第64話 ノックの音
狭い。暗い。苦しい。悲しい。
思うように動かせない体。
「なんだぁ!? その目は? 気にいらねえな。つったく、誰に似やがった⋯⋯」
そう言って後ろ手に縛り上げた私の目を布で覆っていきました。
思うように動かない手足。口も目も塞がれ、暗くて陰鬱な世界に飲み込まれます。
きっと、以前の自分なら何も考えず、何も感じずにこの状況に甘んじていた事でしょう。
でも、今は違います。広くて、色づく世界を知っています。優しい世界に触れました。そこには優しく包み込んでくれる希望の光がありました。
でも、光は失われ、あるのは絶望に近い諦め。どうする事も出来ない自分が腹立たしい。
ただ、そう思っていた時間は、とうに通り過ぎていました。私は力の入らない体で、何も出来ずに汚いソファーで転がっているだけ。私の世界がまた汚いソファーと毛布に収束していきます。
それは唐突でした。いつものように【ハルヲンテイム】へ向かおうと立ち上がると、普段は見向きもしない父親が声を掛けて来たのです。
「どこ行く? お前はしばらくこの家から出るな」
「え?」
「わかんねえヤツだな。ここで大人しくしてりゃあいいんだよ!」
「ちょっと⋯⋯!?」
私の怪訝な表情に苛立ちを隠さず、睨んで来ました。有無を言わさず側にあったロープを使い、私の手足を縛り上げます。
必死にもがいた所で非力な私になす術は無く、ソファーに転がっていきました。
叫ぼうとする口に猿ぐつわを嵌められ、声も出せません。
何が起きているのか、何をされるのか、見えない恐怖が襲います。
必死にもがき抗います。その気力も時間を追うごとに削られていきました。
水しか貰えない体は衰弱し、気力は潰えます。まんじりとしない夜を二回迎えると、体は思うように動かず、思考もはっきりとしなくなっていました。
「明日だ。日付が変わるまでの辛抱だ。大人しくしていろ」
良くしゃべる。心なしか上機嫌なのが、苛立たしい。しかし、抗う心は折れてしまった。
希望の光は潰えた。膝を折って丸まる。涙さえ出ない。
最後に残っているのは、悔しいという感情。
ただ、それさえも心の奥底へと沈んで行くのが分かる。残る物は何も無い。それは虚無。
長い夢を見ていただけと、醜い私が耳元で囁く。
既視感。
知っている、この感じ。広場で俯いていた私だ。
いや、以前の私だ。
感情は剥がれ、心の奥底へとパラパラ落ちて行く。そうでもしなければ、きっと壊れてしまうのだ。知らない間に身に付けていた自己防衛。身に付けたくも無い技術。
何も感じず。何も考えない。時間の流れが遅い。
ドンドンと玄関を何度となくノックする音。
諦めかけていた心に灯るわずかな希望の灯。希望とともに沈みかけていた悔しさが、また浮かび上がる。それはここから抜け出たいという欲。
その音に私の微かな希望が灯り、抗う気力を呼び起こしてくれました。
◇◇◇◇
「入るわよ!」
ずかずかと乱雑に陳列された装備群を抜け、勝手知ったる居間へと向かう。
「な、ど、どうしたいきなり??」
居間でくつろいでいたキルロとキノが、予期せぬ訪問者に驚いて見せる。仕事の合間の一服、テーブルの上のカップがそれを物語っていた。
ハルは部屋を見回し、諦めに近い納得を見せて行く。
「エレナは⋯⋯いないわよね」
ハルの嘆息にキルロとキノは顔を見合わせる。
「エレナがどうかしたのか?」
「今日で四日、店に顔を出していないのよ」
「風邪かなんかか?」
「分からない。明日はエレナの誕生日。なのにひとりで寝込んでいるのなら、可哀そうだし⋯⋯。ただ、漠然とイヤな感じもするのよね」
「そっか⋯⋯エレナも15、成人か……。ハルヲのイヤな感じってのも、引っかかるな。何かあったら教えてくれ。手伝える事あれば手伝うよ。キノも手伝うよな」
「おう。手伝う」
「うん、お願いするかも知れない」
いるはずは無いと思っていた。予想通り。
体調不良なら余程じゃない限り、店に顔を出すはず。店にくれば、治療もある程度なら出来る。家で寝ているより楽になるのは、エレナも分かっているはずだ。
漠然とした不安がハルから消えない。いや、むしろ濃くなっていく。
不安を抱え、エレナの家へと急いだ。気が逸る。
気が付けば、いつの間にか街中を走り出していた。
ミドラスの末端。
安い集合住宅が所狭しと並んでいた。壁は剥がれ、割れた窓ガラスに布を貼りつけ凌いでいる家は、一軒、二軒では無い。生気の無い人がしゃがみ込み、見慣れぬ小さなエルフに視線を送る。濁った瞳が紛れ込んだ異物を冷ややかに見つめていた。
特徴の無い集合住宅の二階。メモした住所を何度か確認して、扉を叩いて行く。
◇◇◇◇
父親の舌打ちが聞こえます。
「しつけえな」
私は抱えられると、乱暴にベッドへと投げられ布団を被せられたのが分かりました。
(ごめんくださーい! エレナー!)
その声に私の気持ちは浮び上がって行く。諦めていた心に希望が灯る。
(なんだてめえ? エレナならいねえよ。つか、お前はなんだ?)
(じゃあ、どこにいるの?)
布団越しに聞こえる少しくぐもったハルさんの声。
私は最後の力を振り絞って、もがきました。
ここにいます! ハルさん! ここにいます!
(知るか。その辺ほっつき歩いてんだろ。つかよ、さっきから何なんだよ?)
(へー、あっそう! どこいったのかしらね? 困った子ね! 何としても探しださなきゃ!)
わざとらしく張り上げたハルさんの言葉に私は縋ります。
大丈夫、きっと私を見つけてくれた。
ドアが閉まる音が聞こえ、それと同時にまた父親の舌打ちが聞こえます。
「何だ、アイツは? ああ、あの店のヤツか⋯⋯そうか⋯⋯。面倒くせえな。まぁ、もう来ねえか。お前も諦めて、大人しくしていろ」
諦めろ? もう来ない?
ハルさんの言葉を理解出来ていないのは間違いない。
大丈夫、ハルさんのおかげで私にも光が射して来ました。
何故か私は安心しています。聞きたかったハルさんの声色。その声と言葉が、私に安堵と勇気をくれたのです。
「痩せこけたガキに餌までくれるなんざ、お人好しもいいところだ。まぁ、こっちには好都合ってやつだがな」
気色の悪い声。どんな表情を見せているのか、こちらからは覗けません。
でも、分かります。きっと醜く歪んでいる事に違いありません。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます