ハルヲンテイムへようこそ

第6話 ハルヲンテイムへようこそ

 乱気流のように上下動する自分の感情に心と体はびっくりして硬直していました。

 俯いた先、モノクロの世界に白光を帯びるキノの姿が、視界に映り込みます。キノが私を覗き込み、視線が交じり合っていく。元の姿に戻った自分が気恥ずかしくて、キノを真っ直ぐ見る事が出来ません。私の視線は泳ぎ、視線を外します。それでもキノは私を真っ直ぐ見つめて来ます。モノクロの世界に混じる一点の白光。

 今日一日の出来事が、私の頭を駆け巡ります。彩られた世界で私が見た物や聞いた事。人から見れば些細な事。だけど優しさを貰い、勇気を貰った。

 そうか。

 私は顔を上げます。

 過去の話をしているのではない、これからの未来の話。

 キルロさんの言葉を思い出す。


『友達』

 

 それは何気ない一言かも知れないけど、心の奥へと刻まれた嬉しい言葉。私を突き動かす言葉。今日のこの出会いで生まれた物、大切な物、大切にすべき物。

 大切な事⋯⋯。


「元気な仔も、そうじゃない仔も⋯⋯みんな⋯⋯みんなと友達になりたい!」


 これは私の望み。初めて口にした私の希望。

 味わった事のない高揚感に胸がドキドキします。チラっと視線を上げ、ハルさんを見つめました。

 真剣な表情を見せていたハルさんの口元に笑みが見えます。


「いいわ、いらっしゃい。【ハルヲンテイム】へようこそ、エレナ・イルヴァン」


 ハルさん手が私の肩に置かれると、ほっとしました。ただ、すぐに心の隅にモヤモヤとした不安が沸き起こります。受け入れて貰えて、とても幸せなはずなのに、心の隅で膝を抱える私が立ち上がる私の手を引いていました。

 めて、お願い私の邪魔をしないで。

 それでも、もう一人の私は恨めしそうに私の手を引きます。漠然とした不安はどんどん大きくなっていきました。


「アウロー!」

「はーい!」


 奥から細身の男性が現れました。何かの作業中だったのでしょうか、灰色のエプロンをしています。柔和な表情を見せる男性が、私達を見て少し驚いた顔を見せましたが、すぐに笑顔を向けてくれました。優しい方なのでしょう、表情からそれが伺えます。詳しい事は一切聞いていないのに、すぐに私を受け入れてくれました。


「新しい仲間のエレナよ。こちらはアウロ」

「宜しく、エレナちゃん」

「宜しくお願いします。アウロさん」


 差し出されたアウロさんの手を握ると、アウロさんはしっかりと握り返し、笑顔を向けてくれました。その笑顔がもう一人の私を大きくさせます。

 立ち上がる私の手を引く力がどんどん強くなっていきます。

 もうひとりの私が恨めしそうに首を横に振り、私の心が不安で満たされて行きました。


「とりあえず、うちも客商売だからエレナ、湯浴みしてらっしゃい。服は私のいらないのをあげるから。湯浴みが終わったら、アウロ、店を案内してあげて」

「分かりました。それじゃエレナちゃん、とりあえず湯浴み場に行こうか」


 アウロさんの手招きに体が動きません。きっと何も出来ないと知られてしまったら、追い出されてしまう。

 何も出来ない私がここにいていいわけがない。もう一人の私の隣で私も膝を落して行きます。

 

『どうせまた疎まれ、忌み嫌われ終わり』

 

 もう一人の私が、醜い笑みで言い放ちます。

 何も出来ないひどく矮小な私に、私は激しく落ち込み自分自身に嫌気が差していきます。

 私の言う通り、また嫌われて終わる⋯⋯でも、言わないと⋯⋯。

 もう一人の私の手は振り解けぬまま、躊躇しながらも矮小な自身をさらけ出して行きます。今日貰った勇気。その最後の欠片を使って自身を奮い立たせました。


「あ⋯⋯あの⋯⋯、わ、わたし⋯⋯字が読めなくて⋯⋯書けなくて⋯⋯そ、その何も出来なくて⋯⋯」


 口から出る言葉は自分でも分かるほど、弱々しく、たどたどしい。

 ただ、これが私の精一杯の勇気でした。


「あ、そうなの。そんな物これから覚えればいいじゃない」


 え?

 

 即答するハルさんの軽い声色に私は少しびっくりして顔を上げます。

 ハルさんは少し肩をすくめて見せ、さも当たり前のように笑みを返されました。

 その瞬間。

 もう一人の私が消えて行きます。大粒の涙が零れ止まりません。


「い、今まで、字が読めないから⋯⋯いらないとか⋯⋯汚い⋯⋯から帰れとか⋯⋯しか、言われた事がなくて⋯⋯私は⋯⋯また⋯⋯」


 感情のタガが外れる。涙と一緒にあふれ出す抑圧されていた自分。とめどなく流れる涙が、閉ざしていた心の壁をボロボロと剝がして行く。


「もう大丈夫。大丈夫だから⋯⋯」


 ハルさんが私を抱き締めてくれて、ハルさん温もりが伝わって来ます。

 人の温もりがこんなにも安心するなんて、私は初めて知りました。私は更に泣いてしまいます。止められない涙。産み落とされた赤ん坊と一緒です。この瞬間、私の存在がこの世界で初めて認められた。この世界にいてもいいのだと、この世界に証明されたと感じる事が出来ました。


 私の嗚咽が止まるまで、ハルさんは抱き締めてくれました。とても心がスッキリして、色鮮やかなこの世界を見渡します。みんなが笑顔で私を見てくれていました。

 優しい世界。


「さぁ、行きましょうか」


 ハルさんが私の背中をそっと押してくれます。


「ハルヲのそういう所好きだぞ」


 キルロさんの満面の笑顔にハルさんは顔を真っ赤にして踵を返すと、キルロさんの脇腹にグーでパンチを入れました。痛そうな鈍い音です。


「グぼっ⋯⋯。本気か!? このクソ力が」


 キルロさんは呻きながら脇腹を押さえています。アウロさんは涙を流すほど、その様子を笑っていました。私は良く分からずその光景を眺めているだけ。とりあえず、ふたりはとっても仲良しなのは分かりました。


「エレナ行こう」


 ハルさんは私の手を引いて、スタスタと歩いて行きます。俯く顔は何故か真っ赤でした。


「ハルヲ頼んだぞ! エレナ、頑張れ!」


 笑顔のキルロさんに何度も頭を下げ、ハルさんの後に続いて色づいた世界を歩いて行きます。


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