第三章 だから私は、彼に頼んだ 山那奈々1
東大に行け!!
奈々は「暑い死ぬぅ」と独り言ちながら、自転車をガレージの奥に止めた。乗っている間は風のおかげで涼しいのに、漕ぐのをやめた途端に体中が暑さにつつまれるの、ほんとどうにかして欲しい。
かごの中に入れていた鞄をひょいと背負って、冷房ガンガンのオアシスまで一直線。リビングに飛び込むと至福の息が漏れた。
「ただいまー」
不快でしかなかった汗が乾いていく。ソファに座ってスマホをぽちぽちし始めると、すぐにお母さんの声が飛んできた。
「おかえり。塾のテストどうだった?」
「まあまあだったよ」
対面式のキッチンで作業する母親の問いに、奈々は適当に返す。本当はダメダメだったけどそれはあえて言わない。結果出たらきっと怒られるなぁ。うざいなぁ。今から憂鬱だ。
奈々の母親は、俗に言う教育ママだ。高卒のくせにというべきか高卒だからというべきか、娘に自分の学歴コンプレックスを押しつけてくる。「好きなことをやるのが一番だよ」「高校までは地元の高校で十分」と奈々の母親の暴走を止めてくれた奈々の父親は、今は単身赴任でいない。
「奈々、休むのはそれくらいにして、勉強しなさい」
「もう少しだけ休ませて」
「なに言ってるの。きちんと勉強しないと後悔するわよ」
それにね、とお母さんが続けた時、奈々はまたか……と心の中で呆れる。
「あなたには、東大卒のお父さんの血が流れているのよ」
これがお母さんの口癖だ。
勉強に対する愚痴を奈々がこぼすと、いつもその言葉が返ってくる。
奈々はその言葉の中に、ようやくそんな逸材を捕まえられたのよ、という自慢や執念が含まれていることを理解している。同時に、その東大卒のお父さんは勉強しなさいと一度も言ったことないけどね、と高卒のお母さんを心の中で蔑んでいる。
「分かった」
これ以上言い争うと面倒なことになるだけだ。奈々はローテーブルの上に勉強道具を広げる。自分の部屋で勉強しないのは、【リビング勉強すれば効率アップ!】というテレビの情報を真に受けた母親に強制させられているからだ。「そんなの、人それぞれだよ。試すのはいいけど、決めるのは奈々だよ」というお父さんの意見はガン無視。
なんでお母さんは、お父さんの言うことを信じないんだろう、と英語の長文を眺めながら思う。
学歴重視の思考をするなら、東大卒のお父さんの言うこと少しは聞けっての。東大に受かったことがあるのはお父さんだからな…………あ。
読んでいた長文の中に、friendshipという単語を見つけ、奈々の心は大きく揺れた。
――高麗奏平の彼女になれるよう行動しなさい。
異世界から帰ってきた日の夜。
ベッドに仰向けになって胸の上で手を組み、能力【導師】を使った時のことを思い出す。
その言葉が頭に浮かんだ瞬間、胸の上で組んでいた手がすっと解けた。
「嘘、でしょ?」
奈々に与えられた能力【導師】は、【奏平、利光、寛治、りんの四人と、いつまでも一緒にいたい】という願いを叶えるために神様から授かった能力だ。与えられた能力が寛治と同じだったことにすごく驚いた。
奈々は幼い頃から塾やそろばん、プログラミング等の習い事で忙しかった。習い事がない日も母親監視の元で勉強をやらされていたので、友達と遊ぶ時間はほとんどなかった。同級生に誘われても「ごめん。勉強で……」と断ることが多く、次第に色んな人と疎遠になり、残ったのが、奏平、利光、寛治、りんの四人だった。
そんな奈々からすると、この四人はなにものにも変えがたい大切な友達だった。昼休み、教室の片隅で一人お弁当を食べる女生徒を見るたび、彼らに出会わなければ自分もそうなっていたと、いつも安堵する。こんな自分が、いつ四人に見放されるか分からないという恐怖も同時に感じる。
他人、価値観、出来事、言葉など、人間は生きている限り、あらゆるモノに対する出会いを拒絶できない。
しかも、新しい出会いの方がより新鮮に映ってしまう。
奈々は、りん、奏平、利光、寛治の五人で創り上げた、小さくかけがえのない世界がいつなくなってしまうかと、戦慄しながら毎日を生きている。新しい出会いによって生まれた世界の方がみんなの大切になってしまえば、今の関係が疎遠になって、やがて消滅する。
だから奈々は、これ以上みんなの世界が広がって欲しくないと思っていた。
みんなが大切だからこそ、みんなにこれ以上新たなモノに出会って欲しくなかった。
「奈々、ごはんよ」
ただ、こんなことを思ってしまう=みんなを信じることができていない最低な奴、という印象を与えたくなかったから、能力の内容を話す流れになった時、とっさに【移動】だと嘘をついた。願わなきゃ一緒にいられないような間柄なの? そんなのみんなのことを信じられないの? ともし言われてしまったら返す言葉がないからだ。
「ちょっと奈々? 聞いてるの?」
「えっ? あ、なに? お母さん」
肩に手を置かれたので振り返る。
エプロン姿のお母さんが怪訝そうにこちらを見ていた。
「なにって、ご飯よ。……あなたぜんぜん書いてないじゃない」
「ちょっとぼーっとしてた。眠くて」
「そんなんじゃだめよ。ご飯食べた後でちゃんとやりなさい。分かった?」
「はいはい」
返事をしながら、パタンと英語の問題集とノートを閉じる。
――高麗奏平の彼女になれるよう行動しなさい。
無理だよそんなの。
奈々は絶望する。【導師】が導き出してくれたのだから間違いないのだけど、それが正しいと到底思えないからなにも行動できずにいる。
だって奏平はりんの彼氏なのだ。奏平にアプローチすれば、五人の友情が崩壊してしまうのは目に見えている。だったら今までと同じように、奏平のことが好きだという気持ちを押し殺せばいい。
「いただきます」
母さんの作ってくれた肉じゃがは、まったく味がしなかった。
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