第70話 ミルクと白地図

 不安や絶望を置いてきぼりにして、私はハルさんに手を引かれ前へと進みます。小さな手が私の手を強く握り締めてくれると、希望は大きくなっていきました。


 前を向いて歩くだけ。力の入らない足は鉛のように重いです。でも、顔を上げて前を向いて行きます。

 肩を貸してくれているハルさんが、私に力をくれます。

 私は重い足を引きずり、街中を進んでいました。



 ハルさんは辺りを気にする素振りを見せながら、一軒の小さな家の前で止まります。

 中心街から少し離れた、閑静な住宅街。子供達のはしゃぐ声だけが響いていました。

 ハルさんが扉をノックすると、扉の向こうからバタバタと急ぐ忙しない足音が聞こえます。勢い良く開かれた扉からは、満面の笑みが飛び込んで来ました。


「いらっしゃいですね。エレナちゃん」

「フェインさん?」


 ここはフェインさんの家でしょうか? 困惑する私にハルさんは微笑んでくれますが、状況が何とも飲み込めません。


「とりあえず、中へどうぞ」


 私達は居間へと通されます。過度な調度品はなく、シンプルな白い壁と木目の美しい家具。部屋の片隅にある立派な机だけが大きな主張をしていました。

 部屋の中央に鎮座するテーブルセットに腰を掛けると、温かいミルクを目の前に置いて下さいます。


「ささ、どうぞ飲んで下さい」


 フェインさんが笑顔で促し、私は素直に口をつけていきました。

 美味しい。

 ほのかな甘みを感じます。

 渇いた喉を潤しながら、空っぽの胃に温かなミルクが落ちて行くのが分かります。胃の中がポカポカ温かくなり、心が落ち着いていきました。キルロさんと初めて会った時のミルクの味を思い出します。優しい味がしたあのミルク。

 

 何故だかフェインさんは私の様子を嬉しそうに見ていました。何だかちょっと恥ずかしいですね。


「ありがとうございます。ここはフェインさんのお宅ですか?」

「そうよ、エレナ。フェインに今後の動きを伝えてあるから心配しないで。私はもう行くね。それじゃフェイン、あとを宜しく」

「まかせて下さい」


 ハルさんはそれだけ言い残して、街中へと飛び出して行きました。【ハルヲンテイム】に行くものだとばかり思っていたので、予想外の展開に戸惑いを隠せずにいます。


「フェインさん、すいません」

「いえいえ、いいのですよ。時間が来るまでここで待っていましょう。ここなら大丈夫ってハルさんが言っていたので、心配しなくていいですよ」


 時間が来るまで? 何の時間でしょう?


 困惑してはいるものの、フェインさんの優しい笑顔に張り詰めていた物が、一気にほぐれていきます。

 緊張が緩むとお腹がぐうと鳴ってしまい、とても恥ずかしくて俯いてしまいました。


「フフ。そうでしたね。大丈夫ですよ、ハルさんから聞いていますから。今、パン粥を持って来ますね。しっかり食べて元気を取り戻しましょう」

「す、すいません。お言葉に甘えます」

「気にしないで下さいですよ。あ、この間はおめでとうございます。エレナちゃん、凄いです」

「いえいえいえ、あれはフィリシアが凄かっただけで、私は何もしていませんから」

「そんな事は無いですよ。⋯⋯はい、どうぞです。空っぽの胃がびっくりしないようにゆっくり食べて下さいね。おかわりは、いーっぱいありますよ」


 コトリと目の前に置かれた乳白色のトロトロのスープ。立ちこめる湯気からミルクの優しい香りが、鼻腔をくすぐり、空っぽの胃がぐうぐうと欲します。

 すくい上げたスープはスプーンからトロトロと零れ落ちていき、スプーンの上には味の染み込んだトロトロのパンが残りました。私はそれを一気に口に運び入れます。ミルクのほのかな甘さのあとに、少しピリっと香辛料が舌を刺激してきました。その刺激がミルクの甘さを引き立て、空っぽの胃はみるみる満たされていきます。

 フェインさんのように優しい味。心も体も満たされていき、何だか心地よい安堵感を覚えました。


「すごく美味しいです!」

「良かったです。落ち着きましたか? 大変でしたね。【ハルヲンテイム】やキルロさんの所はきっと見張られてしまいます。でも、ここなら大丈夫。向こうも私の家は知らないですよ。ハルさんのお墨付きですから、安心して下さい。エレナちゃんには指一本触れさせませんよ!」

「はい」


 鼻息荒いフェインさんに思わず笑顔が零れてしまいます。

 お腹いっぱいになると、体に力が戻って来ました。改めて部屋を見回すと、隅にある立派な机の上には描き掛けの地図。部屋の壁にはとても大きな白地図が貼ってあり、書き込みがされていました。

