Π 油ノ尽キタ橙火ノゴトク dés-illusion 1948,5,7(FRI)
また言ひたまふ『枡のした、寢臺の下におかんとて、燈火を持ち來るか、燈臺の上におく爲ならずや。』それ顯るる爲ならで隱るるものなく、明らかにせらるる爲ならで祕めらるるものなし。聽く耳ある者は聽くべし』
マルコ傳福音書第四章二一―二三節
月は殆ど見えない。僅かに金糸の様な曲線が辛うじてその存在を夜に訴える。闇は毎夜毎夜に深まって来ている。闇夜は眼を塞ぎ、手や足すらも消してしまった。あるのは人の発する獣の臭いと僅かな頼りなげな意識のみ。意識と闇は交じり合って意識すら消し去ろうとしていた。
岩田は一人で髑髏の丘に蹲っていた。昼に漂った死臭が未だ消えない白の十字架。気が付けば、岩田はここにいた。僕はなぜ此処にいる? 僕はなぜ其処にいない? 何故真実は人の身を焦がす? 何故愛さなければならないのか? なぜ僕は愛することを求める?
岩田の胸中にはモヤモヤとした煙の様な想念が渦巻いていた。
亜里沙よ、やはり僕はわがままなのかい? わがままだったから、君は本当の笑顔を与えた男に救いを求めたのかい?
岩田はあの獣の臭いがしたネオン街を思い出した。自分には見せなかった笑顔が思い出された。隣の男にすべてを委ねた亜里沙の微笑み。その微笑を受けることが許された男のシニカルな哂い。僕にはないものを持った男の哂い。僕は何だったのだ?
マリヤ、否、阿紀良よ。君は僕にとって何だったのだい? 僕に何を与えてくれたのだい?
岩田は阿紀良との数日間の夜のことを思い出した。ほんの数日だった。ただ夜な夜な会話をしたに過ぎない。たった一度だけ唇と唇が触れ合ったにしか過ぎない。 数日間で出逢い、そして別れを告げられただけにしか過ぎない。ただそれだけだったのだ。だだそれだけ。それだけに過ぎなかったのになぜ僕の心に留まり続けていたのだ? なぜ僕は阿紀良に心引かれたのだ? 僕は何だったのだ? 僕は何なのだ?
岩田が闇夜の中に蹲ってぼんやりと虚空を見ていると、真ッ暗な闇の遠くに小さな灯見えた。その灯はゆっくりと揺らめきながら此方に近付いて来た。次第にそれは静かに大きくなって、闇を少しずつ裂いていく。避けた闇は四方に散らばり、遠くに逃げた。遠近の無い闇に闇が逃げて行った。岩田がぼんやりとその灯を見ているとその灯は形を明確に創り始めた。灯が岩田の前にまで遣って来た。
「岩田さん……。やはりここにいましたね」
揺らめく灯は言葉を産んだ。その声は聞き覚えのある柔らかな声。『マリヤ』、実は阿紀良だった。阿紀良は昨夜までの様に女の姿をしていなかった。昼に見ているローマンカラーの男装だった。能面のような端整な顔立ちが手に持った剥き出しの燭台の灯によってぼんやりと照らされていた。
「『マリヤ』さん。否、阿紀良さんですか……」
「宜しいですか」
「……ええ、どうぞ」
岩田が返事をすると阿紀良はそっと岩田の隣に座った。阿紀良は岩田の側に座っていても岩田に話しかけるでもなく、組んだ脚を投げ出したまま宙空をじっと見詰めていた。地の遥か上にある無限は何処まで進んでいるのか。七つの星は何を語っているのか? 人類は無限の空の下で何を見ているのだろう? 何者に無限を見出そうとしているのか?
