後悔なんて
どうやら、昨日は泣きながら眠ってしまったらしい。
目を覚ました利光は、今何時だろうかとスマホを手に取り、ディスプレイの明かりで目をしぱしぱさせる。
「……朝八時」
昨日の夜、りんのために奈々の恋心を奪った。奏平に電話をすると、りんとは偽装カップルだと告げられた。つまりりんと奏平は好き同士ではないということになるのだが、それではこれまでのりんの行動の説明がつかない。りんと奏平が好き同士でなかったとすれば、なんのために奈々の恋心を奪ったのだろう。
「……りんに」
確認すればいい。
本当に好きなのかどうか。
いや、りんはきっと奏平のことが本当に好きなのだ。
だから奈々の恋心を奪ったことには、確実に意味がある。
「そうだよ!」
まだ、りんに【強奪】したことを伝えていなかった。そうだ! 自分は松園りんのためにやってやったのだ! 彼女のお望み通りなんとかしてやったのだ!
勢いのまま飛び起きて電話をしようと思ったが、通話ボタンを表示させたところで指が動かなくなった。
どうして?
りんの望みを叶えてやったのに。
感謝の言葉が聞けるはずなのに、腹の底が重たい。
ベッドにゆっくりと仰向けに倒れた後で、今度はラインを起動させた。
本文を考えている間は拳銃を突きつけられているかのように精神がすり減り、文字を打っている間はボディーブローを喰らい続けているかのように体が悲鳴を上げていた。送信ボタンを押した時には、意識を失いそうなほど疲弊していた。
《【強奪】で奈々の恋心、奪っておいたから》
たったこれだけの文章を送るのに、一時間半もかかっている。送った後は、疲労で指の一本すら動かせなかった。ベッドに仰向けに倒れると、深い深い海の底にゆっくりと沈んでいくような安らかさと絶望に包まれた。
「…………誰だよ」
右耳の横に落ちていたスマホが震えだす。一気に現実に引き戻された。下唇を噛みながらスマホを手に取ると、また画面の明かりに目がくらんだ。
「……りん」
利光は固まった。
どうしてかは分からないが、背中から冷たい汗が滝のように流れてくる。
「もしもし?」
『ちょっと利光? どういうこと?』
りんの声は尖っていた。その涙声には怒りが含まれている。
「どういうことって、……ああ、メールのやつか」
『なんでそんなに冷静なの? 奪ったって、どういうこと?』
「俺がなんとかするって言っただろ。だからなんとかしたんだよ」
りんの息をのむ音が聞こえた。
利光は、なぜ自分がこんなにも怒っているのか分からないまま言葉を続ける。
「奈々だって苦しんでたんだ。奏平が好きだから。でも、りんともずっと友達でいたくて我慢してた。だから俺が奪ってやったんだ。奈々を苦しみから救ったんだ」
そうだ。あれはりんのためでも、奈々のためでもあった。
「奈々も同意したんだ。望んでいたんだ。りんだってこれで痛みを感じずにすむ。俺はそのために奪ったんだ」
『なんでよ!』
りんの声が鼓膜を突き破る。
『私はそんなの望んでない! ふざけないでよ!』
「りんがなんとかして欲しいって頼んだんだろ!」
りんに対して声を荒らげたのはこれが初めて。
利光は、自分が怒っている理由がまだ分からなかった。
『それはたしかに言ったけど、もっと他にやりようがあるでしょ』
「だったらどうすればよかったんだよ」
『そんなの私も分かんないよ』
「じゃあ俺にだって分かるはずないだろ!」
『なんでよ! ずっと相談してきたのに、なんで分かってくれないの』
りんの言い分はひどい。自分でも分からないことを分かれなんて。それができていれば今ごろりんとつき合えていた。
「俺なんかじゃ無理なんだよ。できないから、俺は……」
『俺に任せろって言ったじゃん! 嘘だったの?』
「りんだって嘘ついてただろ!」
『なにを』
「ほんとはつき合ってないんだろ? 奏平から聞いたよ」
『それは……』
りんの黙り方で、図星なんだなと理解した。
りんの黙り方では、本当にどう思っているかは分からなかった。
「はっきりしてくれよ。どっちが本当なんだ?」
