第90話 こちらもあちらもびっくりですよ
「それでは、登録はこちらで致しますので、こちらの書類に御署名をお願いします」
「はい⋯⋯これでいい?」
私は署名を確認して、大きく頷いて見せました。
「ありがとうございます。必要な物は一式揃っていますので、足りない物はないと思います。一週間くらいはベタベタせずに様子を見て下さい。環境に慣れれば、この仔から寄って来ますので」
「分かったわ。ソフィーも分かった」
「はい。お姉ちゃん、ありがとう」
「ソフィーちゃん。何か気になったり、分からない事があったらいつでも来てね」
「そういえばあなた、お名前は?」
「あ! 申し訳ありません。エレナ・イルヴァンと言います。今後とも宜しくお願いします」
私は急いで立ち上がり、頭を下げました。
「アンナよ。こちらこそ宜しく。この子がここにこだわる理由が分かった気がします。エレナ、あなたね。あまりにガラガラだから不安だったけど、お願いして良かったわ」
「あ、いえ、そ、そんな⋯⋯こちらこそありがとうございます」
細くて綺麗な指先。
差し出された手を両手で包み込み何度も頭を下げてしまいます。照れもありますし、褒められ慣れていないので、どう返せばいいのか困ってしまい、焦るばかりです。
「でも、どうしてこんなにお客さんがいないの? お店の雰囲気も悪くないし、対応も丁寧なのに?」
「それが⋯⋯その⋯⋯根も葉もない噂が立っておりまして、何ともなのです」
「そうなの。それは何と言うか、かわいそうね」
「でも、今日はおふたりの笑顔を見る事が出来て、良かったです。些細な事でも結構ですので、気になる事がありましたら、いつでもお声掛け下さい」
「ありがとう。ソフィー、行くわよ。エレナお姉さんにちゃんと挨拶しなさい」
「お姉ちゃん、ありがとうございます」
「ソフィーちゃん、仲良くしてあげてね。ありがとうございました」
軽く一礼をこちらに見せて、母娘は出口へと向かって行きました。
母親は口元のマスクとフードをそっと外し、店の外へ。
私達からは、その凛とした後ろ姿だけが映ります。
『『『きゃあああああ!!!』』』
「ああああああああ!!!!」
へ? 何?
外からは悲鳴のごとき歓声。店の中ではフィリシアが、契約書を手に目を剥いていました。
街から届く歓声やどよめきは大きくなる一方、フィリシアは叫んだまま固まっています。
え? だから何?
私達も思いも寄らぬ状況に固まっていました。
ガラガラと遠ざかる馬車の音。歓声やざわめきは、おさまりましたが、街中のざわつく空気は店内まで届きます。
「フィリシア、どうしたの?! びっくりしたよ」
「ア、 アンナ・ネレーニャ⋯⋯」
『『『え? ええっー??!!』』』
モモさんやラーサさん、アウロさんまで絶句しています。
アンナ・ネレーニャ⋯⋯何か聞いた事ある名ですね。
「エ、エレナ! 握手したよね?! ね!? ね!!」
「え? うん。したよ」
「いいなぁ~いいなぁ~いいなぁ~」
「どうしたの?」
「もしかして、覚えていないの? 一緒に芝居観に行ったでしょう? ほら、デルクスさんからチケット貰って」
「行ったね」
「お姫様だよ。あの時の」
「?⋯⋯??⋯⋯ええええええええええええーーーー!! うそ、うそ、うそ!!」
「本当だって! ほら、署名見てごらんよ。しかもあの歓声、外出る時に顔を出したんだよ。店でもマスク取ってくれれば⋯⋯」
「はぁ⋯⋯」
あの時のお姫様⋯⋯今さらながら心臓がバクバクして来ました。びっくりですね。あの子のお母さんが女優さんとは。どうりで雰囲気のある方ですよ。いっぱいお話ししちゃいました。何だか頭の中がぐるぐるして、いろいろな事が吹き飛んでしまうほどびっくりです。