 

 白地図を覗くと、北から南に掛けて扇状に広がっています。最北を示す地図の頂点には【最果て】と書いてありました。そこから真っ直ぐ南に下るとほぼ最南に私達の住む【ミドラス】の記載があります。

 これが私達の住む世界。私は初めて覗いた世界の広さに驚いていました。

 

「何だか、見られると恥ずかしいですね。この地図を完成させるのが私の目標⋯⋯夢に近いかも知れませんです。今、私達がいるのはここ【ミドラス】、そのすぐ北に位置するのが【中央セントラル】。勇者様がいるのですよ。【ミドラス】と並んで、この世界の中心。重責を担っている場所なのです」

「【ミドラス】だけでも広いのに、世界って広いのですね」


 私は地図の側に寄りまじまじと眺めて行きます。良く見ると細かい書き込みもされていて、【吹き溜まり】、【スミテマアルバレギオ】初クエストなんて文字も見えました。


「そういえばハルさんが、優秀な地図師マッパーさんって言っていましたものね。【イスタバール】、【オルン】、【ヴィトリア】⋯⋯いっぱい国もあるのですね」


 ハルさんの褒め言葉を伝えるとオロオロしながらも、地図を眺めながら教えてくれました。


「ですです。行った事の無い国もまだまだありますし、人が住めないと言われている北方、あわよくば【最果て】まで行ってみたいです」

「想像も尽きませんね」


 私は白地図を眺めながら、フェインさんの話を途方も無く感じてしまいます。そして、キラキラした瞳で語るフェインさんを羨ましく思いました。

 目標、夢⋯⋯。

 考えた所で何も浮びません。みんな目標や夢を掲げて日々邁進しているのでしょうか? 今の生活で十分幸せで、それ以上の何かが浮んで来ません。難しいですね。


「地図を睨んで、どうしたのですか?」

「私も目標や夢を持った方がいいのかなって⋯⋯思ったのですが、何も思い浮かばなくて」

「これからですよ。きっと向こうからエレナちゃんに寄って来ます。考えないで待っていればいいと思います。さ、少し寝て下さい。今日の夜は長くなりますから」

「長くですか?」

「はい、長くです」


 微笑むフェインさんに手を引かれ、大きなベッドの上にポンと投げられました。

 柔らかなベッドは、ウチの硬いソファーと違ってふわっと私を包んでくれます。

 不安の無い時間が私の気を緩ませると、あっという間に深い眠りについていました。



「⋯⋯ちゃん⋯⋯エレナちゃん」


 揺り起こすフェインさんの呼び声。

 私は飛び起きます。すっかり寝ていました。フカフカのベッドがあまりに心地良くて、一瞬で落ちていましたね。


「す、すいません」

「あ、いえいえいえ。大丈夫です。そろそろ時間なので起こしただけですから、焦らなくとも大丈夫です。ゆっくり起きて下さいね」


◇◇◇◇


 辺りはすっかり暗くなり、静かな夜が訪れていました。

 寝静まる街中をゆっくりと進んで行きます。フェインさんと私は声を出す事も無く、足を動かしていました。時折、辺りを気にする仕草を見せますが、真っ直ぐに進みます。その足取りに躊躇はなく、自信に溢れたフェインさんの足取りは私に落ち着きをくれました。


「止まってです」


 静かなフェインさんの声に、足を止めます。建物の影からギルドを覗きました。視線の先にあるのは1番の入口。


「少し待って下さい」


 ギルドを覗くフェインさんの囁きに、私もそっとギルドを覗いていきます。

 行き交う人は全く無く、静かな時が流れていました。

 

 静かな鐘の音は、日付が変わった事を告げます。その鐘の音にフェインさんの集中が上がったように感じました。

 向かいの建物の影に人影が見えます。

 あれはネインさんでは?


「フェインさん! あそこにいるの、ネインさんじゃないですか?」


 私が静かに指を差すと、フェインさんは必死に目を凝らしています。

 こんな所で獣人の血を感じながら、ネインさんを見つめ直すと大きくこちらに頷いていました。


「フェインさん、ネインさんが何か頷いていますよ?」

「本当ですか?」

「本当です」


 フェインさんは建物の影に頷き返すと、私の手を強く引き1番の入口を目指し、駆け出しました。


「あわわわ」


 私はいきなりの事に驚いてしまい、力強いフェインさんの引きにされるがままです。

 フェインさんに引きずられ、飛び込むように1番の入口へ。ニコリと微笑む紳士さんが、受付で出迎えてくれました。


「こんな夜更けにギルドへようこそ。ご用件をお伺いいたしましょう」

「はいです!」


 勝ち誇った笑みを見せるフェインさんが、力強い返事をされました。

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