娘、母、父
時刻は午後七時を回っていた。太陽はすでに沈んでいるが、日中に蓄えられた熱がまだまだ猛威を振るっている。奈々の家はごくごく普通の一軒家で、玄関ポーチには傘立てが置かれていた。
「奈々、大丈夫?」
りんが奈々に問うと、奈々は「大丈夫だよ」と笑顔を浮かべた。
「だってみんながついてるから」
「なら、押すぞ」
奈々が「うん」と頷いたのを確認してから、利光がインターフォンのボタンを押す。すぐに玄関の扉が開いた。
「奈々!」
奈々の母親は、娘を見て安堵の表情を浮かべてから奏平たちを睨みつけ、
「やっぱりあなたたちが娘を連れ回していたのね。あなたたちと違ってうちの娘は忙しいの」
言葉の勢いそのままに娘の腕をがしっと掴んだ。
その瞬間。
「もうやめて!」
奈々が母親の手を振り払った。
「奈々?」
目を見開く奈々の母親。娘に振り払われた手がプルプルと震えている。
「どうしたの? いったいこいつらになにをされたの?」
「なにもされてない。それより訂正して。みんなは私の大切な友達なの」
「……ああ、そういうこと。あなたはこいつらに洗脳されているのね。だからそんな風にお母さんに」
「私を洗脳しようとしているのはお母さんだよ。私はお母さんのコンプレックスを埋める道具じゃないの」
「なにを言ってるの。お母さんはあなたの将来のために言ってるのよ」
「違う」
「違わないわ。勉強は大事なの。あなたがお金に困らずに、一人でも生きて行けるように」
「私は一人では生きていくつもりはない。独りぼっちのお母さんと一緒にしないで」
「お母さんにはあなたがいるわ」
「私にはみんながいるの」
「あなたは今冷静じゃないのよ。落ち着いて、しっかり考えて」
「お母さんはずっとずっとおかしかったよ!」
「いい加減にしなさい。奈々!」
「いい加減にするのはお母さんの方だ!」
二人の言い争いはヒートアップし続ける。
奏平はそんな二人を見て羨ましいと思った。
奈々は自分の中にある感情を、自分だけの言葉を使って正直に母親にぶつけている。
――あのね、殴るなら俺にしといてよ。
自分も、あんな保険を与えてしまうような言葉じゃなくて。
その時は他人だった新しい家族の心配じゃなくて。
真剣に真摯に切実に、勇気を持って父親と向かい合っていれば。絶対無理だよ、結婚なんてやめなよ、と父さんをきちんと傷つけていれば。
その方が、父さんは反骨心から暴力をやめられたかもしれないと、考えずにはいられないのだ。
「俺は!」
気がついたら、奏平は母娘の言い争いに割って入っていた。まだこの二人は戻ることができる。自分とは違って関係を修復できる。そう思ったら言葉にせずにはいられなかった。
「奈々が、あなたの娘さんがたくさん頑張っていることを知っています。だからお願いします!」
奏平は奈々の母親に向けて深々と頭を下げる。
「奈々をもう少し信じてあげてください。お願いします」
「俺からもお願いします!」
利光が奏平に続く。
「私からも、お願いします!」
当然のようにりんも頭を下げる。
「……みんな」
「ちょっとなんなのいったい」
不気味がる奈々の母親など気にせず、奏平は言葉を絞り出し続ける。
「俺たちだって、奈々とずっと一緒にいたいんです!」
「そんなこと知りません。あなたたちが奈々に悪影響を与えてるんだから離れるべきよ」
「もういいじゃないか。志保」
奈々の母親の声を遮った声は、奏平の後ろから聞こえてきた。
「え、……おとう、さん?」
「あなた……」
「おいおい。なにをそんなに驚いてるんだ? 志保が連絡してきたんじゃないか。奈々が家出したって」
呆れたように笑いながらこちらに近づいてくる奈々の父親。スーツを着ているから仕事帰りなのは明らかだ。あれ? 奈々の父親って単身赴任のはずじゃ……。
「それはそうですけど、あなた仕事は?」
「切り上げてきたよ。うちはそういうとこ融通利くから。有給も申請してきた」
どうやら奈々の父親は、色んなものを後回しにして駆けつけてきたらしい。
「でもまあ、それも徒労に終わったようだな。せっかく帰ってきたんだけどな」
奈々の父親は娘の隣に立ち、娘の頭を撫でようとする。年頃の娘がそれを受け入れるはずもなく、奈々はさっと奏平の方に近づくようにしてその手をよけた。
「ははは。今ならいけると思ったのに」
肩を落としてしょんぼりする奈々の父親。これまでの重苦しく張りつめた空気とは対照的な存在の登場に、奏平は未だ困惑の表情を浮かべることしかできていない。
「あなた! 今はそんなことしてる場合じゃないでしょ! あなたからも言ってやって下さい。奈々ったらこの子たちのせいで」
「志保」
ずんと腹の底にのしかかるような、重い声だった。
