春に魔導士を待つ
桐生イツ
魔法使いの遺言
昔、王国を竜が襲った。黒い翼で空を飛び、炎を吐いて街を焼いたという。
巨大で獰猛な襲来に、誰もが破滅を覚悟したとき、一人の魔法使いが立ちあがった。
はるか遠くの竜のねぐらへ単身おもむいた彼は、七日七晩の壮絶な死闘の末、見事竜を封じることに成功した。
人々は歓喜し、あらゆる感謝と賞賛を送った。国王は魔法庁を設立し、凱旋した魔法使いを長官として迎え入れる。
時は流れ、それから五十年。
玉座は代を重ね、王国には平和が続いた。竜を見たことがある者はごくわずかになった。技術の進歩で人々は魔法を必要としなくなり、魔法庁は縮小された。
書物以外が竜との戦いを語らなくなった頃、魔法使いは静かに息を引き取った。
その死は関係者以外にはほとんど知らされず、葬儀は、かつて国を救った英雄とは思えないほど質素なものだったという。
アディルは先生が好きだった。
それは尊敬という意味でもあり、居心地がいいという意味でもあり、そして言葉通り恋愛感情としての意味でもあった。
誰にも打ち明けたことはない。本人はもちろん、同僚や家族もアディルの想いを知らない。
先生は魔法の師匠であり、職場の上司であり、世界の英雄だった。ときに厳しくときに優しく、あらゆる魔法を使いこなし、知的で物静か。アディルとの年齢差は四十歳以上あったが、そんなものは、結婚するならともかく、密かに想う対象とするのに何のさしさわりもなかった。
先生が竜を封じた戦いの話を、おそらくアディルほど詳しく語れる者はいないだろう。小さい頃無邪気に何度もせがんだおかげだ。あまり自分のことを話したがらない先生も、幼い弟子の寝る前のお願いには快く応えてくれた。
「魔法は決して万能ではない。ましてや私の力ごとき何をかいわんや、だ。まだまだ勉強中の身だよ。できないことの方が圧倒的に多いのだからね。その証拠に、アディル、実は私は、お前がこんなに優れた魔法使いになるなんて想像もしていなかったのだよ」
魔法庁の試験に合格したときの先生の言葉だ。ずっと覚えている。先生の一番近くにいたい。そのためにふさわしい人間になろう。アディルのモチベーションのすべてはそこにあったかもしれない。
実際アディルは常に先生のそばにいた。職場でも自宅でも、可能な限りまとわりついて、あらゆるものを吸収しようとしていた。一人前の魔法使いとなり魔法庁でのキャリアが順調に進んでも、アディルは先生のそばから離れようとしなかった。
本当にどんなときも近くにいたのだ。書斎で研究をしているときも、大勢の前で講義しているときも、そして、意識を失い倒れたときにも。
「うたた寝をしていたようだ。おや、毛布をかけてくれたのかい」
「魔法使いが風邪を引いたりしたら、皆さんに示しがつかないじゃないですか」
「魔法使いだって風邪くらい引くさ。ありがとう。おかげでいい夢を見ていた」
「どんな夢ですか」
「私たちが出会ったときの夢さ。あのときはまさかこんな風に一緒に過ごすようになるとは思わなかった」
「私も同じですわ。それもこんなに長く」
「本当に。お前は私といて幸せだったかい」
「ええ、もちろん。とても幸せです、あなた」
アディルがナッシュバルト夫人に初めて会ったのは、葬儀のときだ。
もちろん存在は知っていた。先生の妻である、知らないはずがない。夫人は都ではなく辺境の村で暮らしていた。先生が生きている間はついに一度も都に足を踏み入れなかった。
「あれはね、街では暮らせない
いつか先生がそう言ったことがある。体が悪いのかと思ったがそういうわけでもないらしい。好きな人の奥さんになどできれば会いたくなかったので、そのときのアディルはそれ以上理由を尋ねなかった。