「これサインだよね。どうする? 飾る?」
「何言ってんだよ、ギルドに提出する書類だろう」
「ぬああー!? そうだった。サイン貰えば良かったー!」
「ちょっと落ち着きなさいよ、フィリシア。お客さんなのだから、サインなんてねだったら失礼でしょう」
「でもさ、欲しくない? アンナ・ネレーニャだよ。くぅー」
ラーサさんとモモさんはだいぶ落ち着かれましたが、悔しがるフィリシアのテンションは相変わらず高めです。
「いやぁ、びっくりだね。久々のお客さんが、超大物とは」
アウロさんも笑顔を見せます。暗い話題が続いていた店内が一気に華やぎました。女優さんの力って凄いのですね。
「あ! アウロさん。オルンモンキーを勧めたのはどうでした? 犬や猫の方が良かったですかね?」
アウロさんは、少し間を置きます。その間に少しドキっとしましたが、すぐに相好を崩し親指を立ててくれました。
「あれは良かったよ。いい
「良かった」
アウロさんのお墨付きを貰えたのは自信になります。
仲良くやってくれるといいなぁ。ソフィーちゃんなら大丈夫か。
根拠はないのですが、きっと大切にしてくれるに違いないと確信しました。
友達。
出来るといいね、ソフィーちゃん。
アンナさん母娘が現れてからは、ポツポツとお客さんがまた来始めました。数日後には、前とほとんど変わらないほどのお客さんが来て下さり、【ハルヲンテイム】にも日常が戻って来ました。
「ねえ、アンナ・ネレーニャはいつ来るの? また来る?」
なんて聞いて来るお客さんもチラホラ。どうやら汚染された店から、有名女優ご用達の店とイメージが上書きされたみたいです。アンナさんのオーラにどうしようもない噂など吹き飛んでしまいました。凄い方を接客してしまったと、時間が経てば経つほど実感します。
帰り際にマスクを取ってくれたのは、きっとこうなると分かっていたのでしょうね。次、お会いする事があれば、ちゃんとお礼を言わないと。
お店の危機を救って頂きありがとうございましたって。
◇◇◇◇
力無く座り込む
長い手足に長い耳。自慢の長い耳は力無く垂れ、無気力に座り込む様に心が痛む。
森で困っている人を見つけたら、手を差し伸べるという
疲れ切った人々を先導する若いふたりの
何て事のない
「まさか
マッシュは飄々としながらも、瞳には鋭さを含んでいた。
「何、呑気な事言っているのよ。間違いなく、面倒を押し付けられるのよ」
「好きでやっているんだ、構わないさ。それより気にならないか、隠れ里を襲ったヤツらが欲しがった
御伽話と同じ、彼らは一族の秘術を使い、助けた人を酩酊させていた。そうする事に寄って
「人を酩酊させるってやつ? お酒じゃないのよね」
「ああ。だいたい、記憶が混濁するほど酩酊するって酒なんかより相当強力だ」
「確かに。悪用しようと思えば、いくらでも出来そうね」
「多分、ヤツらは手に入れた。それが何か教えてくれれば、話は早いんだがな⋯⋯」
「一族の秘密じゃあね」
「ま、思わぬ所での収穫だ。しかも、かなり臭うと思わんか?」
「【
「ああ」
【
「そっち方面から当たって行くの?」
「そうなるかな。しかし、次から次へとウチの団長は面白いな」
「面白くないわよ」
「実家とはいえ世界最大の
「想像つくわけないじゃない。頭が痛いだけよ」
ハルは苦い顔で何度も首を横に振って見せた。
次から次へと厄介事を抱え込むキルロを、苦虫を嚙み潰した時のような、とびきりの苦い表情で見つめる。ただ、いくら抱え込もうと、結果的に良い方向へと転がるから無下にも出来ない。それがまたモヤモヤとして、諦めに近い嘆息を零すだけだった。
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