12月3日【ブナの木】
初めに見付けたのは、大きなブナの木でした。それは闇よりも深い黒を携えて、暗闇の中に堂々と立っていたのです。
『ブナの並木だねえ』
カンテラが言いました。並木と表現するには、少しばかりブナが少なすぎる気もします。しかし実浦くんがカンテラにつられて後ろを振り向きますと、そこにはずうっと果てまでブナの並木が続いていました。
「ぼくは、なにもない真っ暗の中を歩いてきたはずだけど」
実浦くんが首をかしげます。カンテラも『不思議だねえ』と同意します。
『もしかしたら、並木の方が歩いて来たんじゃないかしら』
「ぼくたちの方へ?」
『そう。きっとぼくたちのすぐ後ろを、ついてきていたんだよ』
カンテラの言うことは、ほとんど正しいようでした。切り絵のようなシルエットで闇にそびえるブナの木は、今や並木というよりも、実浦くんたちを包む丸い森のように並んでいました。こんなに取り囲まれては、先へ進もうにも進めません。
「あのう、すみません」
実浦くんは思い切って、一番先頭の一番大きなブナの木に話しかけてみました。
「ぼくたち、ずっと歩いてゆかなければならないんです。道を開けてくれませんか」
ブナの木はイヤイヤをするように、ざくざくと左右に揺れました。
『困ったねえ』
カンテラはみっつの目玉をきょろきょろさせて、『ちょっとお願いね』と実浦くんに囁いてから、カンテラの中に横たわっている女の子をぽいっと吐き出しました。実浦くんは両手を広げて、女の子を受け止めます。
それを見届けますとカンテラは、ぽっぺんのようにぷうっと膨らんで、丸々と太ったふくろうの姿になりました。
カンテラだったふくろうは、外套のように立派な翼を広げますと、闇の中に飛び立ちました。そして実浦くんの頭上を何度か旋回しますと、ブナの枝に降り立ちました。
こしょこしょ、ごにょごにょ。実浦くんには聞こえない小さな声で、ふくろうはブナの木と話します。そして『ほほう』と呟くと、自在な首をぐるりと回してから、実浦くんの手元に降りてきました。
『どうやらねえ、彼らも光が欲しいようだよ』
「では、光をあげてくると良いよ。きみが構わないならだけど」
『それがね、ぼくの光では駄目らしい』
そう言って、ふくろうは立派な翼の風切羽でもって、女の子を指しました。
実浦くんは黙ったまま、取り囲むブナの木たちを見回しました。ブナたちはいかにも重たそうなこずえを傾けて、みんなして実浦くんを覗き込んでいます。正確には、実浦くんの手の中で冷たくなっている、小さな女の子を。
「でも、光らないままなんだよ。ぼくだって、この子にもう一度光ってほしいと思うけれど」
実浦くんが訴えますと、ブナの木々は風もないのにどろりと揺れて、枝葉をごうごう言わせました。『なになに』とふくろうが言います。
『時が経てばまた光り出すそうだよ』
「それって、どれくらいだろう」
ここでブナの木たちに囲まれながら、女の子が光り始めるのを待ち続けるのは、きっととても心細いだろうと思われました。それだったら、また光が灯るまで、あてもなく暗闇を歩き回っている方が、いくぶんかましでしょう。
実浦くんが迷っていますと、また、ブナの木たちが枝を揺すり始めました。さっきと違うのは、今度は枝の動きに合わせて、ブナの葉が雪のように舞い落ちてくるのです。
葉は本来の勢いを失って、色も緑から黄土色へと変わっていきます。『秋が来たんだ』とふくろうが言いました。
ブナの木たちはなおも幹を揺らします。葉がすべて落ちてしまったあと、骨と皮だけの痩せっぽちのようになってしまったあとも、どろりどろりと踊り続けます。幹が乾いてひび割れて、ぼろぼろ崩れてしまってもお構いなし。
しかし、厳しい冬はいつまでもは続きません。やがて枝のあちこちに、春の萌芽が膨らみます。青い芽が覗きますと、それは見る間に繁り、またたく間に天を覆い隠します。
気がつけば、実浦くんのまわりは、みずみずしく圧倒的な生命に満ちあふれていました。
(ああ、ここに光があったならば、それはもう素晴らしく綺麗だっただろう)
実浦くんは深く息をしながら、ブナの大樹を見上げました。闇の中に黒く広がるこずえでなく、光のもとに青々と笑うブナであれば、どんなにか美しかったでしょう。
実浦くんは、さっきブナたちのために待つことを渋った自分を、恥ずかしく思いました。ブナの木たちが光に枝を伸ばせるならば、いくらでもここで待って構わない。そう思いました。
そのとき、にわかに視界が明るくなったのです。とうとう夜が明けたのか、と実浦くんは目を細めます。けれど光っているのは太陽ではなく、いっぱいに広がったブナの若葉なのでした。
「とっても綺麗ね。とっても綺麗だわ」
鈴のような声が言いました。あっと思って、実浦くんは手のひらを見ます。そこに女の子の姿はなく、リボンのような羽をひらひらはためかせて、彼女はブナの林を飛び回っているのでした。
「ああ、よく寝たわ。ひと冬が過ぎて、春が来て、もうすぐ夏になろうというのね。少し寝すぎてしまったみたい」
女の子は踊るように飛びながら、ブナの幹に手形をつけて回ります。女の子の光る手形をもらったブナは、その葉にエメラルドの光を満たし、深緑色の喜びに震えるのでした。
実浦くんは、目の前の光景があんまり美しいやら、女の子が再び光り始めたことが嬉しいやらで、しばらく言葉を失っていました。
『良かったね』
ふくろうが、いいえ、さっきまでふくろうだったカンテラが、しみじみと言いました。
実浦くんも「良かったね」と言おうとしたのですが、それを言うのはあんまり恥知らずのような気がして、代わりに虚しい空咳をしました。『良いんだよ』と、カンテラが言いました。実浦くんはいよいよいたたまれなくなって、咳をするのもやめてしまいました。
女の子は歌ったり踊ったりしながら、なおもブナの木々に光を与えています。実浦くんにはその光景が、どうしても手の届かない、遠く遠くのものに思えるのでした。
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