ナッシュバルトは先生の姓だ。夫人の名はラジーヌという。
夫人はとても小柄だった。豊かな白髪をシニヨンにまとめて質素な黒いドレスに身を包んでいた。
「あの人が、いつもあなたのお話ばかりしていましたから。自慢の弟子だと、嬉しそうに」
葬儀のあと、夫人がアディルに声をかけてきた。先生の書斎に案内しながら、どうして自分のことがわかったのか尋ねると、夫人は穏やかな微笑みを浮かべながらそう答えたのだった。
書斎は塔の最上階にあった。
「どうした。何をそんなに怖がっている」
「あなた、私は永遠が怖いのです。永遠はないということが。なぜ人間にはこんなに短い時間しか与えられていないのですか」
「失わないということは得られないということと同じだからだよ。なくして初めて手にするということがこの世にはあるのだ」
「私にはわかりませんわ。私はあなたがいなくなれば悲しい。ずっと一緒にいてほしいのです」
「だがね、ラジーヌ、たとえば私が死んでしまえば、お前はもう私を愛さないかい?」
「…いいえ。そんなことはありません」
「それが永遠だよ。不滅ではないからこそ、
窓を開けて空気を入れ替える。主のいなくなった部屋には、まだ数日しか経っていないというのに、すでにすえた臭いがこもっていた。
カラスの群れが騒がしい。夕陽の赤い光が射しこむ。夫人がまぶしくないだろうかと振り向くと、白髪の小さな未亡人は興味深そうに書棚をながめていた。
「ここにある本は全部あの人が?」
「はい」
「難しそうな本ばかり」
「古い魔法の本です。ほとんど先生にしか読めません」
「あなたにも?」
「私なんかにはとても」
「じゃこの本たちはどうなるのかしら」
「わかりません。保管するよう王宮にかけあってはいるのですが、許可がおりなければ…廃棄になるかもしれません」
「捨てるってこと?まあ、もったいないのねえ」
夫人はベランダに出た。アディルもついていく。見晴るかす町並みは夕暮れの金色に包まれていた。
「都にはこんなにたくさんの人が住んでいるのですね」
「国の八分の一がここに集まっています」
「まあ、そんなに」
「人が多いとそれなりのトラブルも生まれます。魔法で処理できないような事案も随分増えました」
「そうなの。それは残念ね。アディルさんはとても優秀な魔法使いなんですってね」
「先生が?」
「ええ」
「ありがたいお言葉です、本当に…。そのお言葉にちゃんとお応えしたかった…」
唐突に熱いものがこみあげてきた。思わず顔を伏せる。先生の最期の姿が鮮明に浮かび上がった。
「これは遺言だよ、アディル」
「そんなことを言わないでください先生。あたしが必ずお救いします」
「魔法は万能ではないよ。寿命はどうしようもない。私にはお前がいる。想いを託して逝くことができるのだ。幸せだと思っているよ。どうか私の最後の責任を果たさせてくれないか」
「せんせい…うう…はい…あたし…あたしはきっと…」
「部下にはとても見せられない顔だね。さあ、涙をふいて。今から言うことをよく聞いておくのだ」
「愛していたのですか?」
「え?」
我に返って顔を上げると、夕陽を背にした黒いドレスがまっすぐにこちらを見つめていた。
「あの人のことを」
「あ、愛?な…そ、そんな、あたしはその…」
「隠さなくてもいいじゃありませんか」
夫人が微笑む。風が吹きつけた。帽子が飛んでいったが、夫人は手を伸ばそうともしなかった。
「同じですからね、わかるのよ。同じ人を愛している目。同じ悲しみを宿している目だから」
手で触れると頬が濡れていた。いつのまにか涙を流していたらしい。あわててぬぐう。
「勘違いしないでね。私は嬉しいの。少なくとも一人はあの人のことを思って泣いてくれる人がいて」