阿紀良が地に置いていた燭台の炎がほうッと燃えた。岩田と阿紀良が暫くじっと黙り込んでいると阿紀良が呟いた。
「御堂周一郎さんが失踪したそうですね」
「ええ、阿見の死を見届けた直後に久流水家から去っていました。犯人の凶牙に掛かったのかと慌てましたが、美麗門からさり気なく出て行ったのを、ぼんやりとした若手の羅卒に目撃されていました。まあ、考えてみたら、あいつは阿見の対抗馬として久流水家にやって来たわけですから、阿見が死んでしまった以上は久流水家に留まる理由はもうないのですから。それに探偵が死ぬ可能性がある所にはもう留まっていたくはないでしょうしね」
「貴方は一緒に立ち去らなかったのですね」
「ええ、御堂は僕に何も言わずに去って行きましたから。今日の昼、御堂と喧嘩したからでしょう。僕を置いて行きましたよ。でも置いて行かれて良かったと思っていますよ。この事件は僕の人生にあまりにも深いところで触れ合ってしまった。一時的な安らぎと無限の失望を味わったのですから。アンビバレンツというのですかね。嫌悪すると同時になぜか感謝もしているのです。僕はこの事件を見届けたいと思っていましたから……。ご迷惑でしたでしょうか?」
「いいえ、暫く滞在して戴いて結構ですよ」
阿紀良との間に前夜までの緩やかさがなくなっていた。僕らはもう引き返すことができないのだ。僕らの間にあったのはただの夢に過ぎなかったのか。
風が吹き、燭台の炎が揺らめいて、二人の影が歪んだ。
「もう女性には戻らない心算なのですね」
「ええ、妾は私の本来あるべき姿で過ごすと決めました」
「男装した今の姿がですか? 『全部が神様の手になるもの』でないのに、それが本来あるべき姿というのですか?」
「私の本来あるべき姿はこのアダムの姿です」
燭台の炎がぼうッと激しく燃えた。闇はその瞬きに押された。
「決意が固いようですね」
「男として神より授かりし炎を燃やし続けます」
「 神より授かりしなんですか? 貴方の神は貴方を非人間的にすることを趣味にしているのですか? 何と我儘な!僕らは人間だ。ありのままに自分の思いのままに生きていくべきだ。僕らはもう何もかもから解放されるべきだ。五月蝿い社会なんてどうでもいいじゃあないか! あんなものはただ鬱陶しいだけだ。僕らが人間として人間らしく生きていくには途轍もなく邪魔なものだ! 僕らは人間らしく、思うがままに生きていくべきだ!世間なんてただの莫迦だ。僕らは自己をありのままに見てもらって、ありのままに過ごして行くべきだ! 人間として」
闇が炎を消そうと、風を吹かせた。びょうびょう、と……。
岩田は一気に己の中にある代物を吐き出した。嘔吐した。それはとても気持ちが良かった筈だった。
「人間として? 人間としてとは何なのです? ありのままとは何なのです? 思うままに生きることが人なのですか? そんなのは人間ではない。それは動物とどう違うのです? 禽猛類とどう違うのです?」
「人間は禽猛とは違います。僕らは文化的であり、高尚だ。創作も出来る。動物にこんなことができますか? だからこそ僕らは人間として生きていかねばならないのですよ」
「文化も、創作も結局は先人が開発したものではありませんか? 人間一人で全くのゼロから創ったものなんてこの世にはありません。言葉も思考すら我々は意識して使っているものさえ、先人の礎ではありませんか? 貴方が莫迦にしている社会や伝統の礎に妾たちはいるのではありませんか。人類史上において未だ一度もなされていない偉業、それはゼロからの創造です。
人間とは何です? 人間らしくとは何です? 私は思うのです。人間らしく生きる事は、より不自然に生きてゆくことではないかと。自分が無力でどうしようもない矮小な存在だと自覚して、生きていくことこそが人間なのではないかと。妾は確かに生物学的には女です。アダムの肋より生まれし女です。弱きもの、それは女。私は弱い女です。けれど私は思うのです。たとえ生物学的にはそうでなくても妾は男として扱われ、そして自分もそれをずっと受け入れてきた以上、私は女でないと」
めらり、めらりと炎は燃えて、ぶすぶすと芯を焦がす。弱くも激しく。ゆらめきながら、はっきりと燈火は燃えていた。十字架に陰翳をつけながら。人の獣の臭いを焦がしながら。男と女、男と男、影と影を接吻させて別れさせてを繰り返して。
「私は思うのです。人間というものは役者なのでは、と。世界という大きく、寂れた舞台で滑稽にも深刻にも演じている役者だと。誰の脚本なのか、誰の演出なのか、誰が観客なのかを忘れて演じる役者です。演じているうちに演じる前の自分を忘れて、否、そんなものは始めからなかったかもしれない、演じている自分が本来の自分だと思ってそう思わなくては到底演じていられない、顔を白塗りにして滑稽な笑顔を描いた、道化なのです。そんな役者に役者の前の顔なんてありますか? 否、そんな顔が必要なのですか? 役者に役者以外の顔が必要なのですか? 疾うに忘れてしまった顔になぜ拘るのですか? 真ッ白なぬっぺら坊の顔に何を求めるのですか?