そんな夫の威圧感に、妻はたじろぐように半歩下がる。
「な、なによ」
「もう、いいじゃないか」
「なにがよ?」
「奈々はもう、色んなことを自分で決められるんだ」
いや、決めていかなければいけないんだ、と奈々の父親は言い直した。
「そんなの私だって分かってます。その選択のために、奈々の将来の可能性が広がるように」
「親が選ばせたものは、子供の可能性とは言わないよ」
奈々の母親は、言い返す言葉を見つけられなかったのか黙ってしまった。
「親が思う子供の幸せは、子供が思う子どもの幸せじゃない。奈々が勉強したいと思ったら勝手に勉強するさ」
「私は奈々のためを思って」
「それは分かる。就活じゃ学歴はやっぱり重宝されるし、できる限り偏差値の高い大学に行った方がいいとは俺も思ってる」
「だったらなおさら」
「でも、それはあくまで親の気持ちだ。決めるのは奈々でなければいけないんだ」
奈々の父親が、愛娘の肩をポンとたたいた。
「俺が東大に行ってよかったと思ったことは、人脈が広がったことくらいだよ。いい大学にはすごいやつらがたくさんいて、そんなやつらと同じ大学に同じ時期に入学したってだけで、簡単につながりが持てる。それはその後の人生で、大いに役立つことだ」
自慢じゃないが、俺は大学の同期だけで裁判ができるんだぞ。弁護士も検事も裁判官も被告人も傍聴マニアもいるからな、と奈々の父親は自慢げに鼻を鳴らした。
「それぜんぜん自慢になってない。ってか被告人もいるの?」
奈々がぼそりと呟くと、父親はかははっと笑い始める。
「そうなんだなぁこれが。頭いいがゆえに悪さも思いついちゃうんだ」
「なにが言いたいんですか!」
楽観的なムードを打ち消したのは奈々の母親だった。ものすごい剣幕で夫のことを睨んでいる。
「すまんって。こうして場を和まそうとしてしまうのはいつもの癖でな」
後頭部に手をやりながら、奈々の父親は申しわけなさそうに笑う。妻の怒りにひるむどころか、その穏やかな心でその怒りを包み込もうとしている。
「つまりだ。俺が言いたいことは、いい大学には自分にとってプラスになるやつがいる確率が高いってことだ」
「それは分かりました。だったらなおさらそんな人たちに会うために」
「いや、奈々にはもう、それは必要ないんだ」
だってな、と言葉を止めて咳払いをした奈々の父親は、奏平たちをゆっくりと見渡した。
「奈々はもう、奈々のためにこうして頭を下げてくれる、最高の友達に出会えているからだ」
耳の中が一瞬にしてむず痒くなる。
奏平は無意識のうちに、利光とりんと顔を見合わせていた。
二人とも耳が赤い。
「そんな友達、どうせ卒業したら会わなくなって、会えなくなってそのまま疎遠に……」
奈々の母親は右腕で自身の体を抱いた。それまでの迫力が嘘のように、怒気がもの悲しさに変わっていく。
そんな妻のもとに夫が歩み寄り、そっと肩に手を置く。
「志保。すまなかった。志保の寂しさに気がついてやれなくて」
「うるさい。私は」
「俺と一緒に横浜で暮らそう」
え? と顔を上げた妻に、男の一人暮らしだったから相当汚いけどな、と夫は笑いかけた。
「志保も奈々も、離れて初めて分かることもあるんじゃないかと思ってな」
赤くなった頬をポリポリかきながら、恥ずかしさを誤魔化すように言葉を紡いでいく奈々の父親。
「……あなた」
奈々の母親の頬も赤く染まる。
今は母親ではなく、一人の女性としてそこにいるのだろう。
「ほら。少し早い子離れ親離れ的なやつだ。それに横浜はいいぞぉ。なんでもあってめちゃくちゃ楽しいからな」
「……分かりました。だったら行きます」
奈々の母親は今日初めて笑顔を見せた。
その笑顔は奈々の笑った時の顔にそっくりで、すごく魅力的だった。
「あなたを一人にしておくと、ろくなことがないですから」
「おいおい、夜遊びとか浮気とかぜんぜんしてないぞ」
「私はなにも言ってませんけど、それはどういうことですか?」
「あはは……それはだなぁ」
笑顔で夫を問い詰める妻の姿を見て、奏平はもう大丈夫だと確信した。
奈々の母親は独りの寂しさから、娘にどんどん依存するようになってしまったのかもしれない。だけど、その歪みは最愛の夫の言葉で元に戻った。奈々が、母親からの自立を宣言するべく啖呵を切ったことも関係していると思う。
「よかったな。奈々」
奏平が声をかけると、
「うん。お父さんとお母さん、あんなに仲よかったんだって初めて知ったよ」
奈々は涙を流しながら何度も頷く。
気持ちをぶつけあうことで家族を取り戻した三人の姿は、奏平の目にはダイアモンドのきらめきよりも輝いて見えていた。
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