夫人はベランダの端へと歩み寄った。まとめていた髪がほどけて風に乱れる。アディルは手伝おうとしたが思わず足を止めた。夫人の背中に異様な気配を感じ取ったのだ。
「こんなにたくさんの人がいるのに、もうみんなあの人のことを忘れている。あの人にもらった命なのにね。人間って随分薄情だわ。そう思わない?」
首の後ろがチリチリする。アディルはしばらく前からカラスの鳴き声が少しも聞こえていないことに気づいた。
「あのぞんざいなお葬式。あの人の物をたやすく捨てようとする仕打ち。私はね、怒っているの。何様だと思っているのか。あの人の封印でもって辛うじて生き永らえてきた脆弱な命の分際で!」
夫人が振り返った。赤い夕陽。黒いドレス。白い髪。そして、金色の眼。
見開いた眼は人のそれではなかった。皮膚が金属のような輝きを放つ。空気が震え出した。
「…これは」
アディルは驚きを隠せなかった。初めて目にしながらも、それ以外の名を思いつけないほど絶対的な存在感。この世のすべてを従えているかのような凶暴な気配。小さな老婆の姿をしてはいるものの、中身は何よりも強大な力の塊だった。
間違いなかった。こんな禍々しい存在はその名でしかあり得ない。
「…竜」
五十年前、死闘の末勝利した魔法使いは、おのれの魔力の大半を注いで竜の力を封じた。いかに偉大な魔法使いといえども、人の力で竜を滅ぼすことはできなかったのだ。魔法は万能ではない。
竜は人の姿となり、魔法使いのかたわらで人として暮らすようになった。それは封印の保護と監視に最も適したスタイルでもあった。魔法使いナッシュバルトは、生涯をかけて竜を封じ続けてきたのである。だが、今。
「すでに封印の力は失われている。我が人の姿でいたのは、ひとえにナッシュバルトへの思慕ゆえよ。だが、恩を忘れ傲慢に振る舞う人間どもを守ってやる甲斐など、もはやなし。今より我が力でもって人の世を滅ぼしてくれよう!」
言葉というより咆哮に近かった。異常な速さで雲が集まってくる。塔が激しく揺れだした。嵐の真ん中にいるようだった。本性を解き放ちつつある竜の力は覚悟していたよりはるかに激烈だった。
「娘よ。魔法使いの弟子よ。我と同じくナッシュバルトを愛した者として、お前だけは見逃してやってもよい。ゆえに
アディルは答えなかった。恐怖で体中が凍てついていたが、そのせいではない。アディルは知っていたのだ、竜がそう言うであろうことを。
記憶の底から浮かび上がる言葉があった。息も絶え絶えに伝えられたその声が、心の中に勇気の火種を残していた。アディルは一歩前に進み出た。
「ラジーヌ夫人、おやめください。都への暴挙を見過ごすわけにはいきません」
「なんだと?」
竜の眼がアディルを射抜く。小動物ならそれだけで焼け焦げてしまいそうな眼光を、アディルは真正面から受け止めた。
「娘!抗うというのか!こしゃくな。ならばやってみるがいい!そのかよわき力で、どうやって竜を止める?」
「ラジーヌ夫人、あなたは知らない。先生が遺した言葉を」
アディルは息を吸い込んで目を閉じた。体内の魔力の流れを意識する。
(できるはず。先生の遺言を思い出せ)
呪文を唱える。指が素早く動いて正確に魔法陣を描く。アディルの体を青い光が包みだした。と、光は一気に膨張し、矢となって周囲に飛び散りだした。竜がおののく。
「それは…!まさか…封印の魔法!五十年前の、ナッシュバルトの秘術を、お前がなぜ!」
「…先生が教えてくれました。息を引き取る直前の最期の床の上で」
アディルは思い出した、すべてを伝え終えたあとの先生の顔を。命の灯が消えゆくその間際に、先生は確かに微笑んでいた。
「我が名はアディル・コレック。偉大なる師ナッシュバルトの名において、現魔法庁長官として、竜よ、お前を封じます!」