私は思うのです。役者以外に何もない役者はただ演じていくしかないと。演じるしかないと。
でも演じるとは何でしょう? 何を演じるのでしょう? 自分の思うままに演じるのでしょうか? 自由芝居を演じるのでしょうか? いいえ、それは演じるとはいいません。演じる以上、演じるべき見本が、手本が、脚本がやはり必要なのです。でも困ってしまいました。私たちは脚本を誰が書いているのすら忘れてしまった存在なのです。脚本の内容すらも忘れてしまっているのです。遥か昔、役者をやる以前に見た様な気がする脚本をぼんやりと思い出して演じているのです。先輩の役者から口伝で聞いた朧げな物語を演じているのです。舞台を降りて楽屋裏にある脚本を見ることは出来ない。観客を前にしているのだから、観客の前から去ることは出来ない。ならば役者はどうする? ぼんやりと嘗て見た脚本を想起しつつ演じていくのです。演じていく内にいつか最高の演技ができるようになって、いつしか脚本に描かれてあった内容と全く同じを演じることを夢見て演じていくのです。
演じてゆくことは滑稽で虚しいものです。ですがそれは同時に限りなく高尚な神聖な儀式なのです。神聖な神聖な神聖な儀式なのです。それは欺瞞や自己否定なんて低次元の言葉の入り込む余地のないものです。妾たちは演じていかねばならないのです。演じていかなければならないのです。面識のない脚本家、演出家の考える姿になって行くべきなのです。いつか、明日か、幾星霜後かのカーテンコールがやって来るまで、私たちは演じていくのです。妾が妾でなくなり、妾が演じている登場人物である私と同一になるべき日を夢見て厳粛に演じてゆくのです。世界という舞台で演じてゆくのです。一匹の亀と数頭の像が支えているであろう舞台で演じてゆくのです。その世界が確実と言える日まで」
一瞬、燈火がぼうッと勢力を増して燃えた。だが闇がその灯を覆っていかんともしていた。二人の影が明滅している。薄く、濃く、影が流転する。
「貴方はもう役者以前には戻らないのですね。否、そもそも役者以前なんてものはないのですね。貴方にあるのは今そこにいる演者だけなのですね。僕は貴方の様に自分が役者であるなんて思えない。もう僕と貴女は一緒になれないのですね、二度と。だが一度すらあったのか……。
でも何故貴女は僕を愛したのですか? 僕に愛の証を与えたのですか? 何故僕に別れを告げたのですか? 教えてください、貴女の心の流れを」
蝋燭は半分ほどの背になっていた。炎は燃えていた。
「貴方と初めて出逢った時、私は女の姿をしていました。浴場から出てきたばかり、流石に湯場でもアダムでいることはできませんから。貴方に女性の姿を発見された時に、しまったと思いました。けれどどうすることもできない。私は『久流水マリヤ』と洗礼名を名乗りました。決して虚言を吐いた訳ではありません。それは貴方もご存じでしょう。貴方は妾を夜の散歩に誘いました。貴方はその日に奥様の亜里沙さんの死を知って消沈していました。妾は貴方が消沈して話す姿を見て、思ったのです。ああ、私は貴方と同じであると」
「僕と同じ?」
「ええ、岩田さん、私は貴方と同じと思ったのです。岩田さん、貴方はなぜそれほどに亜里沙さんを追い駆け続けていたのですか? 亜里沙さんが貴方の元から去って、もう一〇年余となろうとしていたのに……」
「それは……。亜里沙を愛していたから」
「貴方は亜里沙さんを愛していなかった。否、愛していないとは言わない。貴方は愛していたのでしょう。ですが貴方から亜里沙さんが離れた後の、亜里沙さんへの愛は愛ではなく改悛の情だったのではないのですか。貴方は自分のわがままから亜里沙さんを手放してしまった。貴方の中には自責の念、慙愧の念が渦巻いていた。ですが貴方はそれを認めることができなかった。それを認めることは自分が自分で無くなると考えたからです。貴方は自分のせいである事を否定したかった。貴方は自分が敬虔な愛を捧げていたと思い込みたかった。だから貴方は亜里沙さんを一〇年も追い駆け続けた。そして知った、亜里沙さんの死を。ああ、自分はこれからどうしたらいいのか、貴方の心は空虚に支柱を失っていた」
「僕の愛は純真です! 決して自分のためではない」
「ならば、私の思い込みとして聴いて下さい。貴方の中には空虚があった。それは違いないです。妾も空虚に充たされていたのです。妾は幼少から男として育てられてきました。それになんら疑問を抱くこともなく。華やかな思春期ですら、恋咲く季節ですら。ですが銃後になって私は疑問を抱いたのです。貴方はご存じでしょう、百合子さんと直弓さんがまともな子供を生めない体であることを。彼女たちはそれを知ったとき、さめざめと泣き続けていました。日に日に、夜に夜に、泣き暮らしていました。私は彼女たちを見て思ってしまったのです。女は子についてこれほど涙を流すほどなのかと。妾にもそのような心持があるのかと。私の心の奥底に女という、妾という感情が湧き出し始めたのです。『それ生れながら閹人あり、人の爲られる閹人あり、また天國のために自らなりたる閹人あり、之を受け容れうる者は受け容れるべし』と。私はそれを信じて男として演じ続けてしまいました。けれどそれが揺るぎ始めたのです。母性という、女というものが。それは日に日に大きくなってきました。葡萄酒の底に溜まる澱のように。その揺らぎこそが本来の妾ではないのかと感じ始めたのです。本来のあるべき妾ではないかと。
