顔をしていたためか、灯り捕りが「私のスケッチブックを見てみませんか」と誘いました。彼女なりに、実浦くんを元気づけようとしているのでしょう。

 実浦くんが「見てみたいです」と言いますと、灯り捕りは頬を輝かせ、スケッチブックをソファの上に広げました。実浦くんと灯り捕りは、肩を並べて、スケッチブックを覗き込みます。

「私は普段、銀河フィラメント上をただよう、認知多元空間のほとりに暮らしています。そこから気の向くままに、光を探してあちこちへ行くんです」

「どうやって行くのですか。ここまではずいぶん遠かったのでしょう」

「ここまでは、舟を漕いでやって来ました。でも歩いて行くときもあるし、運が良ければ、家のすぐそばを気動車が通ります。家の裏口が、見知らぬ場所へ通じていることもあります。認知多元空間というのは、そういうものなのです」


 灯り捕りは話しながら、次々と頁をめくっていきます。スケッチブックの中には、本当にありとあらゆる光が保存されていました。

 白く淡く頼りなげな光は、春先のつぼみに反射した日の光。深い青の中を、銀色の光が集団になって進んでいくのは、よく見れば小さな魚の群れです。ある頁では、真っ黒いままの紙の上にときおり水の波紋が浮かび、ほとんど透明なように光っては、すぐに消えていきました。


 そうして順番に頁をめくっていって、一番新しい頁まで辿り着いたとき、その頁を開いた実浦くんは「あ」と小さく呟きました。

 そこにあったのは、深い闇を裂いて力強く飛んでいる、一羽の光の鳥でした。ついさっき屋上で見た光景と同じ光が、まだここには残されています。じっと見ていると、子供たちの笑い声すら聞こえてくるようでした。

 実浦くんは手を伸ばして、輝くハヤブサの姿を指でなでました。本物の光の鳥は、もう追いかけても追いつけないほど、遠くへ飛び去ってしまったことでしょう。

 この鳥が飛び立ったことは、果たして善い出来事だったと言えるのか。実浦くんは、鳥のまばゆい翼をなでながら考えます。

 子供たちは確かに幸福に旅立って行ったけれど、終わりが善いものだったからといって、その途中にあった困難や苦しみや悲しみまで、全て善いものだったと決めつけるのは、あんまり傲慢すぎるように思えました。

 だけれども、過程に悲しみがあったからといって、その果てにある幸福まで悪いものだとしてしまうのも、やはり傲慢なのです。



 がたがたと窓が鳴っています。唸る風の音は、オリーブ色の光の中にあると、木々のざわめきのようにも聞こえます。

 ここは温かく豊かな森の中で、天敵となる生き物はなにもいないのです。そんな中に実浦くんは置き去りにされていて、森で暮らすための知識は何も知らず、しかし何の危険もなく、ただ漫然と下草の上に座り込んでいるような、そんな気がしました。

 本当にそんな気がしただけなのか、それとも実浦くんがそういう一瞬の夢を見たのか、よく分かりませんでした。実浦くんはいつのまにか、夢とうつつが混じって思えるほどに、眠たくなっていたのです。


 オリーブ色の中でまどろみながら、実浦くんはふと、あのブナの木たちのことを思い出しました。真っ暗に少しも光っていなかったブナの木たちもまた、放棄されたものたちだったのでしょう。彼らにも、喜びや悲しみといった感情があったのでしょうか。

 放棄されたことを悲しんでいたでしょうか。火灯し妖精に灯りをもらい、美しい緑色に輝いたことを、喜んでいたでしょうか。

 あんなに綺麗に輝けるならば、夜の国へ来たことも悪くはなかったと、そう思ったでしょうか。それとも、美しく輝くなんてどうでも良いから、放棄されずにいたかったと悔しがったでしょうか。

(分からない。ぼくは今ここでこうしてうとうとして、カンラン石の光に温められていることがとても心地良い。けれどぼくが夜の国へ来てしまったことは、きっと良いことではなかった……)


「私たちも、眠りましょうか」

 灯り捕りの言葉に、実浦くんは黙ってうなずきました。まぶたは半分落ちかかって、ほとんど眠っているようなものです。

 実浦くんは名残惜しくも、スケッチブックの上を飛ぶ、光の鳥から指を離しました。そして青白い毛皮の下で寝息を立てている、小さな火灯し妖精のそばに行って、自分もそっと横になりました。カンラン石の光がよく見えるように、顔を暖炉の方へ向けて、子供たちの誰かが使っていた毛布を、口元へ手繰り寄せます。

「おやすみなさい」

 灯り捕りが言いました。実浦くんは口の中だけでもごもごと、「おやすみなさい」と呟きました。


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