魔力を解放する。青い光がほとばしり竜を包む。光は荒れ狂う力を吸収し、四方から竜を抑えつけた。
「ぬうう、おのれえ、ナッシュバルト以外の者に、この我がああ!」
竜が最後の力を振り絞って逃れようとする。アディルは両手を前にかざして全精力を注ぎこんだ。
アディルが最後の魔力を注ぎ切り、まさに力尽きようとしたその瞬間。
雄叫びをあげて竜が倒れた。光が輝きを増しその体を覆う。封印の魔法が成功したのだった。
塔の揺れが収まっていく。アディルは腰を下ろした。というより、立っていられなかった。体中の力を使い果たしていた。
「見事だ…よくぞ封印を為したな…さすがは、ナッシュバルトの弟子よ…」
竜は身動きが取れないようだった。封印の光が完全に自由を奪っている。
「ナッシュバルトの遺言とはこれか…ふふふ、人の知恵が竜の力を上回ったか…。よくぞ受け継いだ。おとなしく封じられてやろう」
「…あなたは」
「だが図に乗るなよ。師にはまだまだ遠く及ばん。ナッシュバルトの力はこんなものではなかったぞ」
「あなたは…先生から、何も…?」
言葉が途切れた。竜は静かにまぶたを閉じた。
「ナッシュバルトは、何も残さなかった…残してくれなかった。当然のことだ。人と竜は相容れぬ。我は所詮、封じと監視の対象よ」
「…」
「我が封じられてやるのは、これが遺言だからでもあるのだぞ。負け惜しみではないがな」
アディルは言おうか言うまいか、少しためらった。それは自分では気づかなかったが、かすかな嫉妬のようなものだったかもしれない。だが結局言うことにした。言うべきことだと思ったからだ。
「先生が最後に残した言葉は、封印の魔法ではありません」
「…何だと?」
「先生はご自身が亡くなったあと、こうなることを予測されていました。それで私に封印の魔法を教えてくださったのです。そしてそのあとで、伝言を託されました。封印のあとで聞かせてやってくれと言って」
竜がまぶたを開いてアディルを見つめた。燃えるような眼光は消え失せて、すがる子犬のような瞳だった。
「先生の遺言は、あなたに宛ててのものだったんです、ラジーヌ夫人」
いつの間にか夜になっていた。雲は散って星々がまたたいている。アディルは一際まばゆく輝く大きな星を見上げながら、先生の最期の言葉を口にした。
「どうかこの先も、お前の毎日が安らかであるように。私はずっとそばにいる。永遠に一緒だ。今までありがとう、ラジーヌ」
竜が吠えた。星の彼方まで届きそうな、長い雄叫びだった。威圧感はなかった。泣いているようだとアディルは思った。
やがてそれが自分の泣き声のように思えてきて、アディルは静かに涙を流した。先生はもういないという事実を、唐突に骨身で実感した。
会いたい。
触れたい。
話したい。
幾億の人々が味わうありふれた悲しみにアディルの心は慟哭した。
悲しみはいつか安らぎに変わるのだろうか。そんな日がいつか来るのだろうか。
きっと来ると、先生は信じていたのだろう。だからこそ言葉を残したのだ。だからこそ魔法を託したのだ。
(先生、あたしきっと、先生のような魔法使いになります)
まだ痛む。だがそれでいい。痛みは、確かにあったという証なのだから。その痛みを感じながら前に進もうとアディルは決心した。新しい力がみなぎるような気がした。
人の意志が受け継がれ、また新たな意志を育む。それはどんな魔法も及ばない奇跡である。
アディルは自分がいともたやすく永遠を紡いだことに気がつかなかった。
音もなく星が流れた。そのそばで、また新しい星が生まれる。
やがていつものように朝が来るだろう。
アディルは、何だかそれが待ち遠しかった。
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