そんなときに貴方と出会ってしまったのです。貴方は自分の矮小さを愛で誤魔化していました。自分は純愛である、と。私は貴方に妾を見たのです。いいえ、初めは気付きませんでした。けれど今にして思うと心底ではそう感じていたのです。貴方は自分の弱さという本性を、愛するという行為で代弁している。私は女という本性を男装という習慣で塗糊しているではないか。私は無意識にそれを感じていました。妾と貴方は二つの張力に拘束された二人なのだと。貴方は妾を失ったものの代用として愛しました。私は貴方を自分の隠し続けた本性の発露として愛しました。お互い純粋な他人への隣人への愛ではなかったのです。自己愛だったのです。今ある自分を否定しないがための自己保身の、自己擁護の愛だったのです。ですが恋するものにはその本質を知ることはできません。自己満足的な愛とは巷間で嘯かれる愛とは羞恥心なき代物なのですから。ですが、私はその愛に溺れてしまおう。貴方に愛を証明しようと心に誓い、現にそうしていました。わが罪という意味のある香水を纏って貴方と逢瀬を重ねたのです。
ですが、妾は貴方に別れを伝えたあの日、今は亡き阿見光治さんと妾がぶつかって、私の正体が妾であることを発露する切っ掛けとなったあの日です。あの紫書館の黄昏時です。私は二つの顔を持つ事を証明せんとしたドネリーの『大暗号』など数冊を抱きかかえて紫書館に入らんとした時でした。扉の内から御堂さんと、今は亡き阿見さんのやり取りが聴こえて来たのです。『お前は何を信じて生きているのだ? お前はどんな約束事に縛られているのか? 縛られなければ、人は自由に動けぬものだよ。不自由が自由にする。自由は自立。自立は自律。自らを律するためには縛りがいる。お前を此処に縛り付けるものは何だ?』と御堂さんが仰り、阿見さんが『君等こそ何を信じているのだ? 世迷言の純愛か?……』と反論していたあの遣り取りです。妾はそれを聴いた時、どんなに衝撃を受けたでしょう。それが私に、妾に向けられていた言葉に感じられたのです。
縛られる? 妾が男装という縛りを解くと一体私は何になるのだろう? 姉達の様に女として、生きてゆくのか? 弱き器として生きてゆくのか? そうだ、私には出来ない! 私は三〇余年ほど、男としてやってきたのです! 立ち居振舞いも、思考も、男として生きてきたのです! 私が、妾として生きてゆくことなど、女として生きていくことなど、無理なのではないか。貴方が探偵小説家としてしか、やっていけない、やらしてくれないのと同じ様に。総てを開放した時、私には何も残らなくなる。何もかもが終わってしまう。私は引き返せない。貴方が仰ったように『人間は幾等でもやり直しが効く』ことなんてない。不遡及な時間の流れに対抗できない以上は……。
その直後です。阿見さんと覆い被さる様にして女の柔らかさを阿見さんに感じられしまったのは。あの時の柔らかさと本の持ち方で阿見さんは私が女であることを見破りました。そして私も実はあの時、阿見さんに見破られたと感じました。あの時、阿見さんは妾にこう言いましたね。『狂信なる者よ』
ルナティック! 月の女神! 女性原理の象徴! 阿見さんは私が女だと気付いている!妾は、男として生きるか、女として生きるかの選択に迫られたのです。妾は決めました。私は縛られた姿で生きてゆこう。男として生きてゆこうと」
「その夜、僕に別れを告げた。同時に女と別れるために」
岩田は言った。諦観と倦怠の混じった声で。闇はゆっくりと二人を蝕んでいた。二人の間にある炎は虚しく闇に闘っていた。ゆらり、ぽッ、ゆらりと。滑った炎は闇に張り付こうとしつつもその勢いは次第に弱っていた。風の所為さ、と嘯きたかったけれど……。
「『女と別れるために』ですか。岩田さん、折角だから告白してしまいますね。妾と貴方とのために私の性に関する複雑さのすべてを。私は生物学的には女です。心の奥底には母性なるものも持っています。現に幻とは言え、貴方に愛情を向けていました。ですけれどね、生物学的には女であったとしても、機能的には私は女ではないのです」
「どういうことですか」
岩田は阿紀良の言ったおそらく最後の告白に疑問を投げ掛けた。『マリヤ』という女の姿をしていたが実は阿紀良という男の姿の者であり、その男の姿も生物学的には女であった。複雑ながらも岩田が納得したことだった。阿紀良の口振りではさらにもう一つの層が乗っかっている様だった。さらに事態は複雑なのか。一体どういうことだ?