『……好きだよ。奏平のこと。本当に』
「じゃあ、なんでこんなことになってんだよ?」
『そうするしかなかったんだから、しょうがないじゃん!』
それから、りんは奏平のことについて話してくれた。
奏平の父親が毒親だったこと、奏平が誰ともつき合わない理由。
利光はそのすべてを、これっぽっちも知らなかった。
『私は自信があった。つき合っているフリでも、いつかは好きにさせてやるって。そうできるって。でも無理だった。偽物でも、みんなからしたら私は奏平の彼女で、一番近くにいる自信があったのに、奏平の心を変えられなかった。奏平をトラウマの中から救うこともできなかった。奏平はいつまでたっても告白してこなかった!』
りんの思いを利光は黙って聞いていた。こんなにもりんに思われている奏平が羨ましくてたまらなかった。
『ねぇ、利光。なにか言ってよ』
「……」
『ごめんね。利光。今まで』
りんに電話を切られる。利光だってまだ混乱している。頭も心も体も精神も、なにもかもが現実に追いついていない。
「ごめん、か」
最近、謝ったり謝られたりばっかだなと思った。握っていたスマホがまた震える。りん? 急いで画面を見て、電話してきた相手を確認して、嫌悪そのままに舌打ちする。
「夢佳かよ」
今更なんの用だろう。あれだけはっきりとフッてやったのにまだ連絡してくるとか。どんだけ惚れてたんだよ。男見る目ないんだよ。
利光はスマホを枕の下に押し込んだ。くぐもった振動音はやがて止まったが、十秒くらいたった後でまた聞こえてきた。二回、三回と続く。どうやら夢佳はこちらが通話に応じるまで諦めるつもりはないらしい。
「めんどくせーなぁもう」
枕の下からスマホを引っこ抜き、襟足をかきながら電話に出る。
「さっきからうるせぇーな! まじでストーカーになったのかよ!」
行き場のない苛立ちやもやもやを不条理にぶつけてしまう。相手が興味のない他人ならどこまでも冷たくなれてしまう。
『……あ、その、ごめん、な、さい』
夢佳の声はひどくかすれていた。
泣いて泣いて、それでも泣き続けていたことは明らかだ。
『でも、そう思われててもいいから、あと一回だけでもいいから、会ってくれませんか?』
その言葉には断固たる決意が溢れていた。くれませんか、という敬語が利光の胸を激しくまさぐる。彼女の好意は痛々しいほど純粋だ。そんなやつが、どうしてこんなやつを好きになるんだ。もっといい男はいっぱいいるんだよ!
「お前には興味ないって言っただろ」
そう言っているのに、心が少し揺れ動く。
『でも、お願いします』
「だからさ」
ああ、これ、嬉しいって思ってる。
『お願いします』
「……分かったよ」
そうだったのかと、利光はようやく気がついた。
自分は、好意を寄せられているという事実に甘えてきたのだと。
人の好意ほど心をくすぐる快感はない。本当に欲しいりんからの好意が手に入らないと分かっているから、夢佳をはじめとしたどうでもいい女の好意を代替品として、数だけは一丁前に揃えて、その好意を自己肯定に利用してきた。
二股三股が、真実の愛のための練習なんて嘘八百だ。
「で、どこに行けばいい?」
だからこそ、財津利光という男は夢佳に本当の意味で嫌われなければならない。
糾弾して、罵倒して、心を深く傷つけて。
夢佳が早く財津利光というクズ野郎から卒業できるように。
夢佳を心から愛してくれる人が絶対にいるはずだから。
『あ、えっと私、今、神凌町の駅にいて』
「じゃあ駅の南口から十分くらい歩いたとこにある公園で。前一回行ったことあるだろ」
ひどい人格否定の言葉を言う予定だから、人目につかない場所を選んだ。夢佳だけじゃなく、この後他の三人の彼女も完膚なきまでに傷つけて、嫌われて、すぐに別れてしまおう。
そうしなければ、財津利光という人間は前に進めない。
『分かった。待ってる。ごめんね』
夢佳の声は、少しだけ弾んでいた。
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