再会と、再開
三語樹々
再会と、再開
少し前まで、姉と一緒に生活していた。
姉が実家を出るまでの話だけど。
姉は特に浪人もせずに、僕の受けた大学よりも遙かに難しい大学に入学した。
関東の大学ということで、両親、というか母親は寂しがっていた。
僕はと言うと、母親の何倍も悲しんだ。
いや、そう思っていたけど、母親の気持ちが分からない僕に言っていいことではなかったのかもしれない。
人間の気持ちなんてものについて考えながら階段を上ると碌なことがない。躓きながら、一度思考を切る。これから訪問する部屋のことを考えよう。
マンションの4階。その角部屋。多分。部屋番号が401なのだからきっと角部屋だろう。
最後の段に足をかけながら、その部屋の主のことを思い出す。
六年前、最後に見た時の姉の姿を。
姉の仕草を、表情を、その周囲を漂う空気の流れの一つ一つに至るまで、焼き付けたあの日の記憶を。
「ガチャリ」
と。
ドアを開ける。
「だいちゃん……」
僕の気持ちを、返して欲しかった。
そこにあったのは、紛れもない、ただし絶対に認めたくない、ただの姉の姿だった。
いや本当に、僕の気持ちを返して欲しかった。
姉は、凄い人だった。
さっき言ったように勉強ができただけでなく、私生活においても凄かった。
趣味は漫画と音楽で、同じインドア派ではあったものの小説しか読まなかった僕からすると、とてもオシャレでかっこいい趣味の持ち主だった。
家では大抵一人で過ごしていて、今思い出すと別に自室に引きこもりがちな子供というだけだったけど、他人のいる空間で本を読んでばかりいた僕からは、とてもかっこよく見えていた。
私はここが嫌いです、と言わんばかりの視線を田舎だった地元に向けていて、常に都会に出たいという願望を隠す気がなかった。
そういう全てがとてもかっこよくて、そんな姉は僕の憧れだった。
だから、その憧れを返して欲しかった。
結論から言うと、その日は片付けだけで終わった。
部屋に行ったのが夕方だったのでしょうがない、と本人は言っていたが、その言い分を認める訳にはいかなかった。
「どうして」
とは、たった今、最後のゴミ袋の口を縛りながら僕の口から出てきた言葉で。
「だって」
とは、姉が今日一番口にした言葉だった。
だって、のその後に続く言葉を聞きながら、もう一度だけ記憶に手を伸ばす。一体どこが間違っていたのだろうか。
「ゴミの日をまだ暗記していないからいつもゴミ出しが」
視界の隅で姉の横顔を捉えると、嫌でも脳が答えを吐き出してくる。これがあなたの姉だと。あの姉だと。
ちょっと待とう。
とても綺麗で思わず手を伸ばしたくなる横顔だけがうり二つの姉がもう一人くらいいなかったか。
「ねえ~、だいちゃ、ん……」
うん。
「顔が怖いよ……」
声もそっくりそのまま、全く変わってなかった。
目の前のこの生き物が姉であることを認めるしか、どうやら穏やかに寝る方法はないらしい。
「だいちゃん」
「その呼び方をやめろ」
ビクッとなる姉を見ながら、とても反省することとなった。
なんということだ。
もしかしたら人生で初めて姉に命令形で言葉を話したかもしれなかった。
それにしてもおびえる姉もかわいかった。
なんということだ。
二二歳にして好きな子に意地悪をする小学生の気持ちが分かってしまった。
いや。
何もおかしなことはない。
一番おかしいのは、二四歳にして実の弟に甘えた声を出している姉だった。
だからちょっとくらい危ない発言も多分大丈夫なはず。
うん。
お姉ちゃん大好き。
と心の中で言ってみる。
うん。
多分大丈夫。まだ姉の方がおかしい。
「で、どうなったらあの姉さんがこうなるのさ」
心の中で空気中の「どうにかなっている度」について考えた結果、姉に対して強気に出ていいという結論が出たため、質問を始める。
あの姉に問いただす機会があるなんて。
なんて、感動している場合ではないけど。
質問を重ねると、姉の状態がだんだんと分かってきた。
どうやら本人にとっては何も不思議なことはなく、この状態は極めて自然なのだという。
高校生まで部屋が片づいていたのは、あくまで物が少なかったから。
生活に必要な物を管理する必要がなかったから、部屋の整理整頓もとても簡単だったらしい。
後から発覚したことだが、あの実家の自分の部屋が、姉の片付けのキャパシティだった、らしい。
「なんてこった」
思わず声が漏れてしまった。
僕が完璧だと思っていた姉の姿が音を立てて崩れていく。
ガシャン。
いま音を立てて崩れたのは空き缶だ。
明日透明なビニール袋を買いに行かなければ。
……いや待って。空き缶を隠さないで。
「それはもう明日にしようね」
また姉がビクッとするんじゃないかと思い、つい口調が優しくなる。
もう終わったと思っていた所に新しくゴミが増えたにしては紳士的な対応だった。
……待って。
いや、待って。
「お酒のゴミ、凄くない?」
姉が家を出たのは、大学入学を機に一人暮らしを始めたからという、よくあるキッカケで、要するに十八の時だった。
つまり、当時姉はまだお酒を飲んだことがない。
あの頃と変わり果てた姉。
そして、部屋に散乱する酒の缶と瓶。
繋がっていく、点と点が。
嫌だよ。
こんな繋がり方。
憧れの姉と就職先が近いからという理由でとんでもない量の勇気を振り絞り、なんとか送信したメッセージに、既読が付いた瞬間の胸の高鳴りが思い出される。
そうか、あれは、うん。
きっと、よくない未来に心臓が警告を発していたんだな。
ごめんね、気づいてあげられなくて。
さようなら、憧れ。
こんにちは、現実。
冷めた目線を姉に突き刺す。
すると姉が怯えながらもこちらに視線をしっかりと返してきた。
「だいちゃん、私のこと好きだったもんね」
嫌いに、なれないでしょ。
な、なにを言い出すんだこの姉は。
怖いラブコメヒロインか何かか?
「だからほら」
と広げられた両腕は、きっとこれまでの姉弟の形で。
と、それが数分前の話。
姉の背中に回すはずだった手は、背中に回すというか、背中をさすっていた。
姉はその、便器に向かって嘔吐いています。
そう、飲んでいたのだ。
救いようがない。
つまり、これが、その、これからの姉弟の形。
多分。
僕は嫌だよ。
嫌って言ったからね。
でも現実は、理想のようにはいかない訳で。
なんなら酒臭かったくらいだ。
要するに、この数時間は。
一度途切れた姉弟が再会し、もう一度、始まるまでのお話。
そういうことに、なるのだろう。
再会と、再開 三語樹々 @threetreenovelee
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