第八章 私は、みんなが上手くいくことを願っている 山那奈々2
利光と奈々
「奏平は私の彼氏なの。そこんとこ、考えて行動してよ」
反論を許さない静かな怒りを最後に、りんの声は聞こえなくなった。部屋としてあてがわれた客間で、奈々はしばらく自分がなにを言われたのか分かっておらず、ただただ茫然としていた。
「私……は、間違って……たの?」
指先から順に震えが広がっていく。風呂から上がった後なのに、体が氷になったみたいに冷たい。
「ねぇ寛治。ねぇ神様。ねぇみんな」
確実にりんは怒っていた。泣いていた。怯えていた。
敷かれた布団の上で、奈々は耳にスマホを押し当てたまま、静かに涙をこぼす。
だってしょうがないじゃん。
奏平とりんが実はつき合っていたと聞かされた時のショック。喫茶店で流れていた音楽。暖かな暖房の空気。奏平とりんの辛そうな顔。全部思い出せるんだから。友達と同じ人を好きになるなんてありえない。あっちゃいけない。色恋沙汰なんて起こったら大切な世界が壊れる。
なのに、寛治のせいで。
寛治が、「みんなとずっと友達でいたい」なんて言うから。
だから【導師】の言うとおりに行動しただけだ。全部寛治のせいだ。今日行った奏平とのデートが過去最高に楽しかったのも、その思い出に浸ろうとするたびに胸がちくりとするのも!
「私の、せいなのに」
スマホが手から滑り落ちる。
「ごめん、みんな」
もう無理だよ、と奈々は膝を抱える。このまま小さくなり続けたい。いなくなってしまいたい。奏平への思いを諦めようとするたびに、心の中にいる悪魔がそれに抵抗する。
あの時は、寛治のためにと思ったはずだった。
今思えばそれは建前で、奏平を好きなままでいられる絶好の理由ができたと思っただけだったのかもしれない。山那奈々という醜い存在を肯定するために、寛治の切実な思いを利用しただけかもしれない。
寛治。ごめん。
もう言うとおりにできないよ。
だって順当に壊れているから。
奈々は目を閉じて意識を集中させていく。根性さえあればこの憎く愛おしい恋心を消せるのではないかと思ったが、いくら待っても奏平のことが好きという気持ちは消えてくれない。
奈々はそのまま横に倒れた。
「私は、もうだめなんだ」
そう呟いた時、畳の上に転がっていたスマホがいきなり震えた。
利光からの電話だった。
涙を拭って、深呼吸をして、心を落ち着かせてから電話に出る。
「もしもし」
『奈々。今なにしてる?』
やけに重たい声だなと思った。
「別になにも。いきなりどうしたの?」
『いや、俺の方も特に用ってわけじゃないんだけどさ』
それが嘘だと奈々はすぐに見抜いた。特に用がないのに電話をかけるわけがない。そういうすぐに分かる嘘をついたということは、利光の用事はなにか重大な、もっと言えば悪いことなのだろうとも推測できる。
「じゃあ、なに?」
『いや……さ。奈々は、今をどう思うかなぁーって』
「日本経済の話じゃないよね?」
『そんなのどうでもいいだろ。その……奏平の家にいることだよ』
利光の声は弱々しかったが、それでも的確に核心を突いてきた。
「それは……まあ、お母さんの束縛から解放されて、スッキリしてるというか」
『俺が聞きたいのはそういうことじゃない』
「だからどういうこと?」
図星だったからか、奈々は少しだけ高圧的な声を出していた。
『どういうこと……って、奈々がりんの彼氏を奪おうとしてることだよ』
「……っ」
奈々は息を詰まらせた。言葉が続かない。このまま窒息死するんじゃないかとも思った。
『奈々の気持ちはよく分かる。まだ奏平のことが好きなんだろ?』
「……ちが」
違うとも、違わないとも言えなかった。利光が今の二文字をどっちで解釈したのかは分からないけど、
『でもさ、奏平はりんの彼氏なんだ。奈々はこの状況が辛くないのか?』
利光の声は恐ろしいほど真っすぐで。
心情を言い当てられた奈々には、それに反抗する気力は残っていなかった。
「くる、しいよ」
その一言を絞り出した途端、堰を切ったように言葉が溢れてきた。
「苦しい苦しい苦しい。だって奏平はりんの彼氏なんだ。私が我慢すればいいって知ってる。りんに嫌われたくなんかない。どうしていいか分かんないよ!」
『そうか。ありがとう。そう言ってくれて』
利光が安堵の息を吐き出したのが、スマホ越しに伝わってくる。
『俺はその言葉が聞きたかったんだ。奈々もやっぱり苦しんでたんだな』
「とし、みつ?」
『その苦しみから、俺が救い出してやるよ』
おどけたトーンの声が耳に届いた瞬間、奈々は強烈な目眩に襲われた。胸が熱くなって、布団の上に倒れ悶える。遠のく意識の中で、奈々は最後に『ごめんな』という言葉を聞いた気がした。
***
「……ん、あれ、私……は」
目を覚ました途端、ひどい頭痛に襲われた。いつの間に寝ていたのだろう。もう朝になってる。眠る前のことが思い出せない。利光と電話していたことは覚えているが、あれ? 何話してたんだっけ?
「思い出せ――あっ、りん!」
奈々は思い出す。
昨日りんから言われた言葉を。
――奏平は私の彼氏なの。そこんとこ、考えて行動してよ。
りんの言う通りだ。弁解の余地もない。【導師】が教えてくれたからといって、どうして〝好きでもない〟相手の家に一緒に住もうなんて発想が出てきたのか。
寛治のために、という理由があったにせよ、【高麗奏平の彼女になれるよう行動しなさい】なんて助言を信じるなんてありえない。
あれはきっと女神様のいじわるかなにかだ。
退屈を紛らわす道具にされたのだ。だって【導師】の言う通りに行動した結果、りんから明確に拒絶の意志を伝えられてしまった。
「私のバカ。なんであんな……わけの分からない女神のくれた能力を信じて」
あんな導きに従わずに、どうして自分自身でみんながみんなでいられる方法を考えなかったのか。【導師】の助言を盲目に信じてしまったのか。
奈々はスマホを手に取る。朝十時。りんに電話をするがつながらない。二回、三回……ダメ。だったらもう家に行こう。直接謝ろう。早くりんの誤解を解かないと。あの女神から貰ったエセ能力【導師】の導きに踊らされてしまっただけだからって。寛治のために、冷静な判断ができなかっただけだからって。
「あれ……」
そこまで考えて、奈々の胸にとある疑問が浮かんだ。
いや、それは疑問じゃなくて、大きな空洞だ。
奈々は胸の中にぽっかりと穴が空いているとはっきり自覚した。
「なに、この感覚」
なんだろう、このとてつもない空虚感は。
なにか、大事なことを忘れているような。
体中が虚しさを訴えかけているのに、その虚しさの正体が分からない。
「……って、今はりんだよ」
こんな感覚的なものにつきあっている暇はない。りんに誠心誠意謝罪して、こうなっている事情を説明しないと。寝巻として使っているTシャツと短パンという格好のまま、急いで奏平の家を飛び出し、りんの家に向けて走った――――その道中。
奈々は、昼間でも人っ子一人いないような廃れた公園で、利光が見知らぬ男にぼこぼこにされているのを見つけた。
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