「岩田さん、裁縫に使う待ち針はなぜ『待ち針』という普通名詞を冠しているのか知っていますか?」
「それは絶世の美女である歌人、小野小町に語源があると聞いています。小野小町は絶世の美女であり、世々の男性から歌を捧げられるような存在だったのに、返歌をするだけでそれらの男を受け入れた形跡がないことから、小野小町はそもそも男を迎え入れない存在なのではないかという俗説が生まれました。男を迎え入れられない存在。それは女性としての性器が不完全だったのではないか、小野小町は若くして常に閉経している、穴の無い女だったのではないか。穴の無い小野小町。そこから穴が無い針は『小町針』と呼ばれ、それが次第に『待ち針』に変じたものであったと聞いています。なぜにこんなことを確認するのですか? それが何か関係が? 」
炎はじりじりと芯を焦がし、風のせいか、ぼおッと強く瞬いた。
「そうです、妾は小野小町です。どんなに母性を持とうと、女の喜びを得んとしても、得る事は出来ない、ただ嘆きの歌を詠むばかりの穴の無い女なのです。女であっても、女としては機能できない女だったのです」
ならばたとえ阿紀良が女として岩田への愛を貫こうという選択をしていたとしても、結局は男と女の終局には行き着くことにならぬではないか。性的に不完全であったとしても、女は女に違いない。愛の前には如何なる障壁も瓦解に帰すものかもしれない。しかし阿紀良の場合は特別なのだ。阿紀良は男として生きて来たのだ。女としての母性が否定し難ように発芽したのは、百合子と直弓が揃ってまともな子の産めない体になったときからなのだ。母性より女が始まっているのだ。だがその始まりである母性が、性的な不完全で否定を余儀なくされているのだ。仮令阿紀良が女性としての人生を選んだとしてもその女性の始まりである地点が否定されているのだ。女性として生きることは阿紀良にとっては救われぬ懊悩の道を歩むことになってしまうのだ。生物学的な本性のままに生きることが医学的な理由の為に不可能にならざるを得ないのだ。阿紀良は男性として生きていくしかないではないか。
岩田は目の前にある巨魁たる闇を凝視せざるを得なかった。闇に燃える炎の揺らめきが何とも弱弱しいものとしか思えなかった。そして絶望……。
「どうにもならないのですね。もう僕の手の届かない所にあるのですね」
岩田の前には緩やかな闇があった。そして消え去ろうとする燭台の炎が、阿紀良の能面の様な顔を照らしていた。その表情には表情があり、且つなかった。ゆらゆらと揺らめく炎は岩田に様々な表情を見せていた。
「妾は私の世界で生きてゆきます。この死陰谷村こそ私の世界です」
阿紀良はそう言うと、スウッと視線を上空に投げかけた。そして柔軟であり、かつ厳然である声を発した。
「夜も更けてしまいましたね。もう明日になります。『これが最後です、ウェルテル。もう夜にお目にかかりません』。さようなら、岩田さん」
「さようなら、『マリヤ』さん」
岩田と阿紀良はそっと髑髏の丘から立ち上がった。死臭の漂う十字架から二人が立ち上がると、ふうッと炎が消えた。真ッ暗な闇が岩田を包んだ。少し先には穂邑の工房が見えた。穂邑が美への志向をを続けているのだろうか。窓から明々とした灯が漏れていた。岩田はその灯を見ると、茫漠とした不安を覚えた。また同時にその光が悲しき男の眼を眩ませた。
婦人はやや待ってから言った、『何を考えているのです?
返事をなさい、おまえのなかにある悲しい記憶は
まだ水で消されたわけではありません」
ダンテ『神曲 煉獄篇』
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