壁の向こう
第74話 不安と一緒に厚い壁の中へと
ハルさんが【スミテマアルバレギオ】の
北に行けば行くほど過酷だと、この間教えて貰ったばかりです。
私に出来るのはいつもと同じ、みんなと協力してこのお店を守る事。いつもにも増して真剣な表情を見せて馬車に揺られて行く姿。その姿を見送り、いつものようにただただその背中に無事を祈るだけでした。
◇◇◇◇
それはハルさんが出発した翌日の事でした————
裏口の扉が乱暴に開き、飛び込んで来たのはギルド観察員のモーラさん。冷静なモーラさんには珍しく、少し慌てた様子を見せていました。いつもにも増して厳しい表情で睨みを利かせている姿に私は手を止め、急いで駆け寄ります。何か良くない事が起きているのは、モーラさんの焦燥ぶりから伝わって来ました。
「緊急事態だ。ハルは?」
「只今、ハルさんは不在です」
「チッ、アウロを呼べ。至急だ」
「は、はい」
私はモーラさんの勢いに押され受付へと駆け出します。何事か起きているのは、やはり間違い無さそうでした。私でも分かるイヤな予感。鈍い私の勘も今回は当たってしまいそうです。
「アウロさん、ここ代わります。裏にモーラさんが緊急の用件でいらっしゃっています」
「緊急? 分かった。ここ頼むね」
私の耳打ちにアウロさんは裏へと急ぎ、私は
アウロさんはすぐに戻ってくると、モモさんに何か耳打ちしています。
私は横目でその様子を眺めながら接客を続けました。気になるのは仕方の無い事ですよ。モモさんの表情は見る見るうちに険しくなって行き、席を立ちました。あんなに険しい表情を見せるモモさんは珍しいです。
「エレナ」
接客の終わった私は裏へと呼ばれました。アウロさんの表情も優れません。その様子から良く無い事が起きているのがありありと伝わりました。
「詳しい事は馬車で説明するから、ちょっとメモしてちょうだい。大量の
「は、はい。ど、どうしたのですか?」
「説明はあとよ」
「はい」
私は言われた通り、荷台に積んで行きます。モモさんもエプロンやゴーグル、手袋など素早い手つきで積んでいました。アウロさんは物品のチェックを急ぎます。ふたりからは冷静ながらも、やはり何か焦りを感じます。すでに姿の見えないモーラさんも、動き始めているという事でしょうか。落ち着きの無い空気が否が応でも漂い始めます。
「エレナ、化膿止めをもっと。モモ、手袋の在庫無い? あればもっと持ってきて」
「はい」
「ふたりとも乗って」
御者台から声を掛けられ、私達は荷台へと乗り込みました。モモさんの表情は相変わらず厳しいまま。手綱を握るアウロさんもそれは同じでした。
「これをつけておきなさい」
差し出されたエプロンをつけていきます。モモさんも同じようにエプロンを身に付けると、緊張がひとつ上がるのが分かりました。
「あの⋯⋯どちらに向かっているのですか?」
「説明がまだだったね。モーラさんから【ハルヲンテイム】に緊急の招集がかかったんだよ。場所は【ライザテイム】の飼育区間のひとつ。端的に言うと【ライザテイム】が飛んでしまった」
アウロさんの厳しい口調。何か良くない事が起きている事は伝わってきました。
「飛んだ??」
私が首を傾げて見せると、モモさんが厳しい表情のまま答えてくれました。
「飼育放棄して逃げ出しちゃったって事」
「え?? どうしてですか? 残された仔達は??」
モモさんの言葉に私は驚いて矢継ぎ早に問いただしますが、ふたりが答えを持っているはずはありません。モモさんは黙ったまま、静かに首を横に振って見せました。
アウロさんは前を向いたまま続けます。
「その残された仔達を助けに行くんだ。時間がどれだけ経ってしまっているのか分からない、早ければ救えるし、もし相当な時間が経ってしまっていたら⋯⋯」
「⋯⋯いたら?」
「全滅もあり得る」
「そんな⋯⋯人の都合で⋯⋯何でそうなる前に何とかしなかったのですか?!」
「まだ、そうだと決まったわけじゃないよ。普通は潰れる前に、近隣の
私は押し黙ってしまいました。やり切れない思いが拭えません。
「でも、飛んでしまったというギルドからの要請でしょう。時間は結構経ってしまっていると考えた方が無難よね。現場はかなりマズイ事になっていそう。それなりに覚悟をしておいた方がいいわ」
「うん、そうだね。【ライザテイム】といえば大手のひとつ。個体数もかなりのもの。気乗りは正直しないけど、何とかしてあげないと」
溜め息まじりのふたりの言葉が、楽観出来ない事を示唆していました。
街中から外れ、林道を奥へ奥へと進みます。沈黙が続く車内の空気は重く、覚悟をしなくてはならないというモモさんの言葉が重くのしかかります。
「エレナ。現場では僕が色のついた札を置いて行く。青と黒はとりあえずスルーして。赤はモモが診る。緑の札を置いた仔達に片っ端から痛み止めと栄養剤を打っていくんだ。量はだいたいでいい。時間勝負、いいね」
「はい。青と黒は何が違うのですか?」
「青はとりあえず後回しで大丈夫、黒はもう死んでしまっているという事だよ」
死という単語にゴクリと生唾を飲み込みます。今までも死に直面した場面はありました。ただ、今回はそれとは違う何かがふたりの雰囲気から感じ取れました。
「あそこだね」
森の中に忽然と現れた灰色の高い壁。堅牢を誇る壁が中を隠していました。【ハルヲンテイム】と同じかやや小さいとはいえ、広い敷地を誇っています。
すでに到着している馬車が散見出来ました。先行する
「【ハルヲンテイム】の皆さん、宜しく頼みます」
こちらが到着するとすぐに挨拶してくれたのは息子のデルクスさん。先行していたのは【オルファステイム】の皆さんでした。いつもの柔和な笑顔は無く、厳しい顔で準備を急いでいます。
「宜しくお願いします。
「うん。それでお願いします。よし! ウチは東からだ! 急いで!」
ふたりは頷き合い、準備へと戻ります。言葉数は少なく、手だけを動かして行きました。誰もがこの状況に対して、厳しい思いを募らせます。
私達は荷車にありったけの資材を積んで、壁の中へ。
鳴き声どころか、呻きすら聞こえて来ません。後ろでガラガラと準備を急ぐ、【オルファステイム】の音だけが届きます。
不気味な静寂にじわりと手の平からイヤな汗を感じました。緊張する中、私達は壁の向こうへと踏み込んで行きます。
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